2017巻頭言

 長年に亘って書き溜めてきた郵趣エッセーを集大成して、ブログをスタートすることになりました。
 この十数年来、切手収集家の団体・日本郵趣協会(2011年4月1日から公益財団法人)の札幌中央支部に所属して、毎月の会報「郵趣・赤れんが」に欠かさず原稿を寄せてきました。それらを過去に遡って一括掲載するとともに、新たな作品をその都度、追加・更新してまいります。
 それにしても、ずいぶんなボリュームになりました。
 職場の部内誌(北海道林務部「林」。1952~2001)に寄せていたエッセーや会報の郵趣エッセーをまとめて2003年に自費出版しましたが、三百余頁の約3分の2は郵趣関係の作品が占めました。その部内誌もやがて廃刊となり、以降、書く場は会報のみとなりました。
 その後の作品を続編として二冊目の本にまとめるつもりでいましたが、区切りが付かぬままに分量は膨らむ一方で、いつしか出版は難しく感じられるようになりました。それが、今回のブログという手段によって「二冊目の出版」を実現しました。これは随時、追加・更新もできるという、出版にまさる願ったり叶ったりの方法でした。
 マテリアル(題材)は広い分野に亘っています。まずは作品一覧に目を通していただき、これはというものから適宜お読みいただければ幸甚です。
 なお、お気づきの点についてはコメント欄でご教示いただければ幸いです。
                                                                         2012年2月

                                     江戸っ子だってねェ。
                                     おう、神田の生まれよォ。いや、じいさんが神田。おやじが浅草で・・・。
                                     こちとら、江戸っ子の筈が今じゃ 「 蝦夷っ子 」 というわけでして。

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                              あの頃   昭和33年用年賀切手 「 犬はりこ 」 ( 東京の玩具 ) の渡辺版初日カバー。
                                     浅草局の初日風景印。 ( 昭和32年12月20日 )


利用に当たって

1 一覧表で見たい作品をクリックすると、その作品がすぐに表示されます。
  また、「 カテゴリー 」 を選択して国別に関連の作品を見ることもできます。
  なお、時に原稿のページに歪み ( 縦方向が詰まる ) が出ることがありますが、
  一旦他の月の原稿を開くなりすると、歪みが直ります。
  左上の矢印 (←) で一旦送り、(→) で戻すのが手軽な方法です。

2 画面を拡大すると文章が読みやすくなります。
  ツールバーの「表示」で倍率を選択。原稿は200%が読みやすい。
  これでリーフは実物とほぼ同じ大きさになります。
  ただし、原稿以外の部分は拡大すると段ズレを生じます。
  拡大した画面でクリックすると、二段階でさらに拡大されます。

3 面倒ですが印刷はページ単位で行います。
  印刷したいページにカーソルを合わせて左クリックすると、画像が一旦左側に寄って小さくなります。
  そこで 「 ファイル 」 から 「 印刷 」 をかけると、そのページが印刷されます。
  トップページの部分を印刷する場合には 「 印刷方向 」 を 「 横 」 にする必要があります。
  なお、印刷に便利なCD版 ( 文章は打ち出しで読みやすく、作品単位で連続印刷ができる ) を用意していますので、コメント欄からお申し込み下さ   い。

4 各ページの右下にある 「 Pagetop 」 でその月のトップページに戻ります。
  また、各月の一番後ろにある 《 前のページ ホーム 次のページ 》 を利用して、
  次の作品または前の作品を見ることができます。
  また、「 ホーム 」 でサイトのトップページに戻ります。

5 リンクは、関係項目をクリックするだけでリンク先のページが表示されます。

6 「 日本語の面白さ、日本語再発見 」 は字が小さいので、ブロックコピーして印刷いただくと読みやすいと思います。



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」 掲載郵趣エッセー 2017年分 ー覧表

   ※ タイトルをクリックするとその関連頁が開きます。
2017年 号数 タイトル
12月          
11月         
10月          
 9月         
 8月          
 7月         
 6月          
 5月         
 4月          
 3月         
 2月 235   ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー   2頁
 1月 234  世界の高層建築物の歴史  5頁


                              ※ 2016年分以前 ( ~2000年 ) の郵趣エッセー一覧は、「 写真日記 」 の次にあります。



1 コレクション コーナー

下の切手をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                        (1) コレクション・リーフ                (2) 新作リーフ

ハワイ数字_0001                ハワイ数字_0002
                             1859年                       1864年
                         ハワイ数字切手 1c               ハワイ数字切手 2c



2 千 島 関 係 資 料

下の地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                               千島郵便史                その他の千島リーフ

kunashiri1000.png             etorofu1000.png
                                   国後島                  択捉島





2(2) 台 湾 特 集

下の台湾地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。


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2(3) 全国郵趣大会2016in盛岡

下の大会資料をクリックすると、関係資料が表示されます。


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3 「日本語の面白さ、日本語再発見」
(外国人のための日本語学習支援ボランティアの活動から)

下の“辞書”をクリックするとコンテンツが表示されます。

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4 過去の写真日記

(3) 2016年4月~

下の“ Diary ”のアイコンをクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(2) 2015年5月~2016年3月

下の“ストック・ブック ”をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(1) 2015年4月~2012年4月

下の“日記帳”をクリックすると過去の写真日記の月別一覧表が表示されます。

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5 豊かな日々のつれづれに
第一部 随筆集
第二部 郵趣エッセー集

下のアイコンをクリックすると目次が表示されます。

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                                                                   (画像はクリックすると拡大します)

写 真 日 記
 ( PR ) このPRをしばらくのあいだ固定して先頭に掲げ、「 日記 」 はこの後ろに張り付けていきます。

 タイトルにも巻頭言にも謳っているとおり、このブログは切手収集家の団体JPS日本郵趣協会・札幌中央支部の会報 「 郵趣・赤れんが 」 に過去に掲載してきた郵趣エッセーに、新たな作品をその都度追加・更新しています。

 ご承知のとおりこの郵趣の世界も既存会員の高齢化と若年齢者の切手離れで収集人口が減少するとともに、会員数の減少で将来の郵趣活動の継続的発展が危惧されています。

 JPS日本郵趣協会としても、さまざまな機会を捉えて新会員の獲得に取り組んでいますが、会員増強協議会委員を仰せつかっている立場から、この場を活用してJPS日本郵趣協会への入会をご案内いたします。

 入会、機関誌 「 郵趣 」 の購読で郵趣の楽しみがより充実したものとなります。
 ご連絡いただければ 「 入会のご案内 」 をお送りします。

 お試しの半年間の購読は、6月分4,200円。
 普通会員なら1年の購読分の年会費が7,000円とお得です。

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                      ( 画面を125%に拡大してお読みください )

 2月15日(水)
 切手収集とご縁のない方のために、こんな切手の紹介もいいでしょう。

 郵便趣味 ( 切手収集に留まらず、消印から実際に使用された郵便物の歴史的背景まで辿る郵便に関する広範な趣味 ) の団体、日本郵趣協会の発足とともに昭和21年の創刊以来発行を続けている雑誌 「 郵趣 」 は、この2月号で通巻816号を数える。
 その表紙を飾った切手。

 昨年11月にオランダで発行された児童福祉のための6種連刷シート。
 世界では次々と趣向を凝らしたデザインの切手が発行されているが、奇を衒ったものが多い中で、これは連刷の効果を生かしたダブルデッカーの真っ赤な色と、デザインが好ましい。
 オランダを代表するイラストレーターで絵本作家のフィーブ・ヴェステンドルプ ( 1916- 2004 ) 誕生百年を記念したもので、バスの乗客は彼女が描いた愛らしい作品で溢れている。

 2004年2月、フィープ・ヴェステンドルプはアムステルダムで87歳の生涯を閉じたが、本人の遺言により、彼女の資産および作品の権利は、すべてフィープ・ヴェステンドルプ財団に委託され、子どもたちの文化的発展の促進を目指した教育的プロジェクトの支援や若いイラストレーターを育成する奨学金の提供にも当てられている。

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昨年11月にオランダで発行された児童福祉のための6種連刷シート。
オランダを代表するイラストレーターで絵本作家のフィーブ・ヴェステンドルプ ( 1916- 2004 ) 誕生百年を記念したもので、
バスの乗客は彼女が描いた愛らしい作品で溢れている。
一見、このバスはどちらへ動くでしょうか。そう、右です。右下に運転手がいます。
( 画像をクリックすると拡大します )



 2月13日(月)
 帰ってきました。行動記録は追って。
 ところで、留守中の二題。
 出がけに気になっていた留守中締め切りの二件。
 まず一つは戦時中の大東亜共栄圏地図10銭6枚貼りの中立国のスイス宛ての大型封筒。
 60銭の内訳は書留16銭、書状分44銭 ( 20gまで20銭、20gごとに12銭増し ) で、三倍重量便。
 東京中央郵便局、昭和18年4月5日の欧文印。

 宛先がロカルノ条約で有名なロカルノになっている。
 ロカルノ条約は、1925年10月にスイスのロカルノで行われた協議を受けて、同年12月1日にロンドンで正式調印された。
 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの5ヶ国における地域的集団安全保障条約、ドイツとフランス、ベルギー、チェコスロヴァキア、及びポーランドとの間には4つの仲裁裁判条約 ( 同一の内容で、紛争を仲裁裁判所ないしは国際司法裁判所さらには国際連盟理事会へ仲裁を付託することを規定 )、フランスとチェコスロヴァキア、フランスとポーランドの相互援助条約 ( ドイツの武力行使を懸念、牽制 ) など7つの協定の総称。

 翌1926年9月にドイツが国際連盟に加盟したことにより、条約が発効。ドイツは国際社会への復帰を果たした。1928年には不戦条約が締結され、また1930年には連合軍がラインラント ( ドイツ西部のフランスと国境を接する地方。ヴェルサイユ条約およびロカルノ条約で非武装地帯とすることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとで1936年3月7日にドイツ軍はラインラントに進駐した ) からの撤退を完了させるなど、国際協調の機運が高まり、ヨーロッパに戦間期 ( 英: interwar period 。第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、基本的には1919年から1939年までの時代 ) の束の間の安定が訪れた。  なお、結果は12人の入札者により、最終落札価格 $ 906.00という予想もしないトンデモナイ値段が付いた。

 もう一つは第一艦隊旗艦長門から発信の米国宛てのカバーで、明治神宮鎮座記念の二枚組と郵便創始50年記念の1銭5厘切手が貼られ、「 第一艦隊・昭和7年12月27日 」 の消印が押されている。
 第一艦隊は、旧日本海軍の戦艦を主力とした部隊の一つ。
 1903年にそれまでの 「 常備艦隊 」 を二分して編制された。この時に分離した第二艦隊とともに常設艦隊となり、日露戦争以降、第二艦隊とともにたびたび編制が繰り返され、長門は長くその旗艦を務めた。
 左下に「 FLAGSHIP NAGATO 」( 旗艦長門 ) と記されている。

 長門は戦後アメリカ軍の核実験標的艦とされ、1946年 (昭和21年) 7月の原爆実験でビキニ環礁に沈んだ。

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戦時中、中立国のスイス宛ての大型封筒。
東京中央郵便局、昭和18年4月5日の欧文印。
( 画像をクリックすると拡大します )

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第一艦隊旗艦長門から発信の米国宛てのカバー。
「 第一艦隊・昭和7年12月27日 」 の消印。
左下に「 FLAGSHIP NAGATO 」( 旗艦長門 )と記されている。
( 画像をクリックすると拡大します )



 2月2日(木)
 明日から法事がらみで10日ほど上京してきます。
 明日は節分。
 節分の懐かしい切手を載せておきます。
 昭和37年から38年にかけて 「 季節の行事シリーズ 」 として4種 ( ひな祭、七夕、七五三、と節分 ) 発行されたうちの一つです。
 この切手を目にしたとき、豆をまく男の子の右手が何か不自然に感じたのを覚えています。

 余談ですが、日本統治下の戦前の台湾に生まれた日本人の望郷の思いを描いた 「 湾生回家 」 が4日からいつものシアターキノで始まるが、こちらとしては昨年11月の上京の折に神田神保町の岩波ホールで見てきたので、今回日程が重なっても臍を噛まずに済んだ。

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「 季節の行事シリーズ 」 の一つとして昭和38年2月3日に発行された 「 節分 」 の切手。 ( 250% )



 2月1日(水)
 今日から二月。
 いつも乍らに月日は足早。

 2月号の原稿を張り付けました。
 「 ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー 」。
 1月4日に当欄で取り上げた材料で、際物ですから ( 「 先ごろ 」 が時期はずれにならないように ) 他のストック原稿を繰り下げて、2月号の原稿に持ってきました。
 1月2日締め切りのイーベイに出品されたカバーです。
 曰く付きのもの ( ニセカバー ) だけに入手は控えましたが、結果は予想以上の高値を呼びました。その経緯についても文中の裏話で触れています。
 ワンポイントにこのカバーに係わる巡洋艦ガンビアの写真を載せておきます。

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HMS 巡洋艦ガンビア ( 1940-60年 )
Wikipedia 「 ガンビア (軽巡洋艦 ) 」 から転載。
( 画像をクリックすると拡大します )



 1月31日(火)
 外国から届く封筒に、封筒の周りに赤と青の斜線を入れた国際郵便の封筒を殆ど見ることもなくなったが、先ごろ届いた封筒に 「 AIRMAIL 」 の古風なプロペラ機のスタンプが押されていて、今の時代にと不思議に思った。

 日本郵便のサイトに、問答形式で 『 「 AIRMAIL 」 の表示は何色ですればよいですか? 』 とあり、答が 『 青色あるいは黒色で表示してください。また、郵便局に 「 AIRMAIL 」 のシールをご用意しておりますので、ご利用ください。 』 とあるが、目立つ色と思われる赤としていないところがこれまた不思議に思う。

 円形の切手はクリスマスを思わせる雰囲気で、ついこの間のクリスマス切手かと思いきや、2014年の記載があって、調べてみると2014年発行のシール切手で、米国郵政公社( US Postal Service )は、 2014年10月23日、グローバルホリデーシリーズの2番目の切手として、このリボンの結ばれた 「 銀の鈴のリース切手 」 ( シルバーベルズ・リース・フォーエバー・インターナショナル・プライス・スタンプ ) を発行したとあり、無額面のこの切手は世界各国への国際郵便1オンスまでの郵便相当料金の切手だということです。

 ・・・ celebrates the winter holidays internationally with a new Forever® stamp, Global Holiday: Silver Bells Wreath.
   「 冬休み 」 を国際的に祝うものとして発行したと説明されているが、その辺の事情はよく分からない。

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古風なプロペラ機のスタンプが押された米国からのカバー。 ( 75% )
右上に、国際郵便料金の無額面のシール切手。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月30日(月)
 28日土曜日の北海道新聞朝刊に、札幌のロシア総領事館が開設50周年を記念してロシア・サハ共和国の文化紹介の展示があるというので行ってきた。

 サハ共和国 ( 英語:Sakha (Yakutia) Republic ) は、ロシア連邦を構成する共和国で、連邦構成主体の一つ。首都はヤクーツク。
 旧称 「 ヤクート・ソビエト社会主義自治共和国 」 ( 1922年から1990年 )。
 面積は3,103,200平方km ( 日本の約8倍 ) と広大で、ロシアのヨーロッパロシアを除いた地域 ( アジアロシア、約13,100,000km2 ) の約4分の1を占め、地方行政単位としては世界最大。人口は96万人。

 案内カードにもあるとおり、ヤクート民族の国。
 ヤクートはツングース系民族 ( 満州からロシア領のシベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族 ) のアジア民族に属する。  「 ツングース 」 という名称はエヴェンキ人,エヴェン人の旧称であり、もともとはヤクート人がエヴェンキ人を 「 トングース 」 と呼んでいたことに由来する。
 旧樺太のオロッコ ( ウィルタ ) やギリヤーク ( ニヴヒ ) もツングース系で、共通してシャーマニズムを信奉する。

 なお、サハ共和国の西側にあるクラスノヤルスク地方 ( 2007年にエヴェンキ自治管区、タイミル自治管区を併合 ) もサハ共和国に次いで2番目に大きい行政区で面積は 2,339,700km² で日本の約6倍、人口300万人。
 また、ロシア連邦は、1993年に制定されたロシア連邦憲法の規定により、地域或いは民族によって区分された83の連邦構成主体からなる連邦制を採っており、人口面積ともに、極端な違いがある。
 例えば、モスクワ連邦市の面積は2,500km²だが人口は1,200万人、サンクトペテルブルク連邦市も1,400km² で513万人。

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在札幌ロシア総領事館内の会場に置かれた案内カード。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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28日(土)、北海道新聞朝刊の記事。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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サハ共和国の発行を装ったプラーべート加刷の鳥10種連刷。
1976年のソ連切手に加刷。
「 САХА 」 はサハのロシア文字表記。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月27日(金)
 1月15日に抽せん・公表のあったお年玉付き年賀はがきの3等 (下2けた) の賞品、お年玉切手シート ( 100本に2本 ) をもらってきた。
 これまで、末等は一貫して 「 お年玉切手シート 」 で、その切手の絵柄は基本的に当該年の 「 年賀郵便切手 」 と同一であったが、今年初めて年賀切手とは別のデザインになった。
 また、花柄が打ち抜きになっているのが目を引いた。( 裏面からの画像を掲げる )

 「 お年玉切手シート 」 の当選番号は、2005年 (平成17年) まで下2桁に3本 ( 100本に3本 ) だったのが、2006年から 「 100本に2本 」 に減っている。
 1等 ( 100万本に1本 )、2等 ( 1万本に1本 ) は宝くじ並みの確立で論外。
 「 お年玉切手シート 」 自体は大した物ではないが、それでも当たりが気になる。

 先年、過去のものを処分したが、それを見ると毎年三、四枚、多ければ五、六枚は当たっていたが、今年はたった一枚。去年も二枚だった。
 現役の頃に受け取る年賀状が倍近くあったことを考えれば、基本的に100本に3本、100本に2本の確立で当たっていた訳だが、毎年当選番号を確認するときに、同じ下二桁の外れ番号のものが何枚もある場合や一番違いが結構あって、いつもながらに悔しい思いをする。

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2017年の 「 お年玉切手シート 」。 ( 150% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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裏面から見ると、花模様の打ち抜きがよく分かる。



 1月26日(木)
 「 積ん読 」 混じりで積み上げた本の山の中に、森まゆみの 「 一葉の四季 」 ( 岩波新書 ) を見つけて読み直した。
 一葉とは、森が 『 紫式部以来の天才といわれる女性 』 と書いている樋口一葉のことです。
 この本、Ⅰ 樋口一葉、Ⅱ 明治の東京歳時記、Ⅲ 一葉をめぐる人びと の三部構成になっているが ページ数はⅡが三分の二を占めており、Ⅰが四分の一、Ⅲは一割と少ない。

 樋口一葉 ( 1872年- 1896年(明治29年)11月23日 )は、明治5年3月25日、東京府第二大区一小区内幸町 ( 現千代田区内幸町 ) に生まれた。
 ちょうど18日の本欄で書いたとおり、東京市 ( 最終的には現在の東京23区に相当する区域 ) が明治22年に発足するまだ前で、東京は全て明治元年以来の旧東京府 ( 現東京都 ) に属した。

 森まゆみが、『 わが住む町のすぐ近く、本郷に住んでいたのは大きなめぐりあわせであった。』 と書いているように、私にとっても一葉は、東京の家が一葉の住んだ下谷龍泉寺町 ( 僅か9ヶ月という短い期間ではあったが ) で、すぐ脇の茶屋町通りに旧居があり、代表作 「 たけくらべ 」 の信如の龍華寺のモデルになった大音寺も通りを夾んだ筋向かいで、また、上京すれば必ずと言っていいくらい 「 町内の 」 一葉記念館に寄ってくる。

 パラパラと読み始めて間もなく気がついたのは、全篇を通じて全ての項目の一文が新書版の見開き二頁にぴたっと収まるように書かれていることで、このことについては森本人もあとがきで、『 見開き読み切りの工夫もし、』 と書いている。

 もう一つ。巻末によくある参考資料に代わるように載せている 「 この本から広がる読書案内 」 と題した関係図書の案内が珍しい。
 1月6日の本欄で 「 知識は連鎖だ。そして、本にも連鎖性がある。」 と書き、本の連鎖性の中から巡り会った本として 「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 を紹介したが、この考えを裏付けるように森さんも同じことを考えていたと、我が意を得たりの思いであった。

 遠くへの旅行をすることもなく、困窮の中に生き、若くして亡くなった一葉の、生活と交遊の殆どを含むであろう区域が、巻頭の口絵に 「 一葉の足跡図 」 として二つの地図が張り付けられている。
 一葉一家はよく引越をした。生涯に12回の引っ越しは以下の通りだ。

 明治5年8月 (1年6月) 下谷区練塀町( 現・千代田区練塀町 )
 明治7年2月 (2年2月) 麻布三河台町( 現・港区六本木 )
 明治9年4月 (5年3月) 第四大区七小区本郷6丁目( 現・文京区本郷5丁目 ) 東大赤門前の 「 桜木の宿 」
 明治14年7月 (3月)   下谷区御徒町1丁目 ( 現・台東区台東2丁目 )
                 下谷区御徒町3丁目 ( 現・台東区東上野2丁目 )
 明治17年10月 (3 年3 月) 下谷区上野西黒門町 ( 現・台東区上野1丁目 )
 明治21年5月 (3 年5月)  芝区高輪北町 ( 現・港区高輪2丁目 )
 明治21年9月 (6 月)  神田区表神保町 ( 現・千代田区神田神保町 )
 明治22年3月 (6 月)  神田区淡路町 ( 現・千代田区神田淡路町 )
 明治22年9月 (1年)   芝区高輪北町 ( 現・港区高輪2丁目 )
 明治23年9月 (1 年4 月) 本郷区菊坂町70番地 ( 現・文京区本郷4丁目 )
 明治25年5月 (2月)    本郷区菊坂町69番地 ( 現・文京区本郷4丁目 )
 明治26年7月 (10 月)   下谷区町龍泉寺368番地 ( 現・台東区竜泉3丁目 )
 明治27年5月        本郷区丸山福山町69番地 ( 現・文京区西片1丁目 )
 終焉の地。ここに、明治29年11月23日に亡くなるまでの、奇蹟の14ヶ月を含む二年半を過ごした。          

 明治27年12月 「 文学界 」 に 「 大つごもり 」 を発表してから一葉を一躍有名にした 「 たけくらべ 」 が完結する明治29年1月までの14ヶ月で 「 にごりえ 」 「 十三夜 」 などの代表作の全てを書き上げており、この期間は 「 奇跡の14ヶ月 」 と言われている。しかし肺結核がしだいに進行し,24歳でこの世を去った。

 思えば、東京散歩を始め一葉ゆかりの地を随分歩いてきた。
 東大赤門前の 「 桜木の宿 」 の去年10月( 東京日記 ) は二回目、5年ほど前に菊坂の家と一葉一家がたびたび通ったという近くの旧伊勢屋質店 ( 龍泉寺に移ってからも通った )、伝通院へ行く途中の安藤坂の歌塾 「 萩の舎 」。
 菊坂の家や龍泉寺から通った 「 上野の図書館 」 ( 1897年に設置の戦前唯一の国立図書館。1947年に国立図書館と改称した上、戦後、国立国会図書館支部上野図書館を経て、2000年に国立の児童書専門図書館である国立国会図書館国際子ども図書館として再生。蔵書は現在の国立国会図書館東京本館に移された )。
 萩の舎の一同で行った小石川植物園、ツツジの名所の根津神社、向島の百花園、墨堤(隅田川))の桜、不忍池、谷中界隈・・・。「 たけくらべ 」 にも出てくる酉の市・・・。

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「 一葉の足跡図1 」 ( 森まゆみ 「 一葉の四季 」 から )。
四角の囲みが一葉の住居だったところ。
この図から外れて 「 一葉の足跡図 2 」 にあるのは、生まれた時の内幸町と、次兄の所に身を寄せたときの芝高輪の二箇所です。 ( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

higuti-fdc.jpg
文化人切手の一枚として昭和26年4月10日に発行された樋口一葉の切手のFDC。 ( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月25日(水)
 セントルイス出身のラッパーPrince Ea ( プリンスエア ) が崩れた家の前でラップしている。
 YouTube : http://tortoiz-store.net/2016/12/14/post-2098/
 「 Why I Want This World to End 」 ( 「 この世界が終わってほしい理由 」 ) とは。
 アメリカの良心を見る。
 アメリカのことを歌いつつ、本質的なところは日本も大して変わらない。
 いや、人類に共通する大問題。

この世界は終わりに差し掛かっている。
大気は汚染されて、海は汚された。
動物は絶滅に差し掛かっていて、経済は破綻した。
教育は地に堕ち、警察は腐敗している。
知性は嫌がられ、無知はもてはやされ、人々は落ち込んでいて怒っている。
お互いに我慢する事ができずに我々自身に満足することもできない。
だから誰もが薬漬け。
路上ではお互いがすれ違って、会話するとすれば無意味なロボットみたいな会話。
一生分の意味と目的よりも、一瞬の名声を求める人が多い。
だって正しいなんてことよりも人気のあることの方が大事じゃないか。
真実よりもランク付けの方が大事らしい。
政府が作っているのは学校の数の2倍の刑務所。
リンゴを探すよりもビッグマックを見付ける方が簡単だ。
やっとリンゴを見つけた時、そのリンゴの遺伝子は組みかえられていた。
大統領は嘘つきで、政治家はペテン師。
人種だってまだまだ問題だし、宗教も変わりはしない。
お前の神様なんて存在しないんだ、俺の神様は存在するし愛に満ち溢れてるんだ。
もし俺に賛成しないならお前を殺すぞ。
それよりもっと質の悪いところで死ぬまで言い争ってやる。
ラジオから流れる歌の92%はセックスのこと。
鬼ごっこで遊ぶのを辞めた子供達は、激しく腰を振っているビデオを鑑賞してる
普通の人は一日5時間はテレビを見て過ごすし、スクリーンに写っている暴力は酷くなるばかり。
テクノロジーでみんなが欲しかった物が手に入るけど、俺達が本当に必要なものがみんなそいつに盗まれていく。 プライドは最高記録更新中、人間らしさ、最低記録更新中。
みんなが全部を分かっていて、みんなが何処かに行っている
誰かを無視して、誰かを避難して、本当の人間なんてそれ程残っちゃいない、人間のふりした奴らだけだ。
過去から離れようとしない人間ばかりで、今ここにいる人間など殆どいない。
お金は相変わらず諸悪の根源で、でも子供にはそうは教えない。
仕事の給料なんて十分じゃないし、善い行いがされるのはそこに利益がある時だけ。
他人の不幸を写した動画が流行し、一緒に笑い飛ばすために友人にシェアをする。
今のみんなのお手本になっている人達は、60年前なら真似をしてはいけないお手本だった。
人間を差別することが法律的に可能な状態があるのは彼らが特定の方法で生まれてきたから。
会社は何百万も投資して専門家とやらを雇っている。
美しくなる為にはお化粧が必要だと小さな女の子に思い込ませるために女の子の自己評価を永久的に下げるんだ。
だって女の子が満足するほど可愛くなんてなりはしないのだから。
こんな不可能なスタンダードに追いつくためにビジネスはいう これ買って、あれ買って、買って、買ってって。 みんなに追いつかなきゃ、みんなと同じにならなきゃ。
これを買ったら幸せになるよ、でも長続きはしないけど。
この狂った混沌とした世界の中で一体何が出来るって?
解決策?愛することが出来る。
ラジオから流れてくる大好きな歌の中の愛じゃない。
本当の愛、真実の愛、無限の愛。
愛することが出来るんだ、お互いに愛し合うこと。
朝起きたときから夜寝るときまで。
親切な行動をやってみる親切は伝染するものだから。 人と会うときには気を配ることができる。
善意の苗を植えるんだ。 いつもよりも思いやりをちょっと追加するんだ。
許すことができる。
今から300年経っても友達に、母親に、父親に恨みを持つことに何の意味がある?
他人を変えようとする代わりに自分を変えることはできる。
自分のハートを変えることはできる。
今まで嘘を売りつけられていた。
俺たちはリーダーや信じていた人たちに洗脳されていたんだ。
俺たちのブラザー達やシスター達が認識しないように、代わりに怒り、憎しみと残酷さをさらけ出すように。
でも本当の愛を知ると怒りに対して同情で、憎しみに対して思いやり、残酷さに対して優しさで迎え入れるようになる。
愛こそが地球上で一番強力な武器。
ロバート・ケネディも言っているじゃないか。
歴史を変える偉大な人間はごく一部。
でも俺達それぞれが小さな出来事の一部を変えることが出来る。
こんな行動が全部合わされば、一つの世代の歴史に書き込まれるだろう。
だからそうだ、この世界は終わりを迎えている。
そして新しい始まりへの道筋はあなたの中から始まる。


prince eare
Prince Ea ( プリンスエア ) の関係サイトから、。



 1月24日(火)
 仲間に消印を熱心に収集している人がいる。
 趣味はそれこそ好き嫌いの好みの問題で、何に関心を示すかは人によって千差万別。  消印だって、古いものに限らず、現行印と称する現在使用されている消印を追いかけている人もいる。

 ヤフオクに出品中のものに偶然目を引くものがあった。
 「 U小判2銭に丸一印 対馬・厳原 明治30年5月26日」。
   厳原 ( いずはら ) も全国難読地名の一つであろう。
 満月印で日付は鮮明だが、局名が摩滅気味で滲んで出品者のタイトルがなければ戸惑う。旧字、右書きで、「對馬・嚴原」。
 対馬は長崎県に属し、対馬海峡の韓国と日本の間にあって、距離は韓国に50Km、日本本土(九州)との距離130Kmと、韓国に近い。

 地理的に朝鮮半島に近いため、対馬には古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきた。
 現在は韓国から来る観光客が増加しており、島内の至る所にハングル文字が併記された標識や案内を見ることができる。

 対馬にとって大変な受難は二度に亘る元寇で、この時島民は大変な悲劇に見舞われている。
 1274年 (文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。
 男は殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。
 1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦 (現在の馬山市) より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍で、弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。

 また対馬は地理的関係から朝鮮通信使との縁も深い。
 朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団で、正式名称を 「 朝鮮聘礼(へいれい)使 」と言う。
 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年に足利義満によって派遣された日本国王使に対して誼を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
 室町期に3回、豊臣秀吉へ2回、江戸期に12回派遣され、明治時代にも1880年の朝鮮通信使があった。

 通信使は釜山から海路で対馬に寄港し、それから馬関 ( 下関 ) を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿 ( 三使 )、馬 ( 上・中官 ) と徒歩 ( 下官 ) で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取った。
 江戸期の1回の平均人数は450人、そのうちの100人(水夫)は大阪に留まり、350人が江戸へ向かった。
 江戸城では朝鮮国王から将軍への国書の奉呈があり、数日後に将軍から朝鮮国王への返信と礼物があり、三使や使節一行にも礼物や礼銀が贈られて通信使一行は帰途についた。
 旅程にかかる時間は、1719年 ( 江戸期に9回目 ) を例にすると対馬から大坂の海路に45日間、大坂の滞在に6日間、大坂から江戸の陸路に18日間をかけている。
 全行程には8ヶ月から10ヶ月を要した。


 なお、1970年に発行された壱岐対馬国定公園の切手は対馬馬と人物 ( 二人の豆酘娘。対馬の南端、豆酘 ( つつ ) の集落には古くから語り継がれる美女伝説がある ) が描かれて、好ましい印象的なデザインの切手一つになっている。

 最後に余談になるが、対馬と聞くと子どもの頃の昆虫への関心から、条件反射で対馬特産の天然記念物の希少種、ツシマウラボシシジミの名が思い浮かぶ。
 昨年訪れた東京・足立区生物園でツシマウラボシシジミの飼育に取り組んでいることを偶然に知った。
    近年全国各地で鹿の食害が大きな問題になっているが、長崎県対馬市の天然記念物に指定されているツシマウラボシシジミにも思わぬ影響が出ている。
 ツシマウラボシシジミはこの島で杉の樹林内など限られた場所にひっそりと生息しているが、フジカンゾウやヌスビトハギなどの食草が、対馬でも鹿の異常繁殖で片っ端から食い尽くされ、この蝶が絶滅に瀕しており、足立区生物園が人工増殖での種の保存に乗り出したということであった。
 なお近似種に、沖縄本島の大宜味村と西表島の一部にのみに生息するリュウキュウウラボシシジミがある。

対馬厳原
U小判2銭に丸一印 対馬・厳原 明治30年5月26日。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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1970年に発行された壱岐対馬国定公園の切手。
対馬の上島と下島の間にある浅茅湾 ( あそうわん ) をバックに、対馬馬と二人の豆酘 ( つつ ) 娘を描く。

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ツシマウラボシシジミの借用画像。
左の翅の裏にある黒星が 「 ウラボシ 」 の名の所以。地味な翅の裏側のに対して、右側の翅の表は綺麗な紫色の光沢を放つ。



 1月22日(日)
 昨日は漢字同好会の新年第一回目の例会で、クイズで楽しむ 「 新春お楽しみ会 」 でした。
 1グループ4,5人で5グループに別れての 「 グループ対抗戦 」 でしたが、各チームに付けられた名前がいかにも漢字同好会らしく、芹 (せり)、薺 (なずな)、繁縷 (はこべら)、菘 (すずな)、蘿蔔 (すずしろ) と春の七草の漢字名なのでした。
 ただし5チームで、使われないものもありましたが、あとは 「 仏の座 」 と御形 (ごぎょう)です。
 蘿蔔は大根のことで ( 現代中国語でも蘿蔔はズバリ大根のこと )、すなわち 「すずしろ」 です。

 あとに打合せの時間を控えていたこともあり、今年は持ち時間1時間半で3問と寂しい事でした。
 一問目は地元のテレビ局の番組に倣って、チームの一人が白板に出題 ( 正月に因むもの ) に係わる絵を描き、チームの者がこれを言い当てる。
 例えば私が当たったのは 「 初日の出 」 で、富士山の肩越しに日の出の太陽を描いて、矢印で太陽を指した。
 漢字と関係ない出題ではありましたが。

 二問目はいつもの漢字尻取りで、二字熟語の後ろの音を別の字で始まる二字熟語で繋いでいくもの ( 順次全てを板書してゆき、同じ字を使わないことが条件 )。こちらのチームの 「ちょく」 を受けての 「 勅令 」、「 ねつ 」 を受けての 「 捏造 」、また 「すう 」 を受けての 「 雛僧 」 ( 小坊主 ) などはさすが漢字同好会と思わせるものでした。

 3問目は個人戦 ( 最後はチームで正解数を合算 ) で、色々取り混ぜた15問の正否を○×で答えるもの。
◆ 一つに 「えび茶色」 を問うもの。何となく赤味を帯びた茶色といったイメージを持っていたが、正解の 「 黒みがかった茶色 」 という認識はなかった。

◆ 「 眼鏡に (かな) う 」 は 「叶う」 か。正解は 「 適う 」 ( 当てはまる ) で、「 叶う 」 は 「 願いが叶う 」 場合など。ついでに 「 敵わない 」 は常に否定を伴って 「 この相手には敵わない 」。

◆ 日本に雲南という地名はあるか。
 こういう設問は 「 あるからこそ 」 が通り相場だが。
 雲南市 (うんなんし) は島根県の東部に位置する市。
 1995年の合併特例法に始まる、いわゆる平成の大合併による近隣6町村の新設合併だが、いくら出雲の南とはいえ、妙竹林な音読みの市が生まれたものと思うが、聞けば 「 雲南三郡 」 の古くからの呼び名も定着していたというから致し方ないか。

 とはいえ日本に 「 雲南省 」 かとの違和感は残り、おまけにここは 「 中国地方 」 ときている。
 まだある。滋賀県の南部に2004年に誕生した湖南市 (こなんし) があり、琵琶湖の南とは言っても、命名に当たって中国の湖南省を知らない人ばかりであったのか。土地ゆかりの名が何かしらあった筈で、智恵のない話だ。

◆ もう一つだけ。「 世界で一番長い川は? 」 という問題。  こちとら、天からミシシッピ川と覚えていたが、正解はナイル川で、ミシシッピはいつの間にかナイル川に席を譲っていたらしい。  「 世界で一番長い川 ミシシッピ 」 で検索してヒットする 「 Yahoo知恵袋 」 には、『 世界で一番長い川はナイル川ですが、昔は (30年くらい前) ミシシッピ川と言われてらしいですね。私が学校で習った時はナイル川、アマゾン川、ミシシッピ川、揚子江の順番でした。 』 と、こちらの記憶を裏付けてくれる回答があった。

 その一方で、『 川の長さを測る時の基準・方法により結果が変化するのだと思いますよ。例えば,ミシシッピ・ミズーリーをまとめてひとつの川として見るか否か,支流も含めるか否か,などです。 』 と、今ひとつ曖昧な回答がベストアンサーに選ばれていたりして、このサイトでは時おり首を捻るジャッジを見かける。

 また、ここの場は、『 今ではミシシッピ川はベストテン内にも入ってないと聞きましたが 』 とか、『 ミシシッピ川はアメリカの川ですから、都市部や大規模農地周辺で大規模な改修工事を受けているはずで、その河川長は大幅に短くなっていても当然なのです。 』 とか、疑問符の付くまことしやかな話が飛び交う。

 因みに、理科年表には二つの出典 ( アトラスや エンサイクロペディア ) を示した上で100位までが示されているが、1位がナイル川で6,695 Km、2位・アマゾン川6,516 Km、3位・揚子江6,380 Km、4位・ミシシッピ川6,019 Kmとなっています。

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漢字同好会 「 新春お楽しみ会 」 風景。
今回は25人ほどの集まりでした。
( 仲間のブログからの借用画像 )



 1月21日(土)
 昨日注文していたステレオが届いた。
 しばらくレコードが聴けずに不自由していたので有り難い。
 スピーカー内蔵のTEACのコンパクトなステレオで、威張れるものではないが、そこそこに聞ければ満足で、早速聞いてみたところ満足のいく音質で安心した。
 ただし、オートリターンになっていなかったのが意外で、気をつけないとエンドレスで回り続ける。
 家電は、使ってみないと分からないので困る。
 ただ、この手のものは選択肢が限られているから、仕方のないところではあった。

 早速、チャイコフスキーの 「 悲愴 」 を聞いた。チャイコフスキーの曲はどれも多彩なメロディーが素晴らしい。
 それに懐かしいスイングル・シンガーズのジャズ・セバスチャン・バッハ。
 それから、高校生の時に出会ったテレマンの二つの序曲 「 フルートと二つのヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音の為のソナタ 」 と 「 オーボエと弦と通奏低音の為の協奏曲 」。アルヒーフ版です。

 チャイコフスキー (1840 - 1893年) の交響曲第6番 「 悲愴 」 というタイトルについて最も有名な話は、弟のモデストが著した伝記に書かれている次のようなエピソードで、
 『 初演の翌日、兄が曲につけるタイトルを思案しているので、最初трагическая ( トラギチェスカヤ=悲劇 ) を提案したが、気に入らない様子で、しばらくしてпатетическая ( パテティチェスカヤ=悲愴 ) はどうかというと、「 ブラボー 」 と言ってスコアの表紙に書き付けた。 』 というのだが、一方でこんな説もある。
 1893年の交響曲第6番が初演されたその一週間後にチャイコフスキーはコレラに罹って亡くなり、その後この曲は 「 悲愴 」 と名付けられたと言う。

 ジャズ・セバスチャン・バッハのスイングル・シンガーズは、1962年にフランスのパ リで結成されたア・カペラ・ヴォーカル・グループ。バッハ・シリーズのヒットから始まってベートーヴェン、チャイコフスキーからビートルズやその他のスタンダード・ナンバーをスキャットでこなした。
 グループはソプラノ、アルト、テノール、バス各2名の構成で8人。全員がクラッシックの基礎で十分鍛え上げられた優秀なメンバー揃いということであった。
 現在もロンドンを拠点にして健在とは知らなかった。

 ヴォーカル・グループといえば最近、コーラスグループのフォレスタの存在を意識するようになった。
 フォレスタは2003年、『 BS日本・こころの歌 』 の開始に当たり、番組オリジナルの混声コーラスグループとして結成された。全員が音楽大学を卒業したという本格的なメンバー揃いです。

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チャイコフスキーの交響曲第6番 「 悲愴 」 のレコード・ジャケット。
東芝エンジェルレコードの赤い音盤がめずらしい。



 1月20日(追加)
 たまには本来の写真日記ということで。
 久しぶりに庭の雪の上に残されたキタキツネの足跡。
 気がついたときにはその後に雪が降ったため、薄れてしまったのが残念ですが。
 以前、同じようにここを通った足跡があって、その後で同じ場所を引き返していく姿を見ました。
 通りの向こうは ( 画面の手前方向 ) タマネギ畑が広がる市街化調整区域で、変わらぬ環境は彼等に有り難い住み処を提供しています。

 道路を横断するのに交通事故に遭わなければいいが。
 以前に近くで交通事故の犠牲になったエゾシカがいました。
 驚くほどに自然が身近です。

 過去の写真日記を覗いて見たら、キタキツネの足跡のいい写真が、2014年の2月9日のところに載っていました。

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ベランダの下の雪の上に残されたキタキツネの足跡。
足跡にコントラストを付けるために露出を絞ったため画面が暗くなってしまいました。



 1月20日(金)
  いま、イーベイに出品されているカール・ルイスの 「 風景印カバー 」 です。
 米国シカゴ宛て。
 昭和12年9月14日の横浜局の風景印が押されている。
 左上に 「 YOKOHAMA PIER & SEASIDE PARK 」 ( 横浜埠頭臨海公園 ) とあり、手前にパーゴラと植え込みのある山下公園と、前面に広がる横浜港に大型船の浮かぶ様子が好ましい淡い色調で描かれている。.
 鑑賞用の絵として額に入れて飾っておきたいくらいです。

 山下公園は関東大震災の復興事業として、震災の瓦礫などを使って海を埋め立て造成して、1930年 (昭和5年) 3月に開園している。
 現在、山下公園前 ( 横浜港 ) に氷川丸が係留されている。

 ルイスカバーについては、2015年9月第218号 「 ルイス・カバーについて (下) 」 と同7月第216号 「 ルイス・カバーについて (上) 」を。  氷川丸については2014年5月第202号 「 船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代 (その3) 」 を御覧ください。

lewis cover
カール・ルイスの 「 風景印カバー 」。
昭和12年9月14日の横浜局の風景印が押されている。
「 YOKOHAMA PIER & SEASIDE PARK 」( 横浜埠頭臨海公園 )、現在の山下公園を描く。



 1月19日(木)
 日曜の台湾の会でもう一つ思い出した。
 雑談の中で、新しいアメリカ大統領に選ばれたトランプの中国語表記はどんなだろうかと尋ねると、「 川普 」 と板書した。
 「 特朗普 」 ( 日本人の耳で聞けば 「 タランプ 」 ) と書く方法もあるが、「 川普 」 ( 同、チュアンプ ) に落ち着きそうな形勢らしい。
 就任前から毎度物議を醸しているが、無責任な悪ふざけは恐いもので、とんだ人物が選ばれたものです。

 日本語にはカタカナがあって便利だろう ( 中国語のように漢字を探す手間がいらないから ) というと、カタカナに置き換えるのが難しいからそうも感じないと意外な答が返ってきた。
 まあ、外国語の発音を聞き取るのはどんな言語間でも共通して悩ましいところだが、日本語の発音が単純なだけにどの音に集約されるのかが却って難しいと感じるのかも知れない。
 「 川普 」 だって、中国語に通じた大方の日本人は 「 四川の普通話 」 を連想し、「 特朗普 」 の方がまだしもと思えるのだが。日本人の耳にはトランプがチュアンプのようには聞こえない。

 中国人観光客が増えて中国語の看板や放送が目立つようになった札幌の街中で、ドンキホーテが 「 唐・吉訶德 」 と書くことを知った。これとて、日本人の耳には 「 トン・チハーダ 」 に近かったりして。
 日本式に当て字するとすれば、取り敢えず 「 呑・基法帝 」 などが思い浮かぶが、彼等はどんな印象を持つだろうか。
 因みにマクドナルドは 「 麦当労 」。日本人の耳には 「 マイタンラオ 」 としか聞こえないのだが。

 「 ドナルド・トランプ氏の中国語名 」 というサイトに、『 中国語を使う5つの地域で、どうもそれぞれ違う表示になっているらしい。 』 として、
 大陸 ( 簡体字 ): 唐納徳・特朗普 ( 便宜的に簡体字を日本の漢字に直した。以下、繁体字も同じ )
 香港 ( 繁体字 ): 当労・特朗普
 澳門 ( マカオ、繁体字 ): 当労・杜林普
 馬新 ( マレーシア・シンガポール、簡体字 ): 唐納徳·川普
 台湾 ( 正体字 ): 唐納・川普
と比較の一覧があった。
 同じ中国語圏でも同じ名前がこれだけ違うというのは悩ましい。
 中国国内には表記を一元化する機関があるように聞いているが、地域や国家間での調整はないようです。

 イーベイを覗いてみれば、あやかり商法ですでに多くのいかがわしい切手発行国から多くのトランプ切手が発行されているが、まともな方の一つを話の種に掲げておきます。
 去年リベリアから発行された小型シートです。

trump.jpg
2016年、リベリア。米大統領選挙記念の小型シート。
二人の候補者を並べている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月18日(水)
 郵便物から土地の歴史を知る。
 今回の材料は、図の外信に使われた 「 東京名所 九段靖国神社 」 の絵はがき。
 菊4銭貼り。 ( 4銭は当時の国際船便はがき料金 )
   消印は 「 武蔵・巣鴨 明治42年5月21日 」 の丸一印。カナダのトロント宛て。
 1909年5月26日のTOKIOの欧文印が押されているが、丸一印から5日も間が空いているのは珍しい。

 このはがきの押された差出人の楕円形のゴム印にある 「 東京府下北豊島郡滝野川 」 の記載にふと疑問がかすめた。
 今の北区がかつては現在の多摩地区のように東京都23区に入っていない時代があったのかと。
 かつて東京都は東京府であり、1868年 (明治元年) から1943年 (昭和18年) までの間に現在の東京都の前身に当たる東京府という日本の府県の一つが存在し、その府庁所在地が東京市であった。

 また、東京市は旧東京府 ( 現東京都 ) 東部に1889年 (明治22年) から1943年までの間に存在していた市で、最終的には現在の東京23区に相当する区域に市域を広げたが、それまでにはいくつかの段階を踏んでいる。

( 15区時代 )
 まず、1889年 (明治22年) に当初、以下の15の区域で市制施行。
 15の区域は、すでに1878年 (明治11年) の郡区町村編制法により編成。
 麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区。
 よって当初の東京市の区域は現在の千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区の範囲であった。

( 35区時代 )
 それが1932年 (昭和7年) に隣接5郡82町村を編入して、新たに以下の20区が編成されて加えられ、東京市は35区になった。
 品川区・荏原区・目黒区・大森区・蒲田区・世田谷区・渋谷区・淀橋区・中野区・杉並区・豊島区・滝野川区・荒川区・王子区・板橋区・足立区・向島区・城東区・葛飾区・江戸川区。
 このとき、東京府下、「 旧北豊島郡 」 の一部であった 「 滝野川 」 が滝野川区 ( 戦後に北区 ) として加わったのだった。

 その後、1943年 (昭和18年)、東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止され、35区は東京都の行政区 ( 東京都区部23区の前身 ) となる。

( 23区時代 )
 戦後、1947年 (昭和22年)、35区はまず22区に整理統合され、すぐに板橋区から練馬区が分離して23区となった。

 なお、要らぬ者の参拝でとかく話題になる靖国神社だが、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀る意図で1869年 (明治2年) に創建された特異な神社で、元来は東京招魂社 (しょうこんしゃ) という名称で、各地にある護国神社の創建も同様の趣旨である。
 戦後、1946年 (昭和21年) に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった。
 Wikipediaの 「 靖国神社 」 には、祭神として 『 幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を 「 英霊 」 と称して祀り、その柱数は2004年 (平成16年) 10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。 』 としてその内訳が一覧表に示されており、やはりこの神社がいかに特異な性格を持つ神社であるかを改めて知る。

 一覧表には、戊辰戦争・明治維新 7751柱 ( 新政府軍側のみ )、西南戦争 6971柱 ( 政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外 ) 以下、主だったところだけでも、日清戦争 1万3619柱、日露戦争 8万8429柱、支那事変 ( 日中戦争 ) 19万1250柱、大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) 213万3915柱と異様です。

 戦犯の合祀は論外にしても、ともあれ戦争の犠牲者には素直に頭を垂れるべきだが、わざわざこれ見よがしに参拝をひけらかし、これを政治的道具として利用する存在があり、彼等の参拝は却って祀られた多くの犠牲者を愚弄するものと言えるのではあるまいか。

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 「 武蔵・巣鴨 明治42年5月21日 」 消印のカナダのトロント宛ての外信絵はがき。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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絵はがき裏面の 「 東京名所 九段靖国神社 」。 明治40年前後の写真か。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月17日(火)
 日曜日の台湾の会の中国語の話題は 「 中国料理 」 だった。
 本来の中国語は 「 中国菜 」 ( 日本人には 「菜」 は第一義には 「野菜」 のイメージだが、「お総菜」 の語を思い浮かべれば違和感も緩和される ) だが、日本語の 「料理」 という言葉が中国語としても重宝に使われ出したようだ。
 余談ながら、もうかなり前の中国で 「歯科」 の看板を見かけて引っ掛かった。従来は 「牙科」 だった筈で、聞いてみると、日本語の 「歯科」 の方がカッコよく聞こえるとのことだった。

 提供された資料では 「 八大菜系 」 ( 中華八大料理 ) として紹介されたが、日本では一般的に中国四大料理として、北京料理、上海料理、広東料理、四川料理を耳にする。
 Wikipediaの 「 菜系 」 ( 菜系は中国語で料理の種類を意味する ) によれば、中国で最も一般的な区分法とされるその 「 八大菜系 」 は、山東料理 ( 魯=ロ菜。以下はそれぞれの地方の略称による )、江蘇料理 (江菜)、浙江料理 (浙=セツ菜)、安徽料理 (徽=キ菜)、福建料理 (閩=ビン菜)、広東料理 (粤=エツ菜)、湖南料理 (湘=ショウ菜)、四川料理 (川菜)を指すという。

 より大きく括る 「 四大菜系 」 の区分 ( 山東料理、淮揚料理、広東料理、四川料理 ) もあり、これが日本での 「 中国四大料理 」 とほぼ重なっているが、香辛料を使った辛い料理が多いという麻婆豆腐、乾焼蝦仁 (エビチリ) の四川料理のイメージはあるが、甘みが強いとされる上海料理 ( 八宝菜、小籠包、ワンタンなど )、味が濃く塩辛いとされる北方系の山東・北京料理 ( 北京ダック、炸醤麺(ジャージャー麺)、水餃子など )、薄味で材料の味を生かすという広東料理 ( ふかひれスープ、シュウマイ、チャーシューなど ) の区分はよく自覚できていない。

 料理の話ときて連想するのは2014年から年末に発行されている 「 海外グリーティング ( 差額用 ) 」 切手です。 ( 二種連刷の10枚シート )
 絵柄に日本の食べ物が取り上げられていて人気があり、2016年は 「 ざるそばと親子丼 」。
 シート余白には 「そば湯」 「わさび」 「さじ」 「七味」 も描かれている。
 ただし、まさかとり年だから鶏肉の親子丼と言うわけでもないでしょうが。
 因みに、2015年は 「 ラーメンとすき焼き 」、2014年は 「 寿司とてんぷら 」 でした。

 なお補足すると、国際郵便はがき ( 航空便用 ) 料金は、1988年4月1日の料金改正から、地域を問わず世界中どこへでも70円で送ることができようになり、2014年 ( 2015年用年賀対応 ) 以降、海外への年賀状を想定した時期に、『海外在住者へ季節の挨拶を伝えるために、通常葉書 (52円) を航空便扱いの国際郵便葉書として差し出すのに必要な郵便料金 (70円) との差額 (18円) に対応した、グリーティング切手 「 海外グリーティング ( 差額用 ) 」 が発行されるようになった。

( 付記 ) 「 スウェン・ヘディンまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー 」 は最終落札価格は、11 bids US $510.00 となりました。

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昨年 2016 (平成28) 年11月1日に発行された、2017年用年賀対応の
「 海外グリーティング( 差額用 ) 」 切手の 「 ざるそばと親子丼 」。
シート余白には 「そば湯」 「わさび」 「さじ」 「七味」 が描かれている。

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2015 (平成27) 年発行の 「 ラーメンとすき焼き 」。
シート余白に、ラーメンには 「コショウ」、すき焼きには 「玉子」 が描かれている。

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2014 (平成26) 年発行の 「 寿司とてんぷら 」。
シート余白にはエビのにぎり寿司と、エビの天ぷら。



 1月16日(月)
 いまヤフオクに図のような沖縄垣花郵便局の貯金通帳が出品されています。
 まあ、いろんなものが出てきます。
 通帳には出納の日にちが順次記録されているが、最終の消印日付が昭和19年8月5日になっている。
 垣花局の郵便局為替貯金記号は 「 もはい 」 。

 併せて、先日出品されていた同時期の沖縄関係のものを借用しておきます。
 昭和19年4月の沖縄国頭に宛てられた八王子 ( 19.4.17 ) からの速達便。
 もう翌年には終戦を迎える戦争末期の、と言うよりも翌年の沖縄戦の悲劇を控えた時期のもの。
 翌、昭和20年6月には米軍が沖縄に上陸し、国内唯一の戦場になった沖縄戦では多くの民間人が巻き込まれ多数の戦死者を出す悲劇に見舞われている。そんな前夜のものです。
 沖縄戦での両軍及び民間人を合わせた戦没者は20万人とされ、日本側の死者・行方不明者は18万8千人、そのうち民間人の犠牲者は半数の9万4千人に上った。

 なお、14日に紹介した今日午後1時半締め切りの 「 スウェン・ヘディンまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー 」 はあと6時間を残して 9 bids US $404.00 まで値を上げている。

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沖縄垣花郵便局の貯金通帳。最終の出納日の消印日付が昭和19年8月5日になっている。

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昭和19年4月の沖縄国頭に宛てられた八王子 ( 19.4.17 ) からの速達便。



 1月15日(日)
 映画 「 アイヒマンを追え 」。 「 ナチスがもっとも畏れた男 」 と副題されている。
 11日に見てきた映画だが、少し間が空いたのは一気に書かせる興奮がなかったからで、 ラストシーンの肩すかし ( いよいよアイヒマンの裁判シーンが見られるかと思いきや、ようやくそこにたどり着いたところでプツンと終了してしまう ) がそうであったように、怒りや感動とは別の、なにか静謐さが漂う映画です。

 それは、この映画がアイヒマン逮捕、ホロコーストで多くのユダヤ人を死に追いやったアイヒマンの悪行を暴き、裁判の様子を再現するといった、怒りや公憤を覚える場面を描こうとするものではないからだ。

 映画は、アイヒマンをその一人として、ナチの犯した残虐行為を改めて問い質そうとした良心の人物、のちにナチの残虐行為の細部を広く世界に知らしめることとなったフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判 ( ニュルンベルク裁判において裁かれなかったナチスの過ちに対する責任を問うものとして、ホロコーストに関わった収容所の幹部らをドイツ人自身によって裁いた裁判。1963年12月から65年8月までフランクフルトで行われた ) を起こした、ヘッセン州の検事長だったフリッツ・バウアーを主人公として、その 「 戦い 」 を描いている。

 時は1950年代のドイツ。戦後の経済復興にむけて歩みを進めるこの国にあって、「 戦前のことは戦前のこと 」 としてナチス時代の罪を振り返ることのない国民が多い中にあって、彼の問いかけた問題意識は、映画冒頭に映された生前に撮影されたフリッツ・バウアー本人の言葉に集約されている。

 『 ドイツの誇りは奇跡的な経済復興と、ゲーテやベートーベンを生んだ国であるということだ。
 一方でドイツはヒトラーやアイヒマンやそのお仲間を生んだ国でもある。
 どんな日でも昼と夜があるように、どの民族の歴史にも陽の部分と陰の部分がある。
 わたしは信じる。ドイツの若い世代なら可能なはずだ。
 過去の歴史と真実を知っても克服できる。
 しかし、それは彼らの親世代には難しいことなのだ。 』。

 余談だが、打合せで仲間を迎え入れた事務所の部屋を映したシーンがある。
 そこに置かれたステレオから懐かしい曲が流れている。
 ああ、好きなチャイコフスキーの 「 悲愴 」 だ。
 映画のフリッツ・バウアーが 『 チャイコフスキーの 「 悲愴 」。好きなんだよ 』 と漏らす。
 壁には私の好みのビュッフェの絵も掛けられている。
 不思議な気持ちになったシーンだった。

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パンフレット表紙。

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パンフレットから、映画の各シーン。
「 右のページの左下 」 にある応援に寄せられた手紙の中に紛れて、ナチスの小旗に銃弾を包んだ脅迫の手紙も送られてくる。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月14日(土)
 困ったときの借用画像。
 またも前出のニューヨークの出品者からのものだが、この人、というよりこの業者から出品されている量がすごい。まるで、当時の郵便局からの郵袋を丸ごと失敬してきたよう。
 大半が中国関係のもので、試しに10頁に亘る出品を 「 China 」 で絞ってみると 9頁が中国関係のもので、1頁に25点がリストアップされているから、こうした高級カバーを含む出品数は 9頁で 200点を超える。

 CHINA-RARE-1894-SVEN-HEDIN-1st-Expedition-KASHGAR-SINKIANG-RUSSIA-SWEDEN- R-COVER
 タイトルに、スウェーデンの西域探検家スヴェン・ヘディン ( 1865-1952年。スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家 ) の1894年の第一回目のカシュガル遠征にまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバーであることが記されている。
 新疆のロシア郵便局とは、19世紀末にロシアが現在の中国・新疆 ( 現在の新疆ウイグル自治区 ) に進出して開設していたロシアの郵便制度による郵便局。
 このカバーにも見られるように、ロシアの切手が使用され ( 帝政ロシアの20コペイカ )、「 НОВ.МАРГЕЛАНЪФЕР. ОБ」 の1894年1月27日のロシアの消印が使用されている。

 消印の 「 НОВ.МАРГЕЛАНЪФЕРГ.ОБ 」 は、「 フェルガナ州・新マルギラン 」。 1875年、ロシア帝国が占領し、1876年、ロシアはこの地に軍事要塞を建設、マルギランの北に位置していたことから 「 新マルギラン 」 ( Новый Маргелан= ノーヴィ・マルギラン ) と名づけた ( 1876-1907 )。
 その後、スコベレフと改名 ( 1907-1924 )、更にロシア革命でボルシェビキ軍がこの地を占領すると、1924年にフェルガナの名前になった。

 中国切手研究会の会長を務めた中島八十一氏に 「 新疆郵便史 」 という金字塔があり、1910年の大清郵政による郵便制度が導入される以前の前史としてのロシア郵便局の進出についても、あるいは触れられているかも知れない。
 ロシア~大清郵政の塔城 ( タルバガタイ ) ~迪化 ( ウルムチ ) ~ 蘭州 ( 甘粛省 ) に重なるルートがあったのだろう。

 俄に調べは付かないが、中国切手研究会の会報 「 中国郵便史研究 」 ( 1987年の発足から27年、2014年10月、第162号で刊行を終了 ) のどこかに 「 新疆のロシア郵便局 」 の記述が見つかるかも知れない。

 なお、かつてスウェン・ヘディンゆかりのカバーを所有していたが、これについてはホルダー 「 豊かな日々のつれづれに 」 の 「 15 「 郵趣の楽しみ 」 ( その二 ) ヘディン・カバーについて 」 に書いているので併せてご覧ください。
 また、2014年5月202号の 「 200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 」 に、そのリーフを載せています。

 カバー記載の判読。上半分はフランス語か。
 名宛人の記載はあるが、差出人の名は見えない。ヘディン本人であるのか。
 一番上は 「 書留 」 ( Recommandé )。
 二行目不明。
 三行目の名宛人の名がルードヴィッヒ・ヘディンと読める。ヘディンの身内の名でもあるのか。
 四行目不明。長い綴りはドイツ語のようにも見えてくるが。
 五、六行目に宛先の住所が、ストックホルム、スウェーデンと鳴っている。
 下の三行はロシア語だが、一行目はルードヴィッヒ・ヘディンとは読めない。
 二、三行目はストックホルム、スウェーデンとなっているが。
 右下は 「 書留 」 ( Заказное )。

 そうそう、これは前二者とは違って入札方式。 現在6人が応札しており、US $232.50 まで値をつけている。
 締め切りまであと1日と20時間。 果たして最後は幾らで決着するのでしょうか。

 なお、同人から出品されていたヘディンの遠征支援のために1932年に発行された西北科学考査団記念切手4種の各5枚ストリップを張り付けておきます。



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スウェーデンの西域探検家スウェン・ヘディンの1894年の第一回目のカシュガル遠征にまつわる
新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー。 フェルガナ州・新マルギラン 1894年1月27日。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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裏面のストックホルムの到着印。

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ヘディンの遠征支援のために、1932年に発行された西北科学考査団記念切手4種の各5枚ストリップ。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月11日(水)
 今日もイーベイからの借用で、8日に取り上げた満州国・ハルビンからスイスに宛てたカバーと同じ出品者からの出品。
 「 CHINA-1941 RARE WWII Censor Airmail EurasiaCover-Hami/Alma-Ata/Moscow-Germany 」。
 1941年4月25日の中国・重慶からドイツ・ベルリン宛の航空カバーで、新疆省 ( 現・新疆ウイグル自治区 ) のハミ ( 哈蜜 )、アルマ・アタ ( カザフスタンの都市アルマトイの旧称 )、モスクワ経由。
 裏面に開封後の帯状の封緘紙に第二次世界大戦に係わるドイツの検閲印が押されている。「 geöffnet 」 は検閲による 「 開封 」。
 当時、重慶から、哈蜜-アルマ・アタ-モスクワを結んだユーラシア大陸横断の航空便輸送の飛行ルートが開設されていたようだ。

 これも「 Buy it Now 」の即譲扱いだが、何と前回に輪を掛けてUS $3,000.00 の高額な値段が付けられている。それなりの時代物のカバーだが、いかんせん高すぎる。
 金額が金額だけに、$144.02× 24ヶ月の分割払いも応じるとしている。

 裏面のベルリンの着印の日付は1941年5月22日で、翌6月22日には、バルバロッサ 作戦の発動によりドイツ軍のソ連侵攻が開始されている。
 一方の重慶も、日中戦争で首都の南京が陥落すると南京国民政府 ( 蒋介石政権 ) は、政府を武漢、ついで重慶に移し、重慶にはこの時期臨時首都が置かれていた。

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 1941年4月25日の中国・重慶からドイツ・ベルリン宛の航空カバー。
哈蜜 ~ アルマ・アタ ~ モスクワ経由。

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(裏面)1941年5月22日のベルリンの着印。
開封後の帯状の封緘紙に第二次世界大戦に係わるドイツの検閲印
 1月10日(火)
 昨日からの続きで、1930年 (昭和5年) に発行された記念切手のもう一方の、第2回国勢調査記念の切手二種。

 地図の部分がエンボス加工されたように盛り上がって見えるが、凹版による印刷インキの盛り上がりで、鮮明な日本地図 ( 当時は日本領土の最大版図 ) の表現と印刷が見事な戦前の切手の中の名品です。
 図はその時の絵はがきにこの切手を貼ったFDCで、円グラフに日本本土の四島と千島他の外地 ( 朝鮮、台湾、南樺太 ) の面積割合が円グラフで示されている。
 その順を改めて見てみると、本州-朝鮮-北海道-九州-南樺太-台湾-四国-千島でこの順番を正確に言い当てるのは意外に難しいのではないか。
 因みに、本州の面積23万 km2と朝鮮半島の面積22万km2はほぼ拮抗しており、台湾と南樺太はどちらも約36万km2でほぼ等しい。
 なお図では肩を並べているが、未解決の北方領土・南千島4島(5千km2)を含む千島全体の面積は1万km2強で、四国の面積1.8万km2には及ばない。
 また、仮に樺太全体では76.4万 km2で、78万 km2の北海道とこれまた拮抗する。  

 南樺太、千島、朝鮮、台湾、南洋群島にまで及んだ日本領土の最大版図については、2009年1月第138号 「 旧制中学入試問題集から 」 で詳しく触れていますので併せてご覧ください。

 1930年 (昭和5年) 10月1日を期して一斉に行われたこの第2回国勢調査調査で、日本の本土人口は約6,500万人。
 またこの時の外地・租借地・委任統治領での各種センサスによる人口は、台湾が約460万人 ( 中華民族、原住民族を含む。台湾の現在人口は約2,400万人 )、樺太約30万人、朝鮮約2,100万人 ( 大半の朝鮮民族を含む、現在人口、韓国約5,100万人と北朝鮮に約2,500万人 )、南洋群島に約7万人。
 このほか、関東州 ( 旅順、大連および遼東半島租借地 ) に約96万人、南満州鉄道沿いの満鉄附属地 ( 日露戦争講和のポーツマス条約の規定によりロシア帝国が経営する東清鉄道の南満州支線を継承したときに、鉄道附属地制度もそのまま継承した ) に約37万人を数えている。

 1930年9月25日発行の第2回国勢調査記念切手は、1920 (大正9年) 9月の第1回国勢調査記念切手に次ぐ第二弾である。
 国勢調査は以来5年ごとに、西暦で下一桁が0の年の 「 大規模調査 」 と5の年の 「 簡易調査 」 が交互に実施され、昨年・平成27年 (2015年) の国勢調査で第20回目を数えたが、今回の調査で日本の総人口は1,271万人となり、これまで一貫として増え続けてきた人口が初めて減少に転じた。
 戦争で多くの犠牲者 ( 軍人230万人、民間人80万人 ) を出したにもかかわらず、第5回の昭和15年の731万人が、第6回の昭和22年で781万人と増えているのは外数であった外地からの引揚者がが一気に加わったためであるが、数百万人単位での出入り勘定は凄まじい。

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1930年(昭和5年)発行の第2回国勢調査記念の切手二種。 ( 150% )
( 画像をクリックすると拡大します )

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第2回国勢調査記念の1銭5厘切手を貼ったFDC。 ( 115% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月9日(月)
 7日の土曜日、テレビ東京の番組 「 美の巨人たち 」 で明治神宮が取り上げられた。
  「 美の巨人たち 」 は民放番組なのだが、そのタイトルからNHKの 「 美の壺 」 となんとなく混同していた。
 それはともかく、明治神宮は初詣で日本一の参拝者を集めることでも知られており、毎年大晦日から正月三が日の間に300万人前後が参拝する。

 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を御祭神として、1920年 (大正9年) に新たに造営された神社で、まもなく鎮座100年を迎える。
 鎮座とは社殿が造成されたのち神霊をここに鎮めることで、鎮座祭はこの年11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王 ( のちの昭和天皇 ) が行啓した。

 第二次大戦中の空襲で本殿の他かなりの部分が焼失しており、現在の本殿などはその後に再建されたものであることを今回初めて知った。
また、明治神宮が内苑と外苑の部分に区分され、馴染みのイチョウ並木の正面にある絵画館 ( 聖徳記念絵画館。1926年 (大正15年) 10月に竣功し、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している ) や神宮外苑球場のある神宮外苑の意味をこれまた今回初めて知った。

 明治天皇 (1852- 1912年) と昭憲皇太后 (1849- 1914年) の崩御に、その造営が建議され、境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備された。今日まったく天然自然のものと思われる明治神宮の森もこの時に全国からの献木による植樹で人工的に造成されたものである。
 代々木御料地のこの場所は、元々は樹木のない荒地であったところに、神社設営のために人工的に森林を造成したもので、東大林学の本多静六博士の設計の下、日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。

 この森林造成は植生遷移 ( サクセッション ) を踏まえ、植えられた多様な樹種を多層に植栽することで、およそ100年後には広葉樹を中心としたこの地域における自然植生の極相林 ( クライマックス ) の達成を想定して、1915年 (大正4年) の建造物の着工とともに開始され、それが今日の神宮の森として見事に実現している。

 また明治神宮境内の南側部分には江戸時代の大名下屋敷の庭園に由来する明治神宮御苑 ( 通称、神宮御苑 ) があって、宮内省所轄の御料地となったあとは代々木御苑と呼ばれ、明治天皇と昭憲皇太后にゆかりの場所として整備され今日に至っている。

 ところで、明治神宮と聞けば、郵趣の立場からは戦前の記念切手、1930年11月1日発行の 「 明治神宮鎮座10年記念 」 の切手を思い出す。
 切手は同図案で、緑の1銭5厘と朱の3銭の二枚セットで発行されたが、FDCは3銭の方だけで、特別記念印 ( 日付は11月3日 ) が押されている。
 戦前の記念切手の発行は、今日の粗製濫造・濫発の時代と比べれば驚くほど僅かで、この年の発行は9月25日の第二回国勢調査記念とこの切手の二回だけであった。

 なお、第二回国勢調査記念の切手については、明日取り上げることにします。

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1930年11月1日発行の 「 明治神宮鎮座10年記念 」 の切手2種。 ( 150% )
( 画像をクリックすると拡大します )

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同切手のFDC。切手は3銭の方だけで、特別記念印の日付も11月3日のサードデイ・カバーですが。 ( 105% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月8日(日)
   今日はイーベイの出品からの借用でショート・ショート。
 アメリカ・ニューヨークからの出品ですが、Buy It Now ( 即譲 ) で、まさかのUS $1,500.00 では、先ず売れることはないと思いますが。
 特別価値のある切手でもなし、有名人のものでもなし、特別意義のあるカバーとも思われず、どこに着目した価格設定であるのか、どう見ても値付けの根拠が見い出せない。

 左肩の差出人の住所の記載にある 「 駐華依那非里達 」 に首を捻った。
 「 駐華 」 からどこかの国の領事館か駐在事務所かと思ったが、「 イナフェイリダ 」 の発音に該当する国は見当たらない。

 スイスのヴォーレン宛て。ヴォーレンはスイス北部、チューリッヒの西20kmにあって、ドイツ語圏。
 封筒上部に 「 I. NEUFERT 」。「 輸入-輸出 」 とあるのは貿易会社か。

 ドイツ語圏だから 「 NEUFERT 」 はドイツ語読みで 「 ノイフェルト 」。
 答は封筒の中にあった。
 そこで、「 依那非里達 」 が 「 I. NEUFERT 」 に対応していることに気づく。
 謎が解けた。「 I. NEUFELD 」 は欧米の人名、または会社名で、その音訳の漢字表記が 「 依・那非里達 」 という訳だ。

 残念ながら、ハルビンの消印が不鮮明だが、切手に掛かった右側の消印に目を凝らすと 「 濱江 (哈爾濱) 」 の1932年10月30日となんとか読み取れる。
 因みに出品タイトイルは、「 CHINA-1932-Harbin-Pinkiang-MANCHUKUO-Switzerland via Dairen-R Cover-Emperor Puyi 」 ( 中国 1932年ハルビン-濱江-満州国-スイス、大連経由書留カバー、皇帝溥儀 ) となっている。
 皇帝溥儀とあるのは、貼られた5角 (=50分) の溥儀の肖像の描かれた切手を指している。

 裏面のヴォーレンの到着印の日付は 1932年11月29日となっており、送達に約一ヶ月を要している。
  「 An dis Firma 」 は 「 会社内 」。
 大連を経由しているところを見ると、当時一般的であったシベリア鉄道によらず、スエズ運河経由の船便であったか。

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1932年の満州国ハルビンから大連経由スイス宛ての書留カバー。
第一次普通切手、皇帝溥儀の肖像50分切手貼り。
( 画像をクリックするとそれぞれ二段階で拡大します )

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左肩の差出人の住所記載部分にある「駐華依那非里達」。



 1月7日(土)
 惜しまれながら昨年末の12月5日で廃線になった留萌線、留萌−増毛間の終着駅のあった増毛 ( ましけ ) です。
 鮮明な消印で、日付は明治27年9月10日。
 2015年6月第215号にこれを含めた 「 北海道消印・アイヌ語由来の地名 」 がありますので併せてご覧ください。

 留萌線は1910年 (明治43年) に深川駅 - 留萠駅間 (50 km) が開業し、1921年 (大正10年) にこの留萠駅 - 増毛駅間 (16.7 km) が延伸開業している。
 よって、この切手の消印の使われた時期には、増毛にはまだ鉄道が通じていなかったことになる。

  かつて国鉄時代には留萌からさらに羽幌線 ( 留萠駅 - 羽幌駅間と羽幌駅 - 幌延駅間に分けられ、この2つの区間がそれぞれ留萠駅 (昭和2年着工) と幌延駅 (昭和10年着工) を起点として、南北から建設が進められ、1958年 (昭和33年) に最後の区間である初山別駅 - 遠別駅間が延伸開業して留萠駅 - 幌延駅間が全通 ) が分岐して日本海に沿って北上し、幌延駅で宗谷本線に接続していたが、国鉄分割民営化直前の1987年 (昭和62年) 3月30日に廃止となった。

 留萌−増毛間は1日に上り7本、下り6本の運行であったが、どういう計算か 「 同区間の1キロ当たりの1日平均利用者数は2014年度にはわずか39人 」 とされているが、ということは掛ける16.7 kmで一日の利用者は651人になるか。いくらなんでも一日の利用者がまさか39人である訳もなく、廃線のために見せる目くらましの数字であったか。

 その留萌本線ですら、JR北海道は昨年11月30日、経営効率優先 ( 民営化はその口実を与えた ) から維持困難との意向を表明した追加10路線13区間に加えている。
 こんなことをしていたら、路線網はずたずたになってしまう。

 民営化さえすればの大合唱のもとで、諸々の意図を含みながら行われた旧国鉄の分割民営化であったが、公共交通機関の役割をかなぐり捨てて不採算路線の廃止に走るであろう事は当初から予見されたことであった。
 地方路線切り捨ての一方で、関係者寄って集ってのパフォーマンスで景気よく北海道新幹線を引っ張ってきたが、その赤字構造は札幌まで延伸したとて新たな荷物を背負い込む事になるだろうと、これまた予見している。

 増毛は早くからニシン場として栄え、1897年 (明治30年) に新たに発足した19支庁の一つとして 「 増毛支庁 」 ( のちに留萌支庁 ) が設置されている。
 増毛のアイヌ語、マシケには多説あるが、一説に 「 マシケ・イ 」 で 「 カモメが多いところ 」。

 このことについては、2005年8月第97号 「 北海道行政区画の変遷 ( 「 函館区 」 の時代について ) 」 を参照されたい。
 消印に見るとおり、明治27年にはまだ天塩国で、97号では 『 1869年 (明治2年)、明治政府は地域の呼称を蝦夷地から北海道に改めるとともに、開拓使を設置し、11国 ( 渡島、胆振、日高、後志、石狩、天塩、北見、十勝、釧路、根室、千島 ) とその下の郡に区分した。 』
 また、 『 1897年 (明治30年) に19支庁を設置し、その後の統合を経て明治43年までに現在の14支庁になった。 』 と書いている。

 増毛は、2010年5月のエビ祭りの折に訪れて日本最北の國稀 ( くにまれ ) 酒造も訪れ、また昨年10月の豊富温泉の帰りにも訪れて廃線間近の増毛駅にも寄ってきた。
 どちらも観光バスで鉄道の利用ではなかったが、今回の増毛線の廃止は寂しいことであった。

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U小判5銭に丸一印、天塩・増毛、明治27年9月10日。



 1月6日(金)
 知識は連鎖だ。
 そして、本にも連鎖性がある。
 ある本を読んでいて、関連するいろいろな記述について、その源泉になった本の存在をを知る。
 あちこち読み散らかしていると、それがどこに書いてあったのか分からなくなることがあるが、ともかく、本を通じてまた別の本を知ると言った具合です。

 それから インターネット百科事典 「 ウイキペデイア(Wikipedia) 」 の存在。
 昨年6月の盛岡での大会で、このことに触れて。次のように話しました。
 ( 「2(3)全国郵趣大会2016in盛岡」 の 「2 郵趣家の日常」、「(4)インターネットのこと」 の 「①ウイキペデイア」参照 )
 『 知識の源泉としてウイキペデイアの存在は、本当に便利で貴重。
 お抱えの図書館であり、いわば居ながらにして世界中の図書館と繋がっている。
 知識は核分裂と同じ。知識は連鎖反応。
 ウイキペデイアには、文字色が青になったものと赤になったものがあり、青はクリックするとその項目へ飛ぶ。またその項目の中に知りたい、調べたい項目が青字になっていれば、またそこからその項目へ飛んでゆく。( ただし赤は、現在掲載取組中の項目 )
 知識の連鎖は果てしない。 』

   そんな 「 本の連鎖性 」 の中から巡り会った本。
 「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 ( 横田健一郎、産経新聞社 )。
 本書は、数ある唱歌・童謡の中から時代を代表する作詩者、作曲者によるすぐれた歌の誕生の背景を紹介するとともに、心ない文科省行政のゆとり教育やご都合主義に翻弄されて、日本人に長年歌い継がれてきたかけがえのない日本の文化の一つである大切な唱歌や童謡が軽んじられて教科書からどんどん消えている実態を訴え、また替わって採用された歌の問題を指摘し、警鐘を鳴らしている。

 『 唱歌・童謡を放逐して、二十一世紀にふさわしい愛唱歌が登場するのなら許せようが、どの教科書も乱れた日本語、意味不明な単語の羅列にすぎない曲や外国曲が随分目に付く。 』
 歌詞に使われている日本語の乱れについて、『 低学年でも、遊びの時間と明確に区切った授業が必要だ。にもかかわらず教科書は依然、遊戯感覚。これは子どもへの迎合だろう。 』
 そう、「 遊びの時間と明確に区切った授業 」。子どもながらに授業に臨むときの当時の厳粛な気持ちを思い出す。

 腰の定まらない文科省行政の対応について語られた部分からは目を背けたくなるが、「 あとがき 」 には、「 詩情を損なう歌詞の勝手な改定 」 に係わる金田一春彦氏のこんなエピソードも紹介されている。
 「 春の小川 」 の歌詞の 「 さらさら流る 」 が 「 行くよ 」 などと改定されたことに触れて、
 『 私はたまたま伊豆の御用邸で、今の天皇、皇后両陛下と同席したことがある。・・・陛下は私に向かって 「 川は流れるものであって、行くものではありませんよね 」 と言われたが、たしかに行くのは水であって川ではない。私は今の天皇陛下がこのように正確な語感を持っていらっしゃることに敬服した 』 と。

 なお、この本の中で紹介された唱歌・童謡のうちの主要な20曲が収められたCDも発売されている。 ( ポニーキャニオン )
 我々の時代の者は、ここに挙げられた歌は一つとして歌えないものはない。ところが、こうしたありさまでは、今の子どもたちが幾つ歌えるのかとなると、はなはだ心許ない。

 愚かな文部行政が、グローバル化への対応などという浅はかな口実で、小学校からの英語教育をはじめたが、英語はその話す手段より、話す中身が大切。
 その中身はまず日本語の読解力を通じて論理的思考力や情緒力や教養力を高めることだとある人が言っているが、その通りだと思う。
 大事な時期に、限られた授業時間を生半可な英語を教えるのに割かれれば、それだけ大事な日本語が疎かになる。

 最後に関連の本を挙げておきます。
・ 日本唱歌集 ( 岩波文庫、堀内敬三・井上武士編、緑92-1 )
・ 日本童謡集 ( 岩波文庫、与田準一編、緑93-1 )
・ 子どもの替え歌傑作歌 ( 鳥越信、平凡社、2005年 )

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「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 ( 横田健一郎、産経新聞社 ) の表紙。



 1月5日(木)
 一昨日、いつものシアターキノで韓国の映画 「 弁護人 」 を見てきた。
 暮れにも行こうとしていたところだったが、うかうかしていると見過ごしかねない。
 このところ韓国映画が続く。近年の中国映画は不作、台湾は小休止。

 時は全斗煥の軍事政権時代。
 クーデター政権が当初の統治基盤を確保するために、各地で民主勢力の弾圧を行う中で ( 光州事件も起きた )、国家・警察・検察の結託によって引き起こされた、国家保安法違反を口実にした捏造事件。
 先の「戦場のメロディー」のイム・シワンがここでも重要な役柄 ( 学生連盟の弾圧事件で不法逮捕、監禁、拷問を受けて無実の罪を着せられた、クッパ屋=大衆食堂の孝行息子の大学生 ) を演じている。
  「 戦場のメロディー 」 には涙したが、「 弁護人 」 は怒りに震える映画だ。

 主人公の弁護士は、連れ去られた息子をよやく探し当てたものの国家権力を前に途方に暮れるクッパ屋の女主人を見かねて弁護を引受け、財務・会計弁護士として成功していた立場から、一転、政治・社会問題に係わる道を選ぶ。

 主人公は後に大統領になる盧武鉉氏 ( 退任後、自殺している ) で、基本的な部分は実話に基づく話だが、演じる名優ソン・ガンホのタイプが盧武鉉氏とはだいぶ違うように、そこは映画の世界だ。
 高卒の身で働きながら司法試験に合格 ( その前に資格試験で受験資格を取得 ) し、裁判官になったが弁護士に転職した主人公 ( 盧武鉉その人 ) が、建設現場で働いていた時代にクッパ屋の女主人に世話になった縁があったという設定。

 それにしても、今回の醜聞の挙げ句に辞任したパク・クネ、アメリカでは面白半分がトランプを大統領に押上げ、また数を頼みに 「 最高責任者は私だ 」 と憲法までねじ曲げるどこかの国の独裁者もいて、国家の指導者が愚か者で覆われる世界になった ( 北朝鮮のキム・ジョンウン、シリアのアサドなどは論を待たない )。
 それでも、韓国では大統領を辞任に追い込み、アメリカでは大統領選直後のトランプ拒否の反対運動もあったが。
 国民の多数決で決まるはずの民主主義が、「 小選挙区比例代表制 」 という選挙制度のカラクリ ( 今回の米大統領選挙も、得票数ではクリントンがトランプを上回っていた ) で、少数の得票で多数の議席をかすめ取った連中が、数を頼みに民意を無視して勝手放題をやっている。
 一方にはこれを支える者がいて、因果の仕組みが見抜けず、たわいもない選挙での口車に乗って、懲りもせず相も変わらずの投票行動を繰り返して自分の首を締めている。これは彼等の思うツボ、カラクリを見抜こうとしない 「 愚民 」 こそ彼等にとってまたとない有り難い見方。民主主義と衆愚政治は紙一重。

 増大する防衛費、年金の三割カット。公安調査庁職員の増員計画も企らまれているという ( 現役の時代に中国の関係で公安の聞き取り調査を受けてたが、仕事柄とはいえ特高まがいのねじ曲がった先入観で凝り固まった鼻持ちならない連中であった )。
 自分たちが掲げた 「 株価維持 」 の政策目標 ( そんなものが政策目標といえるのか。また数字は結果であって作るものではない ) を達成するために、年金資金をリスクの大きな株式への運用が図れるようにまでするという、数を頼みにしたやりたい放題。
 将来三割下がることが見込まれるという年金カット法案の 「 三割減 」 の数字が、意外なことにマスコミで取り上げられないのが不思議だ。
 きっと圧力がかかっているに違ない。
 いつのまにか頼みのマスコミもすっかり牙を抜かれ、爪を剥ぎ取られたようだ。
 骨のあるキャスターの姿も次々と消えている。

 将来の年金会計維持のためとすり替えているが、そもそも放蕩三昧で財政危機を招いてきた者の吐く言葉は軽い。
 今でさえ基礎年金だけでの暮らしは厳しいというのに、それを充実するどころか 「 三割減 」 では年金会計が維持されても、これでは若者の将来に夢も希望も持てない。
 その一方で生活保護世帯が増え続けているのは無能な政治の反映でもあるが、どこかおかしい。

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「 弁護人 」 のパンフレットから。
( 画像をクリックするとそれぞれ二段階で拡大します )



 1月4日(水)
 イーベイに出品されていたニセカバー。
 出品はイギリスのSHROPSHIREから。
 シュロップシャーの名は珍しい。
 シュロップシャーはリバプールの南、バーミンガムの西にあるイングランドの町。サロップとも呼ばれる。州庁所在地はシュルーズベリー。すぐ西にウェールズと接する。
 大麦、小麦といった穀物や、テンサイ、ジャガイモの生産がおこなわれている。ブルーチーズの一種シュロップシャー・ブルーの産地でもある。

 それはともかく、このカバー。タイトルは 「 JAPAN 1945 COVER TO UK HMNZS GAMBIA AT TOKYO 」( 1945年、東京の巡洋艦ガンビアからイギリスに宛てたカバー ) となっているが、おかしい。
 こんな露骨なニセカバーが堂々と出品されるとは。というよりも、こんなお粗末なものを作るとは。
 真ん中の東郷7銭に消印がなく、左右の切手の消印が封筒にタイしていない。
 おまけに 巡洋艦ガンビアから発信のカバーに 「 見積書在中 」 とは。
 即却下だが、それでも少しは辻褄が合っている。
 右の切手で東京の欧文印、1945年9月と読め、左の切手でそれが9月2日と読める。 この二つの切手の 「 出所 」 は一緒のようだ。
 そして、1945年9月2日といえば、東京湾の米戦艦ミズリー艦上で降伏調印が行われた日だ。

 ところで、巡洋艦ガンビア ( HMNZS:ニュージーランド海軍。HMSはイギリス海軍艦艇の名前につけられる艦船接頭辞で、女王陛下の船(Her Majesty's Ship)の略 ) とはいかなる船か。
 となると、このニュージーランド海軍所属の巡洋艦ガンビアは、終戦直後、日本占領を控えてこのとき結集した多くの連合軍艦船の一隻として東京湾にいたのではないか。

 巡洋艦ガンビアは ( コロニー級巡洋艦のフィジー級巡洋艦 ) は1938年の建造計画の下で、同クラスの7つの巡洋艦の一隻として1つとして誕生し、1936年のロンドン海軍軍縮条約の要件を満たすため8,000トンに制限された。
 1940年11月30日に進水したが、1942年2月までに完工せず、同月に就役した。
 最初の任務、マダガスカル ( フランス・親独ビシー政権下 ) の攻撃を経て、1943年の初めに、東インド諸島 ( 東南アジア方面 ) に配置された。
 一旦、改装のためにイギリスに戻り、対空防御力が強化され、優れたレーダーシステムが配備され、1943年9月22日、HMNZSガンビアはニュージーランド海軍に所属することになる。その後、太平洋各地での任務に当たり、沖縄方面での防空任務では神風の攻撃も受けた。
 やがて終戦。8月20日に横須賀で日本海軍の接収に当たり、英太平洋艦隊の一部の艦船は8月31日に東京湾に停泊し、1945年9月2日には米戦艦ミズーリ艦上で降伏調印が行われたが、ガンビアはこの歴史的な機会にニュージーランド海軍を代表して参加した。
 やはり、場面設定の辻褄は合っていた。
 だがしかし、どう見てもこのカバーはいただけない。

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ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアからの発信を装ったニセカバー
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月3日(火)
 昭和12年元日の熱海の風景印の押された米国カリフォルニア州サンタ・ポーラ宛ての ちょうど80年前の年賀状。
 サンタ・ポーラはロサンゼルスの北西80Km、農業の盛んなオックスナード平原の現在人口約3万人の町。
 今日、「 世界のイチゴの首都 」 とあだ名されるようにイチゴの産地として知られ、毎年開催されるカリフォルニア・イチゴ祭は国内最大級。 また、「 世界の柑橘類の首都 」 というあだ名もある。
 主な農作物としては、セロリ、ライマメ、レタス、トマト、ブロッコリー、タマネギ、柑橘類特にレモンがあり、ハクサイなどアメリカ合衆国に移植されたアジア野菜の主要な生産地でもある。
 農業に加えて、この地域にはかなりの石油埋蔵量を抱えており、オックスナード油田とウェストモンタルボ油田の二大油田があるほか、農地には石油掘削施設も散在している。

 おそらく、名宛人は日系移民だろう。
  「 おめでとう 」 は旧仮名遣いなら 「 おめでたう 」 だが、カタカナ書きならこの時代も 「 オメデトー 」 であったか。
 昭和12年用の年賀切手 「 二見ケ浦の夫婦岩 」 に熱海局の風景印。この風景印の使用開始は昭和6年8月1日で、7月10日の開始から間もなく、最初期のものとなっている。
 それは、1931年7月7日の逓信省告示での制度創設の趣旨、「 名勝史跡等に因メル図案ヲ挿入シタル通信日附印 」 にあるとおり、この時は、全国主要局の他に有名観光地で開始されており、その初めは同年7月10日の富士山郵便局 ( 現・富士山頂郵便局 ) と富士山北郵便局であった。
 熱海の風景印の図案がまた、有名な梅林の梅に湯けむりとは、新年にまことに恰好の風景印になっています。

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昭和12年元日の熱海の風景印の押された米国カリフォルニア州サンタ・ポーラ宛ての年賀状。
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 1月2日(月)
 今年も穏やかに明けました。
 さて、今年の北海道銀行のカレンダー。
 北海道銀行のカレンダーはこのところ道内出身画家の絵を題材にしており、今年は、安田祐三氏の 「 札幌中島公園~豊平館~ 」。

 豊平館 ( ほうへいかん ) は、札幌市中央区中島公園内にある西洋館。
 1880年、今の大通に面する位置に高級西洋ホテルとして開拓使が建造した。
 最初の利用者は明治天皇で、以後要人の宿泊、祝賀会、各種大会に用いられた。
 後に公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後にアメリカ軍に接収された。
 1958年 に中島公園に移設され、以後は 2012年3月 まで市営の結婚式場として利用されていた。国の重要文化財に指定されている。

 作者、安田祐三のプロフィールを見ると、
 1951年 北海道平取町生まれ 
 1974年 パリ国立美術院 ( ENSBA ) に学ぶ ( ~76年 )、78年山形大学卒業
 国内外の公募展で多数の受賞歴を持つ。
 道都大学美術学部デザイン学科教授      

 この人の持ち味は先ず写実性で、西洋絵画によく見るガラスの透明感、甲冑などの金属やビロードの質感に驚嘆したものだが、この人の絵もその写実性に特徴を持つが、静物画と違って、視野の広い対象を写実で捉えることの大変さと再現力にまず驚く。
 この絵でも、草や木の葉、水面のリアルな描写は写真ではないのかと目を疑うばかりだ。

 安田祐三ホームページ http://www5f.biglobe.ne.jp/~yyasuda/ のGallery で作品のいくつかを見ることができる。

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今年の北海道銀行のカレンダー。
安田祐三氏の 「 札幌中島公園~豊平館~ 」。



 1月1日(木)
 新年明けましておめでとうございます。

 年賀状で今年初のブログを飾ります。
 年賀状は新春に相応しい漢詩を選び、これにオリジナルの訳詞を添えるというこのスタイルに落ち着いて以来、かれこれ25年これを踏襲してきました。

 このことに関連して、コレクションリーフ (1) に下記の二篇を収めています。
 遙か昔のことで今更、面はゆい思いではありますが。
 43 「 漢詩を添えた年賀状 」 ( 2003年。「 豊かな日々のつれづれに 」 所収 )。
 42 「 心に染みる年賀状 」 ( 同、1990年3月 )。

◆ 1月の原稿もアップしておきます。
 「 世界の高層建築物の歴史 」。
 なお、参考にした 「 高層建築物の世界史 」( 大澤昭彦。講談社現代新書 ) は、読み物としても、そして何より資料として素晴らしい。

 文中にも記したが、著者は高層建築物の中心地の歴史上の移り変わりを冒頭の 「 はじめに 」 でこう書いています。
 『 古代においては巨大な宗教的建造物を建設したメソポタミア文明や、ピラミッドを作ったエジ゙プト文明の位置する中東地域が中心であった。
 中世にはいるとキリスト教のゴシック大聖堂のあるヨーロッパへ移っていく。
 19世紀末には大西洋を越えて、摩天楼が林立する北アメリカへと渡る。
 そして、20世紀末以降、アジアや中東へと移ることになった。
 つまり、高い建築が立地する中心地は、中東にはじまり、約5000年を経て地球を一周して、再び中東へ戻ってきたことになる。 』
  改めて、なるほどと思われます。

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今年の年賀状

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2017年用年賀切手。


 12月31日(土)
 12月はもう締めたつもりでいましたが、大晦日にまでこんなことをしているのは後生楽ですが。
 いつものアマゾンで注文した本が届いた。
 柳瀬尚紀の 「 日本語は天才である 」 ( 2007年、新潮社 )。

 遡って、8月8日の本欄で根室出身の翻訳家・柳瀬尚紀氏の訃報に絡めて、この人の翻訳したジョイスの 「 フィネガンズ・ウェイク 」 について触れました。
 余りに難解で面白さを感じるまでに至らず、途中で放り出して、印象に残る本にはなりませんでしたが。
 そして日本語への興味関心の方面から、この人の本に再び巡り会った。
 「 日本語は天才である 」。題名は余りパットしませんが、今度は期待通りで面白く読み進めています。
 「 60カ国語以上を使って書かれ、翻訳不可能 」 といわれたフィネガンズ・ウェイクを翻訳した人だけあって、日本語のみならずこの方面からの話も随所に顔を覗かせる。

 例えば翻訳の苦労話の 「 タマネギの二つの穴を翻訳すると 」。
 ある詩の一行という元の英文での二つの穴の意味は、「 onion 」 にある二つの 「o」 のことを指しているのだが、これを 「 たまねぎ 」 の 「ま」 と 「ね」 にある二つの 「o」 に気づいて、「ま」 と 「ね」 にこれを強調した活字を用いることで解決したという話など。  普通は脚注で説明するところだが。
 そのとき、フランス語にもギリシャ語の綴りにも二つの 「o」 が含まれて英語と同じ趣旨で説明が付くが、イタリア語、スペイン語の 「 タマネギ 」 のスペルには 「o」 の穴は一つで、ドイツ語、ロシア語の単語には 「穴」 は一つもないので、これらの言葉では訳に窮するだろうとの話。

 それは余談として、取り敢えず面白かったのが 「七」 に関する話。
 この人の将棋好きから端を発して、「 ナナカンオウ 」 ( 七冠王 ) へのクレームから始まる。これは 「 シチカンオウ 」 だ。( 確かに、今 「 七冠王 」 を打ち出すのに、我がパソコンでは 「 ナナカンオウ 」 では出てこない )
 七段も 「 シチダン 」 だ。
 第七章 ( ダイシチショウ ) もついつい 「 ダイナナショウ 」 に慣れてしまっている。
 次に和語・和訓が来る場合は 「ナナ」 となり、漢語・字音が来る場合には 「シチ」 と読む。
 また、日を 「カ」 と読む和訓 ( 「カ」は和訓であったか ) ならば、七日は 「 ナノカ 」 で 「 ナナニチ 」 ( 「ニチ」 は字音 ) とは読まないなど、原則に改めて気づかされる。

 ナナと読む事例は七色、七草、七癖、七光り、七不思議、七重八重など数えるほどであるのに対し、著者が 「シチ」 の事例で挙げた言葉は、300を数える。   これをテストと見れば、私自身この中にいくつか 「ナナ」 と読んでしまいそうな言葉があるのに気づく。

 なお、こうした 「シチ」 と 「ナナ」 の混乱の元を辿れば、「 七十年安保 」 の 「 ナナジュウネンアンポ 」 ( 本来は 「 シチジュウネンアンポ 」 ) 辺りにあるのではないかと著者は言う。
 この本の楽しみは、まだまだこれからです。

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柳瀬尚紀の 「 日本語は天才である 」 ( 2007年、新潮社 ) 表紙。



 12月29日(木)
 ハルビンのデパートで有名な秋林公司本社からドイツに宛てられた満州国時代のカバー。(図1)
 秋林株式有限会社、新市街。シベリア鉄道経由。
 消印は、「 HARBIN 17. 4. 36 MANCHUKUO 」。1936年( 昭和11年 )。
 切手は、満州国第4次普通切手の荷馬車図の20分。
 宛先は、ケルン市ホルヴァイデ地区のロートケップヒェン通り。
 Herrnはドイツ語由来の敬称 「 ~様 」。

 秋林公司は、井村哲郎氏 ( 新潟大学大学院現代社会文化研究科 ) の 「 哈爾浜・秋林公司小史 」 によれば、
 『 チューリン商会 ( 音訳で中国名 「 秋林 」 )は1867年に極東ロシアのイルクーツクで創業されたが、ロシア革命を逃れて1918年 哈爾浜に本社を移した。
 中国名は 「 秋林公司 」 あるいは 「 秋林洋行 」。
 創業時から1931年の満洲事変までは主に哈爾浜在住のロシア人、白系ロシア人、外国人を客として、高級商品、食料品を販売するデパートを中心に、いくつもの工場を経営する全満洲屈指の企業となった。
 その後 「 満洲国 」 時期には、満洲国法人となって生き延び、さらに1945年8月のソ連軍の東北侵攻以降はソ連のエージェントとなり、ソ連軍撤退以降もソ連系資本のデパートを中心とする企業体として存在し、新中国成立以降、1953年中国側に売却されて、現在に至っている。 』

 さらに、
 『 その後、1949年中華人民共和国成立以降の国民経済回復時期には、ソ連経営の秋林公司は次第に経営規模を縮小して、1953年に中国側に有償で売り渡され、国営デパートとなった。秋林公司は大躍進時期と文化大革命時期には大きな打撃を受けた。
 1958年の大躍進時期には、それまで比較的中高級商品を取り扱っていた秋林公司には蔬菜部が設置され、経営・品質管理も十分には行われなくなり、それまでの秋林の最大の特徴を失った。
 また1960年代後半からの文化大革命下では企業経営も混乱した。
 1966年には東方紅百貨商店と改称され、その後1972年には松花江百貨商店と改称された。
 文革終焉後、1978年にはもともと2階建てのバロック風建築であった建物は4階建てにかさ上げされ、建築のべ面積は1.6倍、営業面積は約2倍となった。
 1982年には、松花江百貨大楼と改称され、秋林公司がもと持っていた経営上の特色を回復し、1984年秋林公司の名称に復した。 』 と詳細に記されている。
 借用画像で今日の秋林百貨店を載せておきます。
 ( 図2。ホームページ 「 中国耽美紀行 」 の 「 旧・チューリン百貨店 」 から)

 ついでの話ながら、中央大街 ( キタイスカヤ通り ) にある現在の教育書店 ( 1909年竣工の旧松浦洋行。のちにロシア僑民会を経て戦後は外文書店を経て教育書店 ) を概観からこの秋林公司と勘違いしていた。
 同じ中央大街の筋向かいにある旧 「 ホテル・モデルン 」 と並んで、中央大街のシンボル的なこのロシア風の建物が、ロシア系の会社によらず、日本の会社によって建てられというのは意外だった。1909年といえば明治42年、日露戦争の4年後のことだ。

 とはいえ、このドーム型の丸屋根はここに限ったわけでなく、当時の日本で多く見られた様式であって、これを彷彿とさせる一例に川越の「埼玉りそな銀行川越支店( 旧第八十五銀行本館 ) 」 がある。(図4)

 なお、旧松浦洋行、その後の教育書店には、1986年にハルビンを訪れたときに、中央大街を通って松花江へ抜ける途中で立ち寄っており、そのあとの市内見物で、今回主題の秋林公司も訪れている。
 借用画像、旧松浦洋行。 ( 図3。ホームページ 「 中国耽美紀行 」 の 「 旧・松浦商會 」 から)

 今回画像を借用させてもらった素晴らしいサイト、「 中国耽美紀行 」 をリンクに張り付けておきます。
 http://www.geocities.jp/adiospekin/index.html
 「 旧・チューリン百貨店 」 http://www.geocities.jp/adiospekin/hrbn/rrchr.html
 「 旧・松浦商會 」 http://www.geocities.jp/adiospekin/hrbn/rkmu.html

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図1 ハルビンのデパートで有名な秋林公司からドイツに宛てられた満州国時代のカバー。

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図2 今日の秋林百貨店。 ( ホームページ 「 中国耽美紀行 」 の 「 旧・チューリン百貨店 」 から)

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図3 旧松浦洋行。 ( 「 中国耽美紀行 」 の 「 旧・松浦商會 」 から)

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図4 「埼玉りそな銀行川越支店( 旧第八十五銀行本館 ) 」



 12月28日(水)
 台湾の基隆から東京の麻布に宛てられた台湾の風景を描いた戦前の絵封筒。
 消印は、昭和15年3月28日の基隆。
 豊かな彩色の絵封筒で、手前に原住民族の家と椰子の木、遠くに中央山脈の山々を望む、まさに台湾の風景だ。
 絵は封筒の裏にも掛かっているので繋がるように並べておきます。

 宛先の東京市麻布区本村町は、現在の港区南麻布3丁目。
 今日の南麻布3丁目の最寄り駅は東京メトロ日比谷線の広尾駅。
 近くに有栖川宮記念公園があり、フィンランド大使館をはじめ、ノルウエー、ドイツ、スイス、アルゼンチンなど、大使館の多く集まる地域でもある。

 地図で見ると、前に上京の折に行った麻布十番 ( 東京メトロ大江戸線、南北線 ) に近い。
 次回の上京の折にでも、前から気になっていた有栖川宮記念公園と併せ、南麻布界隈 ~ 麻布十番に出るルートを辿ってみたい。

 なお、東京市は旧東京府東部に1889年から1943年までの間に存在していた市で、東京府の府庁所在地。最終的な市域は現在の東京都区部 ( 東京23区 ) に相当する。
 1943年 (昭和18年) 7月1日 東京都制施行により、東京都麻布区となる。
 1947年 (昭和22年) 3月15日、 芝区、麻布区および赤坂区の区域をもって港区を置き、同時に旧麻布区域の町名に 「 麻布 」 の冠称がつけられた。 ( 麻布台、麻布十番、元麻布、東麻布、西麻布、南麻布・・・ )

 一方の差出人の住所、基隆市天神町は基隆天満宮社のお膝元。台湾には日本統治以降各地に多くの神社が建てられたが、ここは菅原道真を祀る天満宮として大正10年 (1921年) 12月25日に鎮座している。

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台湾の基隆から東京に宛てられた台湾の風景を描いた戦前の絵封筒。 ( 75% )
 消印は、昭和15年3月28日の基隆。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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第二代天満宮社が建立された場所。
昭和9年 (1934年) 9月24日、近くの山腹のこの場所に移転して遷座式が執り行なわれた。



 12月27日(追加)
 北見局の風景印を受けてハッカの話。
 ニホンハッカ ( 和種薄荷、Japanese peppermint ) は、日本在来のシソ科ハッカ属の多年草。
 水蒸気蒸留によって薄荷油を抽出し、さらにこれを冷却して再結晶させハッカ脳と呼ばれる複合結晶 ( 主成分はl-メントール ) を得る。
 食品 ( ハッカ飴、ガム )、生活用品 ( 歯磨き )、タバコ、医薬品用 ( 湿布薬 ) などの香料として広く用いられる。

 日本では換金作物として、安政年間に岡山県や広島県で栽培が始まった。明治初期にかけ主産地が山形県に移ったあと、移住者によって北海道で生産が始まった。

 1890年代には、旭川市で山形出身の石山伝兵衛が、北見国湧別村四線 ( 現・紋別郡湧別町 ) で会津若松にあった薬種商出身の渡部精司が、湧別村学田農場 ( のち遠軽村、現・紋別郡遠軽町 ) で山形出身の小山田利七が、それぞれ本格的なハッカ栽培を手がけた。

 その後、野付牛屯田兵の伊東伝兵衛らが、屯田兵解隊前後の1902年、野付牛村 ( のち野付牛町、現・北見市 ) でハッカ栽培を開始。反収の高さから一般の開拓農家の注目を集め、網走管内一円で爆発的に作付面積が拡大した。

 昭和に入り、それまで取り扱っていた農産物の価格低下に直面した北海道信用購買販売組合聯合会 ( 現・ホクレン農業協同組合連合会 ) が、ハッカの安定的な高値買い付けを求める農家の要望を受け、民間業者に代わって取引に進出した。

 北聯は1932年、遠軽村に 「 北見薄荷工場 」 の建設を計画したが、工場用地寄付に応じる形で野付牛町に予定地を変更。翌年工場が完成した ( これが風景印に描かれた )。  操業5年目の1938年の同工場取卸油は、当時の世界の生産量の7割を占めるまでに至ったが、日中戦争の激化に伴う国の統制強化で、大規模な減反を余儀なくされ、一時生産が途絶えた。

 戦後は、北見市を中心に23市町村の農家が薄荷耕作組合を結成。朝鮮戦争の影響で米国向けの需要が増え、1950年ごろから急速に作付面積が拡大したが、やがてインドやブラジル産の安価なハッカに押されて国内の生産は衰退。
 1960年代以降の合成ハッカ登場、1971年のハッカ輸入自由化でほぼ消滅した。ホクレン北見薄荷工場も1983年のハッカ輸入関税引き下げのあおりを受け、同年閉鎖した。

 北見市には北見薄荷工場の旧事務所が北見ハッカ記念館として保存されている。
                                                    ( 以上、Wikipediaの 「 ニホンハッカ 」 から要約 )

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北見ハッカ記念館



 12月27日(火)
 日本郵趣協会の会報 「 郵趣 」 の新年 1月号が届いた。
 特集記事でこの度発刊されることになった 「 風景印大百科 」 のことが紹介されている。
 その中で説明の例示に北海道が取り上げられていて、函館中央郵便局は昭和7年4月26日の使用開始から9度も図案の改正が行われているとのこと。
 そして、北見局の見覚えのある消印に目が止まった。(図1)
 それは、北見市役所と北見商工会議所が地元の観光宣伝のために、昭和25年7月15日の阿寒国立公園切手の発行に合わせて作成した 「 阿寒国立公園観光切手 」 とタイトルした記念ホルダーにあったものだ。(図2)

 北見は旧名・野付牛 ( のつけうし。アイヌ語のヌプ・ウン・ケシ 「 野の端 」 に由来)と言った。
 ( 隣にあった 「 端野町 」 ( たんの。2006年に (平成18年) に新北見市に合併 ) は同じ 「 ヌプ・ウン・ケシ 」 の意訳である )

 「 戦前の風景スタンプ集 」 で確認すると、北見局の前身、野付牛局の風景印の使用開始は昭和10年12月16日となっている。(図3)
 野付牛町は1942年 (昭和17年) の市制施行で北見市に改称している。
 北見はかつて世界に名を馳せたハッカの大産地で、最盛期の1939年 (昭和14年) には北見のハッカは世界市場の7割を占めた。風景印にはそのハッカ工場も描かれている。

 昭和11年の野付牛の 「 全道産業組合大会記念 」 の特別日付印も載せておきます。  ここには、ハッカの姿が描かれています。(図4)

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(図1) 北見局の風景印。
ホルダー裏表紙の北見市役所と北見商工会議所の表示。

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(図2) 「 阿寒国立公園観光切手 」 記念ホルダーの切手貼付ページ。北見局の風景印が押されている。
( 画像をクリックすると拡大します )

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(図3)  使用開始時の野付牛局の風景印。

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(図4) 野付牛の 「 全道産業組合大会記念 」 の特別日付印。 昭和11年8月15日。



 12月26日(月)
 これも今回市場に戻したもの。
 郵便貯金通帳用の記念シールで、承知している範囲で唯一 「 日本切手百科事典 」 ( 1974年、日本郵趣協会 ) で確認できるが、そこには 「 記念貯金の奨励のため発行したもので、通帳の表紙に貼付した。公式の記録がないので全貌は不明だが確認されているものを記録した。」 と説明されているとおり 「 全貌は不明 」 で、事実以下に掲載するもののうち、年代を入れていないものはこの事典に未掲載のものである。
 ただし、「 報告記念貯金 ( 支那事変 ) 」 だけは、その発端となった盧溝橋事件の年とすれば1937年 (昭和12年) と特定できる。

 たばこのパッケージやマッチのレッテル、印紙、クリスマスシールを初めとする各種の シールなどのいわゆる紙ものコレクションに属するもので、このことについては2014年10月第207号に 「 紙ものコレクション( 印紙類 ) 」 として書いており、その他にも以下のものがあるので参照ください。

 なお、これらを収めたリーフは 「 新作リーフ 」 の 「 9 XI 郵便物封緘紙 ( Postal official Seal and Savings Seal ) に 張り付けています。
 また、35にも 「 収入印紙コレクション 」 を張り付けています。

「 貯金シール 」 については、
 ・ 2003年7月第72号 「 シンデレラを紹介します 」
 ・ 新作リーフ9(2012年4月 )「 XI 郵便物封緘紙 」
「 国家機関等のシール 」 については、
 ・ 2011年10月第171号の 「 在満州国日本領事館のマテリアル 」
 ・ コレクションリーフ18 (2012年5月) 「 スカラップを付けたシール 」
「 クリスマスシール 」 については、
 ・ コレクションリーフ48( 2014年6月 ) 「 クリスマスシールのコレクション 」
 ・ 2014年6月第203号 「 1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本 」
 ・ 2008年12月第137号 「 クリスマスシール( 複十字シール ) 」

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貯金通帳用の記念シールのいろいろ。
( 画像をクリックすると拡大します )



 12月23日(金)
 もっと早く紹介するところでした。
 昨年からの縁でこの10月にも参加した高校の埼玉支部の同窓会で、支部長をされている大先輩の野村路子さんとお会いし、昨年10月の講演会 ( 2015年11月3日の写真日記参照 ) に関連してテレジン収容所に関する作品 ( 今年2月第223号 「 テレジン収容所の小包切手 」 ) とホロコーストについての2009年6月第143号の 「 映画の中に題材あり ( 「 ショアー 」 と 「 ヒットラーの贋札 」 から ) 」 のコピーをお送りしたところ、お返事をいただいた中に、思いがけない話が紹介されていたので、遅ればせながら紹介します。
 2003年 ( 月日不明 ) の東京新聞に寄せた野村さんの文章 「 失われた一枚の絵 」 にまつわる話です。

 要約すると、
 2003年2月1日、宇宙からの帰還で大気圏に再突入する際に空中分解事故を起こしたスペースシャトル・コロンビアにはイスラエル初の宇宙飛行士イラン・ラモン大佐が乗り組んでいた。
 ラモン大佐はコロンビアに乗り込むに当たり、ユダヤ人の自分たちにかかわる最も重要なものを携えたいと、アウシュビッツで殺された少年、ピーター・ギュンツの絵 ( テレジン収容所で描かれ、残されていたもの ) を選んだ。
 それは、「 月の風景 」 と題された絵で、併せて残された詩にはその思いが伝えられている。
 『 ・・・野生動物のように、狭い穴蔵に閉じこめられて、それでも僕は旅をする。ふるさとのプラハへ、山の頂上へ、海の底へ。すべては想像の中でだけど、僕は旅をした・・・ 』。
 収容所の中に設けられていた絵や詩作の 「 教室 」 でピーターの才能は輝いていたという。

 宇宙飛行士に選ばれたラモン大佐はピーターの夢を叶えてやりたいと、彼の絵を持ってスペースシャトルに乗り込んだのだったが、ラモン大佐ともどもこの絵も失われた。
 ラモン大佐の母親もまた、家族や親戚すべてを失って、アウシュビッツで生き残った人だった。

 そのピーターが描いた 「 月の風景 」 の切手が、その後2005年にチェコで発行されている。
 ( チェコスロバキアは1993年にチェコとスロバキアに分離独立 )
 スコットで見ると、小型シートのみの発行だったようです。

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2005年1月にチェコで発行されたピーター・ギュンツの絵 「 月の風景 」 の小型シート。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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東京新聞掲載の野村路子さんの記事、「 失われた一枚の絵 」。




 12月21日(水)
 今年もいよいよ押し詰まってまいりましたが、そんな中で昨日、いつもの狸小路のシアターキノで、韓国映画 「 戦場のメロディ 」 を見てきました。

 狸小路は相変わらず外国人観光客で溢れていますが、といっても殆どが、中国、台湾、香港と覚しき人々。ムスリム女性たちが頭を覆う " ヒジャブ " 姿も目立ったが、あれはインドネシアからの人たちか。

 映画の内容の前に今回も一齣り。
 「 戦場のメロディ 」。相変わらずの安直なタイトルにまた文句が言いたくなる。
 「 戦場のメリークリスマス 」、「 戦場のピアニスト 」。「 戦場の 」 が月並みな上に、ただの 「 メロディ 」 の付け足しでは何の工夫もない。
 公式サイトにもヒントとなるキャッチコピーがあるではないか。 「 戦場に響く子どもたちの歌声、それは夢と勇気と明日への希望 」。
  「 戦場に響く歌声 」。こっちの方が、よほど叙情的に内容を語りかける。何なら約めて 「 戦場の歌声 」 でもよい。 「 戦場のメロディ 」 よりよっぽど増しです。

 3年間に及ぶ朝鮮戦争 ( 1950年6月25日 -1953年7月27日休戦 ) は朝鮮半島全土を戦場と化し、その後の分断国家を運命づけたこの戦争は、200万人の戦死者と、10万人の戦争孤児をもたらした。

 東西冷戦体制の幕開けを告げた朝鮮戦争は、ソ連を後ろ盾に英雄気取りの野望を抱いた北のキム・イルソン ( 金日成 ) と、反共に凝り固まったアメリカの代理人、南のイ・スマン ( 李承晩 ) というそれぞれの度し難い二人によって引き起こされたとも言える。
 おかしな者が指導者となることほど恐ろしいことはない。
 北も酷いが、当時の 「 反共 」 に煽られて、また 「 反共 」 を煽って引き起こされた南での 「 済州島四・三事件 」 や 「 保導連盟事件 」 の罪も計り知れない。

 それはともかく、映画は戦時下の釜山に設置された戦争孤児の収容施設で結成された合唱団の史実 ( 「 海軍児童合唱団 」 ) に基づいている。
 両親を相次いで失った兄妹、そして、歌を通じて子どもたちの傷ついた心を癒すために合唱団の結成・育成に尽力する主人公の少尉 ( 前戦から後方の釜山の部隊に配属となり、併設された孤児院での養育担当を命じられた。大学で音楽を専攻した経歴を持つ ) を中心にさまざまなエピソードを交えて物語が展開するが、とかく、いたいけな子どもたち、いじらしい子どもたち、いとけない子どもたちには涙腺が緩むものです。

 そして、子どもたちの澄んだ歌声による懐かしい曲が・・・。
 ダニーボーイ、アニーローリー、旅愁 ( ふけゆく秋の夜・・・ )、軽快なチェコスロバキアの民謡 「 ストドラパンパ 」、そして 「 ふるさと 」 を思わせる韓国の曲と、いくつもの懐かしい曲が散りばめられている。

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 「 戦場のメロディ 」 パンフレット表紙。



 12月20日(火)
 アイヌ語地名研究会の年報 「 アイヌ語地名研究 」 ( 第19号 ) が届いた。
 アイヌ語地名研究会はこの6月に定期総会と併せて、創立20周年の第19回アイヌ語地名研究大会を開催しており、今回の 「第19号」 はその時の発表の一つ、「 タツコブ ( タンコブのように盛り上がった小山。釧路の 「 達古武 」 をはじめ 「 達布 」 など様々に当て字されている。 東北にも 「 田子 」「 達子 」 などとして各地に名を残す ) の語源と位置について 」 を中核として、これをテーマにした論文その他が寄せられている。

   中に、帯広にあった旧地名の迫別 ( せまりべつ ) と鵺抜 ( ぬえぬんけ ) の話があって興味深かった。「 まぼろしの村 」 と題されていて、これには江戸時代、別海町・野付半島の先端にあったという幻の町 「 キラク 」 のことが思い出された。

 また、「 利尻島にみるアイヌ語地名 」 には、江戸の元禄年間に朝鮮・釜山から出港した船が漂着した話、そして、吉村昭の小説 「 海の祭礼 」 の主人公、ラナルド・マクドナルドの話を再度活字として聞くことができた。

 執筆者 ( 会員 ) の経歴は分かりませんが、世の中にはそれぞれの分野に思いがけない人が多くいるものです。

 ラナルド・マクドナルド (1824 - 1894年) は、英領時代のカナダでメティ ( 西洋人と原住民の混血 ) として生まれ、のちに船員、冒険家。 日本に興味を抱き、アメリカの捕鯨船に乗り組み、1848年、漂流民を装って ( 不法入国では処刑されるが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考えた ) 鎖国時代の日本に密入国し、約10か月間滞在した。ペリー来航の五年前のことであった。

 船が日本の沿岸に近づいた1848年6月27日 ( グレゴリオ暦。 現行太陽暦 )、単身ボートで日本への上陸を希望、船長はマクドナルドの固い意志を理解し、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えた。
 最初、焼尻島に上陸、二夜を明かしたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで7月1日、漂流者を装って利尻島に上陸した。
 ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、島の別の場所で日本人に20日間拘留された後、8月に密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られた。そこから10月に長崎に送られ、崇福寺の末寺である大悲庵に収監され、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間を過ごした。

 マクドナルドは何度も奉行所で尋問を受けたが、通訳をつとめたのは森山栄之助 ( のちペリーの艦隊が来航したときの通訳を務めた ) で、やがてマクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにした。
 それまでは ( オランダ語などを経由せず ) 直接的に英語を教える教師はおらず、彼が最初の英語母語話者による英語教師となった。
 日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものであった。

 マクドナルドは翌年4月26日、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻った。日本におけるマクドナルドの態度は恭順なものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧であった。 マクドナルドも死ぬまで日本には好意的であったという。

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アイヌ語地名研究会の年報 「 アイヌ語地名研究 」 ( 第19号 )。
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 12月19日(月)
 「 高層建築物の世界史 」 の中で、改めてスカイラインという言葉に出会った。
 ここでいうスカイラインは、「 地平線 」 ではなく 「 山や建物などの,空を背景とした輪郭線 」 のことで、次々と立つ摩天楼によってニューヨークのスカイラインが変貌していく様を語っている。

 スカイラインからの連想でこの絵はがき。
 1952年4月27日の日付の書き込みのある、米国宛の外信に使用された絵はがきで東京駅が描かれている。
 奧左手に丸ビル。そして何より右手奥のビル群が長閑で、そのスカイラインにはまだ 「 地平線 」 といった趣が残る。

 右側の説明文には、「 一日の発着列車数1442本、駅員800人、赤帽51人、取扱郵便物1日1万袋、手荷物600個、一日乗降人員36万人。これが数字から見た東京駅の生態 」 とある。

 有名な建築家・辰野金吾の設計による東京駅は、鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m2・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築で、1914年 (大正3年) の開業年は第一次世界大戦の開戦の年でもあった。
 完成から9年目の1923年には関東大震災の洗礼を受けたが、1万本もの木の杭で支えられた基礎の上に建つ建物はビクともしなかった

 太平洋戦争末期の昭和20年5月25日、丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。
 終戦直後から修復が計画され、年末から昭和22年にかけて修復工事が行なわれ、3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原、南北両ドームは丸型から台形に変更され、この時の台形の屋根 ( 三角屋根 ) が長らく見慣れた東京駅のイメージとして定着してきた。

 その後、建て替え計画が検討されてきたが、平成11年から12年にかけて、創建当初の形態に復原する方針がまとめられ、復原工事は2007年 (平成19年) 5月30日に起工され、2012年 (平成24年) 10月1日に完成した。
 新たな近代建築での建て替えも検討されていた中で、創建当時の形態に復原する方針が取られ、優雅な赤れんがの建物が残されたのはつくづく幸いであった。

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「 東京駅の偉観 」。 米国宛の外信に使用された東京駅の描かれた絵はがき。
裏に1952年4月27日の日付の書き込み。
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創建当時の東京駅の姿。
2012年の復元工事完成後の姿でもある。



 12月18日(日)
 今日はいつもの第三日曜日の例会日。
 そして12月は、午前中の例会終了後、近年定着したホテルのバイキングによる昼食忘年会。
 午後からの台湾の会も年の納めの日であったが、昼食会後に別用があってこちらは失礼した。

 今月の原稿は、12月1日にすでに張り付けているが、その時の紹介文に 『 今年3月の第224号で取り上げた 「 東京商船学校練習船月島丸 」 と一対をなす東京と神戸、東西二つの商船学校由来の材料を同じ年の内に入手するとは不思議な縁です。 』 と書きましたが、一つ忘れていました。船にまつわる材料がもう一つありました。
 はるか昔のことになりますが、2001年3月第56号の 「 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品 ( 千島択捉島年萌局留置・単冠湾碇泊農林省海洋調査船 ) 」 がそれで、日米開戦間近の昭和16年 8月、千島・単冠湾に碇泊中の農林省水産試験場の海洋調査船・蒼鷹丸にかかわるマテリアルの話てす。というより、その3ヶ月後、真珠湾攻撃のためにここに結集した旧日本海軍の連合艦隊についての話です。
 併せて御覧いただければ幸いです。

 ところで、今回取り上げた神戸高等商船学校の練習船、進徳丸の乗組員宛ての封書には、田沢旧大正毛紙3銭切手が3枚貼ってある。
 この大正15年1月の段階での封書郵便料金は4匁ごと3銭。
 1匁は3.75gだから、15gごとに3銭なので、3倍料金ということになり、重さは30g超~45gまでであったことになる。
 現在の封書の郵便料金はご承知の通り、25gまで82円、50gまで92円であるから、 この重さであれば現在であれば92円。
 基本料金の三倍料金として仮に単純に計算してみると、246円になっているわけで、物価からの比較ではないが、当時の郵便料金は割高であったように見受けられる。

 因みに、この郵便料金は、昭和6年8月1日の改訂で、「 15gごと3銭 」 ( 重量単位の変更のみで料金は変わらず )、昭和12年4月1日に 「 20gごと4銭 」 ( 重さの刻みの変更で単位当たりの料金は変わらず )、以降終戦まで、同じ 「20g」 単位で、5銭、7銭、10銭と3段階の値上げがあった。

 この料金の変遷は東郷平八郎元帥を描いた切手に端的に見て取れる。
 なお、10銭料金対応の福岡筥崎宮 ( はこざきぐう ) の 「 勅額 」 ( ちょくがく。直筆の書で記された寺社額 ) は、元寇の際に亀山上皇 ( 亀山天皇院政後の名称 ) が「 敵国降伏 」 を祈願して揮毫した書により作成され、神門に掲げられた扁額。
 いわゆる 「 神風 」 を念じての土壇場での切手発行であった。

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 第1次昭和切手東郷平八郎4銭 昭和12年8月1日発行 同年4月1日料金改定対応

第2次昭和切手東郷平八郎5銭 昭和17年4月1日発行 同日料金改定対応

第2次昭和切手東郷平八郎7銭 昭和19年6月15日発行 同年4月1日料金改定対応

第2次昭和切手「勅額」10銭 昭和20年4月15日発行 同年4月1日料金改定対応

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 12月16日(金)
 戦後のサハリン関係マテリアル。

 サハリンのオノルからウクライナのジトーミル宛ての航空便。
 オノルはかつての国境・北緯50度線に近い北樺太南部の町。一方の日本側の最北端の駅・古屯 ( ポベジノ ) から国境越しに北へ40キロほどのところ。
 一方、ジトーミルはウクライナ北西部、首都キエフの西130キロに位置する都市。
 出所もウクライナのキエフであった。
 ここからは、チェルノブイリも驚くほど近い。チェルノブイリはキエフの北100キロ足らず、ジトーミルからも直線距離で150キロほど。

 サハリン州オノル局の航空便扱いの角判。上部にも 「 航空郵便 」 の記載。
 オノル局の1952年7月4日の消印。裏面のジトーミルの着印は7月22日で航空便の割にはずいぶん日にちがかかっている。
 切手は1952年発行の勲章シリーズの2ルーブル。

 なお同様の戦後間もなくのサハリン関係マテリアル ( サハリンから北朝鮮宛て ) を。2012年12月第185 号 「 切手に見られる言語と文字について(中) 」 ( 中国、韓国、北朝鮮 ) で取り上げていますので併せてご覧ください。
 このときのカバーも、今回と同じ黄緑色の封筒でした。


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サハリンのオノルからウクライナのジトーミル宛ての航空便。 ( 原寸 )
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裏面のジトーミルの着印。7月22日。 「 ジトーミル州 」。 ( 200% )
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ウクライナのキエフから、落札品の送付に送られてきた封筒。
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 12月15日(木)
 このほど市場に戻した 「 第一次世界大戦平和回復記念 」 のFDC。
 1919年 (大正8年) 7月1日に発行された平和記念の4種の切手を、同時に発売された二枚組みの記念はがきに分貼したもの。
 旭川で作成されたもので、旭川局の 「 平和紀念 」 の初日記念特印が押されている。

 二枚組みの記念はがきは、鏑木清方による 「 少年少女と鳩の図 」 ( 木版多色刷 ) と、南薫造の 「 収穫の図 」 ( 木版画を製版 )。

 1918年11月11日、ドイツの休戦条約調印、翌1919年6月28日のベルサイユ講和条約により、足掛け5年年続いた第一次世界大戦がようやく終結して、平和が回復したのを記念したもの。なぜに日本でと思われるが。
 気がつけばこの辺りのことは、同じ材料を取り上げて、10月10日に書いていたのでした。
  「 4 過去の写真日記 」 で参照されたい。

 ところで、イーベイの落札者はロシアの人。これで、日露戦争がらみのものででもあれば分からないでもないが、これのどこに食指が動いたのだろうか。
 イーベイをはじめた十数年前にはロシア人は見かけず、中国人の姿もなかった。それがいつ頃からだろうか、中国、ロシア、ウクライナ、ラトビアなどからの参加が増えて隔世の感がある。

 因みに、落札者の住所を見ると何とエカテリンブルグの人でした。
 エカテリンブルグ ( ウラル山脈の中央部に位置し、1924年から1991年まで、旧名「スヴェルドロフスク 」 ) といえば、ロシア革命に際し皇帝ニコライ2世が妻子とともにこの地に送られ、1918年7月17日にイパチェフ館 ( 元はイパチェフという商人の家であったが、接収されて1918年4月30日からロマノフ朝最後の皇帝ニコライ2世一家を幽閉するための建物として78日間使用された ) で一家もろとも銃殺されたおぞましい記憶の残る場所。
 舞台となったイパチェフ館は1977年、当時スヴェルドロフスク州の共産党委員会第一書記だったボリス・エリツィンの命令で破壊され、その跡地には2003年に鎮魂の 「 全ロシアに輝ける諸聖人の名による、血の上の大聖堂 」 が建てられている。
 当初から血の通わぬ革命は百年持たなかった。

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「 平和紀念 」 はがき二枚に、同時に発行された 「 世界大戦平和記念 」 の記念切手4種を分貼し、
大正8年7月1日の旭川の初日記念特印の押されたFDC。
( 画像をクリックすると拡大します )

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( 裏面 ) 「 少年少女と鳩の図 」 「 収穫の図 」 の二枚一組の 「 平和紀念 」 の記念はがき。
( 画像をクリックすると拡大します )



 12月14日(水)
 昨日、1月予定の原稿 「 世界の高層建築物の歴史 」 を完成させたところですが、その過程で、いつもながらに新しい発見がありました。
 その一つがエンパイア・ステート・ビルの高さについてです。

 1931年に完成したエンパイア・ステート・ビルは、当初は約320mで設計されていたが、建設中の1930年に完成したクライスラー・ビルが319mと肩を並べたことから、急遽上積みが検討され、後から躯体の変更はできなかったため、アイデアとして飛行船を係留する約60mのマストが設置されて381mになった。

 しかし、実際には上空の強風で利用は適わず、のちにラジオやテレビのアンテナが設置されて電波塔 ( 1950年代に68mの上部施設がさらに加わって449mになった。 ) として利用されることになる。

 この中で取り上げた切手 ( 1998年に、「 アメリカの20世紀シリーズ 」 の1930年代を代表する一枚として発行されたもの ) のFDCのカシェに描かれた竣工当時のエンパイア・ステート・ビルには、当然ながらアンテナ部分は描かれておらず、この部分が後から付け加えられたものであることが見て取れる。
 また、エンパイア・ステート・ビルの三段構えの構造は、添付の写真で確認することができる。

 なお、アイデアとして増築された飛行船を係留するための約60mのマストについては、 FDCにその構想が次のように書かれている。
  『 もしエンパイアステート・ビルが建てられたときの計画通りに行われれば、大西洋横断の飛行船はマンハッタン島の上空を飛び、建物先端の係留マストに繋がれたであろう。 囲われたタラップが飛行船から下ろされて、乗客はそれを伝って建物頂上部のプラットフォームに降り、それから、直通エレベーターを使ってマンハッタンの街路に立ったであろう。 』

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「 アメリカの20世紀シリーズ 」 の1930年代を代表する一枚として発行された、エンパイア・ステート・ビルを描いた切手のFDC。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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Wikipediaからの借用画像、「 エンパイア・ステート・ビルの夕景 」。
エンパイア・ステート・ビルの三段構えの構造が見て取れる。



 12月11日(日)
 ヤフオクで見かけた出品中のもの。
 「 新中国・普東1 壹仟圓銘付田型 使用済 」。
 普東1 はカタログで言えば 「 天安門図東北貼用第一版 」 で、シート左下のコーナーの 「 東北郵電管理総局発行 」 の銘入りの部分。
 田型の中央に不鮮明ながら大連バイリンガルの消印 (50.7.12) が押されている。
 恐らく 「 大連市郵政局 50.7.12  Г.Дальний ( ダルニー ) 」。
 Г.は Город ( 市 )。
 すでに相応の価格が付いていますが、果たして幾らで決着するのでしょう。

  「 東北貼用 」 は、戦後の混乱期で貨幣価値に地域差を生じていたため、他地域での転売を防ぐため使用地域を限定するために取られた措置。

 ところで、「 大連市郵政局 」 を検索したら思いがけず良いサイトに巡り会いました。
 世の中には素晴らしいブログ・サイトがたくさんありますが、これも素晴らしいブログ。 「 レトロな建物を訪ねて 」。
 ただし、トップページ ( サイトマップ ) が分からないのが難点で ( 登録、ログインが必要 )、取り敢えず 「 大連市郵政局 」 の部分でリンクしておきます。

 「 レトロな建物を訪ねて 」 ( 大連市郵政局 )。
  http://gipsypapa.exblog.jp/15956797/
 地域を指定して検索すれば、例えば 「 レトロな建物を訪ねて 北海道 」 で検索するとたくさんの北海道関係映像が紹介されていて楽しませてくれます。

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消印部分。「 大連市郵政局 50.7.12 Г.Дальний 」。

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普東1 天安門図東北貼用第一版 壹仟圓銘付田型。
切手の右肩に「東北貼用」と表示。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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現在の大連市郵政局。
ブログ 「 レトロな建物を訪ねて 」 からの借用画像。



 12月11日(日)
 まあ、よく降りました。よくも降ってくれました。
 昨日の大雪。  今朝の北海道新聞の見出しに「札幌65センチ」。
 12月上旬としては1987年の68センチに次ぐ過去二番目の記録とか。

 この年は帯広に転勤していて札幌にはいませんでしたが、いたとしても日常的なことは案外記憶には残らないものです。
 その時ではなかったにしろ、確かにその前に住んだ一軒家の公宅では大雪で屋根の雪下ろしをした経験は何回かありました。
 軒からは大きなつららも垂れ下がりました。一軒家は寒く、増して今のような断熱材のないブロック住宅は、まさに地面からしばれ(凍れ)上がるというのが実感でした。
 水道を凍結させて、お湯で「解凍」することがしょっちゅうでした。

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大雪を伝える今朝の北海道新聞の記事。



 12月10日(土)
 12月4日の漢字同好会の 「 おもしろ学習大望年会 」 での特別講演の話を受けて、円満字二郎さんの本、「 人名用漢字の戦後史 」 を取り上げて、人名用漢字のことについて書きたいと思います。
 これを、「 人名用漢字の変遷 」 とか 「 人名用漢字について 」 と捉えて、軽い気持ちで読むと面食らう。。
 ことは 「 人名用漢字 」 そのものではなく、その 「 戦後史 」 であって、その決定に至る背景とその後の改訂作業の過程を明らかにすることに力点が置かれているからだ。

   そもそも、人名用漢字とは戸籍法の改正 ( 1948年1月1日施行 ) に際して、これに先立つ当用漢字の制定 ( 1946年11月16日内閣告示 ) に呼応して、子の名付けにも 「 常用平易な 」 文字の使用を旨として、子の名に使用できる文字を制限 ( 当初は当用漢字の範囲内とされた ) したことに始まる。
 ただし、「 常用平易な文字の範囲は命令 (法務省サイド) で定める 」 とされ、当初から当用漢字とのダブルスタンダードの矛盾を孕むことになった。

 以降、人名用漢字の成立から確立までの過渡期の法務省と文部省の 「 確執 」 の歴史を、委員会議事録や新聞各紙の論調を丹念に追ってその審議・成立の過程が明らかにされているが、円満字さんも 「 戦後史 」 をまとめる上で避けて通れぬ事とはいいながら、恐らく辟易しながら書いておられただろうし、ここら当たりは読む方としてもシンドイ。

 それはさておき、改めて人名用漢字 ( 広義の 「 名づけに使用できる漢字 」 ) とは、現在で言えば、「 常用漢字 」 ( 文科省所管 ) と法務省サイドで定める狭義 ( というより本義 ) の人名用漢字 ( 戸籍法施行規則の 「 漢字の表 」 ) を合わせたものを指す。

 細かいことを抜きにすれば、その数、常用漢字の2136 と 「 漢字の表 」 の632 を合わせてた2768 字種 ( その異体字を含めると2998 体字 ) になる。
 ただし、「 字種 」 とは、同じ音訓・意味を持ちつつ字体が異なる漢字の括り。例えば、「亜」 と 「亞」、「島」 と 「嶋」はそれぞれ異体字の関係で、それぞれ同じ字種に属する。

 この間に、狭義の人名用漢字は、1951年の新たな指定92 字に始まり、1976年 の第一回目の改訂で28 字 が追加されて120 字に、1981年 の第二回の改訂で54 字の追加で166 字 (常用漢字に取り入れられた8 字を削除)に、1990年 の三次改訂の118 字追加で284 字など、数え上げれば常用漢字との関係を含む10 次の改訂を経ているが、この中にはたった1 字の改訂が4 回あり、2 字と3 字のみの改訂もそれぞれ1 回含まれている。

 その嚆矢となったのは、1997年 に 「 個別検討 」 で一字のみが特例的な措置で追加された琉球の 「琉」 の字 ( 音読みにする沖縄での命名の独特の伝統・風土とも相俟って ) で、沖縄県からの切なる訴えが法務大臣のツルの一声となって突破口を開いた。
 しかし、それを除いて臨時的に拾い上げられた 「曽」 ( 芭蕉のお付きの 「曽良」 を思い浮かべる ) にしても、「獅」「毘」「瀧」「駕」(「篤」なら立派な字義を持つ漢字だが、何で馬や牛に引かせる車の「駕」を入れたのか ) 「祷」 「穹」 ( 「きゅう」。アーチ型のもの、空 ) 「巫」 にしても、常用漢字として入れられるならまだしも、どれも人名用と謳うには多くが首をかしげる。
 そこには、「 おかしな声 」 に迎合する当局の及び腰の姿勢を感じるのだが。

 なお、常用漢字が大幅に追加された2010年の改定 ( 1945字から2136字へ ) では、「阪」 「奈」 「梨」 「阜」 「埼」 「岡」 「媛」 「熊」 「鹿」 ( 熊や鹿は馴染みだが、動物は原則カタカナで書くことになっている ) などが追加され、遅まきながら47都道府県が常用で表記できるようになったが、もしも1997年の一字追加の特例措置がなくても、この段階で琉球の 「琉」 も沖縄県関連で遅れ馳せに採択されたかも知れない。

 そして結びで円満字さんは言う。
 人名用漢字という名の 「 常用平易 」 とされる漢字が増えていくにつけ、こうした漢字本来の意味の部分が意識から抜け落ちた、「 読み 」 ( 多くが当て字的、万葉仮名的な 「音」 ) と 「 唯一無二性 」 ( 単なる珍しいというだけの字。自己顕示欲に駆られただけの 「 個性 」 のはき違え ) だけの漢字が増えていく。
 「 読み 」 と 「 唯一無二性 」 にのみ着目して選ばれた漢字のなんと空疎なことか。

 なお、人名用漢字への関心について、かなり以前 (1990年6月) のことになるが 「 人名用漢字追加の記事に思う 」 として書いたものを、 ホルダー 「 5 豊かな日々のつれづれに 」 の 「 9 96~107頁 」 ( 96~99 ) に収録していますので、併せてご覧ください。
 まさに、1990年の第三次改訂に際しての話です。

 ついでながら、こうした姿勢とは対極にある漢字の字義を無視した当今の名付けの実態を取り上げたものに、「 子供の名前が危ない 」 ( 牧野 恭仁雄。ベスト新書 ) や 「 キラキラネームの大研究 」 (伊東ひとみ。新潮新書 ) といったハウツー本的な ( 手っ取り早く概観できる ) があるので付け加えておきます。

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円満字二郎さんの本、「 人名用漢字の戦後史 」。



 12月10日(追加)
 11月15日(追加)で 「 泊原発総合防災訓練 」 の茶番劇について、反権力・反軍の文筆を振った反骨のジャーナリスト・桐生悠々の 「 関東防空大演習 」 の愚かさを批判した文章に絡めて、その 「 実際には役に立たない 」、お門違いを指摘した。
 併せて、福島の廃炉へ向けての先の見えない膨大な費用。「 被災者への補償、除染対策費用、廃棄物処理、中間貯蔵施設費用、廃炉・汚染水対策、取り敢えずの13兆円 」 について、一万円札の束を富士山の高さまで積み上げて、13兆円は富士山約40本分として、気の遠くなるような金額であることに触れた。
 13兆円は、世界の原発の評価を毎年行なっている非営利組織の 「 世界原発産業ステータスレポート( World Nuclear Industry Status Report:WNISR) 」 の最新の2016版によって公表された、東京電力福島第一原発事故による損害額の推計学約13兆3000億円 ( 1330億ドル ) による。これはすでに政府が想定する賠償・廃炉機構の支援資金枠を超えていた。

 それが、昨日9日の北海道新聞夕刊に 「 福島事故対応 倍増21億円 」 の見出しで、それまでの総定額11兆円から21兆5千億円に倍増することを経産省が公表したとのニュースが報じられた。それは、東電への貸付け ( 返される見込みのない国の肩代わり ) の為の国債の増発と、電気料金への上乗せで国民に転化される。
 これは、当然ながら廃炉を達成するまで ( あるいは放射能が安全基準に達するまでに要する、半減期に象徴される気の遠くなるような時間 ) 廃炉費用、賠償費用等はついて回り、見直しの都度、半永久的に膨らんでいくだろう。

   「 見ぬもの清し 」「 くさい物に蓋 」と、事の核心に目を向けようとしない者、目を逸らそうとする者は、曲者かよほどの太平楽。
 深刻な状況をよそに、TPP ( トランプにハシゴを外された ) だのオリンピックだの、やれカジノ法案 ( 「 商業施設などの統合型リゾート(IR)を推進するための法案 」 ( カジノ解禁法案 ) ) だのの目くらましの陰で、野放図な財政運営の果ての借金財政で、国民年金法案や介護保険の改悪につけ回しされたのでは堪ったものではない。

 掛ける保険もない危険極まりない原発の再稼働を言う前に、やらなければならないことがある。
 福島第一原発事故の事故処理。
 廃炉、汚染水対策、被災者への補償、除染対策費用、廃棄物処理、中間貯蔵施設対策。山積みです。
 そもそも、それ以前に 「 トイレなきマンション 」 といわれる使用済み核燃料の保管施設の目処すら立っていない。
 これだけの酷い事故に遭いながら、これを教訓にできない、学ぼうとしない者の気が知れない。

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.放射能及び放射線に対する注意を促すための「放射線マーク」。
黄色地に赤い三つ葉マーク。
 原子核からα線、β線、γ線が飛び出す様子を表現したデザインで、3つの葉っぱはそれぞれα線、β線、γ線を表す。
オリジナルは1946年、アメリカのカリフォルニア大学バークレイ放射線研究所で考案され、
その後、国際原子力機関(IAEA)がこのマークを電離放射線のシンボルとして定めたので、
国際標準化機構(ISO)の基準として登録され、ISOに加盟している各国で採用されている。






 12月8日(木)
 本の話。
 北大の北のはずれ、地下鉄北18条駅の近くに、北天堂という古書店がある。
 古書店が近年数を減らしているが、頼りになる古書店の一つです。
 久しぶりに足を運んだ時に見つけた一冊。

 「 敬語の用法 」 というより、項目を立てて意味を説明し用例を加えるという内容と形式から、ズバリ「 敬語辞典 」 です。五人の編者による ( 平成3年、角川書店。辻村敏樹編 )。
 ために、本文は立書き、三段組みの変わったスタイルをしています。
 接頭語 「お」 の付く言葉を敬語として一語ずつ拾い上げているために、「お」 の項目が4割以上を占めるという特異な 「辞典」 です。同様に、「 ご(御) 」 の付く言葉が大半を占める 「こ」 の項目も多い。

 そして、問題の 「 いただく 」 については、もとよりの用法の多さもあって、4頁、三段組みの段数で8段に亘って記載されている。
 「飲食」 「物品」 「行為」も含めて、「 頂戴する 」 の意を込めた本来の謙譲語 「 いただく 」 が、いつのまにか、謙譲の意を失って単なる 「もらう」 「食べる」 の丁寧表現の 「 美化語 」 として大手を振るうようになっている。

   まえがきに、『 かっての敬語は、身分制度が確立していた社会の中で、身分の上下を認識して使い分けられていた。 』
 『 その結果、いわゆる尊敬語や謙譲語が多く使用された。 』
 『 ところが現代では、身分制度がなくなったために、尊敬語や謙譲語の使用が以前より少なくなった。とりわけ、謙譲語の減少が著しい。 』 とあって、得心する。
 『 そのかわり、いわゆる丁寧語の使用が多くなった。丁寧語は、その使用者と使用対象の間の上下の認識ではなく、使用者が 「 たしなみ 」 として使用することによって、対人関係を円滑に運んでいこうとするものである。 』 とあるとおり、まさにこのことです。

 そして、『 使用者 (言語主体) が、自分の物言いを丁寧にすることによって品格を保持しようとする使い方である。現代では、このような丁寧語の使用がかなり目につくようになってきている。 』 と書かれているとおり、 「 いただく 」 という本来の謙譲語が、「 食べる 」 の丁寧語 ( 美化語 ) として使われる背景に 「 自分を飾って見せる 」 ( 他人の印象を気にする ) といった本末転倒の、鼻白むものを感じ取る。

 余談になるが、「結構」と言う言葉が 「かなり」 「十分」 といった意味で副詞的に口癖のように不要な言葉として使われているのをよく耳にするが、この言葉は使わないでも会話は成り立っている。 「ちょっと」 と同じように口癖のように使われている不要な言葉で、投げやりで、ぞんざいに響く耳障りな言葉だ。
 程度を言う必要があるなら、「かなり」 「相当に」 などの言葉でしっかりと伝えればよい。

 最近の何でも 「大丈夫」 で済ますのと同じ、横着な言葉だ。

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 「 敬語の用法 」 表紙。 平成3年、角川書店。辻村敏樹編)。



 12月6日(火)
  「11月の東京散歩」 の11月22日、『 肥後熊本・細川家伝来の美術品や歴史資料を収める永青文庫、有名な菱川春草の 「黒き猫」 もここにある。 』 と記しました。
 その「黒き猫」の切手が、1979年に近代美術シリーズの一枚として発行されていますので、初日カバーを載せておきます。

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菱川春草の 「黒き猫」 を描いた切手の初日カバー。
( 画像をクリックすると拡大します )



 12月5日(月)
 作業が遅れていた 「11月の東京散歩 」 をようやくまとめました。
 「1 コレクション・コーナー」 の 「(2)新作リーフ」 の 「45 東京日記」 に張り付けました。
 今回の収穫は11月22日の新江戸川公園で、前回修復中だった松聲閣が素晴らしくリニューアルされていたこと、また永青文庫では開催中の企画展・「 仙厓義梵 」 禅画 「仙厓ワールド」 に巡り会ったことでした。

 新江戸川公園から永青文庫に向かう、神田川沿いの道から折れて登る胸突坂の右側に関口芭蕉庵がある。
 前回も今回も休園日で覗くことができなかったが、ここは、松尾芭蕉が二度目の江戸入りの後、1677年から3年間この地に住み、神田上水の改修工事に携わっていたというのは意外でした。
 芭蕉はここから深川に移り住み、奥の細道の旅(1689~91年)を夾む1694年までその深川芭蕉庵に住んだ。 関口芭蕉庵と深川芭蕉庵の関係、これも今回改めて知ったことでした。

 ワンポイントに、「仙厓ワールド」 の画集から話題にした絵を一つ。

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仙厓義梵の禅画。
「 猫か乕 (虎) か当ててみろ 」 とある。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 12月4日(日)
 昨日は漢字同好会恒例の 「 おもしろ学習大望年会 」 で、漢字クイズと特別講演会、そのあとの懇親会という、三点セットのお楽しみ。

 今回の特別講演会は円満字二郎さんによる 「 大漢和辞典の編纂ものがたり 」。
 漢和辞典の金字塔、諸橋大漢和辞典が鈴木一平 ( 大修館書店の創業者。大漢和辞典の編纂事業を出版・資金面から支えた ) というよきスポンサーと、多くの門弟の協力を得て、大漢学者・諸橋轍次が、一旦出来上がった版組を戦災で失うなど幾多の苦節を経ながら、構想から全13巻の完成まで32年の歳月を掛けて、心血を注いで出版に漕ぎつけるまでの過程を聞かせていただいた。

 円満字氏は、大修館書店に長く勤務して漢和辞典の出版に携わった経歴の持ち主で、このテーマを語るには うってつけの人。爽やかな弁舌で 「 諸橋大漢和 」 の歴史と逸話を分かりやすく聞かせていただきました。
 円満字二郎氏は1967年、兵庫県西宮市の生まれ。1986年、大学入学とともに上京。 1991年、大学を卒業して出版社 ( 大修館書店 ) に入社、高校国語 ( 主に漢文 ) 教科書の担当となる。1998年、人事異動により漢和辞典の担当になり 「 漢字 」 との縁が本格的に始まる。2008年、退職してフリーになって、漢字や漢詩・漢文、中国史に関係する編集や執筆に携わり、関係の著書多数。
 これから、さらに多くを読んでみようと思います。

 前後しましたが、講演会の前の漢字クイズに出された問題を紹介しておきましょう。
 グループ対抗で6回戦までの問題。タイトルも担当幹事が智恵を絞っている。

  一回戦は、先ずはウオーミングアップで 『 カップル誕生 』。いわば定番の問題で、常用漢字から選んだ60字のカードを組み合わせて30組の二字熟語を作るというもの。

 二回戦の 『 解体親書でぴったし漢漢 』。これは四字熟語を書いた短冊を十幾つに切り分けて、これを書かれた四字熟語を想定して元の短冊状に並べ替えるもの。「 二足三文 」 や 「 才子佳人 」 など、字画の少ないものの方が却って難しい。いわばタングラム ( 分割パズル ) です。各グループに出題5セット。

 三回戦の 『 一(いち)について、用意ドン(一一、聞かないで) 』 は、「一」 の字にある四通りの読み 「 いち、いつ、ひと、いっ 」 のうち、その熟語ではどう読むかという問題。それぞれについて完全回答で得点となる。
 例を挙げれば 「合一」 これは 「ごういつ」 で答は 「いつ」 のみ。
  「一時」 なら、「いちじ」 「ひととき」 「いっとき」と三通りあって答は 「いち、ひと、いっ」 という訳。
  「一世」 なら 「ひとよ」 と 「いっせい」 で 「ひと、いっ」 てな具合。
 基本は訓読みの場合と音読みの場合を考えることだが、それ以外の読み方もあって、易しいように見えて案外難しい。
 全部で40問は多すぎた。

 四回戦は 『 一字探して三千里 』。全部で14問。
 漢和辞典には、それぞれの親字について、第一義の意味からいくつかに亘ってその漢字の字義が説明されている。これを示して、その漢字を当てる。
 例えば設問に 「 ① かわるがわる事にあたる。② 順序。③ 見張り。④ そまつな。⑤取 り組み 」 とあれば、 「番」がその答。それぞれに関わる熟語を 「 ① 当番。② 順番。③ 番人。④ 番茶。⑤ 番組 」 と思い浮かべれば共通項が見いだせる。
「 ① 大きな建物。② 神仏をまつった建物。③ 住まい。④ いかめしく立派。⑤ 他人の母の尊称。⑥ 屋号、雅号。」 とくれば 「 ① 堂宇。② 堂廟。③ 堂房。④ 堂々。⑤ 御母堂。⑥ ○○堂 。 」で、答は 「堂」。

 五回戦は 『 傍線一方、それダメ~ 』。 ( 設問の問題箇所に傍線が施されている ) 全部で20問。
 例えば 「 邪鬼を払う 」 は 「邪気」。
 「 二の句が出ない 」 は 「 継げない 」。
 「 足元を掬われる 」 は単に 「足」。
  「 手の内を晒す 」 は 「明かす」 などなど、20問。

 六回戦は、口頭で 「 ○○とは○○のことである 」 のパターンで読み上げて言葉の意味を問うもの。
 例えば 「 人口に膾炙するとは○○の意味である 」 とか。各グループ○×の札で答える。40問。
 五回戦の問題と同じように思い違いをしていたものがあって、改めて気づかされる。

 それにしても4名の当番幹事諸氏、バラエティに富んだ問題をよく考え出すものです。

 ここ三四日風邪気味で、座骨神経痛も長引いているし、身体もやわになってきた。
 先月の「東京散歩」が宿題になっているが、書きかけのままで、気合いを入れねば。

 今朝パソコンが立ち上がらず肝を冷やしましたが、何とか修復しました。
 パソコンには年中驚かされます。

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「 おもしろ学習大望年会 」 ( 忘年会でなく 「 望年会 」 がミソ ) の会場風景。



 12月2日(金)
 原稿のストックもあるところに、急に思い立って来年一月号の原稿を一気に書き上げたところです。来年と言ってももう来月の話です。
 11月24日に話題にしたエッフェル塔をきっかけにした 「 世界の高層建築物の歴史 」 です。
 ワンポイントに、2010年、アラブ首長国連邦ドバイに完成した世界一の超高層ビル、 828mもの高さを誇るブルジュ・ハリファを描いた2016年UAE発行の切手を掲げておきます。

 函館山が334m、藻岩山は531m。山よりも高いこんな人工物が建てられているとは信じがたい。
 道内で同じくらいの高さの山を探してみると。
 ありました。摩周湖の外周にそそり立つ先の尖った特異な山、摩周岳 ( カムイヌプリ ) がほぼ同じくらいで857m。

 参考にした 「 高層建築物の世界史 」 ( 大澤昭彦。講談社現代新書 ) は、読み物としても、そして何より資料として素晴らしい。
 一月を、乞うご期待。

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2016年、アラブ首長国連邦発行。
ドバイに2010年に完成した世界一の超高層ビル、828mの高さを誇るブルジュ・ハリファを描いた切手。



 12月1日(木)
 早いもので今年も12月を迎えてしまいました。
 早速12月の原稿を貼り付けました。
 これで2016年の一覧表が全て埋まりました。
   『 南洋群島トラック島碇泊、神戸高等商船学校練習船進徳丸乗組員宛て封 』。
 長いタイトルになりました。

 今年3月の第224号で取り上げた 「 東京商船学校練習船月島丸 」 と一対をなす東京と神戸、東西二つの商船学校由来の材料を同じ年の内に入手するとは不思議な縁です。
   ワンポイントには神戸商船大学の校章を掲げておきます。
 校章は商船学校に共通する羅針盤 ( いわゆるコンパスマーク ) で、ここではコンパスマークの中央に桜花がデザインされていた。

 神戸高等商船学校は大正6年に私立 「 川崎商船学校 」 として設立、大正9年官立に移管して 「 神戸商船学校 」 と改称。
 大正14年 「 神戸高等商船学校 」 と改称。
 昭和27年、国立 「 神戸商船大学 」。
 2003年(平成15年)、神戸商船大学は神戸大学と統合し、「 神戸大学海事科学部 」 となった。

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コンパスマークの中央に桜花がデザインされた神戸商船大学の校章。



 11月30日(水)
 今、イーベイに地元ロシアからこんなものが出品されている。
 1845年発行のロシアの切手付き封筒。

 その存在は、正田幸弘さんによる 「 とつくに会 」 の 「 各国一番切手列伝 」 の第一巻 「 1840-1857 (その1) 」 の 「 帝政ロシア 」 の記述で承知していた。
 引用で要約させてもらうと、『 ロシアでは1857年の一番切手の発行に先立つ12年前の1845年12月1日に、サンクトペテルブルク ( 1914年までロシア帝国の首都であった ) の市内郵便用に切手付き封筒が発行されている。 』
  『 額面は5コペイカの一種だけだが、封筒の大きさに10種類あり、最大は190×120mmで、最小は招待状サイズ(?) である。 』
 同時に、♯1 113×74, ♯2 140×84, ♯3 133×105, ♯4 142×85の4種類が出品されている。
  『 封筒の右肩に印刷された料額印面には双頭の鷲の国章が描かれ、周囲にС.П.Б.=STB ( St.Petersburg )、Gorodskaya Pochta ( City Post ) 、下側に郵便料5K、封筒代1Kと書かれている。 』
 『 紙はザラザラした織り目入りの灰白色のもので、印面は青で印刷され、発行数は1845年に4,000枚、1846年に約26,000枚、1847~48年に40,000枚と少量である。 』
 スタート価格は、市場に評価を問う形でいずれも US $ 0.99と低い価格設定であるが、こちらとしては参戦なしの見守る立場ですが、果たしてどのくらいの値が付くものでしょうか。
 1845年と言えば我が国では黒船の浦賀来航の年、170年も前のものです。

 なお、郵便料金を表示した切手付封筒は世界最初の切手発行国のイギリスでペニー・ブラックと同年の1840年にマルレディ封筒がすでに発行されており、またこのロシアの切手付き封筒発行と同じ年にロシアに先んじてフィンランドでも10コペックのものが発行された。
   以降切手付き封筒はスウエーデン、アメリカ、プロシャ、ポーランド、ザクセンなどで発行が続き、19世紀の末には欧米の大多数の国で切手付き封筒が発行されるようになった。
 因みに我が国でも切手付き封筒の発行は早く、龍切手の発行から間もない1873年 (明治6年) に手彫り切手を印刷した 「 郵便封嚢 (ふうのう) 」、次いで 「 郵便封皮 」 の名で発行されている。

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1845年発行のロシアの切手付き封筒の料額印面部分。
国章の双頭の鷲の周囲にС.П.Б.= S.P.B.( St. Petersburg)、Gorodskaya Pochta、
下側に郵便料 5K、封筒代 1Kと書かれている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 11月29日(火)
 一昨年、2014年の3月から5月にかけて三月連続で 「 船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代 」(その1~3)として、遠洋航路で活躍した花形客船についてその経歴などをまとめました。

 今日のような航空機による海外との往来以前、遠洋定期船 ( オーシャン・ライナー ) と呼ばれる旅客船が世界の各地を結び、これを運航していた英国、ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、日本、米国等はその豪華さと性能を競い合った。
 我が国も海運各社が明治末以降順次遠洋定期航路を開設し、昭和に入って黄金期を迎えるが、戦後は旅客機の発達により後退し1960年代から70年代にかけて営業を停止している。

 その全盛期にデビューした浅間丸級三姉妹船 ( 浅間丸・龍田丸・秩父丸 ) について「その2」で触れましたが、「 秩父丸 」 については次のような逸話があります。
 秩父丸 ( 進水1929年5月 ~ 1943年4月戦没 ) は浅間丸級の3番船として1930年4月サンフランシスコ航路に就航。1938年7月6日には姉妹船2隻に先駆けて太平洋横断100回の記録を達成している。
 1937年9月にローマ字の統一を図る訓令式のローマ字が定められ、「 秩父丸 」 の表記が 「 CHICHIBU=MARU 」 から 「 TITIBU-MARU 」 に変更されたが、「 TIT 」 の英語の意味に支障があることが指摘され、1939年1月に 「 秩父丸 」 は船名自体を 「 鎌倉丸 」 に改名した。
 このため、「 TITIBU-MARU 」 と表記された期間は1年数ヶ月と短く、そのマテリアルも希少ということになる。

 その訓定式表記時代のマテリアルがこのほど締め切られたヤフオクに出品されていたので、その画像を借用して紹介しておきます。
 触手が動いたもののすでに収集対象とはしておらず見守る立場でしたが、予想したこととはいえ驚くほどの高値となりました。

 なお、秩父丸を含めた遠洋定期船の 「 航跡 」 について、改めて2014年4月第201号 「 船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その2) 」 を参照いただくとともに、併せて第200号の (その1) および第202号の (その3) もご覧ください。

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訓令式表記の 「 TITIBU-MARU 」 時代の船内印の押された米国宛てカバー。
TITIBU-MARU 1938年5月7日



 11月26日(土)
 今回の上京の折、神田神保町の岩波ホールで昨年台湾で公開された映画 「 湾生回家 」 ( わんせいかいか = 湾生、故郷に帰る ) を見てきた。
 いずれ札幌でも上映されるだろうが、待ちきれずに先に見てきた。
 2013年4月30日に渋谷のユーロスペースで 「 セデック・バレ 」 を見たと同じように。
 近々に今回の東京日記もまとめるつもりだが、それとは別にこの映画について触れておきたい。

  「 湾生 」 とは日本統治時代の50年の間に台湾で生まれ育った 「 台湾生まれの日本人 」 を指す言葉で、台湾を故郷とする彼等は20万人を数えるという。
 その 「 湾生 」 の幾人かに取材して、彼等の故郷・台湾への思いを綴っている。
 終戦とともに、台湾に暮らしていた50万人の日本人は日本本土へ強制送還されることになった。すでに生活の基盤を築いた多くの人たちが台湾に残ることを希望した ( 残留希望者は約20万人もあった ) というが、戦後日本人が台湾に残ることは許されなかった。その中に、まだ子どもだった彼等がいた。
 いや、成年の 「 湾生 」 もいたはずだが、戦後70年が経った今日、健在の 「 湾生 」 はもう少なくなっていて、彼等にとっての台湾は子ども時代の思い出に残る台湾だ。

 出演者で多くを語れる人たちはもう70代後半から80代になっている。
 例えばその一人、冨永勝は昭和2年生まれ。昭和21年に引き揚げた時は台南師範学校二年の19歳で、一番思い出を語れる湾生最後の世代といえる。

 パンフレットにある目次のいくつかが、この映画が描こうとした主題を端的に語っている。
 『 「 湾生 」 たちの望郷の想い 』
 『 歴史に翻弄された人々の運命を描くドキュメンタリー 』
 『 わが故郷、わが台湾。敗戦後、日本に戻っても、いつも心は台湾にあった・・・ 』
 舞台は台湾と日本。一方では、当時住んだ台湾でそれぞれに旧地・旧友を訪ねる台湾の旅があり、その一方では日本人の母を持った台湾の娘と孫が、日本で祖母の故郷を訪ねる旅の様子を追っている。

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「 湾生 」 とは ( パンフレットから )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 11月25日(金)
 ある本を読んでいてはたと膝を打った。
 「 福禄寿 」 とはこれまで、長い鬚 (あごひげ) を生やした頭の大きな七福神のメンバーの一人 ( 寿老人 ) とのみ考えていたが、「 福・禄・寿 」 の三要素、すなわち福運・封禄・長寿の三役を備えたこの上もなく欲張りな存在であることを知った。
 子宝に恵まれ、財産にも恵まれ、おまけに健康で長寿も保証されるといういいことずくめの神様です。

 ところがあちらでは、これに 「喜」 が付いて 「 福禄喜寿 」 という。
 それがこれ。
 台湾で1981年2月3日 (節分) に発行された新年 (旧正月) を祝う4種連刷の 「 春書 」( 門口に貼るめでたい言葉 ) の切手に 「 福禄喜寿 」 が描かれている。
 四役揃って、まさに満願。

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台湾で1981年2月3日に発行された 「 福・禄・喜・寿 」 の4種連刷の 「 春書 」 の切手。 ( 150% )



 11月24日(木)
 しばらく留守にして、昨日札幌に戻りました。
 今日は東京の雪のニュースで持ちきりです。

 ところで、札幌中央支部の会報 「 郵趣 赤れんが 」 には多士済々の会員からいろいろな分野の記事が寄せられる。
 中に、米国の週刊切手新聞 「 リンズ・スタンプニュース 」( Linn's Stamp News ) の記事を連載で紹介している人がいる。
 この英語の達人にとっては打って付けの材料というべき。

 「 海外からの話題・情報 」 とタイトルしたこの連載は今月号で 「 その228 」 とあり、会報がこの11月で232号を数えるから、発足間もなくからの連載ということになる。
 今回は 「 パリのエッフェル塔 」 であったが、紹介された関連の切手10点の中から私の目を引いたもの二点を引用しておきます。
 先ずデザインが目を引く2010年発行のパリ・バー ( 酒房 ) 協会200年記念のシール切手。
 「 PARIS 」 のAがエッフェル塔になっている。
 もう一つはエッフェル塔切手の古典というべき1939年発行のエッフェル塔50年の記念切手。

 記事によれば、エッフェル塔は 『 フランスの国威を世界に示すべく、1889年のパリ万国博の開催を決定したが、この年はフランス革命からちょうど100年の記念すべき年にあたった。
 万博委員会はその記念すべきシンボルとしてセーヌ河畔にギュスタブ=エッフェルの設計による高さ300メートル ( 現在は放送用アンテナが付加されて318メートル ) の鉄骨塔の建設を決定した。
 エッフェルはこのときすでに港湾・橋梁などの鉄骨使用の構造物を多数手がけ、名声を得ていた。米国に贈られた自由の女神像の内部の骨組みも彼の手によった。
 エッフェル塔は1889年5月に完成し、その後1931年にエンパイア・ステート・ビル (381m) が出現するまでの40年間、世界で最も高い建造物として君臨した。
 当初の計画では、20年後には解体されることになっていたが、ラジオアンテナ用に利用されることで存続し、その後はパリのシンボル、観光名所として定着した。 』

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2010年発行のパリ・バー ( 酒房 ) 協会200年記念のシール切手。
「 PARIS 」 のAがエッフェル塔になっている。

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エッフェル塔切手の古典というべき1939年発行のエッフェル塔50年の記念切手。 ( 300% )



 11月15日(追加)
 今回のアメリカの大統領選挙の結果を考えると胸が悪くなる。
 ところで、「 泊原発総合防災訓練 」( 再稼働のための政府の音頭取りによる鳴り物入りの大セレモニー。想定は津波で炉心の冷却機能が失われ、核燃料の溶融が進み放射能が拡散したというもの。訓練自体も杜撰さが指摘されているが、そもそも訓練自体に意味はなく、そうなったら福島と同じで為す術はないのだ ) をみて、桐生悠々の 「 関東防空大演習を嗤ふ 」 が頭をよぎった。

 桐生 悠々( きりゅう ゆうゆう、1873- 1941年 )は、明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍の文筆を振った反骨のジャーナリスト。 
 信濃毎日新聞主筆時代に書いた社説 「 関東防空大演習を嗤(わら)ふ 」 は、当時にあって日本の都市防空の脆弱性を正確に指摘した。

 『 防空演習は、曾て大阪に於ても、行われたことがあるけれども、一昨九日から行われつつある関東防空大演習は、その名の如く、東京付近一帯に亘る関東の空に於て行われ、これに参加した航空機の数も、非常に多く、実に大規模のものであった。そしてこの演習は、AK(当時のNHK「JOAK」?)を通して、全国に放送されたから、東京市民は固よりのこと、国民は挙げて、若しもこれが実戦であったならば、その損害の甚大にして、しかもその惨状の言語に絶したことを、予想し、痛感したであろう。というよりも、こうした実戦が、将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないことを痛感したであろう。と同時に、私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである。 』 ( 以下略 )

 これを、そっくり泊原発事故の避難訓練に置き換えて御覧なさい。
『 将来決してあってはならないこと、またあらしめてはならないこと 』 が現実になったとき、『 かかる架空的なる演習を行っても、実際には、さほど役立たないだろうこと 』 という予測は的中した。
 それは、その後の東京大空襲を初めとする全国の空襲で現実のものとなった。

 今回の泊原発避難訓練。一朝事あったら、「 避難 」 は一時のものではないという深刻な事態であることをどれだけ理解しているのか、信じ難い。
 一時その場から逃れられても、もうそこには戻れなくなるというのに。
それが何を意味するか、福島で知らされていながら、まことにもって暢気なものです。
 あれだけの福島の事故で痛い目に遭いながら、いまだに事故は起こらないとでも思っているのだろうか。
 いや、恐ろしいことに無事故神話から一転して、今度は原発事故が一旦起きたら制御できないことを知っていながら、起こることを想定しているのだ。(再稼働ためのご都合主義の避難訓練の実施)

 札幌は、偏西風の風下僅か60キロにある。200万人の総退却。いったいどこへ。そしてこれだけの財産の集積を放棄することの気の遠くなるような恐れ。
 食糧基地北海道も放棄しなければならなくなる。農業、畜産業・・・。
 知事、高橋はるみ。その時には最早責任など取れるものではない。誰も責任を取りはしない。第一責任の取りようもないほど事態は深刻なのだ。
 それでも再稼働を容認するか。

 原子力規制委員会は推進委員会であり、また安全までは保証するものではないと言い放っている。いわば原子力規制委員会は原発を再稼働させるための ( 承認というお墨付きを与える ) 機関を任じているのだろう。
 当事者の電力会社も、いたって無責任で、東電の復興処理はみな国に尻ぬぐい ( 結局は、国債というニセ金を作るか、国民に税負担のつけ回し ) させて涼しい顔。余りにツケが大きすぎて、手に負えないのだ。
 そんな者に再稼働を口にする資格はない。  

 福島の廃炉へ向けての先の見えない膨大な費用。被災者への補償、除染対策費用、廃棄物処理、中間貯蔵施設費用、廃炉・汚染水対策、取り敢えずの13兆円。
 一万円札100枚、100万円で1センチ。1メートルで1億円。
 富士山は3,776メートル。だから一万円札の束を富士山の高さまで積み上げると、3,776億円。だから、一兆円は掴み富士山三本分。
 13兆円は富士山約40本分。
 ところで、大盤振る舞いで作った国の借金はもはや1,000兆円を超えた。
 ゼロが15個。もはや途方もない天文学的な数字です。
 これを一万円の札束で同様に計算すれば、富士山3,000本です。
 財政健全化も、プライマリー・バランス論議もその後聞かれなくなった。最早手に負えなくなって放り出したというのが正直なところでしょう。
 そんな意識もなくなれば、成金外交といわれるバラマキも屁の河童です。

 ところでもう一つ。JR北海道が公共責任をかなぐり捨てて ( 民営化の段階から危惧された ) 不採算路線の切り捨てを公然と口にするようになった。背景にある新幹線赤字負担のとばっちりとすれば本末転倒、「 生活 」 を切り捨てて 「 観光 」 でもないものだが。
 何が何でもと開設に走った新幹線開業の舞台裏では、社会的な責任をかなぐり捨てた 「 利益優先 」 ( 「 何でも民営化 」 のツケが回ってきた。別のところでは無定見に行われた規制緩和の弊害も出ている ) の旗印の下で、地域の足が切り捨てられようとしている。
 これまた知事、高橋はるみよ、どうする。

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「 泊原発総合防災訓練 」を伝える今朝の道新。
訓練自体を問うのは論点が違う。再稼働阻止にこそ言及すべきではないのか。

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一面記事。



 11月15日(火)
 明日から23日まで上京で留守にします。

  見てきた映画、「 奇蹟がくれた数式 」 ( インド人天才数学者、ラマヌジャンの物語 ) のこと。
 ところでいきなりで恐縮だが、最近の映画のタイトルには時に日本語として首をかしげるものが見られる。
 封切り当時話題になった 「 インビクタス/負けざる者たち 」 ( ネルソン・マンデラの自伝 『 自由への長い道 』 による映画化 ) のこと。「 負けざる 」 とは何事か。ただ耳に馴染まないだけで文法的には問題ないのか分からないでいる。
 ではこちらは。「 奇蹟がくれた数式 」 は ???。
 奇蹟は主語にはならない。「 奇蹟が起こる 」 あるいは 「 奇蹟を起こす 」 のであって、「 奇蹟が起こす 」 も 「 奇蹟がくれる 」 もおかしい。
 ここは、「 女神がくれた数式 」 でよかったのではないか。ラマヌジャン自身 「 数学に関する自分の才能はナマギーリ女神からの授かりものだ 」 と述べていた。また、閃きを 「 ナマギーリが自分の舌に方程式を書いてくれるのだ 」 とも。
 ナマギーリの女神はインド神話の神で信仰の対象。( 彼の祖母や母が信じていた )

 ラマヌジャンは初めて聞く名前であった。
 シュリニヴァーサ・ラマヌジャン( 1887 - 1920年 ) は、 南インドのタミル・ナードゥ州の極貧のバラモン階級の家庭に生まれた。( カースト制度の頂点に位置するバラモンでも貧しいと言うことがあるとは )

 映画のシーンとしても出てくるラマヌジャンの有名な逸話の一つ。
 療養所に彼の見舞いに来た ( 彼は結核を患った ) ハーディ ( ケンブリッジ大学の数学科の教授。彼の天才性を見抜き人種的偏見の強かった当時のイギリスで、彼の最大の擁護者であり指導者、共同研修者であった ) が 「 乗ってきたタクシーのナンバーは1729で、覚えずらい、特徴のない数字だった 」 と聞いたラマヌジャンは、即座に、「 いや、とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です 」 と答えたという。
 つまり、1729 = 12(3) + 1(3) = 10(3 )+ 9(3)   ただし、便宜的に(3)=三乗

 「 ゼロの発見 」 に象徴されるように、また今日のインド人のIT分野での活躍、インドでのIT産業の繁栄など、インド人が数学的能力にすぐれた人種であることは知られている。
 イギリス人、というより白人におしなべて見られる有色人種に対する謂われなきの人種的偏見の中にあって、その実力から王立アカデミーの会員に迎えられ、ケンブリッジのフェロー ( 特別研究員 ) として認められるが肺病に冒され、31歳の短い生涯を閉じる。
 功成って一旦故郷に帰り、待ちこがれた妻と最後の1年を過ごせたのがせめてもの幸いであった。
 その業績がどれほど尊いものであるか残念ながら門外漢には解らないが、映像に再現された、閃きをもとにまるで何かに取り憑かれたように途方もない数式を書き連ねる様子を見るだけでも、計り知れない能力の持ち主であったことを感じ取ることができる。

 そこでその憎き結核 ( テュバーキュロウシス ) のこと。
 かつては 「 不治の病 」 とされ、戦前から戦後しばらく死亡原因のトップにあった結核も、特効薬となる抗生物質ストレプトマイシンの発見 ( 米国で1943年 )、また戦後はツベルクリン検査、BCG接種による予防、全国民一律の胸部 X 線検査による患者発見、化学療法による治療をあわせた対策により、結核事情は一変し、以降急減した。
 その憎い結核の予防運動の旗印となった複十字シールについて書いたものがありますので遡ってご覧ください。
・ 2008年12月第137号 「 クリスマスシール( 複十字シール ) 」
・ 2014年6月第203号 「 1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本 」


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映画、「 奇蹟がくれた数式 」 パンフレットの表紙。



 11月14日(月)
 風邪で気力も減退。しばらく休みました。
 それでも10日はイギリス映画 「 奇蹟がくれた数式 」 を見に行き、昨日は久しぶりで台湾の会に出てきましたが、今回は短編映画 ( 北海道の冬の十勝地方紹介した 「 マイリトルガイドブック アイス ( My little guidebook -ice- ) 」。YouTubeでも見られます ) と、台湾の幹事の編集による日本統治時代に建てられた建築の保存と活用の事例紹介でした。

 なお、漢字同好会の会報に寄せている原稿がだいぶ溜まってきましたので、専用の新しいホルダーを設けて張り付ける予定でいます。
 次回は 「 11 台湾は漢字の宝庫 」 ですが、これにからめて今日の材料。

 菊10銭に、「 台湾・蕭壟 大正2年6月18日 」。
 消印では 「 蕭壟 ( しょうろう ) 」 の 「 壟 」 が、異体字の 「 壠 」 ( 土が左側に移動 ) になっている。こうした 「 偏・旁・冠・脚 」 が入れ替えられた字 ( 島 =嶋 =嶌 など ) は 「 動用字 」 と呼ばれる。
 「 壟 」 はJIS第2水準、漢検1級配当。
 音読み 「 ロウ 」、訓読みは 「 うね、おか 」。
  「 壟断 」 の熟語 ( 「 孟子 」 にある故事から 「 利益や権利を独り占めにすること 」 の意 ) に使われる。

 「 蕭壟 」 は台南県佳里鎮 ( 2010年の台南県の台南市編入に伴い佳里区と改称。現在は台南市佳里区 ) の旧称。もと平埔族西拉雅 ( シラヤ ) 系原住民族の集落 「 蕭壠社 」 で、「 契約の地 」 の意。
 佳里製糖工場の跡地が 「 蕭壟文化園区 」 の名で、地域文化の保存と、芸術・文化・教育の場として活用されている。( 1906年に明治製糖が設立した工場。1995年に操業が停止された後、台南県政府が工場跡を文化園区として整備した )

 なお台湾の消印について、
 ・ 2013年11月第196号 「 日本統治時代の台湾消印 」
 ・ 2015年第11月第220号 「 再び日本統治時代の台湾消印について (上) 」
   および、12月第221号 「 再び日本統治時代の台湾消印について (下) 」
 に書いていますのでご覧ください。

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「台湾・蕭壟 」 ( 大正2年6月18日 ) (290%)
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 11月8日(火)
 少し間を置いてしまいましたが、今回の上京の記録を 「1 コレクション・コーナー 」 の 「 (2)新作リーフ 」 に、「 44 東京日記 ( 2016年10月 ) 」 として張り付けました。欲張ってしまってだいぶ手間がかかりました。

 今日は郵便局の売り込みに応じて注文した年賀状が届くことになっています。
 もうそんな時期になったんですね。
 そんなことでワンポイントには今回手放した昭和24年用の年賀切手、「 羽根つき 」 のFDCを掲げておきます。
 戦前、昭和11年用の年賀切手が初めて発行され、12,13年用と続いたものの、日中戦争が始まり、年賀切手の発行は以降取り止めとなりました。
 戦後、再開された初めての年賀切手がこの昭和24年用の 「 羽根つき 」 で、この時だけ唯一大振りのサイズで発行されました。
 そのFDCで、消印は発行日の昭和23年12月13日の東京中央局の欧文印。
 封筒でなくカードを台紙にしたFDCです。
 デザインから、好きな切手の一つです。

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昭和24年用の年賀切手、「羽根つき」のFDC。 ( 原寸 )
昭和23年12月13日の発行。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 11月3日(木) 文化の日
 今日、11月3日の文化の日は、1946年 (昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年 (昭和23年)に公布・施行された祝日法で 「 文化の日 」 と定められた。
 もともと、この11月3日は明治天皇の誕生日で、戦前は天長節、明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。  ( 大正時代には天長節は大正天皇の誕生日である8月31日に変わるとともに、天長節の11月3日は明治大帝を讃える明治節として残された。昭和天皇の誕生日4月29日が昭和の日として残されたのも同じ事情による )

 例によって、酔狂にも今回の上京も東京旅日記としてまとめようとしているが、24日に谷中~千駄木~根津~東大~池之端と歩いた日に、ふと立ち寄った千駄木の書店で、ちょうど前日の新聞の書評欄で目にしていた本が目に入り、縁があったものと購入した。
 「 台湾少女、洋裁に出会う 」 ( 母とミシンの60年 )。一風変わったタイトルで、原題 「 母親的六十年洋裁歳月 」 に従えば 「 母と洋裁の六十年 」 とでもすれば素直なところだが。
 著者は1951年、台湾・台南生まれの鄭鴻生という人。この人の母親 「 施伝月 」 の聞き書きの自伝で、「 洋裁 」 という中国語にはない日本語由来の言葉を敢えて用いている。

 日本統治時代の台南で、少女時代に出会った日本の婦人雑誌の洋裁の頁との出会いから洋裁で身を立てることを志し、洋裁ブームに先駆けて洋裁学校を設立し、多くの生徒を抱える隆盛の時代を経て、やがて既製服の時代の訪れとともに終焉を迎える。ちょうどその60年の人生の軌跡は洋裁、アパレル産業の盛衰と重なっていた。

 帯にある 「 もうひとつのカーネーション 」 とは、NHK連続テレビ小説 「 カーネーション 」 ( 2011年度下半期 ) に描かれた同時代を生きた小篠綾子と重ねている。
 このとき小篠綾子を演じた尾野真千子が好演であったが、その前に映画 「 トロッコ 」 ( 2009年の台湾を舞台にした日本映画 ) で初めて見たときの、役柄とはいえ控えめな尾野の印象との違いに驚いた。

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 「 台湾少女、洋裁に出会う 」 ( 母とミシンの60年 ) の表紙。



 11月2日(水)
 10月17日の写真日記で外枠のある博多ボタ印を話題にしましたが、上京で留守をしている間に、お願いしていた資料が根室の碩学から届いていました。

 所有する 「 外側にリングのあるボタ印 」 の中からその明瞭な6局のエンタイアのコピーを送ってもらいましたが、紙幅の関係から一通だけを代表して、あとはボタ印と二重丸印のセット ( 抹消印と日付印 ) の部分を切り取って示します。

 ところで、大型ボタ印は二重丸印との二連印で、ボタ印はコルクで作られており、摩滅を防ぐためにその周囲を金属または木製のリングで囲われていたのではないかという。
 それが、本体の摩滅に従って外側のリングが印影に現れるようになったのが、「 外側にリングのあるボタ印 」 であるらしい。
 中でも、博多ボタに外側にリングのあるものが多く見られることが昔からよく知られているという。

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外側にリングが現れたマルKの神戸 ( 兵庫 ) ボタのエンタイア。 ( 各画像ともクリックすると拡大します )

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外側にリングが現れたマルニの新潟ボタ

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外側にリングが現れたマルキの岐阜ボタ

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外側にリングが現れたマルカネの金沢ボタ

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外側にリングが現れたマルヨの横須賀ボタ

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外側にリングが現れたマルヒメの姫路ボタ ( 珍 )



 11月1日(火)
 昨日東京から戻りました。
 東京でのことは追ってまたまとめようと思いますが、東京から帰ったらもう11月。
 早速11月の原稿を貼り付けました。
   『 戦後日本人引き揚げ者に対する大連電話局の通信事務封緘 』。

 先月初めに札幌で開催された第25回北海道郵趣大会in札幌の大盆回しで入手し、直後の10月4日の写真日記で早速紹介した材料で、一度記事にしたものを土台にして作品に仕上げるというケースが最近多くなってきましたが、これもその一つ。
 ワンポイントには大連ゆかりの中国解放区切手の旅大区で発行されたいくつかを並べておきます。

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左から中国共産党二十八週年紀念郵票
九三勝利四週年及び大連工業展開幕紀念郵票
中華人民共和国成立紀念郵票
いずれも1949年の発行。
( 画像をクリックすると拡大します )



新2016



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2016年分 ー覧表

2016年 号数 タイトル
12月 233  南洋群島トラック島碇泊、神戸高等商船学校練習船進徳丸乗組員宛て封  3頁
11月 232  戦後日本人引き揚げ者に対する大連電話局の通信事務封緘  2頁
10月 231   関連マテリアルから知る満蒙開拓団の悲劇 ~ 映画 「 望郷の鐘 」 と重ねて ~    5頁
09月 230(1)  胆振・壯渓珠(ソーケシュ)局の消印   1頁
230(2)  手彫り切手のオーソリティ、市田左右一氏ゆかりのカバー 2頁
08月 229  入札三題、初日カバーの話 4頁
07月 228  中華郵政史 5頁
06月 227  エベレスト、第三次イギリス遠征隊にかかわるシール 3頁
05月 226  臨時北部南西諸島政庁の設置から奄美群島復帰まで 5頁
04月 225  サザーランド切手について 6頁
03月 224  東京商船学校練習船月島丸  2頁
02月 223  テレジン収容所の小包切手    2頁
01月 222  カール・ルイスの新商売    4頁


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1957年イヤーセット・ホルダーの表紙。

新 2015



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2015年分 ー覧表

   
2015年 号数 タイトル
12月 221  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (下)   6頁
11月 220  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (上)  6頁
10月 号外  港区赤坂のアメリカ大使館と横浜にあった総領事館  3頁
09月 218  ルイス・カバーについて(下)  7頁
08月 号外  台北駅の変遷  2頁
07月 216  ルイス・カバーについて(上)  8頁
06月 215  北海道消印・アイヌ語由来の地名  4頁
05月 214  清国宛てエンタイヤ3通  5頁
04月 213  洋画家・金子博信の絵はがき  3頁
03月 212  (続)有名人の関連アイテム ~ 横山大観 ~  5頁
02月 211  伊豆の南端、石廊崎の長津呂にまつわる話 ~ 特攻兵器「震洋」の基地があったところ ~  4頁
01月 210  大学関連マテリアル 8頁


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昭和35年の網走国定公園切手発行記念FDC。

2014~

   
2014年 号数 タイトル
12月 209  戦前の台湾の風景印 8頁
11月 208  有名人の関連アイテム  6頁
10月 207  紙ものコレクション( 印紙類 )   7頁
09月 206  砲艦ツツイラ号関係カバー二点  6頁
08月 205   誌上「なんでも鑑定団」  6頁
07月 204  佐久間ダム関係マテリアル(映画「東京原発」とからめて)   5頁
06月 203  1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本  4頁
05月 202  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その3)  7頁
200号記念誌  200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 9頁
04月 201  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その2)  7頁
03月 200  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その1)  5頁
02月 199  1929年中国、パリ~東京間特別飛行の航空カバー(広州~上海)   4頁
01月 198  「北海道後志支庁忍路郡塩谷村」宛ての外信絵はがき二点   4頁
2013年 号数 タイトル
12月 197  水原明窓ゆかりの二点 5頁
11月 196  日本統治時代の台湾消印 10頁
10月 195  航空機の切手(特徴ある二機種について) 4頁
09月 194  富士山、よくぞ世界遺産に 6頁
08月 193  東京・わが心の故郷、ゆかりの二点  +「東京、わが街」(8頁) 5頁
07月 192  北朝鮮の出品にまつわるエピソード 6頁
06月 191  北杜夫とファーブルと 6頁
05月 190  明治の絵はがき「駅弁売り」の図 3頁
 逓信総合博物館の閉館 3頁
別冊  台北紀行(下) 15頁
04月 189  文革関係マテリアル三題 4頁
03月 188  燕京大学関連マテリアル 4頁
別冊  台北紀行(上)( 郵政博物館と牯嶺街の切手商 ) 10頁
02月 187  切手に見られる言語と文字について(下) 4頁
01月 186  ミント・未使用・使用済み、その落差  6頁
2012年 号数 タイトル
12月 185  切手に見られる言語と文字について(中) 5頁
11月 184  中国の郵票冊、二点 4頁
10月 183  切手に見られる言語と文字について(上)  5頁
09月 182  三井物産のカバー二点 4頁
08月 181  ジャーマン・ステーツ(領邦国家郵政)とプリバート・ポスト(ドイツ民間郵便) 8頁
07月 180  1968年・北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国20周年記念」8種連刷 3頁
06月 179  関連マテリアルから偲ぶ「郵便友の会」(6頁)+「郵趣の楽しみ」(7頁) 13頁
05月 178  フライング・タイガース(飛虎隊)関連マテリアル 17頁
04月 177  「切手」は各国語で何という 6頁
03月 176  「北方四島」のタブの付いたボーガス 3頁
02月 175  チャールトン・ヘストン宛のファンレター 4頁
01月 174  その後のイザワ・エイジ氏 3頁
別冊  郵便以前「アイヌの郵便」 3頁
2011年 号数 タイトル
12月 173 大英帝国の版図が描かれたカナダの切手について 3頁
11月 172 ジョージ6世とその時代(英領植民地の「地誌シリーズ」) 7頁
10月 171 在満州国日本領事館のマテリアル 6頁
札幌オリンピック冬季大会の扉 1頁
2011「北海道郵趣大会in旭川」を記念して 1頁
09月 170 リビア、二つの首都 3頁
08月 169 オールド上海の建築物(下) 8頁
07月 168 オールド上海の建築物(上) 10頁
06月 167 ウォルデンブルグ収容所郵便(ポーランド) 8頁
05月 166 Lagerpost Bando(板東収容所郵便)マテリアル 3頁
04月 165 沖縄暫定切手 丸検印 1947-48(参考品) 3頁
03月 164 Red Period(赤の時代)~ アメリカ 1926-32 ~ 10頁
02月 163 インドの一番切手・シンド州切手とインド藩王国の切手 7頁
01月 162 八十余年ぶりの邂逅 4頁
2010年 号数 タイトル
12月 161 「花柳」の世界 6頁
別冊 台湾鉄路一周の旅(13頁+11リーフ) 24頁
11月 160 エスペラント関係マテリアル 6頁
10月 159 有名なシンデレラ、南モルッカ共和国の切手 8頁
09月 158 インドネシア独立時期のウィーン版の切手について 6頁
08月 157 中国人民志願軍兵士差し立てカバー二通 5頁
07月 156 朝鮮近代郵便史 6頁
新・国際返信切手券(第七様式)について 3頁
06月 155 「中国占領地域」の時代 (Ⅱ蒙疆編) 8頁
朝鮮戦争ソウル占領北朝鮮二重丸印加刷 1頁
別冊 ミニ切手展「世界各国から届いた美しい郵便物」の開催 2頁
05月 154 「中国占領地域」の時代 (Ⅰ華北編) 6頁
04月 153 一枚の絵はがきから(屯田兵について) 5頁
03月 152 リーフ解説・オランダ領東インド 5頁
02月 151 カリカチュア(風刺画) 6頁
01月 150 「御料林」「北海道模範林・公有林」のマテリアル 7頁
2009年   号数 タ イ ト ル
12月 149 一枚の絵はがきから(東京日日新聞ニッポン号の世界一周飛行) 3頁
リーフ解説 マニラ大聖堂 2頁
別冊 私の1リーフ 中国解放区の布票 1頁
私の1リーフ 戦後満州のソビエト軍票 1頁
号外 セントローレンス運河中央逆刷エラー 2頁
11月 148 一枚のはがきから(白系ロシア人にまつわる話)
~ 東京・神田の白系ロシア人の業者から、中国・青島の切手商あてのはがき ~
5頁
10月 147 一枚のはがきから(郵便配達員の殉難)
~ 併せてアイヌの郵便逓送人・吉良平治郎のこと ~
5頁
09月 146 ミニ国家と切手発行 7頁
巻頭コラム 九月、初秋の候となりました 1頁
参考資料 三船殉難事件 3頁
08月 145 リーフ解説・モンテカルロ自動車ラリー 4頁
07月 144 TWA世界一周便の就航記念カバー 7頁
1932年・ニューファンドランドの民間航空切手 1頁
06月 143 映画の中に題材あり(「ショアー」と「ヒットラーの贋札」から) 5頁
別冊付録 北海道立文書館に眠るエンタイア 5頁
05月 142 浅草凌雲閣(十二階)の絵葉書 5頁
04月 141 民信局と僑批局について 5頁
03月 140 中国の公用便「公文封」について 4頁
02月 139 ロンドン王立郵趣協会主催切手展のスーベニア 3頁
01月 138 旧制中学入試問題集から 7頁
2008年   号数 タ イ ト ル
12月 137 クリスマスシール(複十字シール) 3頁
これでも届いた??? 2頁
別冊 eBayにまつわる話 5頁
11月 136 タロとジロ、奇跡の生還(第一次~三次南極観測隊) 4頁
付録 多彩な船歴を全うした「宗谷」 4頁
10月 135 万国郵便連合(UPU)にかかわるマテリアル 4頁
09月 134 反共フランス義勇軍 4頁
号外 「税済」消印にかかわる後日談 4頁
08月 133 開道140年(北海道庁関連マテリアル) 6頁
07月 132 地震の話~中国・四川大地震から~ 6頁
06月 131 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(8)」
「ウルグアイ・モンテビデオ切手展開催記念小型シート」
2頁
05月 130 スエズ運河国有化宣言記念切手初日カバー 4頁
04月 129 中国の特異な速達切手、「快逓郵票」について 3頁
03月 128 二人のボース 6頁
別冊資料 二人のボース「関連資料」 11頁
02月 127 フランスの香りパリの香り 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(7)」
「ソビエト切手発行25周年記念小型シート」
2頁
01月 126 ツール・ド・ポローニュ(ポーランドの自転車ロードレース) 3頁
私の1リーフ 「ワルシャワの人魚」 1頁
2007年   号数 タ イ ト ル
12月 125 米ソ合同探検隊のベーリング海峡横断 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(6)
「ベルギー、Orval修道院修復のための附加金付き小型シート」
1頁
11月 124 1970年・北朝鮮「朝鮮労働党第5回大会記念小型シート」を巡って ~ 4頁
10月 123 竹島問題(「 独島 」のマテリアルから) 4頁
09月 122 大きな大きな小型シート(ドイツ民主共和国誕生15周年記念小型シート) 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(5)」
「キプロスのボーイスカウト切手小型シート」
1頁
08月 121 古文書入門(挨拶状を材料として) 4頁
号外 二重丸印・利尻島局について 4頁
07月 120 1968年・北朝鮮「朝鮮人民軍創設20周年記念小型シート」(4P+資料1) 4頁+資料1
06月 119 書信往来 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(4)」
「ガボン、1970年航空切手のミニシート」
1頁
05月 118 私の1リーフ
「ウルグアイ/モンテビデオ~フロリダ間のFFC」
1頁
号外 あなたの誕生日は何曜日? 1頁
04月 117 ノー・モア・ヒロシマ ピース・フロム・ナガサキ 3頁
03月 116 硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima) 4頁+新聞2
別冊 ルーズベルトに与うる書 6頁
02月 115 私の1リーフ (エンタイヤを読む)
「満州国第二次航空切手39分一枚貼り」
1頁
01月 114 円形の切手 4頁
2006年   号数 タ イ ト ル
12月 113 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(3)」
「キューバ・切手発行100年記念にAAMS大会加刷」
1頁
11月 112 遺愛女学校 3頁
私の1リーフ (2006年ビザなし交流から)
「北方領土択捉島からのカバー」
1頁
10月 111 (北海道会員大会展示記念)
私の1フレーム「中国解放区東北各区三題
3頁
09月 110 似ている(似通ったデザインの切手) 3頁
08月 109 バナナの話 3頁
07月 108 変形切手の原点、三角切手 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(2)」
(ルーマニアの正三角形シート)」
1頁
06月 107 ロングリレー/蒋介石誕生日記念印の押印20年 4頁
05月 106 記念印/東京アンソロジー 4頁
04月 105 南洋の話+資料 6頁
03月 104 私の1リーフ 「私の好きな小型シート」(ロシア十月革命40周年記念) 1頁
02月 103 ワルシャワ蜂起とポーランド亡命政権 4頁
01月 102 ウラジオストク反共政権発行「プリアムール加刷」記念貼りカバー 3頁
私の1リーフ 「ポツダム会談を伝える中国の宣伝ビラ」 1頁
2005年   号数 タ イ ト ル
12月 101 国際返信切手券 4頁
11月 100 ラトビアの地図切手について 4頁
100号記念誌 表紙+会報の名称「赤れんが」について 2頁
札幌ボタ印における手へんの「扎」について 1頁
私の1リーフ 「ロシア附加金付きミニチュア切手のフルシート」 2頁
10月 99 エルトゥールル号の遭難(日本とトルコ、友好交流の原点) 5頁
別冊資料 日本とトルコの関係史概説
山田寅次郎伝
エルトゥールル号事件のこと
6頁
09月 98 オーストラリア・シドニーとマダガスカル・ディエゴスアレスを結ぶもの(特殊潜航艇の話) 5頁
08月 97 北海道行政区画の変遷(「函館区」の時代について) 3頁
07月 96 1979年・ブルガリア「Philaserdica’79」 4頁
巻頭コラム いかに郵趣への理解を広げるか 1頁
06月 95 コロンビアの初期航空切手 3頁
05月 94 ロードス島異聞 3頁
04月 93 満州鉄道まぼろし旅行 5頁
03月 92 セラソップ・セトラックの謎 3頁
02月 91 タンヌツーバの切手 4頁
01月 90 一九七九年・香港中国切手展記念カード 6頁
2004年   号数 タ イ ト ル
12月 89 明治天皇の函館上陸記念碑 4頁
11月 88 ウラジオストク物語 4頁
「集郵」すなわち「益智」である 2頁
10月 87 函館大火(千島・択捉島別飛から函館大火を見舞う) 3頁
09月 86 誕生日へのこだわり 2頁
明治から大正へのサドル便 1頁
オークションから(函館ロシア領事館差立てのカバー) 2頁
08月 85 日の目を見なかった第1次及び2次昭和切手の原画 3頁
07月 84 有名人にかかわるマテリアル 3頁
06月 83 久米島切手のシートを巡って 3頁
05月 82 昆虫館へようこそ(蝶に関するマテリアル) 5頁
私の1リーフ 「ホワイトロシア」 1頁
04月 81 TABROMIKのラベル(ポーランドの民間航空切手) 3頁
03月 80 男爵コルヴィザール 2頁
02月 79 謝文東のドクロ切手について 3頁
01月 78 樺太の日露国境境界標について 3頁
2003年   号数 タ イ ト ル
12月 77 ハングルの勧め(ハングル表付き) 4頁
11月 76 小さな同志への手紙
(昭和18年、東郷4銭貼第四種郵便について)
3頁
10月 75 雁の便り 3頁
09月 74 偽物百科 3頁
08月 73 札幌村郷土記念館に展示された思いがけないマテリアル 3頁
私の1リーフ「ポルトガル植民地」 1頁
07月 72 シンデレラを紹介します 3頁
以下は「豊かな日々のつれづれに」に掲載
06月 71 古書目録の中に見つけた「附加金付アイヌ紀念切手発行願」 2頁
05月 70 国旗をテーマに 3頁
04月 69 エピルスの切手について 3頁
03月 68 昭和11年、北海道陸軍大演習 4頁
02月 67 シベリア出兵にかかわるチェコ軍団の切手について 3頁
01月 66 オオカミの乳を飲む双子の兄弟の不思議な像を描いた切手 3頁
2002年   号数 タ イ ト ル
12月 65 極東選手権競技大会について 3頁
私の1リーフ「エンタイアの裏側に注目」 1頁
11月 64 一通のカバーから(中国の水害にまつわる話) 3頁
10月 63 何がどうということもないのだが、多数貼りの魅力
(ニューギニアとサモアのカバー二点)
3頁
09月 62 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(東京帝国大学附属樺太演習林)
3頁
08月 61 モーリシャス・ポストオフィス切手の記事に応えて 2頁
07月 60 マテリアルを俎上に その5
「漁師の日」記念の初日カバー
3頁
06月 59 マテリアルを俎上に その4
ブラジル1843年、牛の目
3頁
05月 58 マテリアルを俎上に その3
皇太子殿下北海道行啓紀念、下々方44-9-11
3頁
04月 57 FFCは一対のものである
日本航空・東京~札幌線深夜割引夜行便オーロラ号就航
2頁
03月 56 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(千島択捉島年萌局留置・単冠湾碇泊農林省海洋調査船)
2頁
02月 55 中国切手研究会「これはいくら?」のコーナーから
(旅順バイリンガル偽カバーと中華民国大型公用封筒)
3頁
01月 54 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その2
「紀元2600年記念貯金シール」「檀紀年号」
3頁
2001年   号数 タ イ ト ル
12月 53 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その1
「成紀年号」「主体年号」
3頁
11月 52 千島関係マテリアル二題 3頁
10月 51 マテリアルを俎上に その2  ツェッペリン号訪日記念絵はがき 3頁
私の1リーフ「北大VS小樽商大」 1頁
09月 50 切手の図案と配色について 4頁
08月 49 映画「阿片戦争」における一場面
ペニーブラック誕生にまつわる秘話
3頁
07月 48 マテリアルを俎上に その1
ASDA(米国切手商協会)切手展のスーベニア・シート
3頁
06月 47 第一次昭和切手厳島30銭凹版切手の無目打について 2頁
05月 46 みせびらかしで失礼します その4
ロンドン国際切手展のスーベニア・シートについて
3頁
04月 45 みせびらかしで失礼します その3
帝政ロシア時代の地方切手「ゼムストーボ切手」
3頁
補足資料 4頁
03月 44 みせびらかしで失礼します その2
中国解放区・旅大区の「郵票彙編」について
3頁
別冊 別冊 独断・郵趣川柳批評 3頁
02月 43 みせびらかしで失礼します その1の(2)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
3頁
01月 42 トピックス(「3シリングバンコ」について) 2頁
会員紹介 1頁
2000年   号数 タ イ ト ル
12月 41 みせびらかしで失礼します その1の(1)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
2頁
11月 40 一寸一言(ちょっとひとこと)「深川一已」地名の由来 1頁
10月 39 郵趣に関するエッセーについて 2頁
09月 38 樺太「九春古丹・野戦局」の消印について 2頁
08月 37 「北見・利矢古丹」の消印について 2頁

ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー

2017年2月第235号

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来場者数
プロフィール

 木村博海 (きむらひろみ)

Author: 木村博海 (きむらひろみ)


 1949年、東京都台東区生まれ。谷中三崎町で育ち、1956年竜泉寺町に移る。
 都立白鴎高等学校、宇都宮大学農学部林学科卒業。
 小学二年生の頃から切手収集を始める。初めて郵便局で買った思い出の一枚は「関門トンネル開通記念」。大学受験を控えて収集を中断。約20年の長いブランクを経て、1987年頃から収集を再開。
 深川木場(~晴海)の木材会社に2年勤務の後、昭和50年度東京大学農学部林政学教室研究生。
 1976年北海道庁入庁とともに渡道。主に林業畑を歩み、34年間勤務。うち地方では網走、帯広、根室、函館に各三年勤務。
 2010年3月、定年退職。この間、職場の部内誌に郵趣エッセーを含め、さまざまなエッセーを投稿。
 退職後は、外国人のための日本語学習支援ボランティア活動、郵趣活動。
 JPS札幌中央支部会員。北海道漢字同好会会員。アイヌ語地名研究会会員。
収集対象: ゼネラル。特に中国、ロシア、旧東欧など。
著書(自費出版): 「豊かな日々のつれづれに」(2003年4月)

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