2017巻頭言

 長年に亘って書き溜めてきた郵趣エッセーを集大成して、ブログをスタートすることになりました。
 この十数年来、切手収集家の団体・日本郵趣協会(2011年4月1日から公益財団法人)の札幌中央支部に所属して、毎月の会報「郵趣・赤れんが」に欠かさず原稿を寄せてきました。それらを過去に遡って一括掲載するとともに、新たな作品をその都度、追加・更新してまいります。
 それにしても、ずいぶんなボリュームになりました。
 職場の部内誌(北海道林務部「林」。1952~2001)に寄せていたエッセーや会報の郵趣エッセーをまとめて2003年に自費出版しましたが、三百余頁の約3分の2は郵趣関係の作品が占めました。その部内誌もやがて廃刊となり、以降、書く場は会報のみとなりました。
 その後の作品を続編として二冊目の本にまとめるつもりでいましたが、区切りが付かぬままに分量は膨らむ一方で、いつしか出版は難しく感じられるようになりました。それが、今回のブログという手段によって「二冊目の出版」を実現しました。これは随時、追加・更新もできるという、出版にまさる願ったり叶ったりの方法でした。
 マテリアル(題材)は広い分野に亘っています。まずは作品一覧に目を通していただき、これはというものから適宜お読みいただければ幸甚です。
 なお、お気づきの点についてはコメント欄でご教示いただければ幸いです。
                                                                         2012年2月

                                     江戸っ子だってねェ。
                                     おう、神田の生まれよォ。いや、じいさんが神田。おやじが浅草で・・・。
                                     こちとら、江戸っ子の筈が今じゃ 「 蝦夷っ子 」 というわけでして。

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                              あの頃   昭和33年用年賀切手 「 犬はりこ 」 ( 東京の玩具 ) の渡辺版初日カバー。
                                     浅草局の初日風景印。 ( 昭和32年12月20日 )


利用に当たって

1 一覧表で見たい作品をクリックすると、その作品がすぐに表示されます。
  また、「 カテゴリー 」 を選択して国別に関連の作品を見ることもできます。
  なお、時に原稿のページに歪み ( 縦方向が詰まる ) が出ることがありますが、
  一旦他の月の原稿を開くなりすると、歪みが直ります。
  左上の矢印 (←) で一旦送り、(→) で戻すのが手軽な方法です。

2 画面を拡大すると文章が読みやすくなります。
  ツールバーの「表示」で倍率を選択。原稿は200%が読みやすい。
  これでリーフは実物とほぼ同じ大きさになります。
  ただし、原稿以外の部分は拡大すると段ズレを生じます。
  拡大した画面でクリックすると、二段階でさらに拡大されます。

3 面倒ですが印刷はページ単位で行います。
  印刷したいページにカーソルを合わせて左クリックすると、画像が一旦左側に寄って小さくなります。
  そこで 「 ファイル 」 から 「 印刷 」 をかけると、そのページが印刷されます。
  トップページの部分を印刷する場合には 「 印刷方向 」 を 「 横 」 にする必要があります。
  なお、印刷に便利なCD版 ( 文章は打ち出しで読みやすく、作品単位で連続印刷ができる ) を用意していますので、コメント欄からお申し込み下さ   い。

4 各ページの右下にある 「 Pagetop 」 でその月のトップページに戻ります。
  また、各月の一番後ろにある 《 前のページ ホーム 次のページ 》 を利用して、
  次の作品または前の作品を見ることができます。
  また、「 ホーム 」 でサイトのトップページに戻ります。

5 リンクは、関係項目をクリックするだけでリンク先のページが表示されます。

6 「 日本語の面白さ、日本語再発見 」 は字が小さいので、ブロックコピーして印刷いただくと読みやすいと思います。



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」 掲載郵趣エッセー 2017年分 ー覧表

   ※ タイトルをクリックするとその関連頁が開きます。
2017年 号数 タイトル
12月          
11月         
10月          
 9月         
 8月          
 7月         
 6月          
 5月         
 4月 237  対馬の話  3頁
 3月 236  戦前の台湾の絵封筒  2頁
 2月 235   ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー   2頁
 1月 234  世界の高層建築物の歴史  5頁


                              ※ 2016年分以前 ( ~2000年 ) の郵趣エッセー一覧は、「 写真日記 」 の次にあります。



1 コレクション コーナー

下の切手をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                        (1) コレクション・リーフ                (2) 新作リーフ

ハワイ数字_0001                ハワイ数字_0002
                             1859年                       1864年
                         ハワイ数字切手 1c               ハワイ数字切手 2c



2 千 島 関 係 資 料

下の地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                               千島郵便史                その他の千島リーフ

kunashiri1000.png             etorofu1000.png
                                   国後島                  択捉島





2(2) 台 湾 特 集

下の台湾地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。


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2(3) 全国郵趣大会2016in盛岡

下の大会資料をクリックすると、関係資料が表示されます。


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3 「日本語の面白さ、日本語再発見」
(外国人のための日本語学習支援ボランティアの活動から)

下の“辞書”をクリックするとコンテンツが表示されます。

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4 過去の写真日記

(3) 2016年4月~

下の“ Diary ”のアイコンをクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(2) 2015年5月~2016年3月

下の“ストック・ブック ”をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(1) 2015年4月~2012年4月

下の“日記帳”をクリックすると過去の写真日記の月別一覧表が表示されます。

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5 豊かな日々のつれづれに
第一部 随筆集
第二部 郵趣エッセー集

下のアイコンをクリックすると目次が表示されます。

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                                                                   (画像はクリックすると拡大します)

写 真 日 記
                                ( 画面を125%に拡大してお読みください )

 4月28日(追加)
 今日は上天気。
 庭のタツタソウが淡い紫色の花を付けている。
 この花はその名の由来が興味深い。

 タツタソウ ( 竜田草 ) はメギ科のイトマキグサ。
 原産は朝鮮半島北部、中国東北部、アムール地方で、日本には日露戦争のとき、1904年 (明治37) に軍艦 「 竜田 」 の乗組員が日本に持ち帰ったことが名前の由来という。
 草丈は9~30センチメートル。葉は全部が根生(それぞれが根から直接伸びる)で、長い赤黒色の葉柄を備え、ほぼ円形で直径約5cm、葉の先端がくぼみ、イトマキグサ(糸巻草)の名はその形から。早春に淡紫色の花を単生する。
 根茎は黄色で、アルカロイドのベルベリンを含有するため、黄連(おうれん)の代用とする。漢名は鮮黄連、鉄線草。

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庭のタツタソウが淡い紫色の花を付けている。



 4月28日(金)
 このところ台湾尽いているが、今日も台湾の材料。
 ヤフオクの出品。締め切りにうっかり高をくくっていて落とし損なった。
 そんなに頑張る覚悟もなく、成り行き任せの自然体だから致し方ない。それで借用画像で。

 台南局の昭和5年 (1930年)の10月26日~11月4日と表示された 「 台湾文化三百年記念 」 の記念印を押した官白。
 台紙に使われたのはこの年8月に発売されたばかりの1 銭5厘の 「 点なし楠公はがき 」( 「はかき」 と表示 )。

 「 台湾文化三百年 」 とは何を指すのか。
 さらに遡ると、台湾は元朝が13世紀後期に澎湖島を領有したことはあったが台湾本島には及ばず、その後の明朝も同様であり、台湾はどこの国にも領有されることなく、周辺海域を通過する船の一時的な寄港地、あるいは海賊の根拠地(倭寇の根拠地ともなった)として利用されるのみであった。
 ヨーロッパ船で初めて台湾に到達したのはポルトガル船で、このとき緑豊かなこの島を 「 イラ・フォルモサ( 麗しの島 )」 と呼んだと伝承されている。

 大航海時代に至り、ヨーロッパ各国から多くの船が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を 「 領有 」 し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。

 オランダ植民統治時代
 1624年:オランダの東インド会社が、台湾島の大員 ( 現在の台南市周辺 ) を中心とした地域を制圧。
 1626年:スペイン勢力が台湾島北部の現基隆市付近に進出して要塞を築く。
 1642年:オランダ東インド会社がスペイン勢力を台湾から追放する。
 1661年:鄭成功の攻撃を受け、翌年に台湾から完全撤退する。

 以降、鄭氏政権時代 (1662~83年)~清朝統治時代 (1683~1895年)~日本統治時代 (1895~1945年)へと続く。

 オランダ人が台南地域に進出した時から数えて300年に当たる節目になったこの年、10月26日から11月4日までの10日の会期で台南で 「 台湾文化300年記念 」 の文化講演会が開かれている。
 『 台北帝国大学教授の村上直次郎や台湾総督府技師の栗山俊一,台湾総督府図書館館長の山中樵,史蹟名所天然記念物調査合委員の連雅堂,台湾史料編纂委員などが参加し,3回にわたる盛大な講演会を開いた。その講演稿本を集め 「 台湾文化史説 」 と 「 続台湾文化史説 」 が出版された。これによって台湾の民衆が台南州平安の史蹟に留まらず,台湾本島の歴史事情をもより一層理解することができたため,社会教育だけでなく,啓発教育の意義も含まれていた。 』( 台湾の日本統治時代における一般社会教育体系一郷土文化の発展との関連を中心に-鄭 任智 )

 台南は台湾で最も早くから開けた地区の一つであり、寺院や廟など史跡が数多く点在することから 「 台湾の京都 」 とも喩えられる台湾の古都である。
 また、繁栄した地域を順に謳った言葉に 「 一府 (台南市)、二鹿 (鹿港鎮)、三バンカ ( 舟偏に孟と甲 : 台北市万華区 )、四・月津 (台南市塩水区 )」 とある。

 オランダ人はここに( 現在の安平 ) 根拠地ゼーランディア城 を築いた ( 更にプロヴィンティア=赤?楼を建築 )。清朝時代初期の鄭氏政権下の台湾の首府 ( 赤?楼を東都承天府とする ) であり、政治・経済・文化の中心地であった。日本統治時代に台湾の中心地は台北に移ったものの、その後もしばらく台北に次ぐ地方都市として発展した。

台湾文化300年
「 台湾文化三百年記念 」 の記念印。台南局、昭和5年 (1930年 ) 10月26日~11月4日と表示。



 4月26日(水)
 道立近代美術館で始まった 「 大原美術館展Ⅱ 」 を見てきた。
 Ⅱとなっているのは 2012年以来2度目。前回の記憶はない。

 第一次大戦後,パリを中心に活躍した外国人画家たちのグループを 「 エコール・ド・パリ 」 ( パリ派 ) といい、その中に日本からパリに渡った画家を志す者たちが数百人もいたという。
 まさに 「 1920年代の巴里。そこは画家たちの憧れの地だった 」。

 大原美術館は、岡山県倉敷市にある美術館。倉敷の実業家大原孫三郎 ( 1880年–1943年 ) のコレクションによる。自身がパトロンとして援助していた洋画家・児島虎次郎 ( 1881年–1929年 ) に託して収集した西洋美術を中心に、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示している。
 西洋美術、近代美術を展示する日本最初の美術館として1930年に開館した。

 今回の展示。Ⅰ部 児島虎次郎の作品10点。Ⅱ部 ヨーロッパの1920~30年代の作品36点 ( 渡欧中の日本人によるものを含む )。そしてⅢ部 大正から昭和初期の日本人の油絵、陶器などの作品が併せて展示されている。
 中でも中心をなす西洋絵画は、ルオー、マチス、ブラマンク、ピカソ、シャガール、キリコ、カンジンスキー、パウル・クレーなど今日に名をなす作家のものが並ぶが、特にキリコの 「 ヘクトールとアンドロマケの別れ 」 と題する作品は、ここに収蔵されていたものであったのかと驚いた。逆に、国内にあったからこそ、教科書に取り上げられるなどして日本人に馴染みになっていたのかも知れない。
 そして、また藤田嗣治の代表作 「 舞踏会の前 」 もここに収蔵されていたもので、巡り会えた。
この絵は、一昨年、東京藝術大学大学での修復作業を終えたもので、その修復作業の過程がパネルで説明されていた。

帰りは北大に寄ってミズバショウを見てきた。
 北海道で早早にこの花を見ると 「 夏が来れば思い出す 」 と歌う尾瀬のミズバショウとの季節のギャップをいつも感じてしまう。
 春一番に咲くキタコブシも満開でした。

大原
「 大原美術館展Ⅱ 」 の入場券。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

キリコ
キリコの 「 ヘクトールとアンドロマケの別れ 」

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藤田嗣治の代表作 「 舞踏会の前 」。 ( 1925年 )

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中央通りに沿った工学部南側の池のミズバショウ

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満開のキタコブシ。



 4月25日(火)
   連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー宛ての直訴のはがき。
 マッカーサーは日本の占領政策を担った連合国軍総司令部 ( GHQ ) の最高司令官 ( SCAP )。

 裏面の文面は、満州に出征した息子が終戦後も未だ復員しておらず、“ 閣下の御思召し ” を以て一日も早く復員できるようにとの懇願が綴られている。
 他に、“ 満州北鮮 ” からの 「 帰国 」、「 救出 」 を訴えるもの、また小学六年生の 「 教師の人員整理中止 」 のお願いもある。

 これらは短い直訴のはがきだが、敗戦からサンフランシスコ講和条約締結 ( 1951年9月8日。翌52年4月28日に発効 ) まで、日本が連合国軍の占領下にあった時代、期せずして日本人から最高司令官マッカーサーに期待を込めて送られた手紙が50万通にも及んだという。( GHQの 「 1946年9月から1950年末までに受け取った手紙の総数41万1,816通 」 との記載から推測。著者は、占領開始からの1年間が含まれないのが不可解と言うが )

 その全貌を知る恰好の本がある。 「 拝啓 マッカーサー元帥様 ( 占領下の日本人の手紙 )」( 袖井林二郎、大月書店 )。
 冒頭の長い前書きの部分 「 プロローグ 」 に、マッカーサーへの手紙が書かれた時代背景や日本人の気質、資料として保管されたそれらの手紙の所在、手紙の様々な性格などが総括的に述べられている。

 そして本文では、著者が米バージニア州ノーフォークにある 「 マッカーサー記念館 」( マッカーサーが気に入って自分のファイルに綴りこんだ約3,500通 ) とワシントン郊外メリーランド州スートランドのワシントン・ナショナル・レコードセンターに保管されたGHQ/SCAP文書のGⅡファイル ( カートン・ボックス6箱 ) で当たった 「 私が実際に全文を読むことができたのは、この推定50万通のせいぜい1-2%であろう 」 という手紙を、占領政策への讃辞、米国の戦争責任を問うもの、天皇制に対する意見具申、贈り物に添えた手紙、政治意見、献策、願い事、窮状の訴えなどのカテゴリーに区分してそれぞれに解説している。

 これら日本人の投書を受け取ったGHQでは、ATIS ( 翻訳通訳部隊 ) によって、占領政策遂行のまたとない貴重な情報として全部に目を通し、英文の要約が作られ、重要と思われるものは全訳された。
 それらの中から重要と思われるものとマッカーサーの目に留まったものが残され、その他の多くは一定の保管期間を経て処分されたものと思われるが、そうしたときのいつもの常で、処分に回されたものの一部がこうして処分を免れて市場に出回ることになる。

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昭和21年1月21日の、連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー宛ての直訴のはがき。 ( 原寸 )



 4月24日(月)
 金瓜石 ( きんかせき ) の消印。
 菊1銭の田型に押された印影は鮮明で、大正4年1月12日。
 だが、「 金爪石 」 に見える。これだと 「 きんそうせき 」。
 ここは 「 金瓜石 」( きんかせき ) の筈だが。

 紛らわしい漢字の判別を覚える言葉がある。
 「 瓜(うり)に爪あり、爪に爪なし 」。
 ついでの脱線で、「 巳、己、己 」 の区別は、「 巳(み)は上に、己(おのれ)己(つちのと)下につき、已(すで)に已(や)む已(のみ)中程に付く 」。これは比較的使う字だから重宝にしている。ただ、上巳 ( じょうし ) が入っていないのは不備。
 いや、「 上巳 」 は上旬の巳の日の意味であり、元々は3月上旬の巳の日であったが、古来中国で3月3日の桃の節句とされるようになった。

 それから、「 戍(点)、戊(無)、戌(棒) 」 は、「 点戍(まも)りゃ、戊(つちのえ)無くとも、戌(いぬ)に棒 」。
 こちらはあまり縁のない字だが、二つ合わせた 「 戊戌 」( つちのえいぬ、ぼじゅつ ) は、清末の 「 戊戌の政変 」( ぼじゅつのせいへん:西太后が袁世凱らと共に、武力をもって戊戌の変法を挫折させた保守派のクーデター ) として世界史の記憶に残る。
 また 「 衛戍 」( えいじゅ ) は、旧陸軍において駐屯地を指す言葉であった。

 話を戻すが、金瓜石は台湾北部の新北市瑞芳区 ( 旧台北州基隆郡 ) にあった金鉱山。
 かつては、東北アジア第一の金山と呼ばれ、非常に栄えた。有名な観光地・九份の裏手に当たり、現在は鉱山の遺構を中心に観光地化されている。

 記録によれば当時の金瓜石の山の標高は海抜約660mで、現在よりも80m程高かったという。直径100m近い巨大な円筒型の岩山がそびえ立っていたことになる。その巨岩が瓜のような形をしており、また金を多く含んでいたので 「 金の瓜の石 」 即ち金瓜石と呼ばれ、それがそのまま地名となったという。

 1890年 (明治23年)、基隆川に架ける鉄道橋工事の最中 ( 清朝統治時代末期の1891年、基隆~台北間28.6kmが開業 ) に作業員によって渓流から砂金が発見された。以後、猴硐溯(こうどうさく)から小粗坑溪、大粗坑溪に沿って上流への鉱脈探索が進められ、1893年には九份(きゅうふん)で金鉱が発見され、一躍ゴールドラッシュの様相を呈した。翌1894年には金瓜石でも金鉱が発見されたが、当時日清戦争などで清国政府は鉱山の管理どころでなく、ほぼ放任状態だったという。

 1895年(明治28年)、台湾の統治者となった日本政府はただちに金鉱採掘禁止令を敷き、翌1896年(明治29年)には新しく鉱業管理規則を発布した。 それと同時に基隆山山頂を境として一帯が東西に分けられ、東の金瓜石は田中長兵衛の田中組に、西の瑞芳は藤田伝三郎の藤田組にそれぞれ採掘権が与えられた。
 また、1904年(明治37年)6月には獅子岩の麓で豊富な硫砒銅鉱が発見され、金瓜石は金ばかりでなく銅鉱としても大規模な鉱床であることが明らかになった。

 その後、藤田組は伝三郎の死亡で採掘権を顔雲年に譲渡したが、顔雲年は藤田組の経営手法を更に発展させ、借り受けた区域を多数の小区域に分け、請負人を募集して分配し貸し出すという 「 区貸し制度 」 を採用して成功した。「 基隆顔氏 」 は台湾五大家族のひとつに数えられる名家で、歌手の一青窈さんの父親もこの顔一族だという。

 金瓜石鉱山一帯の経営主体はいくたびか交代するが採掘は順調に発展し、金・銀・銅の生産量は飛躍的に増大した。
 しかし戦時体制に突入すると労働力の確保も困難となり、太平洋戦争も末期に近付くと鉱山の業績も降り坂になり、1943年 (昭和18年)に金の生産が中止、翌1944年には銅の生産も中止となり、やがて終戦を迎えると鉱山は一時閉山となった。

 戦後、中華民国政府は金瓜石を接収し、10年後の1955年に金瓜石鉱山を再編して台湾金属鉱業股份有限公司が設立された。生産方式はすべて日本鉱業を踏襲したが、当時台湾には金属の製錬所がまだなかったため、新たに金瓜石に金銀製錬工場を、また水南洞に沈澱銅を製錬するための溶鉱炉、反射炉と電錬工場を建設した。金瓜石は一時的に活気を取り戻したが鉱脈は次第に尽き、1985年には廃業を決めた。

 およそ90年間に亘って掘られた坑道の総延長は600km以上に及び、金瓜石鉱山90年の総生産量は粗礦量約2,500万t、純金120t、純銀250t、銅25万tに上るものと推定されるという。

金瓜石
菊1銭の田型に押された大正4年1月12日の金瓜石の消印。
「 爪 」 ( つめ ) のように見えるが。

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こちらは本来の 「 瓜 」 ( うり ) のように見えるが。



 4月23日(日)
 台湾・澎湖島の馬公海軍要港部関係者から、東京・深川に宛てられた昭和11年の新大正毛紙3銭貼りの封筒。 ( 図1 )
 台湾の消印も特徴があるが、時刻表示の 「 后0-8 」 から、タイプは地方の小局で使用された時刻刻みの粗い大甲型。
 宛先の深川区扇橋(図2)は現在の江東区白河、三好、東扇橋辺であるが、いずれにしても小名木川沿いの地域である。
 中身入りで、80年も前の手紙を見ると不思議な気持ちがしてくる。

 馬公海軍要港部があった澎湖島の馬公、現在の馬公市は、台湾澎湖県の県轄市。澎湖県政府の所在地。
 台湾の歴史上最も早くから漢民族による開発が行われた地域で、1592年に創建された台湾最古の廟である天后宮がある。馬公の市街はこの天后宮を中心に形成され、その街路網は現在でも残っている。
 天后宮以外にも、澎湖島内には150近くの寺廟があり、島民の生活が古くから海と密着したものであったことから、そのほとんどが海の神である媽祖を祀っている。

 その馬公に旧日本海軍の 「 馬公要港部 」 が1901年 (明治34年) に開設され、1941年 (昭和16年) 11月20日には目前に迫った日米開戦に備え 「 馬公警備府 」 に昇格した。
 1943年 (昭和18年) 4月、警備府は高雄に移転し 「 高雄警備府 」 を設置、馬公警備府は馬公特別根拠地隊に改編され、終戦に伴い1946年(昭和21年)4月30日に廃止された。

 要港部は、日本海軍の機関で、海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関。また、警備府は、要港部を改編したもので、鎮守府(かつて日本海軍の根拠地として艦隊の後方を統轄した機関)に準じた役割を担った。

 なお、「 鎮守府 」 については昨年7月23日の当欄 ( 4過去の写真日記 (3) 2016年4月~ ) の 「 呉海軍経理部差し立ての速達書留便 」 で、『 「 呉海軍 」 は艦隊司令部の役割を果たした鎮守府 ( 日本海軍の根拠地 ) の一つで、1884年の横須賀鎮守府 ( 当初は1876年に横浜に仮設、移転 ) に次いで、1889年に呉鎮守府と佐世保鎮守府、1901年には舞鶴鎮守府が開庁した。 』 として触れている。

馬公要港部_0002 馬公要港部_0001

図1 台湾・澎湖島の馬公海軍要港部から、東京・深川に宛てられた封筒。
局名は擦れているが 「 澎湖 」 と読める。日付は昭和11年6月29日。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

図2 裏面の差出人住所記載部分。「 台湾馬公要港部 」「 官舎乙20号 」。





 4月22日(土)
 終戦の日に朝鮮・京城 ( =漢城。 現・韓国ソウル ) で作成された昭和切手の 「 ラストデーカバー 」( LDC )。図1。
 当時の第二次昭和切手 ( 昭和17-21年発行 ) と、その前の第一次昭和切手 ( 昭和12-15年発行 ) の3種を混ぜて貼ったうえに、光化門郵便局の昭和20年8月15日の消印が押してある。
 ラストデーカバーとは切手の使用有効期限の最終日の消印の押されたカバーで、閉局日を記念した押印もある。

 光化門は、朝鮮王朝 ( 李氏朝鮮 ) の王宮・景福宮の正門として1394年に初めて建設されたのち、何度かの焼失・移動・復元工事を経て、2010年8月に最新の門が一般公開されている。
 1910年の日韓併合後、朝鮮総督府庁舎を建設する際に門の取り壊しが検討されたが、民藝運動を起こした思想家であり美学者の柳宗悦 ( やなぎ むねよし ) らの働きかけで保存されることになった。門は元の場所より北側に移築されたが、2010年の再建の際に、元の位置に戻された。

 1910年の日韓併合以前、朝鮮は大韓帝国 ( 李氏朝鮮の1897~1910年の国号 ) と言う名の独立国であり、独自の郵政を持っていたが、日韓併合に先立つ1905年、「 日韓通信業務合同 」 により、日本は大韓帝国が運営していた通信業務 ( 郵便電信事業 ) を日本側に委託させている。

 以来、朝鮮半島での郵便事業は日本の郵政の下に置かれ、日本の郵便切手が使用されてきたが、日本の敗戦で何はともあれ、公式な使用停止はともかく、日本の支配を象徴する一つであった日本の郵便切手にラストデーを宣告したもの。

 公式にはこの日、これらの切手が使用を停止されたわけではないが、終戦の日、いや日本敗戦の日、この日が朝鮮や中国では日本の支配や占領からの解放を意味したことからすれば、「 ラストデーカバー 」 としての制作も頷ける。
 ただし、左の 「 解放朝鮮 」 のゴム印からして、後日、日付を遡って制作されたものではないかとの疑問も出てくる。

 以降、朝鮮半島では1946年に南北朝鮮でそれぞれに切手が発行されるまで日本切手の使用が続くことになる。 ( 1946年6月30日限りで使用禁止 )
 図2 韓国アメリカ軍政下暫用加刷切手6種 1946年2月発行。
    ( 第一次、二次昭和切手に 「 朝鮮郵票 」 と額面を加刷 )。
 図3 韓国 1946年5月1日発行 解放記念6種貼りFDC
 図4 北朝鮮の一番切手 1946年3月12日発行 普通切手2種


 なお、朝鮮半島における近代郵便制度の歩みについては、2010年7月第156号 「 朝鮮近代郵便史 」 をご覧ください。

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図1 昭和切手で作成された終戦=朝鮮解放記念のラストデーカバー。
光化門郵便局の昭和20年8月15日の消印。
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図2 韓国アメリカ軍政下暫用加刷切手6種 1946年2月発行。 ( 原寸 )
   ( 第一次、二次昭和切手にハングルで 「 朝鮮郵票 」 と額面を加刷 )。
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 図3 韓国 1946年5月1日発行 解放記念6種貼りFDC。 ( 90% )
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北朝鮮
 図4 北朝鮮の一番切手 1946年3月12日発行 普通切手2種。 ( 150% )
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 4月21日(金)
 18日に、珍しい地域に宛てられた例として台湾からエチオピアの首都アジスアベバ宛てのカバーを取り上げたが、今回もイーベイの出品に同じアフリカの珍しい地域に宛てられたカバーを見つけたので取り上げる。
 横浜の外国人居留地・山下町のインド商人・ペソマル・ムルチャンドから、北アフリカのベンガジ ( キレナイカ、今日のリビアの首都 ) に宛てられた1936年 ( 昭和11年 ) のカバーです。
 新毛5銭二枚貼り、10銭はこの時期の国際書状の基本料金。

 ベンガジはリビアの東部地方・キレナイカの重要な港湾都市。キレナイカはトリポリタニア、フェザーンと共にリビアの歴史的な3地域。
 このことについては、2011年9月第170号の 「 リビア、二つの首都 」 をご覧ください。

 ベンガジは古代ギリシア時代には植民地キレナイカの中心都市で、サハラ砂漠を縦断するアラブ隊商の拠点となるとともに隊商路の起点として繁栄したが、その後は隊商路の起点が西方のトリポリに移ってしまい、長い間キレナイカ地方の小都市にとどまった。
 しかし20世紀初頭にイタリアに占領され、港湾が整備されたことから、1930年代には商業上、軍事上の要地として重要な位置を占めるようになり、支配を目論むイタリアから移民が多く送り込まれた。

 第二次世界大戦が勃発すると北アフリカの要衝として、イギリス軍とロンメル麾下のドイツアフリカ軍団の攻防戦が続いた。
 戦後はキレナイカ王国の首都となり、リビア連合王国が成立した後は、トリポリ ( トリポリタニア ) とともに複都制の首都となった。

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横浜・山下町のインド商人・ペソマル・ムルチャンドから、
ベンガジに宛てられた1936年のカバー。
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 4月20日(木)
 台湾中壢 ( ちゅうれき。現・桃園市中壢区 ) の昭和18年5月15日消印、竹南の中港 ( 現・苗栗県竹南鎮 ) 宛て。
  「 昭和十八年五月拾六日 」 のゴム印は受け取り側で押されたものだろうから、両地の距離4~ 50Kmからしても翌日配達は頷ける。

 宛名の 「 二水に木 」 の字はなく、おそらく沐浴の 「 沐 」 で 「 蕭沐霖 」 の書き違いだろう。
 差出人は台湾電力の 「 中壢散宿所 」 となっているが、「 散宿所 」 という言葉は耳慣れないもので、あるサイトに以下のように説明されている。
 『 戦前の電気器具の販売は、家電屋が当時はなかったので、電力会社の営業所が大きな販売元であった。また、なぜか昔は電力会社の地域の営業拠点が 「 散宿所 」 と呼ばれ、電力会社以外で散宿所と呼んだ例はないようだ。 』という。

 中壢は古くは未開拓の荒野が広がる土地であり、青山蕃と称され、タイヤル族及び少数のケタガラン族、平埔族が居住していた。
 後に大陸より渡海した移入者により中壢の平坦な台地が開墾され、これにより元来居住していたタイヤル族は南部の内陸山岳部へと移住を余儀なくされ、平埔族は次第に漢化され、漢人移民と共に協力して開墾に従事していた。

 移民は福建、広東出身者が最も多く、康熙末年の陳増耀、雍正年間の客家人である黄風、饒平人(じょうへい、ラオピン。広東省潮州市饒平県の客家 )の呉雨吉、頼永馨等の名が知られている。

 乾隆年間 ( 乾隆帝の時代。1736 - 1795年 ) になると外来移民の入植は更に活発になり、1765年頃には福建漳州 ( しょうしゅう ) から郭樽が入植し最大規模の開発を行なっている。郭樽は当初大園に入植し、その後一族を率いて南崁 ( なんかん。山冠に坎 )、桃園地方へと南下、原住民を駆逐すると同時に交通を整備し、今日の中壢発展の礎を築いた。

 これらの開拓民は一帯の村落を 「 澗仔壢庄 」 と称した。村内に老街渓、新街渓が流れ谷を形成していたことから「壢」と称されるようになった。
 「 壢 」 の字義は 「 次々並ぶ畝 」 の意。
 後に当時台湾北部であった竹塹 ( 現在の新竹市 ) と淡水 ( 元来は新荘を指し、後に台北を意味した ) の中間に位置したため、「 中 」 字を採用し中壢と称されるようになった。

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台湾中壢の昭和18年5月15日消印の封書。 ( 原寸 )
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裏面の差出人記載部分。台湾電力 「 中壢散宿所 」


 4月19日(水)
 昨日のアイヌ語地名研究会。
 藤村先生の話は限りなく広がる。
 家を意味する 「 チセ 」 は、もとは屋根の意味だった。
 形が屋根に似た山は 「 チセヌプリ 」 と呼ばれる。
 チセに立てる柱の話から、アイヌ語のなぞなぞが出てきた。
 たくさん足があるのに歩けないものは何か。答えは 「 家 」。
 柱を足に見立てて、家は歩かないと言っている。
 素朴なアイヌのチセの柱の数は、家の大きさによって、4,5,6,7,8,9,~16。奇数の場合は真ん中で屋根を支える一本が加わっている。

 突然アイヌの民謡を思い出した。
 中学の音楽の教科書に載っていた「 ピリカピリカ 」( アイヌのわらべ歌 )。
 『 ピリカ・ピリカ、タンド・シリ・ピリカ、イナン・クル・ピリカ、ヌンケ・クスネ 』。
 「ピリカ」 は 「美しい」。 「タント・シリ」 は 「今日の天気」。 「イナン・クル」 は 「どの人」。 「ヌンケ・クスネ」 は 「選ぶ・つもり」。
 「 今日は好いお天気で、どなたが好き、選んであげよう 」 となるという。
 さるサイトに 「 雪村いづみが歌って広く知られた 」 とある。知らなかった。
 それで音楽の教科書に 「 参考曲 」 として紹介されていたのだろう。

 ワンポイントに、2003年に発行されたふるさと切手の北海道版、北海道遺産に指定さアイヌ紋様の切手を掲げておきます。
 北海道遺産は、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、次世代へ継承したいものとして北海道遺産構想推進協議会 ( 平成9年4月、北海道知事の 「 北の世界遺産構想 」 の提唱をきっかけに、その推進機関として平成13年に設置された ) が選定した有形無形の財産群であり、52件が選定されている。

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2003年に発行されたふるさと切手の北海道版。北海道遺産に指定されたアイヌ紋様の切手。
二種連刷で、右は摩周湖。



 4月18日(火)
 目の保養に。イーベイの出品物。
 台湾・台北欧文印。TAIHOKU 8.9.33 (昭和8年)の鮮印。
 アフリカのアビシニア ( エチオピア ) の首都アジスアベバに宛てられたもの。
 この時代のエチオピア宛ては珍しい。

 芦ノ湖航空の18銭と8銭5厘の二枚と旧毛の6銭貼り。都合32銭5厘。
 この時期の国際郵便料金 ( 平面路=船便 ) は書状20gまで10銭 ( 超20g毎6銭増 ) と書留16銭。
 これからすれば、書状二倍重量料金16銭+書留16銭で32銭。切手の5厘超過はことのついでのオマケ。

 台湾の欧文印については3月19日の本欄で、『 台湾では明治39年 (1906年) からこの丸二型の欧文印が使用されるようになり、昭和11年 (1936年) まで30年の長期に亘って使用され、以降は台湾特有の横線の櫛形の欧文印に引き継がれた。台北をはじめ主要7局で使用された。 』 として紹介しています。

 エチオピアの情勢について。
 戦前のアフリカでリベリア ( アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって1847年に建国され、アフリカの中ではエチオピアに次ぐ古い独立国家 ) とともに、ただ二つの独立国家であったエチオピアは、諸公侯の群雄割拠の時期を経てテオドロス2世 ( 1818~(在位:1855 - 1868年 )によって再び統一を達成し、テオドロス2世はソロモン朝中興の主とされ、近代エチオピアは彼の治世に始まったとされる。

 メネリク2世の ( 1844~(在位:1889 - 1913年 ) 19世紀の末に2度イタリアの侵略を受けたが、1896年のアドワの戦いによって、これを退けた ( 第一次エチオピア戦争 )。このことは、アフリカの帝国がヨーロッパ列強のアフリカ分割を乗り切り独立を保ったという画期的な出来事だった。これにより、エチオピアはリベリアと並んでアフリカの黒人国家で独立を守り切った国家となった。

 1930年11月2日に皇帝に即位したハイレ・セラシエ1世は、即位後エチオピア初の成文憲法となったエチオピア1931年憲法を大日本帝国憲法を範として制定した。1930年11月2日の皇帝ハイレ・セラシエの即位は、カリブ海のイギリス植民地、ジャマイカのマーカス・ガーベイの思想的影響を受けていた黒人の間に、ハイレ・セラシエを黒人の現人神たる救世主、「 ジャー 」 であると看做すラスタファリ運動を高揚させ、アメリカ大陸の汎アフリカ主義に勢いを与えた。

 しかし、新帝ハイレ・セラシエ1世の即位とエチオピア帝国憲法の制定も束の間の平穏であった。
 1933年 (昭和8年)に台北から送られたこのカバーは、波乱前夜のちょうどこの時期に当たる。

 ファシスト・イタリア王国の統領ベニート・ムッソリーニは、1931年の時点で人口4200万人に達していたイタリア国内の過剰人口を入植させるための 「 東アフリカ帝国 」 の建設を目論み、1934年の 「 ワルワル事件 」 を経た後、「 アドワの報復 」 と 「 文明の使節 」 を掲げて1935年10月3日にイタリア軍がエチオピア帝国に侵攻、第二次エチオピア戦争が勃発した。イタリア軍は1936年3月のマイチァウの戦いで毒ガスを使用して近代武装した帝国親衛隊を含むエチオピア軍を壊滅させた後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はジブチを経てロンドンに亡命、1936年5月5日にピエトロ・バドリオ率いるイタリア軍が首都アディスアベバに入城した。

 首都アディスアベバ陥落後、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され ( イタリア領東アフリカ )、ファシスト・イタリアはイスラーム教徒のオロモ人を優遇し、キリスト教徒のアムハラ人を冷遇する分割統治策を採用したが、その間も 「 黒い獅子たち 」 と呼ばれるゲリラが抗イタリアのレジスタンス運動を行った。

 1939年9月1日の第二次世界大戦勃発時、枢軸国イタリアは連合国のイギリスとの戦いを繰り広げ、エチオピアを占領していたイタリア軍とイギリス軍は東アフリカ戦線の激戦の後、皇帝ハイレ・セラシエ1世はイギリス軍と共に1941年にアディスアベバに凱旋した。イギリス軍軍政を経た後、再びエチオピアは独立を回復した。 独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として第二次世界大戦に参戦した。
                  ( Wikipedia エチオピアによる )
 エチオピアの復活が第二次世界大戦初期に達成されていたのは意外であった。

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1933年の台湾からアフリカ・アビシニア ( エチオピア ) 宛てのカバー。 ( イーベイからの借用画像 )
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 4月17日(追加)
 今日、1991年 の台湾映画 「 古嶺街 (クーリンチェ) 少年殺人事件 」 を見てきました。 ( 余計なことだが、正確に言えば少年による女子学生殺害事件 )
 ※ 「?嶺街 (クーリンチェ) 」 のクーは 「 牛偏に古 」 だが、変換できないので仮に 「 古 」 としておく。 パンフレット参照。
 4時間の長尺で、休み無しの上映という長時間映画は記憶がない。

 古嶺街は台北市の中心部にあって、MRT淡水線の台北駅から南に三つ目の古亭駅に近い。
 戦後、国共内戦に敗れた蒋介石は1949年に台湾に逃れると、日本統治50年の痕跡をかき消すことに躍起になり、その一貫として、日本的な地名は中国本土の地名に置き換えられた。
 古嶺の名は有名な観光地、江西省・廬山の山頂付近の名に由来している。

 ずっと見たいと思っていた映画で、59 歳で亡くなったエドワード・ヤン ( 楊徳昌 ) 監督の没後10年に、25年の時を経て4Kレストア・デジタルリマスター版 ( デジタル技術による高画質化 ) が作成されたお陰で、このほどようやく巡り会うことができた。
 また、これを機会に最初に日本で劇場公開されたときには3時間8分 であったものが、本作完成時の当初のバージョンである3時間56分版に再生されて、鮮明な画像にも驚く。

 映画はこれはと思って見に行くのが本来だが ( 先日見てきた、「 すべての政府は嘘をつく ( フリージャーナリスト達の闘い )」( 今日、マスメディアは牙も爪も抜かれ、全て御用機関化してしまった深刻な状況にある ) や 「 アイヒマンを追え 」 ( 1月15日 )、韓国の映画の 「 弁護人 」( 1月5日 ) など。なお、もう一つには米国映画得意の暇つぶしの娯楽映画という存在もあるが )、この 「 古嶺街 (クーリンチェ) 」 の場合はその評判の高さから関心を持った映画であった。
 パンフレットの助けを借りれば、1995年のBBCが選出した 「 21世紀に残したい映画100本 」 に台湾映画として唯一選ばれ、2015年釜山映画祭で発表された 「 アジア映画ベスト100 」 で 「 悲情城市 」 とともにベストテン入りしているほか、過去に多くの国際映画賞を受賞している。

 時代は1960年。
 蒋介石とともに乗り込んできた100万人を超える 「 外省人 」 と日本統治時代の50年を日本人として過ごした 「 本省人 」 の対立、恐怖と暴力が支配した戒厳令下の緊張を強いられた時代、大陸反抗のスローガンのもと、外省人の万年議員に象徴される虚構 ( 小さな台湾が国連の代表権を持っていた時代。青天白日満地紅と星条旗と国連旗が並んで ) が支配した時代。
 台湾海峡の緊張が続く中、キャタピラを軋ませて軽戦車が公道を走り回る日常があった。

 そんな不安定な時代を反映した若者達の世界の 「 外省人 」 と 「 本省人 」 グループの抗争にはじまり、最後の 「 事件 」 に至る主人公の少年の家族模様、仲間、学校生活、恋愛と様々な出来事が断片的に綴られていき、ストーリーを掴みづらい不思議な映画だが、その一方で、こちらの楽しみは台湾の風景 ( 南国の緑やスコールの雨、家並み )・風物 ( 外省人が住んだ日本人が引き揚げたあとの日本式家屋、下駄の名残のような木製のサンダル、頻発する停電 )、歴史 ( アメリカの影響力、中国語の歌詞が付けられた日本の歌謡曲がラジオから流れている ) や時代の空気を感じ取れるところにあった。


 最後に引き起こされた「事件」は、恨みによるものであったのか嫉妬なのか独占欲か、結局、心の闇は見えない。
 4時間という時間に盛り込まれた内容は重く多彩だ。

 なお、1960年は我が国では60年安保の年、この時、反対運動のために来日を断念したアイゼンハワーが台湾を訪れている。
 台湾特集のホルダー17に 「 アイゼンハワー訪台 」 記念切手のFDCを載せています。  その時の説明文を引用しておきます。

 『 この時の日本は60年安保闘争のただ中。1960年6月15日、国民の怒りを集めた空前の大デモ隊が国会周辺を埋めた。
 死者1名 ( 樺美智子さん )、重傷者43名、逮捕者182名を出した激しい衝突の4日後、6月19日に安保条約は自然成立となったが、この日予定されていたアイゼンハワーの来日は延期となり、岸信介は混乱の責任をとる形で6月23日に退陣を表明した。

 アイゼンハワーが6月19日の来日を断念したのは、国会を取り巻いた33万人のデモ隊に恐れをなしたからであり、来日強行によって暴動と内乱に発展する事態を避けたからである。
 その少し前、6月10日には、アイゼンハワー夫妻訪日の準備調整のために羽田に降り立った大統領新聞係秘書のハガチーが、空港から車に乗って出た途端、2万人のデモ隊に路上で取り囲まれ、米海兵隊のヘリで脱出して立川基地から逃げ帰る騒動が起きている ( ハガチー事件 )。

 そして何よりこの最中、この初日カバーの1960年6月18日、アイゼンハワーが台湾訪問しており、前後の日程からそれがこの時の訪日予定を含む一連の行動であったことが分かる。 』 

 烏山頭ダムと嘉南平野一帯の灌漑事業に貢献し台湾の人々に大切に扱われていた八田与一の像が傷つけられる事件が報じられた。親日の台湾で考えづらい事件だが、最近は世界中でおかしな事件が相次いでいる。

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「 古嶺街 ( クーリンチェ ) 少年殺人事件 」 のパンフレット。
「 事件 」 に至った二人。
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 4月17日(月)
 長く所蔵していたが、出番を作れぬままこのほど市場に戻すことになった。
 満州国の第3次白塔はがきに赤峰局の風景印を押したもの。
 日付は 1937年 (康徳3年)9月1日。
 ラクダの絵柄はいかにも当地らしい。

 赤峰市は今日の中華人民共和国内モンゴル自治区東南部に位置する地級市。市名の赤峰はモンゴル語のウランハダ ( 赤い山 ) に由来する。
 民国時代や満州国時代には熱河省の管轄となり、1955年、熱河省の廃止により内モンゴル自治区に編入された。
 熱河省は、現在の河北省、遼寧省及び内モンゴル自治区の交差地域に相当する。

 1931年9月18日、満州事変 ( 中国側の呼称は九一八事変 ) が勃発すると熱河省首席であった湯玉麟は関東軍に投降、改めて満州国参議府副議長兼熱河省行政長官に任命された。
 1933年 (大同2年)3月、熱河地方を勢力下においた関東軍は熱河省行政指導公署を設置、経棚、開魯、林西、林東の4県及び天山、魯北の2設治局を興安総署興安西分省に移管、熱河省は朝陽弁事処が管轄する朝陽、阜新、凌源、平泉、大寧県、凌北、また赤峰弁事処が管轄する赤峰、建平、全寧、綏東、さらに省直轄の承徳、囲場、隆化、?平、豊寧、青竜で構成されるようになった。

 1934年 (康徳元年)5月31日、両弁事処が廃止、12月1日には朝陽及び阜新が新設された錦州省に編入された。1938年 (康徳4年)1月1日、『 熱河省及び錦州省内旗制 』 が公布され、同日興安西省より翁牛特左旗が熱河省に編入された。
 行政区画は変遷しても 「 赤峰局 」 は変わりない。

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満州国の第3次白塔はがきに赤峰局の風景印。 ( 原寸 )
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 4月16日(日)
 大正8年の皇太子 ( 後の昭和天皇 ) の成年式記念のエンボスの絵はがき。
 東京・千住の大正8年5月8日の消印と 「 皇太子殿下成年式記念 」( 東京・大正8年5月7日 ) の記念印。

 宛先、差出人とも当時の住所が目を引く。  宛先は 「 北海道小樽区花園町 」、差出人の住所は 「 東京向嶋墨田村 」 となっている。
 北海道の主要都市に 「 区 」 の名称を用いた時代があり、このことについては2005年8月第97号 「 北海道行政区画の変遷 ( 「 函館区 」 の時代について ) 」 に書いていますのでご覧ください。

 北海道には1899年から1922年まで北海道の都市部に地方区分としての 「 区 」 が設置され、札幌区、小樽区、函館区 ( 以上1899年設置 )、釧路区 (1920年設置)、旭川区 (1914年設置)、室蘭区 (1918年設置)とされたが、いずれも1922年に市制が施行されて市に名称が変わった。

 また、東京向島の 「 向嶋 」 の表記と 「 墨田村 」 の存在に目を引かれる。
 近世初期から早く開けた本所地区 ( 本所村 ) に対して、「 江戸 」 の範囲外であった旧本所区北部から旧向島区 ( 現在の墨田区 ) にかけての地域にはこの隅田村ほか17村が存在した。
 明治以降も隅田村は長く存続したが、大正12年 (1923年) に町制を施行し、隅田町となった。

 昭和7年 (1932年)、東京市は周辺の5郡 ( 荏原、北豊島、豊多摩、南足立、南葛飾 ) に属する82町村を編入して、いわゆる大東京市が成立したが、編入された82町村は20区に編成され、東京市は既存の15区と合わせ35区の構成となった。
 この時、隅田町、寺島町、吾嬬町の3町の区域をもって向島区が新設された。

 裏面左下に薄く見づらいが、「 市制三十年祭、大正八年・七月九日十日 」 の記念印も押されている。


 なお前後したが、昭和天皇 ( 1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日 ) は1919年 (大正8年)4月に満18歳となり、5月7日に成年式が執り行われるとともに貴族院皇族議員となり、1920年 (大正9年)10月に陸海軍少佐に昇任し、11月4日には天皇の名代として陸軍大演習を統監した。

 ついでながら、陸軍特別大演習は天皇が統監を務める陸軍最大規模の演習で、第一回の陸軍大演習は清国との戦争を想定して、明治25年に宇都宮を中心とした地域で実施された。
 第二回目は間を置いて、明治31年に大阪地方で行われ、三回目は明治34年に仙台地方、第四回目は明治35年に熊本、第五回目は明治36年に兵庫県明石郡で実施されたが、明治37~39年は日露戦争で中止されている。
 再開された明治40年以降は毎年実施されるようになり、大正12年の関東大震災で中止された年 ( 伊勢地方で予定 ) を除いて、最後になった昭和11年の北海道札幌での開催まで続けられたが、翌昭和12年には支那事変の勃発で中止となり、それ以後は行われることなく昭和20年の敗戦で日本陸軍は消滅した。
 なお、最後となった昭和11年の北海道大演習について、2003年3月第68号 「 昭和11年、北海道陸軍大演習 」 にまとめていますのでご覧ください。

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昭和天皇成年式時のエンボス絵はがきの表。宛先、差出人とも当時の住所表示が目を引く。 ( 原寸 )

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「 皇太子殿下成年式記念 」 ( 東京・大正8年5月7日 ) の記念印。
1919年 (大正8年)4月に満18歳となり、陸軍歩兵大尉の正衣を着用した18歳の裕仁親王。



 4月15日(土)
 今日はだいぶ暖かくなるようです。
 フキノトウに続いて、フクジュソウ、次いでこの一週間くらいでクロッカスとチオノドクサが溢れ始めましたが、それから時ならぬ雪に見舞われたりもしました。
 紫の星形の花、チオノドクサはその音から「毒草」を連想し、日本語と思える響きを持っていますが、これがヒヤシンス科チオノドクサ属 Chionodoxa の学名の日本語読みとは意外です。

 耐寒性秋植え球根植物。原産地は地中海沿岸から小アジアで、雪解けとともに早春に花を付ける。
 白や青・ピンクなど色の変化も大きい。
 学名はギリシャ語で chion(雪)+ doxa(δόξα、輝き)の意。
 ギリシャの酒メタクサ(「絹」の意)を思い出して、なるほどギリシャ語っぽい。

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庭にクロッカスとチオノドクサが溢れ始めた。



 4月14日(追加)
 昨日は小雪混じりの強い風が吹いて震え上がったが、今日は一転して春の陽気でポカポカ気持ちがいい。
 通りを挟んだ向かいのタマネギ畑が潰されて、流通センターと駐車場になるという話をしましたが ( 3月26日 )、気がつくと、5月からの着工に先駆けて鉄パイプの柵が打ち込まれていました。
 これまでも周辺に残っていたタマネギ畑が次々と潰されてマンションやコンビニに変わり、残っていて欲しい風景が、だんだん失われてゆくのは世の習いとはいえ寂しい。

右手奥にはまだ広いタマネギ畑が広がってはいるが。
秋には左手の丘珠神社の祭りの明かりも流通センターの建物に隠れて見えなくなるのだろう。

 右側の伏籠川も1Kmほど上から先は二度と太陽の射さない暗渠になっており、近くの苗穂川も同様に札幌中心部に向かう途中から暗渠になっている。

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月が替わるとこのタマネギ畑も、流通センターと駐車場の工事が始まる。 ( 写真をクリックするとそれぞれに拡大します )



 4月14日(金)
 1銭5厘の楠公はがきを使った昭和12年の年賀状に押された鮮明な朝鮮印。 ( ヤフオクの出品 )
 全羅南道の巨文島 ( コムンド ) の消印。

 韓国では1970年から始まった漢字廃止政策でハングルのみの表記に転換しているが、日本における漢語と同様に韓国語の中にも多い 「 漢字語 」( 朝鮮語の単語の約6割を漢字語が占める ) の理解と同音異義語 ( 日本における漢語ほど、同音異義語は多くないらしいが ) に支障が出て、漢字教育の見直しが行われていると聞く。
 なお、日本における国字と同様、韓国においても日本の国字 ( 和製漢字 ) に相当する朝鮮製漢字がある。

 ところで、漢字のハングル読みを簡単に調べることができる便利なサイトがある。
 「 NAVER漢字辞典 」http://hanja.naver.com/ 。
 右側にある四角のマスにマウスを使って調べたい漢字を書く ( 電子辞書の手書き入力にによる親字検索の要領 ) と、横に候補 ( 書いた字が歪んだ場合を想定して似た漢字がいくつか示される ) が出てくるので、調べたい漢字を選択すると、その単漢字とその漢字が使われた熟語がいくつも示されて、それぞれの読みがハングルで示される。

韓国における漢字の音、すなわち日本語の音読みに相当する朝鮮語における漢字の音 「 朝鮮漢字音 」 は、日本漢字音 ( 音読み ) と同じく中国語における漢字の音に由来するが、日本語においては、漢字の読みは断続的に入ってきたため1つの漢字に対して持ち込まれた時代によって呉音・漢音・唐音・慣用音など4種類以上があるが、朝鮮漢字音は原則的に1つの漢字に対して音は1つである。

 巨文島は朝鮮半島の南部沿岸沖、済州海峡にある小群島でる西島 (ソド) と東島 (トンド)、中央の小さな島 (古島、コド) の三つの主要な島からなる。
 古島には1885年から1887年の間、イギリスの海軍基地が設置されていた ( 三隻のイギリスの軍艦が巨文島を占拠した巨文島事件 )。

 日本統治時代、巨文島には山口県の網元が移住してイリコや塩サバの製造に取り組み、大きな経済的成功を収めた。これを始めとして、飽和状態にあった沿海漁業に見切りをつけた西日本各地の漁民が入植し、水産加工、鉄工・造船、娯楽、宿泊、公共施設などを設けて集落を形成していき、終戦により日本人が島を去るまで巨文島は東シナ海における重要な漁業基地となっていった。 ( Wikipedia 巨文島 )



巨文島
 全羅南道の巨文島の消印。昭和12年元旦。( 1銭5厘の楠公はがき料額印面部分 )



 4月13日(木)
 昨日のノルウェーの続き。
 ノルウェーの切手にはあまり縁がなかったが、なにがしかあるだろうと思って気がついた。
 札幌オリンピック冬季大会 ( 第11回大会 ) がらみのウインタースポーツ関係の一冊の中にありました。
 1979年のスキー競技大会百年記念の3種は中央のジャンプの切手が印象的な、今となっては古典的名品です。
 もう一つ、2008年発行のノルウェースキー競技組織発足百年記念の4種セットのFDCの切手張り付け部分だが、ストックのデザインの記念印が秀逸。

 ところで、来年のピョンチャン ( 平昌 ) 大会で第23回を迎えるオリンピック冬季大会だが、1924年に第一回目の大会がフランスのシャモニーで開催されて以来、第16回大会までは夏期オリンピックと同年に開催され、第17回大会以降は夏期オリンピックの中間年に開催されるようになった。
 なお、日中戦争の悪化で中止された昭和15年の幻の東京オリンピックの年に、併せて札幌で冬季大会が開催されることになっていたことは、さすがに今日では知る人も少ない。

 ノルウェーでは冬期オリンピック大会が過去に二度開催されており、長野大会の前の1994年のリレハンメル大会と古くは1952年にオスロでの開催があった。

 ついでのことながら、スキージャンプ競技で着地の採点基準になっているテレマーク姿勢 ( ジャンプの着地の際、両脚を前後に開いて片方の膝を深く曲げ、両腕を広げて安定した形をとること ) の名を聞くが、「 テレマーク 」 は昨日のノートオッデンを含む地域の地方名に由来し、古くからスキーの盛んだったテレマーク地方の人たちは、両足を前後にずらす独特の滑り方をしていたことに因むという。

ところで、ノルウェー人で名立たる人の名を挙げれば、初めて南極点への到達したアムンゼン、「 人形の家 」 で有名な劇作家のイプセン、画家のムンク、ペールギュントの 「朝」 で馴染みの音楽家のグリーグあたりが思い浮かぶ。

 そして、ノルウェーと言えば、私的なことだが心に残ることがある。
 高校の時の女子で、その後ノルウェー人と国際結婚してノルウェーに渡り、一昨年の11月に向こうの地で亡くなった人がいる。
 彼女の住んだ所はエーレン ( Ølen )。
ノルウェー南部の西海岸、第二の都市ベルゲンの南にある、ノルウェーの西海岸一帯に連続して長く続くフィヨルドの南部に位置する人口数千の小さな町。
 写真で見るエーレンは、人口の割にはフィヨルドの大きな港湾施設を持ち、海底油田掘削の巨大なリグが何基も繋留されているのが見える。
 そういえば、ノルウェーは北海油田の開発で、かつての漁業国のイメージから今や石油輸出で潤う豊かな国へと大きく変貌している。

 遙かにノルウェーに思いを馳せ、改めて彼女の冥福を祈りたい。

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1979年のスキー競技大会百年記念の3種セットはノルウェー切手の名品。 ( 150% )
( 画像をクリックすると拡大します )

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 2008年発行のノルウェースキー競技組織発足百年記念の4種セットのFDCの切手張り付け部分。
ストックのデザインの記念印が秀逸。 ( 115% )
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 4月12日(水)
 これも落札品を送ってきた封筒。
 ノルウェーから。
 調べると、住所は首都オスロから西へ80KmのHeddalsvatnet という湖の畔にあるノートオッデンという町。

   ほぼ北緯60度、東経10度。ここからさらに東京から青森までくらい北に行けば、もう北極圏だ。
北極圏は、北緯66度33分以北の地域。 ( 66.5度と記憶していたのだが )
 北極圏の限界線となる北緯66度33分線を北極線という。北極圏では真冬 ( 冬至 ) に太陽が昇らず ( 極夜 ) 真夏 ( 夏至 ) に太陽が沈まない ( 白夜 )。

 ノートオッデンは写真で見ると綺麗な建物と北欧の美しい風景が広がっているが、そんな遙かな異国と繋がっていることを思うと、何が無しロマンを感じる。
 A4よりひと回り大きい 32×23 cm。
 銀地の40クローネと70クローネのペアの切手が貼ってある。
 この切手に見る王冠と郵便ラッパのデザインは、19世紀の初期のノルウェー切手のもので、以来このデザインが通常切手のデザインとして連綿と引き継がれている。
 切手の国名表示、NORGEはノルウェー語の表記による。

 1クローネは15円見当。
 180クローネで270円。昨日のアメリカとの国際郵便料金の話を踏まえれば、その他の国でも余程のことがない限りそれなりの相場に落ち着いている。
 消印は擦れていて読み取れないが、何と書いてあるのだろう。
 上はOSLOか。
 4月1日の投函で、8日の到着。順調です。
 それにしても完璧な包装でした。

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ノルウェーから送られてきた封筒。 ( 60% )
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 4月11日(火)
 アメリカから落札品を送ってきた封筒。
 1985年発行のアビゲイル・アダムズを描いた切手の8枚ブロックが貼ってある。
 裏面にも基本額面22セントの切手が11枚貼られていて、都合4ドル18セント。
 書留扱いでもないから通常の航空郵便料金とみて、換算すると450円ほど。
 向こうの料金体系は分からないが、日本からアメリカ宛なら第二地帯への定型外の航空郵便で、50g超100 gの書状料金は400円で、ほぼ同じ。
 ただし、こちらには信書 ( 通信文 ) を含まぬ物品のみ発送する場合には 「 小型包装物 」 という割安の郵便料金があって、これなら240円。

 アビゲイル・アダムズ (1744- 1818年) は、第2代アメリカ合衆国大統領ジョン・アダムズの夫人。第2代大統領の名前は知らなかった。それではと歴代アメリカ合衆国大統領の一覧を眺めても知らない名前ばかりで、案外知らないものです。
 ジョン・アダムズ (1735- 1826年) は、アメリカ独立時期の大統領で、アメリカ海軍創設者。アメリカ合衆国建国の父の中でも最も影響力があった者の一人とされている。
 また、彼女は第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズの母でもあったと言うこと。
 アメリカでは相当に知られた存在であるらしい。

 アビゲイルは大統領たる夫の良きアドバイザーであったようで、会議などで離れた夫への多岐にわたる相談を頻繁にしており、交わした手紙は政治や政府に関する意義深い対話で満ちていた。二人の間に交わされた手紙はアメリカ独立戦争時の史料として、また政治批評の資料として貴重なものとされている。
 山内一豊の妻ばりの内助の功厚い女性としてファーストレディの役割を果たしたばかりか、女性の権利の向上を訴え、奴隷制度に反対するなど当時としては極めて進歩的な考えの持ち主であったことで知られる。

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1985年発行のアビゲイル・アダムズを描いた切手の貼られたカバー。 ( 75% )



 4月10日(月)
 昨日の台湾の会は、何としたことか出席が主宰関係者のみと寂しかったが、お陰で台湾側の世話役とマンツーマンで時間一杯いろいろな話をすることができた。
 8日の本欄の 「 牛罵頭 」 の話で使った明治の郵便路線図を見せて、台湾の昔の地名についての話もした。若い彼等には馴染みのない地名もあったようだった。

 ところで、この 「 稼業 」 は材料探しが一仕事で、材料さえ決まればそれからの作業が楽しいと話した。
 すると、「 三叉河 」 の消印に巡り会った。前にも気になっていた地名だ。
 三叉河は現在の苗栗県の三義郷。
 叉の字は三叉路などの叉だから、三叉河を読めば 「 さんさが 」 だろう。
 また、叉の字は中国ではチャーシューの 「 叉焼 」 として使われる。
 字義は 「 分かれる 」 とか、道具としての 「刺又」( さすまた:相手の動きを封じ込める二股になった捕具。刺股、刺叉とも書く。江戸時代の捕物用の道具津市手なじみのもの ) であり、「 叉焼 」 の場合は、クシ(叉)に刺して焼いた串焼き肉が語源隣っている。

 さて、三義郷 ( 旧・三叉河 ) の由来について。
 あるサイトにこの地の歴史的経緯が以下のとおり記されている。
 『 清の乾隆の13年(1748)に行政区分が彰化県から淡水庁に移管された。
 道光22年(1842)は李藤華などが村の街道を開いて 「 三叉河庄(村) 」 とし、同治9年(1870)に淡水庁は三叉河を設けて、光緒元年(1875)台北府新竹県の管轄とした。
 光緒11年(1885)台湾は福建省から分離独立して省を設置し、劉銘傳が初代の知事に就任した。
 光緒15年(1889)には新しい管轄区域が設けられ、台湾府苗栗県三叉河庄とされた。
 そして民国42年(1953)11月12日に 「義」 と改められ、以降 「 中華民国台湾省苗栗県三義郷 」 の名称が今日まで使われている。 』 ( 三叉河餐館 / 三義的原由 )

 中国の簡体字でも 「義」 の字は 「义」(イー)で、「叉」(チャー)と似ているものの発音も異なる別の字なのだが、「叉」 の字を、「義」 の略字として使われていた 「义」 と置き換えて、一般的で字義の良い 「義」 としたものと思われる。

 もともと、三叉河はおそらく川が三つ又になった地形的要因から名付けられたものではないかと思われる。また霧が多いことから 「 霧都 」 の名もある。

 消印の局名表示は、「 三叉河 」 としているものと 「 三义河 」 としているものがあり、これは 「 牛罵頭 」 と 「 牛馬頭 」、「 台北舊街 」 と 「 台北旧街 」 などの例にも見られる。

 なお、三義郷では1981年8月の遠東航空の墜落事故があり、この事故で取材旅行中の向田邦子が亡くなっている。

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「 三叉河 」 の消印。ここでは 「 义 」 の字が使われている。



 4月9日(日)
 このほど、イーベイで市場に戻したエピルスの不発行の旗図案の7種セット。( 図1 )
 紙質などで分類した3セットを3枚のリーフに整理したもので、「 研究用 」 とアピールした。
   これを材料にした2003年4月の第69号 「 エピルスの切手について 」 では、これらのリーフに記載された説明を解読して、十分に 「 研究 」 しているのでご覧ください。

 エピルスは、ギリシャ北部の地方政府として1912年に設立され、僅かな期間存続して有名なドクロ切手 ( 図2 ) などを発行したが、1916年にギリシャの占領で政権は崩壊した。
 もともとはオスマントルコが支配した地域で、今日ではギリシアとアルバニアに分割されている。

 マージンの幅の広さから、特に図1のような1リーフにあるコーナーの切手を切り取ったよな大きなマージンのものは、どのようなシート構成であったのかと首を捻る。

 図2の ドクロと クロスボーンはチマッラ版と名付けられ、バックに双頭のワシが描かれたユニークな図案のエピルスの一番切手。 ボタ印のように見えるのはコントロールマークと呼ばれる検査印で、SとPに当たるギリシャ文字 ( ΠとΣ? ) の組合せで、チマッラの司令官スピロミリオスの始めの二文字であるという。

 このリーフには 「 3リーフのファンタジー ( 発行不明な切手 ) は前のページのそれらと同様ではあるが、紙質は異なり、デザインにわずかな変化がある。 」 と注書きされている。

 なお、フランス、ギリシアから入札があり、ギリシアに里帰りできればと願っていたが、最終でアメリカ人の手に渡った。

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エピルスの不発行の旗図案の7種セットのリーフ。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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有名なエピルスのドクロ切手。本物は高価で、これはレプリカ。 ( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 4月8日(土)
 台湾の古い消印に 「 牛馬頭 」 がある。
 「 牛馬頭 」 は台中にあった郵便局で、「 馬 」 には芳しくない罵倒の 「 罵 」 の字も使われている。 ( 図1,2 )
 図1は 「 罵 」 の字で、 図2は 「 馬 」 となっており、他にも例があるように二種類の消印が見られる。漢字の字体は簡略化の方向へ動く。

 明治40年時点の台湾の郵便局を記した 「 台湾郵便線路図 ( 明治40年2月1日現在 ) 」 の複刻版 ( 郵趣協会作成 ) があり、「 牛罵頭 」 が載っている。 ( 図3,4 )

 関係サイトの記載から、牛馬頭についてまとめてみる。
 「 牛罵頭遺跡文化園区 」 を紹介したサイトでは、『 牛罵頭遺址は台湾台中市清水区の鰲峰山 ( ごうほうざん: 中国の伝説で大きな海がめが背に乗せているという海中の仙山の名 ) にある遺跡で、台湾中部の新石器時代の遺跡は 「 牛罵頭文化 」 と命名されている。台中市役所の文化局は一帯を 「 牛罵頭遺跡文化園区 」 に指定して公開している。』とある。

 また、台湾のサイト 「 臺中市清水區公所-歴史沿革 」 には以下のように書かれている。長いが訳して引用しておく。
 『 清水 ( せいすい:台中市清水区 ) の旧称は 「 牛罵頭 」 で、もとは平埔族の拍滝拉 ( パポラ ) 族・牛罵社のあったところで、「 牛罵頭 」 はゴマチの音訳に由来している。
 清水の地名はまた「 寓鰲頭 」 ( ぐうごうとう: 鰲峰山に寄り添う所 ) で、それは清水の東側にある鰲峰山 ( 古くは 「 鰲頭山 」 ) の名に因む。
 大正九年(1920年)に、鰲峰山麓の 「 碑仔口 」( へいしこう ) にある澄み切った鏡のような靈泉に因んで 「 清水 」 と改名された。
牛罵頭遺址の発見によって3500-4000年前から先住民が住んでいたことが知られ、オランダ人による1657年の世帯調?では、当時の 「 牛罵社 」 の戸数は58戸、人口は193人であった。
 雍正10年 (1732年) 「 大甲西社番乱 」 ( 大甲西社抗清事件:台湾少数民族の平埔族による清の支配に対する歴史上最大の民衆蜂起 ) の反乱が平定されてのち、「 牛罵社 」 は 「 感恩社 」 と改称された。。

 雍正11年 (1733年)には、漢人がすでに大挙して清水地区に入って開拓を始め、開墾秀水、三塊暦、客庄、橋頭、田寮、後莊、社口、頂南、下南、菁埔、碑 仔口、山脚、水碓等13 の村ができた。
 乾隆元年 (1736年)、呉瓊華が張振万開拓の許可を得て、一族で平埔族・巴宰海族の領地に呉暦庄 (村)、公館庄などを開拓した。
また、乾隆4年 (1739年)には、楊姓の漢人が十二甲庄 ( 現・高南里 ) を開墾し、蕭、趙、王の3 姓の者が大甲渓沿いに海口、牛埔、旧庄などの地を開拓した。

 乾隆の10年 (1745年)、上述の4 姓 ( 楊、蕭、趙、王 ) の開拓者は、北上して大甲渓南岸に至り、一帯の荒れ地を開墾し,高密莊、三塊厝莊、四塊厝莊などの集落を開いた。
 清朝時期には大勢の漢人が海を越えて台湾に渡り、清水一帯に定着して開墾し、例えば蔡源順、蔡泉成、楊同興、王家勝などの家族が商業を通じて豊かになり、文化教育の普及に努め、鰲峰書院、同樂軒などを創設して、文人が大勢集まって、牛罵頭文化の基礎を作った。
 1895年に、キリスト教長老教会が清水で創設され、精致な西洋の文化を伝え、清水の文化を更に豊かなものにした。

 台湾が回復 ( 戦後の日本支配からの解放 ) した後は、歴代村長の指導のもとで、多くの趣味人や熱心な人々によって文芸活動が活発に行われ、文化村の名声が日増しに高まった。
 今日に至る清水の文芸団体の多くは、美術、陶芸、音楽、将棋、写真など全てにおいて台中県を代表する存在である。
 2000年3月、台中県文化局と台中県立港区芸術センターは相前後して清水で創立され、 「 清水未来文化立村 」 のために更に力を注ぎ込んで、2003年1月には第二高速道路が開通して、その中は清水区呉暦里に清水サービスエリアが設置され、清水観光発展の重要な拠点となっている。 』 ( 臺中市清水區公所-歴史沿革 )

  「 台湾郵便線路図 」「 台中庁 」 の 「 牛馬頭 」 の東に 「 葫蘆敦 (ころとん) 」 があり、そのまた東に「東勢角」が見える。
 「 葫蘆敦 」 と 「 東勢角 」 については、第220号 「 再び「日本統治時代の台湾消印」について(上) 」と 196号 「 日本統治時代の台湾消印 」 でそれぞれ取り上げているのでご覧ください。

※ 変換できない漢字があり、便宜的に似かよった字で代用した。
・ 碑仔口の 「 碑 」 は本来の字は土偏。
・ 葫蘆敦の 「 敦 」 は、本来の字には土偏が付いている。
・ 頂南、下南の 「 南 」は、本来は 「 さんずいに南 」。
・ 山脚の 「 脚 」 は、本来は中央が 「 去 」 でなく 「 谷 」。
・ 三塊厝莊、四塊厝莊などで使った 「 暦 」 の字は、本来は 「 雁垂れに昔 」。

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図1 「 牛罵頭 」 消印。 「 罵 」 の字と読み取れる。 ( 300% )

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図2 「 牛馬頭 」 消印。 「 馬 」 表記。明治34年1月2日。 ( 借用画像 )

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図3 郵趣協会作成の複刻版 「 台湾郵便線路図 ( 明治40年2月1日現在 ) 」。
左下 「 台中庁 」 のところに 「 牛罵頭 」 が見える。

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図4 「 台中庁 」 の 「 牛罵頭 」 関係部分を拡大。



 4月7日 ( 追加 )
 昨日は新札幌駅近くにある厚別区民センターでの会合に出席するために出かけたが、新札幌方面は久しぶりで、初めての出席でもあり、だいぶ余裕を持って出かけたことから、開会までの十分な待ち時間を利用して、これまた忘れるほど久しぶりでサンピアザ水族館を訪れた。
 サンピアザ水族館は、昭和57年 (1982年)4月に開館しており、数えれば35年になるが、今でも札幌市内で唯一の水族館として人気だそうだ。
 昔、子どもたちを連れてきたものだが、今ではその子どもたちがそれぞれに孫を連れてきている。
 開館30周年を記念して回遊水槽が設けられ、平成25年 (2013年) に新装オープンした一階の大型回遊水槽は今回初めて見るものであった。

 札幌の副都心とされる新札幌地区は、JRや地下鉄、バスが交差する交通の利便性が改めて評価され、商業開発が始まって40年が経過する中で、大型施設の新装オープンなどで再び脚光を浴びているという。

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サンピアザ水族館の入館券



 4月7日(金)
 対馬・厳原 ( いづはら ) の書留カバー。差出人は 「 対馬国厳原国分町 」 の人。
 消印は、「 対馬・厳原 明治32年9月14日 」。

 始めは面食らったが、宛名は 「 備後国鞆港 鞆製網合資会社 」 で間違いなかろう。
 関係サイトに、『 かつては瀬戸内海自体が輸送の大動脈で、中国などアジアとの交易や日本国内の輸送等々で瀬戸内海を行き交う人でとても賑わっていた。
 鞆の浦は鎌倉時代より埋め立ても進み、特に室町時代の日明貿易でさらに栄え、町が発展し、手工業都市にもなっていった。
 江戸時代には港を中心に商業、鍛冶業、漁業、保命酒 ( 地元・鞆名産の薬味酒 ) などの酒造業を生業とする町人で賑わう町となり、朝鮮通信使の公使など、瀬戸内海を行き交う人々をもてなしていた。
 鞆港は鞆の浦で最大の港で、鞆の津とも呼ばれる。 』 とある。 ( 「 ばずのぶろぐ 」 )

 また、別のサイトに 「 鞆の津の商家 」 ( 福山市指定重要文化財 ) とした写真が載っており、『 この建物は、母屋、土蔵が一体となった豪壮なたたずまいの建物で、江戸末期の商家である。木造2階建ての母屋は、入り口からまっすぐに伸びる通り土間に面して 「店の間」 「中の間」 「奥の間」 の三室が一列に配し、商家の建築様式並びに鞆の町家の典型的な間取りといわれている。
 入口の格子や吊り大戸は、建築当初のものに復元した。
 土蔵は全部和釘 ( 角釘 ) を使用し、幕末頃に流行した登り梁造りになっている。
 なおこの土蔵は明治末期に移築したものである。
 その後、明治27年設立の 「 鞆製網合資会社 」 の建物となり、魚網製造を中心に漁具・船具を北海道から東南アジアまで広範囲に販売する会社であった。
 江戸期から明治初期にかけては呉服や船具を扱っていたが、その後は製網会社の店舗や事務所として使われていた。
   これまでは毎年春の 「 鞆・町並みひな祭り 」 の期間中を除いて非公開だったが、福山市鞆の浦歴史民俗資料館活動推進協議会が地元のボランティアの協力を得て、毎週土、日曜と祝日に無料で公開することになった。 』 とある。 ( “鞆の浦研究室” )

 ズバリ、明治27年設立の 「 鞆製網合資会社 」 の名前が出てきた。
 鞆の浦と聞けば、条件反射的に1939年(昭和14年)に発行された第一次国立公園切手の第三セット、「 大山・瀬戸内海 」 ( 後に分かれて、現在は 「 瀬戸内海国立公園 」 と 「 大山隠岐国立公園 」 になっている ) の 20銭切手に描かれた 「 鞆の浦 」 を思い出す。
 「 医王寺太子殿から望む鞆の浦と仙酔島 」 を捉えた構図と言い、色合いと言い印象深い切手の一つ、名品です。

 なお、「 鞆の浦 」 の名は、南東に開けた弓形の地形が弓を射る時に左手に付ける革製の防具 「 鞆 」 ( とも ) に似ていることに由来する。 「 鞆 」 の字は国字。

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対馬・厳原の書留カバー。差出人は 「 対馬国厳原国分町 」 の人。 ( 70% )
消印は、「 対馬・厳原 明治32年9月14日 」。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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鞆の津の商家 「 鞆製網合資会社 」 ( 福山市ホームページから画像借用 )

瀬戸内
1939年(昭和14年)に発行の第一次国立公園、「 大山・瀬戸内海国立公園 」 の 20銭切手
に描かれた 「 医王寺太子殿から望む鞆の浦と仙酔島 」 。 ( 200% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 4月6日(木)
 作品として書き始めながら、途中で滞って中断するものがある。
 そんな一つに 「 愛国切手誕生の背景 」 がある。
 早く完成させたいと思っているが、前ぶれで今日の埋め草の材料に取り上げておく。  

 1937年 (昭和12年)に発行された 「 愛国切手 」 と名付けられた3種セットの切手は、この時代の切手としては、群を抜いて色つやのよい切手との印象を持つ。
 三色は何やら 「 緑、赤、青 」 のU小判のUPUカラー を連想させるが、よく見ればこちらは 「 赤、紫、緑 」 で、そうではない。

 そのデザイン ( 日本アルプスの上空を飛ぶダグラスDC‐2型機 ) と 「 愛国 」 の言葉の印象から航空切手かと思い、また 「 飛行機献納 」 のための寄附金付き切手か ( 満州国の不発行切手からの連想であったか ) などと漠然と考えていたものだった。

 この切手は日本初の寄附金付き切手として知られ、発行目的別に分類しているスコット・カタログでBナンバーのSEMI- POSTAL STAMPS ( 寄附金付き切手 ) として、B1~3のカタログ番号が与えられていることが何よりそれを示している。

  「 寄付金つき切手の生みの親 土井英一 」 というサイトに偶然巡り会って、この切手が 当初は慈善募金を目的とした発行を目指し、エスペラントやハンセン病と結びつきを持っていたことは思いも寄らないことであった。
 土井英一 (1909~1933)とは、「 荒城の月 」 で有名な詩人で英文学者の土井晩翠 (1871~1952) の長男で、東北大法文学部在学中に結核のため病死している。

 その英一が死を予期していた時期にもっとも熱心に取り組んだのが慈善切手発行の実現で、ヨーロッパの文通相手から受け取った郵便に貼ってあった慈善切手をヒントに、ハンセン病や結核患者の救済に役立てることを考えたのだった。

 英一の死後、彼の遺志を継いで、土井晩翠夫妻はハンセン病患者救済問題への関心を深め、ライ病患者の養護施設関係者に働きかけ、「 患者全部を収容できる病院設備 」 の費用を賄うための寄付金付き切手制度の導入を広く呼びかけた。

 結局、当初の発行目的での発行は実現せず、ひとまず 「 非常時局 」 に受け入れられやすい民間航空事業新興を目的とした発行に転換して寄附金付き切手の発行が実現したが、関係者としてはこれを突破口に寄付金付き切手の制度を導入させ、のちに社会事業目的の発行を達成しようとの意図であった。

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愛国切手の初日カバー。
下部に住所と名前が書き記してあるが、切手を逆さまに貼ってしまった手前、初日記念特印も逆さに押差ざるを得なかったものと見える。
ヘルン・プッチャー。住所は鹿児島市下荒田町となっている。
右上にエンボスで 「 七高 」 とある。

第七高等学校関係のサイトに 「 昭和3年~昭和20年 ドイツ語教授エルンスト・プッチェル 」 とあり、
「 作品コンサート 」 の案内から、この人はまた音楽家で作曲もしていたらしい。



 4月4日(火)
 今月の原稿 「 対馬の話 」 で取り上げたツシマウラボシシジミが、このほど行われた環境省の 「 レッドリスト 」 の見直しで、絶滅の危険性が高い絶滅危惧種として新たに指定された38種の一つに加えられていたことをニュースで知りました。

 ツシマウラボシシジミは、以前から絶滅危惧種に指定されていたが、生息域で増えたシカが幼虫の餌となる葉を食べるため急激に数が減っているとして、絶滅危惧種の中でも絶滅の危険性が最も高い 「ⅠA類」 に分類された。 ( 「 以前から絶滅危惧種に指定されていたが 」 ということで、ニュースの 「 新たに指定された 」 は説明足らずで釈然としませんが )

 レッドリストとは絶滅のおそれのある野生生物の種のリストで、国際的には国際自然保護連合 (IUCN)が作成しており、国内では、環境省のほか、地方公共団体やNGOなどが作成している。
 環境省では、おおむね5年ごとに全体的な見直しを行っており、平成24年度の第4次レッドリストに次ぐもの。
 レッドリストに記載された種について生息状況等をとりまとめ、「 レッドデータブック 」 として発行されている。.

 別の話題です。
 気がつけば、地元北海道新聞朝刊に連載されていた4こま漫画の 「 おーい 栗之助 」 が年度末で終了し、4月から新たに 「 ねえ、ぴよちゃん 」 ( 青沼貴子:1960年生まれ。函館市出身 ) がスタートしていた。
 予告がなく ( 気づかなかったのかも知れないが )、逆に4月1日のスタートの日に新連載開始のお知らせが載っていた。

 3月31日の 「 おーい栗之助 」 の最終回は、新年度のスタートのことかと思っていたが、あとから気がつけば 「 たくさんの思いを胸に 」 で、終了を告げていたのだった。

 「 おーい 栗之助 」 の作者・森 栗丸は、鹿児島県生まれで静岡県で育った人だそうで、國學院大學法学部の時代から漫画を描き始め、1990年、『 ビッグコミックオリジナル 』 ( 小学館 ) の新人募集で投稿した 『 あじさいの唄 』 でデビューし、2013年の24号(12月20日号 ) で長寿連載作品として終了した。
 1998年、日本漫画家協会賞優秀賞受賞。

 「 おーい 栗之助 」 は上記 『 あじさいの唄 』 のスピンオフ ( 派生作品 ) による4コマ漫画。
 中日新聞グループ ( 中日新聞・東京新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井 )、北海道新聞、西日本新聞 ( 以上ブロック紙3社連合 )、河北新報、神戸新聞、中国新聞、徳島新聞、愛媛新聞に2012年2月1日から2017年3月31日まで連載された。

 最終回は1835回。5年の連載だった。
 毎回、穏やか画と多彩な話題の中にこの人の才能を感じていたのだが。

 新しい連載は、小学3年生の主人公の女の子とトラ猫が登場する。
 トラ猫を飼っている孫娘に切り抜きを溜めておいて見せてやろう。

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地元北海道新聞朝刊に連載されていた4こま漫画の 「 おーい 栗之助 」 は年度末で終了し、4月から新たに 「 ねえ、ぴよちゃん 」 がスタートした。



 4月3日(追加)
 散歩に出ました。  薄曇りで日は射しているが、まだ風邪は冷たい。
 雪解けが進んでいる。
 畑の雪解けの泥水が流れ込んで、川は濁っている。
 伏籠川に、もうコイが上ってきている。
 いつもこんなに早くに上ってきていたかしらん。


 「4 過去の写真日記」「(3)2016年4月~」で去年の日記を見ると、4月21日にコイの話題を載せている。
 そうしてみると、去年はただ気がつくのが遅かっただけと言うことかも知れない。  

 ビニールハウスの中では、タマネギの苗が育っている。
 丘珠空港緑地はまだ雪が残っていて歩けない。
 パークゴルフ場も雪を残していて、レストハウスにはもまだオープンの案内はないが、調べると4月22日にオープン予定とのこと。
 パークゴルフ場は平成19年の開設からちょうど10年が経ち、植え込まれた木々も大きく成長している。

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伏籠川沿いの道。雪解けが進んでいる。タマネギ畑の土ものぞいてきた。

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ビニールハウスの中では、タマネギの苗が育っている。

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パークゴルフ場はまだ雪を残していて、オープンは4月22日予定とのこと。

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丘珠空港緑地はまだ雪が残っていて歩けない。



 4月3日(月)
 台湾の 「 琉球支局開設記念 」 の記念印の押された官製はがき。
 イーベイの出品で、予想外の高値になって引き下がった。
 台湾の金門莒光楼 ( きょこうろう ) 官製はがきに、琉球支局の開設を記念した民国48年6月1日の記念印と、はがきの料額印面に琉球局の日付印が押されている。
 民国48年は西暦では1959年。

 莒光楼は、当時の金門防衛司令官が、金門砲戦における国府側将校を顕彰することを目的として1952年に建設させた中華宮殿風建造物である。建物の名となった莒光とは、蒋介石が唱えた毋忘在莒(莒(きょ)に在ることを忘るる毋 ( なか )れ) ・光復大陸に由来し、「 大陸反攻 」 の象徴となっていた。

 ここで言う琉球は、台湾南部の屏東県西南に浮かぶ隆起珊瑚礁の島 「 琉球嶼 」 で、現在は琉球郷として台湾屏東県の郷となっている。
 台湾では琉球 ( 沖縄県 ) に対して 「 小琉球 」 と俗称されている。
 水源を有しておらず、民生物資と共に、水源も東港鎮からの水上輸送に依拠している。

 なお、琉球は古くは台湾自体の呼称で、区別するときは台湾を小琉球、沖縄を大琉球と呼んでいた。おそらく琉球王国 ( 1429年から1879年の450年間存続 ) があった時代のことであろう。
 現在では、屏東県琉球郷を台湾では小琉球と呼ぶ。

 記念印にもある、島の南部にある 「 烏鬼洞 」 は島の観光名所で、この洞窟は1600年代のオランダ人による島民虐殺の悲劇の場で、以来この周辺では西洋の船が黒い幽霊 ( 烏鬼 ) によって沈没させられたとの言い伝えがある。

 なお、敢えて解説しないが、はがきの下部には当時を映す生々しい文言が記されている。

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琉球支局の開設を記念した民国48年6月1日の記念印と、
はがきの料額印面に琉球局の日付印が押された金門莒光楼はがき。
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 4月2日(日)
 こういう存在が知られている。
 モーニングカバー。
 イーベイの出品タイトルは 「 Japan - Mourning cover to Genf Switzerland 」。
 モーニングといってもスペルが違う。
 モーニングコート ( 正喪服 ) のモーニングです。
 試しに 「 Mourning cover 」 でイーベイを検索してみると、夥しい数のモーニングカバーが出品されている。

 黒枠で囲んだ喪に関わる通知。
 満州国の10分切手貼りのスイスのジュネーブ ( Genf:ドイツ語表記 ) 宛てのカバーで、消印は不鮮明ながらなんとか 「 奉天中央 」 と読める。
 日付は 「 7.5.13 」 で、満州国年号の康徳7年は昭和15年に当たる。
 差出人の記載はない。

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満州国・奉天 ( 現・瀋陽 ) から、スイスのジュネーブ宛てのカバー。
日付は 「 7.5.13 」 で、満州国年号の康徳7年は昭和15年に当たる。
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 4月1日(土)
 もう今日から4月。早い。

 4月号の原稿を張り付けました。
 「 対馬の話 」。
 対馬の古い消印をきっかけに、話は日本海海戦、元寇のこと、思いがけない同時期のアイヌ攻撃のためのモンゴル軍の樺太への渡海侵攻、朝鮮通信使のこと、そして対馬特産の蝶の希少種、ツシマウラボシシジミに及びました。

 ワンポイントにはもう一つの 「 対馬・厳原 」 を掲げておきます。


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U小判2銭に、対馬・厳原の明治25年2月( )3日の電信印。
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 3月30日(木)
 3月20日の当欄で、ベスビオス火山の登山電車のことを書きました。
 「 うっかり見逃してあとで購入者から借用した 」 というのは 「 早春賦 」 の歌詞にいう、「 春と聞かねば 知らでありしを 」 で、「 知らぬが仏 」、知らなければ心騒ぐこともなかったのだが。

 それで、イーベイに 「 Vesuvios 」 で網を張っていたところ、図のような絵はがきが出てきた。タイトルには 「 Funicular Railway Car / Tram, Chairlift to mount. Vesuvios, Valcano Napoli Italy 」 とあって、 「 フニクリ・フニクラ 」 のフニキュラー ( Funicular ) がケーブルカー ( 鋼索鉄道 ) を表す英単語としてあったことを知った。

 3月20日の絵はがきとは別の角度から、ほぼ真横から見た姿だが、不鮮明なのが玉に瑕。さらに、こちらには 「 ETNA 」 の表示がある。ひょっとしてベスビオス火山ではなくシチリア島のエトナ火山のものなのか。
 いや、左下には 「 NAPOLI La Funicolare al Vesuvio 」 とあるから、やはりベスビオス火山の登山電車で、この車に 「 エトナ号 」 とでも名付けられていたということか。

 やはり、ベスビオス火山を真正面に見上げる構図といい、「 VESUVIO 」 の文字といい、申し分のなかった前出の絵はがきには敵わない。
 今後も網を張り続けて、どんなものが出てくるか観察していきましょう。ひょっとして前出と同じ絵はがきが出てこないとも限らない。

 ついでながら、エトナ火山はイタリア・シチリア島の東部にある活火山。標高は3,329mとされているが、活発な火山であるため標高は変化している。アルプス地域を除いてイタリアでは最も高い山で、イタリアにある3つの活火山のうちでは飛び抜けて高く、2番目のベスビオ山 ( 1281m ) の三倍近くもあり、ユネスコの世界自然遺産に登録されている。

 エトナ火山とシチリア島で思い出されるのが、1908年にシチリア島北東端の町・メッシーナを襲った大地震 のことで、12月8日未明に起こった大地震はメッシーナ全市を壊滅させ、発生した大津波によっておよそ60,000人の犠牲者を出した。
   地震による犠牲者の数には諸説あるが大津波による6万人を含め、8万2000人とも、10万人以上とも推定されている。近代ヨーロッパにおいて最悪の犠牲者を出した地震である。

 併せて、大地震発生から間もない12月28日にドイツで発行されたメッシーナ救済のチャリティー・シールの 10種 50枚のフルシートを掲げておく。

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ベスビオス火山の登山電車。
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1908年12月28日にドイツで発行された、メッシーナ地震被害救済のチャリティー・シールのフルシート。
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 3月29日(水)
 このところ関心を向けていた数学分野の本で面白かったのが桜井進氏の 「 雪月花の数学 」 ( 祥伝社黄金文庫 )。
 これまた興味深く面白かったこの人の 「 夢中になる!江戸の数学 」 ( 桜井進、集英社文庫 ) からの連鎖だ。
 「 数学 」 が受験もないのに、大名から子どもまで夢中になって流行したという世界にも希な江戸時代。
 平和な時代を謳歌した多くの人々が芸術や娯楽のような感覚で数学を楽しみ、寺子屋の教科書として普及した 「 塵劫記 」 ( 吉田光由、岩波文庫 ) が井原西鶴や十返舎一九よりはるかに部数を売りあげ、円周率、級数、行列式などでニュートンやベルヌーイやライプニッツなどに先んじた関孝和などの和算家を生んだ。

 「 雪月花の数学 」 には、家紋を生んだ日本人の美意識から生まれた円と内接正方形の関係に関わる白銀比の話題が出ている。
 白銀比は西洋の黄金比に対して、日本で古くから美しいバランスとされてきた対比 ( 正方形の辺と対角線の比 ) で、家紋も円と内接する正方形を基本としている。

 1:√2( 1.4142・・・ ) の白銀比は西洋の黄金比 ( 1.618・・・。トランプのタテ横比、名刺のサイズ ( 91×55mm ) にも反映しているという ) と対比され、期せずしてA・B判の紙の比率 ( 19世紀末ドイツの物理学者オズワルドによって提案されたドイツの規格で、現在では国際規格になっている ) にも反映されている。

 A判はオズワルドによって提案されたドイツの規格で、面積が1平方メートルの 「 ルート長方形 」 ( 縦横比率が白銀比の 「 縦:横=1:√2 」 となっており、どこまで半分にしても同じ形になる相似形の長方形 ) をA0とした。

 数学に携わっている息子が家に来たときに尋ねてみると、さすがに桜井氏の存在は承知であったが、上記の3点と 「 数学の楽しみ 」 ( テオニ・パパス、ちくま学芸文庫 ) をどうだと見せたところ、取り敢えずと言って 「 雪月花の数学 」 を選んで持って行った。

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「 雪月花の数学 」 ( 桜井進、祥伝社黄金文庫 )

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「 夢中になる!江戸の数学 」 ( 桜井進、集英社文庫 )



 3月28日(火)
 この数日、雪解けが一気に進んで、庭の土が見えるようになると真っ先にフキノトウが顔をのぞかせます。
 これからは川の土手や周辺の原野に、堰を切ったようにあふれ出します。

 このところ縁あって、家紋のことにずっと関わっていましたが、その中で巡り会った本が最近の読んだ本の中では特筆に値するものでした。

  「 家紋の話 」 ( 泡坂妻夫、新潮社 )。
 管見ながら、家紋の 「 神髄 」 を知るにはこの本が最適と見る。
 家紋の成り立ちから由来、歴史、その種類、分類、関係資料など、家紋について幅広く奥深く知ることのできるこの分野の金字塔。
 泡坂妻夫は神田生まれの職人。「 紋章上絵師 」 という職業の人でありながら深い学識を備えた人。
 また直木賞作家でもある。
  「 紋章上絵師 」 とは、家々に伝わる紋を紋服に描くき入れていく職業。
 「ぶん廻し ( まわし ) 」 と呼ばれる筆をつけた竹製のコンパスと定規で着物の生地に家紋を描き込んでいく職業と言うが、紋服となればいまでも竹製のコンパスが使われているのだろうか。
 さすがにパソコンを使って宝飾品への加工を施す現代版の上絵師もいるとのことだが。

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庭の土が見えるようになると真っ先にフキノトウが顔をのぞかせます。

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「 家紋の話 」 ( 泡坂妻夫、新潮社 ) 表紙。



 3月27日(月)
 3月24日に紹介した 「 1899年のハワイのマウイ島のマイルクからオアフ島のホノルル宛てのカバー 」 に関連して、 図2で 1894年に発行されたハワイ切手の6種セットを掲げたが、「 カバーに貼付された2セントの切手は、1899年に改色して発行された3種のうちの一枚で、この2 セントの切手はもとの茶色がローズに改色されている。 」 と説明した。
 それを比較できるものを紹介します。

 中央上部の黄緑の10セントを除き、2セント切手は右のもとの 1894年の茶色が左の1899年のローズに、同様にその下の1セントは右の黄色が左の青緑に、また5セントの切手は中央中段の赤が下段の青にと、1894年に発行されたうちの三種が当初の色からそれぞれに改色されて1899年に再発行された。

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1894年に発行されたうちの 1c, 2c, 5c の三種が当初の色からそれぞれに改色されて1899年に再発行された。



 3月26日(日)
 昨日まで3日続いて名残雪が降りました。
 今日は上天気。
 タマネギ畑はまだ雪の下。
 それでも畑の中に掘られた排水溝には雪解けの水が音をたてて流れている。

 帰り道、工事看板に驚いた。百年以上も続いてきたであろうタマネギ畑が物流センターと駐車場に変わるという。
 市街化調整区域と安心していたのだが、「 市街化を抑制すべき区域 」 ( 都市計画法 ) であっても、場合によっては線引きも変わるらしい。
 何年も前から後継者がいないと聞いてはいたが。
 長年馴染んできた長閑なこの田園風景がついに失われる時がきたかと思うとせつない。

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タマネギ畑はまだ雪の下。

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畑の中に掘られた排水溝には雪解けの水が音をたてて流れている。

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このタマネギ畑が物流センターと駐車場に変わる。
雪解けとともに、5月から工事が始まるという。
毎年連休前の苗の植え付けに季節を感じてきたのだが。



 3月25日(土)
 昨日の宣教師切手のつづきです。
 昨日の小型シートの説明文の中には得心のいかないところがあって、その部分には触れるのを保留していましたが、確認できたことを補足しておきます。

 英文の理解に苦しんで会のジェネラリストでもある英語の達人に尋ねたところ、思いがけずもう一段の深い意味を知ることができました。
 説明文の後段で 13セントの額面の切手は 「 変だ ( unusual )」 と言っているのだが、なぜおかしいのかと言うことについて。
 また、その理由が 「 ハワイとアメリカという2か国の料金前払い郵便となっているから 」 と説明されているのだが、今ひとつ腑に落ちない。

 その前に、13セントの米国向け料金の切手がありながらドーソン・カバーがアメリカの切手とハワイの切手を混貼りしているのはなぜか。
 13セントの内訳は 「 ハワイ国内 5セント 」 + 「 船賃 ( ハワイ → アメリカ ) 2セント 」 + 「 アメリカ国内 6セント 」 で、計13セント。
 当時のハワイはハワイ王国でアメリカは別の国だった。そして、未だ UPUの無い時代 ( 万国郵便条約は1874年 ) で、 宛先国内の郵便料金は宛先国の郵便切手 ( この場合はアメリカの切手 ) を使うのが普通だった。
 だから、ドーソンカバーは、2セントと5セントのハワイ切手に 3セントのアメリカ切手二枚 ( 6セント ) が貼られていた。これが本来の正常な切手の貼り方なのだという。
 ハワイの13セント切手は、相手国、しかもアメリカ国限定の料金を含んだ切手であり、このような例は他には無いからこの13セント切手は額面設定が 「 異例だ( unusual )」と言うのだが。

 上記を想定 ( 2か国分の料金前払い ) しての13セントの額面は、通例 ( UPUの無い時代には、宛先国内の郵便料金は宛先国の郵便切手を使う ) は別にして、一枚で用件を満たす一見合理的なものとも思えるのだが、「 米国郵政に支払われるべき米国国内での郵便料金が 「 料金前払い 」 でハワイ王国の収入になってしまうという 」 ことを考えると、やはり 「 変だ( unusual )」 と言う意味を得心する。
 そうしてみると、宣教師の使用 ( 米本国との通信用 ) を想定した13セントの額面料金の切手の使用は実際どうだったのだろうか。

 これとは別に、額面13セントの切手がなぜ 2種発行されているのかという疑問が残るが、左の三枚は 1851年に3種が同時発行された一方、右の1枚の13セントは 翌年 1852年に追加発行されたもので、最初の13セントの上部は 「 Hawaiian 」 となっているが、この額面は、ハワイのみならず、「 ハワイ及びアメリカ 」 両国 ( 当時は別の国 ) に適用するものだから、それを明確にするために 「 H.I. & U.S. 」 と変更して翌年再発行されたと言うわけです。
 「 H.I. 」 は 「 Hawaiian Island 」 の略でしょう。

 宣教師切手の名の由来が、全て米国から来た宣教師が使用したと言うことであり、13セントの切手が米国宛てに許されたとすれば、翌年の追加発行はそれを裏付けてもいるようで、13セント一枚に米国国内料金も含まれるならば、本国の6セント分のアメリカ切手を用意する必要もなく、手紙を出す側からすれば便利であったはずで、ドーソンカバー以外にの現存するという残り27通の宣教師カバーの切手貼付状況はどうであったのか知りたいところです。
 2セント切手がドーソン・カバーにしか見られないということからも、「 変だ ( unusual )」 と指摘されながらも、実態として13セント切手が米本国向けの郵便 ( それこそ宣教師郵便 ) に使われていたものと推測され、その背景にはアメリカとの合意があった ( 後で精算するなり ) のではないかと思える。

 なおワンポイントとしては、一番切手の宣教師切手と三番手の数字切手の中間の1853年に発行された初期の特徴的な切手で、カメハメハ三世を描いた5セントと13セントの二枚組みの二番手の切手をイーベイからの借用画像で紹介しておきます。

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1853年に発行されたカメハメハ三世を描いた5セントと13セントの二枚組みの、ハワイ王国時代の初期の切手。



 3月24日(金)
 1899年のハワイのマウイ島のマイルクからオアフ島のホノルル宛てのカバー。
 最後のハワイ切手としてこの年に発行された 「 ホノルルの風景 」 を描いた2セント切手が貼ってある。( 図1 )
 この切手は、 1894年に発行されたハワイ切手の6種セット ( 図2 ) のうち1899年に色違いで発行された3種のうちの一枚で、この2 セントの切手はもとの茶色がローズに改色されている。
 切手の消印は薄いがワイルクの1899年7月22日。裏面のホノルルの着印の日付は翌日の23日。  

 ところで、ハワイには有名なカメハメハのハワイ王国が存在した。
 カメハメハ1世は白人から入手した武器を利用して領土を広げ、1795年にハワイ王国の建国を宣言した後、1810年に全ハワイ諸島を統一した。これ以前のハワイはそれぞれの地方ごとに有力者が統治していた。

 ハワイ王国は初代国王カメハメハ1世 ( カメハメハ大王。在位:1795- 1819年 ) から第8代の女王リリウオカラニ ( 在位:1891- 93年 ) まで、1795年から1893年の間ハワイ諸島に約百年続き、1893年にサンフォード・ドールなどアメリカ移民による革命でアメリカ合衆国の傀儡国家として名目上共和制のハワイ共和国となり、1898年にはアメリカのハワイ準州として併合されて消滅した。

 驚くのは、ハワイにはアメリカ併合以前に長い郵便の歴史があり、早くも1851年 ( 我が国の20年も前 ) には 「 宣教師切手 」 と呼ばれる有名な一番切手が発行されている。
 宣教師切手は3種の額面で4種が発行され、中でも2セントのものには億単位の破格の値段が付けられている。
 宣教師切手の名は、事実上この切手が全て、当時米国から来ていたキリスト教の宣教師たちによって使われたことに由来し、これらを再現した小型シートが2002年に米国から 「 宣教師切手発行150年 」 を記念した発行されている。( 図3 )

 小型シートの説明文には、『 宣教師切手の貼られたカバーは僅か28点が知られている。 右に示された 「 ドーソンカバー 」 と名付けられたカバーは、貴重な2セント切手が貼られた唯一のカバーでである。 』 とある。

 なお、このブログの 「 1 コレクション・コーナー 」 のアイコンにあるような、特徴的な数字切手が1859年から数次に亘って発行されている。

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( 図1 ) 1899年にハワイのマウイ島のマイルクからオアフ島のホノルルに宛てられた2 cのハワイ切手1枚貼りのカバー。 ( 115% )

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( 図2 ) 1894年に発行されたハワイ切手の6種セット。 ( 150% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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( 図3 ) 2002年に米国から発行された 「 宣教師切手発行150年 」 記念しての小型シート。 ( 120% )
4種の宣教師切手と貴重な 「 ドーソン・カバー 」 が描かれている。



 3月23日(木)
 今朝の雪景色。
 東京からは桜の便りも届いているというのに。
 昨日まで順調に雪解けが進んでいたというのに、今朝は一転して雪景色です。

 過去の写真日記のホルダー 「 (3) 2016年4月~ 」 の今年1,2月分の張り付けをサボっていて、ようやく張り付けました。
 データのボリュームが嵩んでくると動作環境が悪くなって、いつも作業に苦労します。

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ベランダからの雪景色。



 3月22日
 イーベイに出品中の楠公二銭はがき。
 昭和16年7月20日の 「 海の記念日制定記念 」 の大連中央局の記念特印が押され、中国のマカオ ( 澳門 ) の 「 昌記郵票公司 」 という切手商に宛てられたもの。
 裏面には同7月31日 ( 31- VII- 41 ) のマカオの中央駅郵便電信局の到着印が押され、時節柄三角の検閲印が押されている。

  「 海の記念日 」 は明治9年に明治天皇が東北・北海道巡幸の帰途、灯台視察船 「 明治丸 」 ( 現在、東京海洋大 ( 旧東京商船大学 ) 越中島キャンパスに陸上展示保存 ) に乗って、横浜港に無事帰還した日を記念して、昭和16年のこの時、当時の逓信大臣の提唱で 「 海の記念日 」 が制定され、この後、平成8年に国民の祝日 「 海の日 」 に引き継がれた。
 このことについては、2016年3月第224号 「 東京商船学校練習船月島丸 」 に関連で記載しています。 

 マカオは朱江の出口で香港と向かいあう位置にあり、1984年のイギリス・中国の香港返還交渉に続いて、1987年4月13日にポルトガルと中華人民共和国との間にマカオ返還共同声明が調印され、マカオの行政管理権は1999年12月20日に中国へ返還され、以降マカオは中国の特別行政区となった。

 マカオの歴史を紐解くと、中国とポルトガルの初めての出会いは1513年。当時世界有数の海洋大国として世界各地にその覇権を誇っていたポルトガル人が中国に初渡来し、明王朝との交易を開始した。 ( 以下Wikipediaの 「マカオ」 から要約 )

 その後、1557年にポルトガルが明から居留権を得、中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。但し、この時期のマカオの領有権はポルトガルではなく明にあり、明がマカオに税関を設置するなど主権を有していた。

 因みに、ザビエルの日本上陸はこれに先立つ1549年で、この時、当時大陸との貿易が盛んであった薩摩半島の坊津 (ぼうのつ) に上陸し、日本に初めてキリスト教を伝えた。
 日本が鎖国するまでのマカオは長崎とも盛んな貿易があり繁栄を極めたが、その後は明清交替期の動乱や1757年の広東 (広州) の対外開放により、アジアにおける一大貿易港としてのマカオは次第に衰えた。

 大英帝国がアヘン戦争に勝利して、1842年に香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年に 「 マカオ自由港 」 の成立を宣言して清の税関官吏を追い出し、最終的に1887年にはポルトガルが統治権を獲得し正式に同国の植民地とした。

 しかし、天然の良港に恵まれアジアにおける要衝として発展した香港とは対照的に、マカオは珠江の土砂が堆積しやすく大型の船舶が入港しにくく、ポルトガルの国力の低下などもあってマカオの貿易港としての地位は凋落した。
 1937年に日中戦争が始まっても、ポルトガルは日中両国と国交を持ち、ポルトガル領のマカオも中立的立場で戦火から平穏を保った。
 第二次世界大戦においてもポルトガルは中立国を堅持し、太平洋戦争 ( 大東亜戦争 ) を通じて日本とは交戦状態に入らず、ポルトガルの植民地政庁のもとで中立港として機能したため、戦禍を逃れようとした大量の難民が中国大陸から流れ込んだ。

 戦後は中華人民共和国設立後も、イギリスが統治を続けた香港同様、マカオも引き続きポルトガルの統治が続いたが、1949年に成立した中華人民共和国を早くも1950年に承認したイギリスとは異なり、強烈な反共産主義者であったアントニオ・サラザール首相による独裁政権下にあったマカオは中国との国交は持たないままであった。

 中国の文化大革命初期にマカオで起きた1966年12月3日のマカオ暴動 ( 「 一二・三事件 」 ) 暴動を契機に、以降次第に中国の影響力が増すことになる。

 ポルトガルは、国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命 ( 同革命はヨーロッパで最も長い独裁体制をほとんど無血で崩壊させた)の後、民主化されたポルトガル政府は当時所有していた全ての海外領土を放棄する方針を採ることになり、1976年にはマカオを 「 特別領 」 として、行政上・経済上の多くの自治を認めた。
 以降、マカオは1987年のポルトガルと中国の返還協定調印、1999年の行政権の返還で、以降マカオは今日のような中国の特別行政区となった。

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楠公二銭はがきに昭和16年7月20日の 「 海の記念日制定記念 」 の大連中央局の記念特印。
マカオ ( 澳門 ) の 「 昌記郵票公司 」 という切手商に宛てられたもの。

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裏面。同7月31日 ( 31- VII- 41 ) のマカオの中央駅郵便電信局の到着印が押され、
時節柄三角の検閲印が押されている。



 3月20日(月) 春分の日
 昨日の支部例会の席で盆回しに提供された外国の絵はがきの中にあったもので、うっかり見逃してあとで購入者から借用した。
 「 VESUVIO 」 ( ベスビオ ) の文字。
 そうだ、背景の山はベスビオ火山。そしてこのケーブルカーは 「 登山電車 」 の名で歌われたものに違いない。
 富士の須走 ( 砂走 ) を思わせる草木一つない砂礫の斜面によくレールを敷いたものだ。
 ベスビオ山はイタリアのナポリにほど近い有名な火山。
 有史以来大規模な噴火を繰り返したが、紀元79年8月24日の大噴火が有名であり、大量の軽石や火山灰でポンペイ市を埋没させた。
 以降数十回の噴火を繰り返し、432年の大噴火の他、1631年12月16日には紀元79年以来最大の噴火を起こし、約3,000人が死亡した。また1822年には噴煙を14kmまで噴き上げている。最近の噴火は1944年3月22日のもので、サン・セバスティアーノ村を埋没させた。
 1880年にはこの絵はがきの写真にある山麓から火口までの登山電車 ( フニコラーレ ) の 「 ヴェズヴィアナ鋼索線 」 が開通した。
 これを記念して作られた歌 ( コマーシャルソング ) が 「 フニクリ・フニクラ 」 で、当初利用者が少なく、運営会社の依頼で宣伝曲が作られ、世界最古のコマーシャルソングともいわれる。「 フニクリ・フニクラ 」 とは、フニコラーレの愛称である。
 この登山電車は前述の1944年の噴火で破壊され運行を終了した。

 日本語版歌詞は1961年4月-5月に開始して間もないNHKの 『 みんなのうた 』 で紹介され、登山電車のコマーシャルソングとしての原作の意図を忠実に反映している。

 赤い火をふく あの山へ
 登ろう 登ろう
 そこは地獄の釜の中
 覗こう 覗こう
 登山列車が出来たので
 だれでも登れる
 流れる煙は招くよ
 みんなを みんなを
 行こう 行こう 火の山へ
 行こう 行こう 山の上
 フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ
 だれも乗る フニクリ フニクラ

 ベスビオ山と言えば何と言ってもその噴火で生じたナポリ近郊にあった古代都市ポンペイの遺跡が有名で、ユネスコの世界遺産に登録されている。
 この遺跡は現在のポンペイの市域に所在するが、現在のポンペイ市街は19世紀末に建設されたもので、その中心部は古代ローマ時代のポンペイとは少し離れている。

 西暦AD62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。町はすぐに以前より立派に再建されたが、その再建作業も完全には終わらないAD79年8月24日午後1時、町の北西 10 kmにあるベスビオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
 翌25日 ( 噴火から約12時間後 ) の噴火末期に火砕流が発生し、一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込み、その後も降り続いた降下火山灰によって、当時の人々の生活が封じ込められ、そのままの状態で保存されることになった。
 ポンペイが人々の前にその姿を再び現したのは18世紀半ばからで、発掘は今に至るまで続けられている。
 地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさの秘密は、火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤のシリカゲル同様の成分が含まれ、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められて、ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった。

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絵はがきの写真。 ベスビオ火山をバックに、1880年、山麓から火口まで開通した登山電車 ( フニコラーレ ) の絵はがき 。



 3月19日(日)
 何でも屋ですから、脈絡無しにいろいろ出てきます。
 台湾はもとよりの守備範囲ではありますが。
 処分にかけた台湾の欧文印。
 台湾欧文印 TAIHOKU 28. 6. 20。1920年 (大正9年)の台北の消印。
 旧大正毛紙4銭と10銭のオンピース。
 台湾の丸二型の欧文印。
 台湾では明治39年 (1906年)からこの欧文印が使用されるようになり、昭和11年 (1936年)まで30年の長期に亘って使用され、以降は台湾特有の横線の櫛形の欧文印に引き継がれた。  7局9種の存在が知られている。
 台北以外の6局8種は以下のとおり。
 TAKOW(打狗=旧高雄)、TAKAO (高雄)。
 TAMSUI(淡水)、ANPING(安平)、TAINAN(台南)。
 KEELUNG(基隆)、KIILUG(基隆)。
 DAITOTEI(大稲埕)。
 殆どが金属印で印色も黒だが、台北にはこのようにゴム製で印色が紫のものがある。

ss台北欧文印
 旧大正毛紙4銭と10銭のオンピースに台北の欧文印。
TAIHOKU 28. 6. 20。 1920年 (大正9年)。



 3月17日(金)
 家紋のことにすっかりのめり込んで、こちらがしばらく疎かになってしまいました。
 せめてその効用で、その成果を生かして郵趣エッセーの作品としても 「 家紋の話 」 をまとめることにしましたが ( ボリュームがあるため、上下の二編に分けて、5,6月号の予定 )、その中で恰好の材料を思い出したので、前触れで紹介しておきます。

 その中で、「 切手は菊の紋章を除いては思い当たるところはない 」 と書いたが、1972年 (昭和47年) の札幌オリンピック冬季大会記念に 「 雪紋 」 の材料があることに気づいた。

 1972年 (昭和47年) の第11回の札幌オリンピック冬季大会は、幻のオリンピックとなった昭和15年の夏期オリンピック東京大会と同じ年の開催が決定していたが、日中戦争の影響等のために取りやめになった経緯がある。
 また、冬期大会はその後の第16回大会までは夏期オリンピックと同年に開催されていたが、第17回のノルウェーのロイレハメル大会以降は、夏期オリンピックの中間年に開催されるようになった。

 家紋には天体・気象・地理などに関する自然紋の類型があって、雲や電 ( いなづま ) などとともに、雪紋もその一角を占める。手許の紋帳には雪の紋として27種が掲載されている。

 今回の東京オリンピックのロゴ選定に当たってはお粗末があったが、怪我の功名で、仕切り直しで新たに選定された伝統の市松模様を思わせる繊細な和風のロゴは素晴らしく、喝采を送りたい。
 そして札幌冬期オリンピックのシンボルマークには、「 初雪 」 と名付けられた伝統の雪紋に少し手を加えたもの ( 殆ど同じ ) が使用されており、日の丸とともに収められたフレームは、好評だった8年前の東京五輪 ( 1964年 ) の亀倉雄策のデザインが継承されている。

 その札幌オリンピックに使われた雪紋を示すマテリアルとして、大会期間中選手村本部内に設置された札幌オリンピック村郵便局で作成された消印 ( 櫛形日付印、欧文印、和文ローラー印と欧文ローラー印 ) を集めたカバーを載せておく。
 この時の記念切手にも使われたシンボルマークが大きく描かれている。

 また、事前のオリンピック・ムードを盛り上げるために作成された 「 開催まであと400日 」 の記念カバーのカシェのシルエットにも、伝統の雪紋の基本形が使われていて、これが 「 雪輪 」 という名の外周パターンとして、雪紋の各種のバリエーションを生んでいる。

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大会期間中選手村本部内に設置された札幌オリンピック村郵便局の消印 ( 櫛形日付印、
欧文印、和文ローラー印と欧文ローラー印 ) を集めたカバー。
昭和47年1月10日日の日付は、開設準備段階のもの。

sapporo-oly_0002.jpg
「 開催まであと400日 」 の記念カバーのカシェのシルエットにも家紋の基本形が描かれていて、
これが 「 雪輪 」 として外周のパターンに用いられて雪紋の各種のバリエーションを生んでいる。



 3月9日(木)
 漢字の会で家紋の話をすることになって、このところしばらく家紋のことについて掛かり切りになっています。

   朝に聞いた小鳥の囀りは、いかにも春近しを感じさせて弾んでいました。
 車道の雪もだいぶ解けて楽になりました。

 東京天文台に係わるFDC二つ。
 一つは昭和28年 ( 1953 ) 発行の東京天文台創設75年記念のもの、もう一つは昭和53年 ( 1978 ) 発行の東京天文台100年記念のもの。
 ともに記念特印が押されているが、100年記念の方には、地元・三鷹局の特印が押されている。

 明治11年 ( 1878 ) 9月、東京天文台がその前身である観象台として創設されてそれぞれの経過時を記念してに発行されたもの。

 日本における国立の天体観測所は、1874年海軍水路寮が東京府麻布区に設置した観象台に始まり、別途、1878年東京帝国大学に星学科が設立されたとき、その附属の研究所として観象台が新たに設置された ( 現在の文京区本郷 )。翌年、海軍観象台の天文観測業務を東京大学に移管、東京大学附属の天体観測研究所として東京天文台となる。
 1922年、東京市麻布区から現在の三鷹市に移り、幾多の改組統合を経て、1988年に大学共同利用機関として 「 国立天文台 」 が発足した。

 切手の図案、カシェともに75年記念の方に軍配を揚げたくなる。
 中央の北斗星を夾んで、左にカシオペアのWと右に大熊座の北斗七星のデザイン。
 思わず銀漢空に冴え渡りといいたくなるが、銀漢は秋の季語であった。

  「 おおぐま座 」 ( 北斗七星 ) と 「 こぐま座 」 ( 小北斗七星。α星のポラリスが北極星 ) の存在は余りにも出来すぎで、思わず 「 天の配剤 」 ということを考えてしまう。
 そして、木枯らしとだえて さゆる空より・・・という 「 冬の星座 」 の歌詞が頭を廻る。  「 無窮を指さす 北斗の針 」 が出てくる。
 その一方はオリオンの三つ星で、カシオペアではなかったが。
 歌こそ文語を身近にする貴重な存在であり、言葉への興味のきっかけとなるもの。
 だからこそ教科書から唱歌が消えるようでは困る。とかく褻 (ケ) と晴 (ハレ) の区別が薄れてしまった今日だからこそ、どこかにけじめが欲しい。

 改めて、その見事な文語調の歌詞を味わいたい。
   「 冬の星座 」
1 木枯らしとだえて さゆる空より 地上に降りしく奇 ( くす ) しき光よ
  ものみな憩える 静寂 ( しじま ) の中に
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

2 ほのぼの明かりて 流るる銀河 オリオン舞い立ち スバルはさざめく
  無窮 ( むきゅう ) を指さす 北斗の針と
  きらめき揺れつつ 星座はめぐる

 「 冬の星座 」 は、堀内敬三 ( 1897- 1983。なんといっても慶應義塾大学応援歌 「 若き血 」 の作詞作曲で有名 ) 作詞の日本の唱歌。1947年(昭和22年)発行の国定教科書 『 中等音楽 』 に掲載された。2007年 ( 平成19年 ) に日本の歌百選の1曲に選ばれている。

 曲は、1871年のウィリアム・ヘイスの作詞・作曲によるポピュラー・ソング 「 愛しのモーリー 」。

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昭和28年 ( 1953 ) 10月29日発行の東京天文台創設75年記念FDC

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昭和53年 ( 1978 ) 11月1日発行の東京天文台100年記念FDC



 3月3日(金)
 尊敬措く能わざる郵便学者・内藤陽介氏のブログにはいつも敬服しているところだ。  毎日取り上げる材料の豊富さには驚くばかりだ。これだけの幅広い分野の膨大な切手をよく管理しているものと感心する。
 そしてこれに関する解説・情報は質・量ともに驚嘆に値する。
 昨日は、今回の天皇・皇后両陛下のベトナム訪問に因んで、「 ヴェトミン加刷カバー 」 を取り上げて、第二次世界大戦後のベトナム独立に至る経緯を語っている。

 戦後ベトナムに残留した旧日本軍将兵が志願兵としてベトミンとともに、対仏独立戦争に参加というのは、旧日本軍将兵がインドネシアの独立に係わったことは承知していたが、ベトナムでも同様のことがあったことは、意識していなかった。
 聞けば、不思議ではないことと思われる。

 ベトミン ( 越盟 )、正式名称ベトナム独立同盟会のベトナム語の 「 ベトナム・ドック・ラップ・ドン・ミン・ホイ 」 はいかにも漢語由来の言葉で、ベトナムがかつて漢字を使用する漢字文化圏に属していたことを物語っている。
 ベトナム独立同盟会は1941年5月19日に正式に結成され、フランス植民地からの独立を求めて第一次インドシナ戦争を戦ったベトナムの独立運動組織。ホー・チ・ミンが結成して主席となり、ヴォー・グエン・ザップ ( 武元甲 ) およびファム・ヴァン・ドン ( 范文同 ) がともに指導した。どこの国でも独立時の英雄は立派だった。

 そこで、改めて 「 ヴェトミン加刷切手 」 があった筈と 「 インドシナ 」 のファイルを調べてみた。
 インドシナ=フランス領インドシナは、1887年から1954年までフランスの支配下にあった、インドシナ半島東部の地域。戦後カンボジア ( 1953年独立 )、ラオス ( 1949年独立 ) とベトナムに分かれた。
 フランス領インドシナでは1892年から1945年まで、フランスによって多彩な切手が発行された。
 そして、戦後間もなくの1945年から46年にかけて、それらにベトミン政府によって “ Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa ”( ベトナム・ダン・チュ・コン・ホア = ベトナム民主共和国 ) と加刷した暫定切手が発行されたというわけだ。

 その中のペタン元帥を描いた1942-44年の切手 ( 1c-40cの6種 ) を台にしたベトミン加刷の切手がある ( 3c-40cに加刷した5種 )。

 ペタン元帥は当時のヴィシー政府 ( 第二次世界大戦中における、フランスの政権(1940-44年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。ドイツ占領下のフランスにあって、南部は親独のヴィシー政権が独立の対面を保ち、植民地の多くはヴィシー政権の下にあった ) の主席を務めた人物。

 なお、仏領インドシナの切手をコレクションリーフの7「仏領インドシナ( French Indo-china )」として10枚のリーフに収めていますのでご覧ください。

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ベトミン加刷切手の一種。ペタン元帥を描いた1942-44年の仏領インドシナ切手に加刷された5種の内の二種 ( 1945-46年 )。
( 画像をクリックすると拡大します )

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加刷切手の台とされたペタン元帥を描いた1942-44年の仏領インドシナ切手 ( 1c-40cの6種 ) の切手。
( 130% )
ここでは、40cの同額面で色の異なる一種が欠けている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 3月2日(木)
 このところブログの来場者数が低調で首を捻っている。
 まあ、もともと誰のためでもない、自らの会報「郵趣・赤れんが」の記録と腹を括っていれば良い訳だが。

 先月の第235号の「ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー」について例会の説明で、ゴム印の「JV TOKYO」のJVとは何かとの質問が出た。咄嗟に出てこなかったが、後で考えれば「Victory over Japan」(対日戦争勝利)のことであった。
 eBayのネットサーフィンで、その恰好な材料を見つけた。  エストニアからの出品だが、Buy It Now(即譲)US $ 64.99 は高すぎる。  これも東京湾でのミズリー艦上の降伏調印式のあった1945年9月2日の、米戦艦アイダホの船内局カバー( USS IDAHO )である。

 米戦艦アイダホは、ニューメキシコ級戦艦の3番艦。艦名はアメリカ合衆国43番目の州にちなむ。1915年 4月5日起工、1917年 6月30日進水、1919年 3月24日就役、1946年 7月3日 退役。
 アイダホは米軍の沖縄本島への上陸に先立つ艦砲支援グループおよび第4砲撃部隊の旗艦として1945年3月25日に沖縄本島沖に到着し、日本軍の沿岸砲台及び施設への艦砲射撃を行い、4月1日に始まる上陸以降、特攻機の攻撃による損害を受けて戦列を離れた。 グアムでの応急修理の後、再び惨烈に復帰して終戦を迎える。
 その後、占領部隊の一員として8月27日に東京湾に入港し、9月2日にはミズーリ 艦上で行われた降伏調印式典に参加した。

JV-l500.jpg
JVの表示のある1945年9月2日の米戦艦アイダホ船内局カバー。
カシェはアイダホの艦影。 右下は検閲印。
( eBay からの借用画像 )



 3月1日(水)
 今日から三月。
 北海道はまだ雪の中ですが、三月と言えば暦の上ではもう春。

 3月号の原稿を張り付けました。
  「 戦前の台湾の絵封筒 」。
 台湾・基隆から東京・麻布に宛てられた台湾の風景を描いた戦前の絵封筒。
 消印は、昭和15年3月28日の基隆。
 文中に 『 次回の上京の折にでも、前から気になっていた有栖川宮記念公園と併せ、南麻布界隈から麻布十番に出るルートを辿ってみたい。 』 と書いたとおり、今回二月の上京で、  有栖川宮記念公園~麻布中学~中国大使館~北条坂~旧笄町 ( こうがいちょう ) ~青山墓地~六本木ヒルズと毛利庭園~麻布十番と歩いて来ました。

 ところで、この絵封筒に描かれた 『 遠くに望む中央山脈の山々 』 から連想されるのが大正12年に発行された 「 台湾行啓 」 記念の新高山を描いた二種で、ワンポイントに掲げておきます。
 台湾行啓とは、1923年 ( 大正12年 ) 4月、日本統治下の台湾への当時の皇太子 ( 後の昭和天皇 ) による訪問 ( 行啓 ) のことで、この切手は台湾総督府管内だけで発売された。

 第一次世界大戦 (1914年~1918年) の終結とともに、帝国主義のもとで他国の領土や植民地に組み込まれ、自立の権利を奪われていた民族のなかに独立の気運が高まり、日本の植民地支配下にあった中国・朝鮮の民衆に大きな期待を与えた。

 台湾では、植民地自治の要求である「台湾議会設置請願運動」が開始され、日本国内での 「 大正デモクラシー 」 の進展、さらには朝鮮三・一独立運動がこれまでの軍部主導の 「 特別統治 」 = 「 憲兵政治 」 の破綻とも相俟って、朝鮮総督府・台湾総督府官制の改革がされ、総督の武官専任の制限が外された。
 首相の原敬は、日本本土 ( 内地 ) と同様の制度を植民地である台湾に適用するという主張 「 内地延長主義 」 に基づく政策を展開させようとしていた。
 まず、大正8年に最初の文官総督となる田健治郎が台湾総督に就任し、議会の開設するとともに、原則的に日本の法律を台湾に適用するとした。また、台湾人官吏特別任用令を公布し、台湾人と日本人(内地人)の共学を許し ( 内台共学 )、台湾人と日本人との結婚も認められた ( 内台共婚 )。
 原首相と田台湾総督は、自らによる 「 内地延長主義 」 により手直しされた台湾統治体制の諸改革を権威づける総仕上げとして、皇太子による台湾行啓を実行した。

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大正12年に発行された新高山を描いた「台湾行啓」記念の二種。 ( 120% )
( 画像をクリックすると拡大します )



 2月24日(金)
 先日の上京の記録を 「 東京日記(2017年2月) 」 として、コレクションコーナーの (2) 新作リーフにアップしました。
 戻ってからちょうど10日目。今回は凝りすぎて大変なボリュームになりました。お陰でこの間、写真日記は休業。その所為というわけでもなさそうですが、このところどうした風の吹き回しか、来訪者のカウントが低調で首を捻っています。
 まあ、これで宿題が片づいて、別の課題に専念できるというのは有り難い。

 今回、昨年11月にオープンした 「 すみだ北斎美術館 」 がらみで、両国方面に出かけましたが、気になっていたレトロな建物が解体されてしまい、残念でした。
 安田庭園の隣にあった両国公会堂 ( 本所公会堂 ) で、歴史的建造物として残しておいて欲しかった。
 調べて見ると、それが台湾と縁の深かった森山松之助の設計によるものであったことを知りました。
 両国公会堂が取り壊された跡には 「 新刀剣博物館 」 が着工しており、完成は2017年の9月30日とのこと。

 両国公会堂は関東大震災からの復興のために、震災後間もなくの1926年 ( 大正15年 ) に安田財閥の寄附により建設された鉄筋コンクリート4階建の大型ホールで、戦後は進駐軍に接収されていた。東京大空襲によって壊滅的な被害を受けた江東地区にあって、隣接する東京都慰霊堂・復興記念館とともに被害を免れた貴重な歴史的建造物であった。
 設計者の森山 松之助 ( 1869 - 1949年 ) は、日本統治時代の台湾で活躍した建築家。
 東京帝国大学工科大学建築学科において辰野金吾のもとで学び、明治39年 ( 1906年 ) に台湾に渡り、大正10年 ( 1921年 ) までの間、台湾総督府営繕課在任中、台湾総督官邸、台北州庁、専売局など数多くの官庁建築を手がけた。

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安田庭園の隣にあった、ありし日の両国公会堂。



 2月15日(水)
 切手収集とご縁のない方のために、こんな切手の紹介もいいでしょう。

 郵便趣味 ( 切手収集に留まらず、消印から実際に使用された郵便物の歴史的背景まで辿る郵便に関する広範な趣味 ) の団体、日本郵趣協会の発足とともに昭和21年の創刊以来発行を続けている雑誌 「 郵趣 」 は、この2月号で通巻816号を数える。
 その表紙を飾った切手。

 昨年11月にオランダで発行された児童福祉のための6種連刷シート。
 世界では次々と趣向を凝らしたデザインの切手が発行されているが、奇を衒ったものが多い中で、これは連刷の効果を生かしたダブルデッカーの真っ赤な色と、デザインが好ましい。
 オランダを代表するイラストレーターで絵本作家のフィーブ・ヴェステンドルプ ( 1916- 2004 ) 誕生百年を記念したもので、バスの乗客は彼女が描いた愛らしい作品で溢れている。

 2004年2月、フィープ・ヴェステンドルプはアムステルダムで87歳の生涯を閉じたが、本人の遺言により、彼女の資産および作品の権利は、すべてフィープ・ヴェステンドルプ財団に委託され、子どもたちの文化的発展の促進を目指した教育的プロジェクトの支援や若いイラストレーターを育成する奨学金の提供にも当てられている。

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昨年11月にオランダで発行された児童福祉のための6種連刷シート。
オランダを代表するイラストレーターで絵本作家のフィーブ・ヴェステンドルプ ( 1916- 2004 ) 誕生百年を記念したもので、
バスの乗客は彼女が描いた愛らしい作品で溢れている。
一見、このバスはどちらへ動くでしょうか。そう、右です。右下に運転手がいます。
( 画像をクリックすると拡大します )



 2月13日(月)
 帰ってきました。行動記録は追って。
 ところで、留守中の二題。
 出がけに気になっていた留守中締め切りの二件。
 まず一つは戦時中の大東亜共栄圏地図10銭6枚貼りの中立国のスイス宛ての大型封筒。
 60銭の内訳は書留16銭、書状分44銭 ( 20gまで20銭、20gごとに12銭増し ) で、三倍重量便。
 東京中央郵便局、昭和18年4月5日の欧文印。

 宛先がロカルノ条約で有名なロカルノになっている。
 ロカルノ条約は、1925年10月にスイスのロカルノで行われた協議を受けて、同年12月1日にロンドンで正式調印された。
 イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ベルギーの5ヶ国における地域的集団安全保障条約、ドイツとフランス、ベルギー、チェコスロヴァキア、及びポーランドとの間には4つの仲裁裁判条約 ( 同一の内容で、紛争を仲裁裁判所ないしは国際司法裁判所さらには国際連盟理事会へ仲裁を付託することを規定 )、フランスとチェコスロヴァキア、フランスとポーランドの相互援助条約 ( ドイツの武力行使を懸念、牽制 ) など7つの協定の総称。

 翌1926年9月にドイツが国際連盟に加盟したことにより、条約が発効。ドイツは国際社会への復帰を果たした。1928年には不戦条約が締結され、また1930年には連合軍がラインラント ( ドイツ西部のフランスと国境を接する地方。ヴェルサイユ条約およびロカルノ条約で非武装地帯とすることが確認されたが、1933年に成立したヒトラー政権のもとで1936年3月7日にドイツ軍はラインラントに進駐した ) からの撤退を完了させるなど、国際協調の機運が高まり、ヨーロッパに戦間期 ( 英: interwar period 。第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発まで、基本的には1919年から1939年までの時代 ) の束の間の安定が訪れた。  なお、結果は12人の入札者により、最終落札価格 $ 906.00という予想もしないトンデモナイ値段が付いた。

 もう一つは第一艦隊旗艦長門から発信の米国宛てのカバーで、明治神宮鎮座記念の二枚組と郵便創始50年記念の1銭5厘切手が貼られ、「 第一艦隊・昭和7年12月27日 」 の消印が押されている。
 第一艦隊は、旧日本海軍の戦艦を主力とした部隊の一つ。
 1903年にそれまでの 「 常備艦隊 」 を二分して編制された。この時に分離した第二艦隊とともに常設艦隊となり、日露戦争以降、第二艦隊とともにたびたび編制が繰り返され、長門は長くその旗艦を務めた。
 左下に「 FLAGSHIP NAGATO 」( 旗艦長門 ) と記されている。

 長門は戦後アメリカ軍の核実験標的艦とされ、1946年 (昭和21年) 7月の原爆実験でビキニ環礁に沈んだ。

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戦時中、中立国のスイス宛ての大型封筒。
東京中央郵便局、昭和18年4月5日の欧文印。
( 画像をクリックすると拡大します )

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第一艦隊旗艦長門から発信の米国宛てのカバー。
「 第一艦隊・昭和7年12月27日 」 の消印。
左下に「 FLAGSHIP NAGATO 」( 旗艦長門 )と記されている。
( 画像をクリックすると拡大します )



 2月2日(木)
 明日から法事がらみで10日ほど上京してきます。
 明日は節分。
 節分の懐かしい切手を載せておきます。
 昭和37年から38年にかけて 「 季節の行事シリーズ 」 として4種 ( ひな祭、七夕、七五三、と節分 ) 発行されたうちの一つです。
 この切手を目にしたとき、豆をまく男の子の右手が何か不自然に感じたのを覚えています。

 余談ですが、日本統治下の戦前の台湾に生まれた日本人の望郷の思いを描いた 「 湾生回家 」 が4日からいつものシアターキノで始まるが、こちらとしては昨年11月の上京の折に神田神保町の岩波ホールで見てきたので、今回日程が重なっても臍を噛まずに済んだ。

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「 季節の行事シリーズ 」 の一つとして昭和38年2月3日に発行された 「 節分 」 の切手。 ( 250% )



 2月1日(水)
 今日から二月。
 いつも乍らに月日は足早。

 2月号の原稿を張り付けました。
 「 ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー 」。
 1月4日に当欄で取り上げた材料で、際物ですから ( 「 先ごろ 」 が時期はずれにならないように ) 他のストック原稿を繰り下げて、2月号の原稿に持ってきました。
 1月2日締め切りのイーベイに出品されたカバーです。
 曰く付きのもの ( ニセカバー ) だけに入手は控えましたが、結果は予想以上の高値を呼びました。その経緯についても文中の裏話で触れています。
 ワンポイントにこのカバーに係わる巡洋艦ガンビアの写真を載せておきます。

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HMS 巡洋艦ガンビア ( 1940-60年 )
Wikipedia 「 ガンビア (軽巡洋艦 ) 」 から転載。
( 画像をクリックすると拡大します )



 1月31日(火)
 外国から届く封筒に、封筒の周りに赤と青の斜線を入れた国際郵便の封筒を殆ど見ることもなくなったが、先ごろ届いた封筒に 「 AIRMAIL 」 の古風なプロペラ機のスタンプが押されていて、今の時代にと不思議に思った。

 日本郵便のサイトに、問答形式で 『 「 AIRMAIL 」 の表示は何色ですればよいですか? 』 とあり、答が 『 青色あるいは黒色で表示してください。また、郵便局に 「 AIRMAIL 」 のシールをご用意しておりますので、ご利用ください。 』 とあるが、目立つ色と思われる赤としていないところがこれまた不思議に思う。

 円形の切手はクリスマスを思わせる雰囲気で、ついこの間のクリスマス切手かと思いきや、2014年の記載があって、調べてみると2014年発行のシール切手で、米国郵政公社( US Postal Service )は、 2014年10月23日、グローバルホリデーシリーズの2番目の切手として、このリボンの結ばれた 「 銀の鈴のリース切手 」 ( シルバーベルズ・リース・フォーエバー・インターナショナル・プライス・スタンプ ) を発行したとあり、無額面のこの切手は世界各国への国際郵便1オンスまでの郵便相当料金の切手だということです。

 ・・・ celebrates the winter holidays internationally with a new Forever® stamp, Global Holiday: Silver Bells Wreath.
   「 冬休み 」 を国際的に祝うものとして発行したと説明されているが、その辺の事情はよく分からない。

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古風なプロペラ機のスタンプが押された米国からのカバー。 ( 75% )
右上に、国際郵便料金の無額面のシール切手。
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 1月30日(月)
 28日土曜日の北海道新聞朝刊に、札幌のロシア総領事館が開設50周年を記念してロシア・サハ共和国の文化紹介の展示があるというので行ってきた。

 サハ共和国 ( 英語:Sakha (Yakutia) Republic ) は、ロシア連邦を構成する共和国で、連邦構成主体の一つ。首都はヤクーツク。
 旧称 「 ヤクート・ソビエト社会主義自治共和国 」 ( 1922年から1990年 )。
 面積は3,103,200平方km ( 日本の約8倍 ) と広大で、ロシアのヨーロッパロシアを除いた地域 ( アジアロシア、約13,100,000km2 ) の約4分の1を占め、地方行政単位としては世界最大。人口は96万人。

 案内カードにもあるとおり、ヤクート民族の国。
 ヤクートはツングース系民族 ( 満州からロシア領のシベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族 ) のアジア民族に属する。  「 ツングース 」 という名称はエヴェンキ人,エヴェン人の旧称であり、もともとはヤクート人がエヴェンキ人を 「 トングース 」 と呼んでいたことに由来する。
 旧樺太のオロッコ ( ウィルタ ) やギリヤーク ( ニヴヒ ) もツングース系で、共通してシャーマニズムを信奉する。

 なお、サハ共和国の西側にあるクラスノヤルスク地方 ( 2007年にエヴェンキ自治管区、タイミル自治管区を併合 ) もサハ共和国に次いで2番目に大きい行政区で面積は 2,339,700km² で日本の約6倍、人口300万人。
 また、ロシア連邦は、1993年に制定されたロシア連邦憲法の規定により、地域或いは民族によって区分された83の連邦構成主体からなる連邦制を採っており、人口面積ともに、極端な違いがある。
 例えば、モスクワ連邦市の面積は2,500km²だが人口は1,200万人、サンクトペテルブルク連邦市も1,400km² で513万人。

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在札幌ロシア総領事館内の会場に置かれた案内カード。
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28日(土)、北海道新聞朝刊の記事。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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サハ共和国の発行を装ったプラーべート加刷の鳥10種連刷。
1976年のソ連切手に加刷。
「 САХА 」 はサハのロシア文字表記。
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 1月27日(金)
 1月15日に抽せん・公表のあったお年玉付き年賀はがきの3等 (下2けた) の賞品、お年玉切手シート ( 100本に2本 ) をもらってきた。
 これまで、末等は一貫して 「 お年玉切手シート 」 で、その切手の絵柄は基本的に当該年の 「 年賀郵便切手 」 と同一であったが、今年初めて年賀切手とは別のデザインになった。
 また、花柄が打ち抜きになっているのが目を引いた。( 裏面からの画像を掲げる )

 「 お年玉切手シート 」 の当選番号は、2005年 (平成17年) まで下2桁に3本 ( 100本に3本 ) だったのが、2006年から 「 100本に2本 」 に減っている。
 1等 ( 100万本に1本 )、2等 ( 1万本に1本 ) は宝くじ並みの確立で論外。
 「 お年玉切手シート 」 自体は大した物ではないが、それでも当たりが気になる。

 先年、過去のものを処分したが、それを見ると毎年三、四枚、多ければ五、六枚は当たっていたが、今年はたった一枚。去年も二枚だった。
 現役の頃に受け取る年賀状が倍近くあったことを考えれば、基本的に100本に3本、100本に2本の確立で当たっていた訳だが、毎年当選番号を確認するときに、同じ下二桁の外れ番号のものが何枚もある場合や一番違いが結構あって、いつもながらに悔しい思いをする。

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2017年の 「 お年玉切手シート 」。 ( 150% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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裏面から見ると、花模様の打ち抜きがよく分かる。



 1月26日(木)
 「 積ん読 」 混じりで積み上げた本の山の中に、森まゆみの 「 一葉の四季 」 ( 岩波新書 ) を見つけて読み直した。
 一葉とは、森が 『 紫式部以来の天才といわれる女性 』 と書いている樋口一葉のことです。
 この本、Ⅰ 樋口一葉、Ⅱ 明治の東京歳時記、Ⅲ 一葉をめぐる人びと の三部構成になっているが ページ数はⅡが三分の二を占めており、Ⅰが四分の一、Ⅲは一割と少ない。

 樋口一葉 ( 1872年- 1896年(明治29年)11月23日 )は、明治5年3月25日、東京府第二大区一小区内幸町 ( 現千代田区内幸町 ) に生まれた。
 ちょうど18日の本欄で書いたとおり、東京市 ( 最終的には現在の東京23区に相当する区域 ) が明治22年に発足するまだ前で、東京は全て明治元年以来の旧東京府 ( 現東京都 ) に属した。

 森まゆみが、『 わが住む町のすぐ近く、本郷に住んでいたのは大きなめぐりあわせであった。』 と書いているように、私にとっても一葉は、東京の家が一葉の住んだ下谷龍泉寺町 ( 僅か9ヶ月という短い期間ではあったが ) で、すぐ脇の茶屋町通りに旧居があり、代表作 「 たけくらべ 」 の信如の龍華寺のモデルになった大音寺も通りを夾んだ筋向かいで、また、上京すれば必ずと言っていいくらい 「 町内の 」 一葉記念館に寄ってくる。

 パラパラと読み始めて間もなく気がついたのは、全篇を通じて全ての項目の一文が新書版の見開き二頁にぴたっと収まるように書かれていることで、このことについては森本人もあとがきで、『 見開き読み切りの工夫もし、』 と書いている。

 もう一つ。巻末によくある参考資料に代わるように載せている 「 この本から広がる読書案内 」 と題した関係図書の案内が珍しい。
 1月6日の本欄で 「 知識は連鎖だ。そして、本にも連鎖性がある。」 と書き、本の連鎖性の中から巡り会った本として 「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 を紹介したが、この考えを裏付けるように森さんも同じことを考えていたと、我が意を得たりの思いであった。

 遠くへの旅行をすることもなく、困窮の中に生き、若くして亡くなった一葉の、生活と交遊の殆どを含むであろう区域が、巻頭の口絵に 「 一葉の足跡図 」 として二つの地図が張り付けられている。
 一葉一家はよく引越をした。生涯に12回の引っ越しは以下の通りだ。

 明治5年8月 (1年6月) 下谷区練塀町( 現・千代田区練塀町 )
 明治7年2月 (2年2月) 麻布三河台町( 現・港区六本木 )
 明治9年4月 (5年3月) 第四大区七小区本郷6丁目( 現・文京区本郷5丁目 ) 東大赤門前の 「 桜木の宿 」
 明治14年7月 (3月)   下谷区御徒町1丁目 ( 現・台東区台東2丁目 )
                 下谷区御徒町3丁目 ( 現・台東区東上野2丁目 )
 明治17年10月 (3 年3 月) 下谷区上野西黒門町 ( 現・台東区上野1丁目 )
 明治21年5月 (3 年5月)  芝区高輪北町 ( 現・港区高輪2丁目 )
 明治21年9月 (6 月)  神田区表神保町 ( 現・千代田区神田神保町 )
 明治22年3月 (6 月)  神田区淡路町 ( 現・千代田区神田淡路町 )
 明治22年9月 (1年)   芝区高輪北町 ( 現・港区高輪2丁目 )
 明治23年9月 (1 年4 月) 本郷区菊坂町70番地 ( 現・文京区本郷4丁目 )
 明治25年5月 (2月)    本郷区菊坂町69番地 ( 現・文京区本郷4丁目 )
 明治26年7月 (10 月)   下谷区町龍泉寺368番地 ( 現・台東区竜泉3丁目 )
 明治27年5月        本郷区丸山福山町69番地 ( 現・文京区西片1丁目 )
 終焉の地。ここに、明治29年11月23日に亡くなるまでの、奇蹟の14ヶ月を含む二年半を過ごした。          

 明治27年12月 「 文学界 」 に 「 大つごもり 」 を発表してから一葉を一躍有名にした 「 たけくらべ 」 が完結する明治29年1月までの14ヶ月で 「 にごりえ 」 「 十三夜 」 などの代表作の全てを書き上げており、この期間は 「 奇跡の14ヶ月 」 と言われている。しかし肺結核がしだいに進行し,24歳でこの世を去った。

 思えば、東京散歩を始め一葉ゆかりの地を随分歩いてきた。
 東大赤門前の 「 桜木の宿 」 の去年10月( 東京日記 ) は二回目、5年ほど前に菊坂の家と一葉一家がたびたび通ったという近くの旧伊勢屋質店 ( 龍泉寺に移ってからも通った )、伝通院へ行く途中の安藤坂の歌塾 「 萩の舎 」。
 菊坂の家や龍泉寺から通った 「 上野の図書館 」 ( 1897年に設置の戦前唯一の国立図書館。1947年に国立図書館と改称した上、戦後、国立国会図書館支部上野図書館を経て、2000年に国立の児童書専門図書館である国立国会図書館国際子ども図書館として再生。蔵書は現在の国立国会図書館東京本館に移された )。
 萩の舎の一同で行った小石川植物園、ツツジの名所の根津神社、向島の百花園、墨堤(隅田川))の桜、不忍池、谷中界隈・・・。「 たけくらべ 」 にも出てくる酉の市・・・。

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「 一葉の足跡図1 」 ( 森まゆみ 「 一葉の四季 」 から )。
四角の囲みが一葉の住居だったところ。
この図から外れて 「 一葉の足跡図 2 」 にあるのは、生まれた時の内幸町と、次兄の所に身を寄せたときの芝高輪の二箇所です。 ( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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文化人切手の一枚として昭和26年4月10日に発行された樋口一葉の切手のFDC。 ( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月25日(水)
 セントルイス出身のラッパーPrince Ea ( プリンスエア ) が崩れた家の前でラップしている。
 YouTube : http://tortoiz-store.net/2016/12/14/post-2098/
 「 Why I Want This World to End 」 ( 「 この世界が終わってほしい理由 」 ) とは。
 アメリカの良心を見る。
 アメリカのことを歌いつつ、本質的なところは日本も大して変わらない。
 いや、人類に共通する大問題。

この世界は終わりに差し掛かっている。
大気は汚染されて、海は汚された。
動物は絶滅に差し掛かっていて、経済は破綻した。
教育は地に堕ち、警察は腐敗している。
知性は嫌がられ、無知はもてはやされ、人々は落ち込んでいて怒っている。
お互いに我慢する事ができずに我々自身に満足することもできない。
だから誰もが薬漬け。
路上ではお互いがすれ違って、会話するとすれば無意味なロボットみたいな会話。
一生分の意味と目的よりも、一瞬の名声を求める人が多い。
だって正しいなんてことよりも人気のあることの方が大事じゃないか。
真実よりもランク付けの方が大事らしい。
政府が作っているのは学校の数の2倍の刑務所。
リンゴを探すよりもビッグマックを見付ける方が簡単だ。
やっとリンゴを見つけた時、そのリンゴの遺伝子は組みかえられていた。
大統領は嘘つきで、政治家はペテン師。
人種だってまだまだ問題だし、宗教も変わりはしない。
お前の神様なんて存在しないんだ、俺の神様は存在するし愛に満ち溢れてるんだ。
もし俺に賛成しないならお前を殺すぞ。
それよりもっと質の悪いところで死ぬまで言い争ってやる。
ラジオから流れる歌の92%はセックスのこと。
鬼ごっこで遊ぶのを辞めた子供達は、激しく腰を振っているビデオを鑑賞してる
普通の人は一日5時間はテレビを見て過ごすし、スクリーンに写っている暴力は酷くなるばかり。
テクノロジーでみんなが欲しかった物が手に入るけど、俺達が本当に必要なものがみんなそいつに盗まれていく。 プライドは最高記録更新中、人間らしさ、最低記録更新中。
みんなが全部を分かっていて、みんなが何処かに行っている
誰かを無視して、誰かを避難して、本当の人間なんてそれ程残っちゃいない、人間のふりした奴らだけだ。
過去から離れようとしない人間ばかりで、今ここにいる人間など殆どいない。
お金は相変わらず諸悪の根源で、でも子供にはそうは教えない。
仕事の給料なんて十分じゃないし、善い行いがされるのはそこに利益がある時だけ。
他人の不幸を写した動画が流行し、一緒に笑い飛ばすために友人にシェアをする。
今のみんなのお手本になっている人達は、60年前なら真似をしてはいけないお手本だった。
人間を差別することが法律的に可能な状態があるのは彼らが特定の方法で生まれてきたから。
会社は何百万も投資して専門家とやらを雇っている。
美しくなる為にはお化粧が必要だと小さな女の子に思い込ませるために女の子の自己評価を永久的に下げるんだ。
だって女の子が満足するほど可愛くなんてなりはしないのだから。
こんな不可能なスタンダードに追いつくためにビジネスはいう これ買って、あれ買って、買って、買ってって。 みんなに追いつかなきゃ、みんなと同じにならなきゃ。
これを買ったら幸せになるよ、でも長続きはしないけど。
この狂った混沌とした世界の中で一体何が出来るって?
解決策?愛することが出来る。
ラジオから流れてくる大好きな歌の中の愛じゃない。
本当の愛、真実の愛、無限の愛。
愛することが出来るんだ、お互いに愛し合うこと。
朝起きたときから夜寝るときまで。
親切な行動をやってみる親切は伝染するものだから。 人と会うときには気を配ることができる。
善意の苗を植えるんだ。 いつもよりも思いやりをちょっと追加するんだ。
許すことができる。
今から300年経っても友達に、母親に、父親に恨みを持つことに何の意味がある?
他人を変えようとする代わりに自分を変えることはできる。
自分のハートを変えることはできる。
今まで嘘を売りつけられていた。
俺たちはリーダーや信じていた人たちに洗脳されていたんだ。
俺たちのブラザー達やシスター達が認識しないように、代わりに怒り、憎しみと残酷さをさらけ出すように。
でも本当の愛を知ると怒りに対して同情で、憎しみに対して思いやり、残酷さに対して優しさで迎え入れるようになる。
愛こそが地球上で一番強力な武器。
ロバート・ケネディも言っているじゃないか。
歴史を変える偉大な人間はごく一部。
でも俺達それぞれが小さな出来事の一部を変えることが出来る。
こんな行動が全部合わされば、一つの世代の歴史に書き込まれるだろう。
だからそうだ、この世界は終わりを迎えている。
そして新しい始まりへの道筋はあなたの中から始まる。


prince eare
Prince Ea ( プリンスエア ) の関係サイトから、。



 1月24日(火)
 仲間に消印を熱心に収集している人がいる。
 趣味はそれこそ好き嫌いの好みの問題で、何に関心を示すかは人によって千差万別。  消印だって、古いものに限らず、現行印と称する現在使用されている消印を追いかけている人もいる。

 ヤフオクに出品中のものに偶然目を引くものがあった。
 「 U小判2銭に丸一印 対馬・厳原 明治30年5月26日」。
   厳原 ( いずはら ) も全国難読地名の一つであろう。
 満月印で日付は鮮明だが、局名が摩滅気味で滲んで出品者のタイトルがなければ戸惑う。旧字、右書きで、「對馬・嚴原」。
 対馬は長崎県に属し、対馬海峡の韓国と日本の間にあって、距離は韓国に50Km、日本本土(九州)との距離130Kmと、韓国に近い。

 地理的に朝鮮半島に近いため、対馬には古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきた。
 現在は韓国から来る観光客が増加しており、島内の至る所にハングル文字が併記された標識や案内を見ることができる。

 対馬にとって大変な受難は二度に亘る元寇で、この時島民は大変な悲劇に見舞われている。
 1274年 (文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。
 男は殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。
 1281年(弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦 (現在の馬山市) より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍で、弘安の役においても残虐行為は再び繰り返された。

 また対馬は地理的関係から朝鮮通信使との縁も深い。
 朝鮮通信使は、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団で、正式名称を 「 朝鮮聘礼(へいれい)使 」と言う。
 朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年に足利義満によって派遣された日本国王使に対して誼を通わす使者として派遣されたのが始まりである。
 室町期に3回、豊臣秀吉へ2回、江戸期に12回派遣され、明治時代にも1880年の朝鮮通信使があった。

 通信使は釜山から海路で対馬に寄港し、それから馬関 ( 下関 ) を経て瀬戸内海を航行し、大坂からは川御座船に乗り換えて淀川を遡航し、淀よりは輿 ( 三使 )、馬 ( 上・中官 ) と徒歩 ( 下官 ) で行列を連ね、陸路を京都を経て江戸に向かうルートを取った。
 江戸期の1回の平均人数は450人、そのうちの100人(水夫)は大阪に留まり、350人が江戸へ向かった。
 江戸城では朝鮮国王から将軍への国書の奉呈があり、数日後に将軍から朝鮮国王への返信と礼物があり、三使や使節一行にも礼物や礼銀が贈られて通信使一行は帰途についた。
 旅程にかかる時間は、1719年 ( 江戸期に9回目 ) を例にすると対馬から大坂の海路に45日間、大坂の滞在に6日間、大坂から江戸の陸路に18日間をかけている。
 全行程には8ヶ月から10ヶ月を要した。


 なお、1970年に発行された壱岐対馬国定公園の切手は対馬馬と人物 ( 二人の豆酘娘。対馬の南端、豆酘 ( つつ ) の集落には古くから語り継がれる美女伝説がある ) が描かれて、好ましい印象的なデザインの切手一つになっている。

 最後に余談になるが、対馬と聞くと子どもの頃の昆虫への関心から、条件反射で対馬特産の天然記念物の希少種、ツシマウラボシシジミの名が思い浮かぶ。
 昨年訪れた東京・足立区生物園でツシマウラボシシジミの飼育に取り組んでいることを偶然に知った。
    近年全国各地で鹿の食害が大きな問題になっているが、長崎県対馬市の天然記念物に指定されているツシマウラボシシジミにも思わぬ影響が出ている。
 ツシマウラボシシジミはこの島で杉の樹林内など限られた場所にひっそりと生息しているが、フジカンゾウやヌスビトハギなどの食草が、対馬でも鹿の異常繁殖で片っ端から食い尽くされ、この蝶が絶滅に瀕しており、足立区生物園が人工増殖での種の保存に乗り出したということであった。
 なお近似種に、沖縄本島の大宜味村と西表島の一部にのみに生息するリュウキュウウラボシシジミがある。

対馬厳原
U小判2銭に丸一印 対馬・厳原 明治30年5月26日。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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1970年に発行された壱岐対馬国定公園の切手。
対馬の上島と下島の間にある浅茅湾 ( あそうわん ) をバックに、対馬馬と二人の豆酘 ( つつ ) 娘を描く。

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ツシマウラボシシジミの借用画像。
左の翅の裏にある黒星が 「 ウラボシ 」 の名の所以。地味な翅の裏側のに対して、右側の翅の表は綺麗な紫色の光沢を放つ。



 1月22日(日)
 昨日は漢字同好会の新年第一回目の例会で、クイズで楽しむ 「 新春お楽しみ会 」 でした。
 1グループ4,5人で5グループに別れての 「 グループ対抗戦 」 でしたが、各チームに付けられた名前がいかにも漢字同好会らしく、芹 (せり)、薺 (なずな)、繁縷 (はこべら)、菘 (すずな)、蘿蔔 (すずしろ) と春の七草の漢字名なのでした。
 ただし5チームで、使われないものもありましたが、あとは 「 仏の座 」 と御形 (ごぎょう)です。
 蘿蔔は大根のことで ( 現代中国語でも蘿蔔はズバリ大根のこと )、すなわち 「すずしろ」 です。

 あとに打合せの時間を控えていたこともあり、今年は持ち時間1時間半で3問と寂しい事でした。
 一問目は地元のテレビ局の番組に倣って、チームの一人が白板に出題 ( 正月に因むもの ) に係わる絵を描き、チームの者がこれを言い当てる。
 例えば私が当たったのは 「 初日の出 」 で、富士山の肩越しに日の出の太陽を描いて、矢印で太陽を指した。
 漢字と関係ない出題ではありましたが。

 二問目はいつもの漢字尻取りで、二字熟語の後ろの音を別の字で始まる二字熟語で繋いでいくもの ( 順次全てを板書してゆき、同じ字を使わないことが条件 )。こちらのチームの 「ちょく」 を受けての 「 勅令 」、「 ねつ 」 を受けての 「 捏造 」、また 「すう 」 を受けての 「 雛僧 」 ( 小坊主 ) などはさすが漢字同好会と思わせるものでした。

 3問目は個人戦 ( 最後はチームで正解数を合算 ) で、色々取り混ぜた15問の正否を○×で答えるもの。
◆ 一つに 「えび茶色」 を問うもの。何となく赤味を帯びた茶色といったイメージを持っていたが、正解の 「 黒みがかった茶色 」 という認識はなかった。

◆ 「 眼鏡に (かな) う 」 は 「叶う」 か。正解は 「 適う 」 ( 当てはまる ) で、「 叶う 」 は 「 願いが叶う 」 場合など。ついでに 「 敵わない 」 は常に否定を伴って 「 この相手には敵わない 」。

◆ 日本に雲南という地名はあるか。
 こういう設問は 「 あるからこそ 」 が通り相場だが。
 雲南市 (うんなんし) は島根県の東部に位置する市。
 1995年の合併特例法に始まる、いわゆる平成の大合併による近隣6町村の新設合併だが、いくら出雲の南とはいえ、妙竹林な音読みの市が生まれたものと思うが、聞けば 「 雲南三郡 」 の古くからの呼び名も定着していたというから致し方ないか。

 とはいえ日本に 「 雲南省 」 かとの違和感は残り、おまけにここは 「 中国地方 」 ときている。
 まだある。滋賀県の南部に2004年に誕生した湖南市 (こなんし) があり、琵琶湖の南とは言っても、命名に当たって中国の湖南省を知らない人ばかりであったのか。土地ゆかりの名が何かしらあった筈で、智恵のない話だ。

◆ もう一つだけ。「 世界で一番長い川は? 」 という問題。  こちとら、天からミシシッピ川と覚えていたが、正解はナイル川で、ミシシッピはいつの間にかナイル川に席を譲っていたらしい。  「 世界で一番長い川 ミシシッピ 」 で検索してヒットする 「 Yahoo知恵袋 」 には、『 世界で一番長い川はナイル川ですが、昔は (30年くらい前) ミシシッピ川と言われてらしいですね。私が学校で習った時はナイル川、アマゾン川、ミシシッピ川、揚子江の順番でした。 』 と、こちらの記憶を裏付けてくれる回答があった。

 その一方で、『 川の長さを測る時の基準・方法により結果が変化するのだと思いますよ。例えば,ミシシッピ・ミズーリーをまとめてひとつの川として見るか否か,支流も含めるか否か,などです。 』 と、今ひとつ曖昧な回答がベストアンサーに選ばれていたりして、このサイトでは時おり首を捻るジャッジを見かける。

 また、ここの場は、『 今ではミシシッピ川はベストテン内にも入ってないと聞きましたが 』 とか、『 ミシシッピ川はアメリカの川ですから、都市部や大規模農地周辺で大規模な改修工事を受けているはずで、その河川長は大幅に短くなっていても当然なのです。 』 とか、疑問符の付くまことしやかな話が飛び交う。

 因みに、理科年表には二つの出典 ( アトラスや エンサイクロペディア ) を示した上で100位までが示されているが、1位がナイル川で6,695 Km、2位・アマゾン川6,516 Km、3位・揚子江6,380 Km、4位・ミシシッピ川6,019 Kmとなっています。

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漢字同好会 「 新春お楽しみ会 」 風景。
今回は25人ほどの集まりでした。
( 仲間のブログからの借用画像 )



 1月21日(土)
 昨日注文していたステレオが届いた。
 しばらくレコードが聴けずに不自由していたので有り難い。
 スピーカー内蔵のTEACのコンパクトなステレオで、威張れるものではないが、そこそこに聞ければ満足で、早速聞いてみたところ満足のいく音質で安心した。
 ただし、オートリターンになっていなかったのが意外で、気をつけないとエンドレスで回り続ける。
 家電は、使ってみないと分からないので困る。
 ただ、この手のものは選択肢が限られているから、仕方のないところではあった。

 早速、チャイコフスキーの 「 悲愴 」 を聞いた。チャイコフスキーの曲はどれも多彩なメロディーが素晴らしい。
 それに懐かしいスイングル・シンガーズのジャズ・セバスチャン・バッハ。
 それから、高校生の時に出会ったテレマンの二つの序曲 「 フルートと二つのヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音の為のソナタ 」 と 「 オーボエと弦と通奏低音の為の協奏曲 」。アルヒーフ版です。

 チャイコフスキー (1840 - 1893年) の交響曲第6番 「 悲愴 」 というタイトルについて最も有名な話は、弟のモデストが著した伝記に書かれている次のようなエピソードで、
 『 初演の翌日、兄が曲につけるタイトルを思案しているので、最初трагическая ( トラギチェスカヤ=悲劇 ) を提案したが、気に入らない様子で、しばらくしてпатетическая ( パテティチェスカヤ=悲愴 ) はどうかというと、「 ブラボー 」 と言ってスコアの表紙に書き付けた。 』 というのだが、一方でこんな説もある。
 1893年の交響曲第6番が初演されたその一週間後にチャイコフスキーはコレラに罹って亡くなり、その後この曲は 「 悲愴 」 と名付けられたと言う。

 ジャズ・セバスチャン・バッハのスイングル・シンガーズは、1962年にフランスのパ リで結成されたア・カペラ・ヴォーカル・グループ。バッハ・シリーズのヒットから始まってベートーヴェン、チャイコフスキーからビートルズやその他のスタンダード・ナンバーをスキャットでこなした。
 グループはソプラノ、アルト、テノール、バス各2名の構成で8人。全員がクラッシックの基礎で十分鍛え上げられた優秀なメンバー揃いということであった。
 現在もロンドンを拠点にして健在とは知らなかった。

 ヴォーカル・グループといえば最近、コーラスグループのフォレスタの存在を意識するようになった。
 フォレスタは2003年、『 BS日本・こころの歌 』 の開始に当たり、番組オリジナルの混声コーラスグループとして結成された。全員が音楽大学を卒業したという本格的なメンバー揃いです。

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チャイコフスキーの交響曲第6番 「 悲愴 」 のレコード・ジャケット。
東芝エンジェルレコードの赤い音盤がめずらしい。



 1月20日(追加)
 たまには本来の写真日記ということで。
 久しぶりに庭の雪の上に残されたキタキツネの足跡。
 気がついたときにはその後に雪が降ったため、薄れてしまったのが残念ですが。
 以前、同じようにここを通った足跡があって、その後で同じ場所を引き返していく姿を見ました。
 通りの向こうは ( 画面の手前方向 ) タマネギ畑が広がる市街化調整区域で、変わらぬ環境は彼等に有り難い住み処を提供しています。

 道路を横断するのに交通事故に遭わなければいいが。
 以前に近くで交通事故の犠牲になったエゾシカがいました。
 驚くほどに自然が身近です。

 過去の写真日記を覗いて見たら、キタキツネの足跡のいい写真が、2014年の2月9日のところに載っていました。

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ベランダの下の雪の上に残されたキタキツネの足跡。
足跡にコントラストを付けるために露出を絞ったため画面が暗くなってしまいました。



 1月20日(金)
  いま、イーベイに出品されているカール・ルイスの 「 風景印カバー 」 です。
 米国シカゴ宛て。
 昭和12年9月14日の横浜局の風景印が押されている。
 左上に 「 YOKOHAMA PIER & SEASIDE PARK 」 ( 横浜埠頭臨海公園 ) とあり、手前にパーゴラと植え込みのある山下公園と、前面に広がる横浜港に大型船の浮かぶ様子が好ましい淡い色調で描かれている。.
 鑑賞用の絵として額に入れて飾っておきたいくらいです。

 山下公園は関東大震災の復興事業として、震災の瓦礫などを使って海を埋め立て造成して、1930年 (昭和5年) 3月に開園している。
 現在、山下公園前 ( 横浜港 ) に氷川丸が係留されている。

 ルイスカバーについては、2015年9月第218号 「 ルイス・カバーについて (下) 」 と同7月第216号 「 ルイス・カバーについて (上) 」を。  氷川丸については2014年5月第202号 「 船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代 (その3) 」 を御覧ください。

lewis cover
カール・ルイスの 「 風景印カバー 」。
昭和12年9月14日の横浜局の風景印が押されている。
「 YOKOHAMA PIER & SEASIDE PARK 」( 横浜埠頭臨海公園 )、現在の山下公園を描く。



 1月19日(木)
 日曜の台湾の会でもう一つ思い出した。
 雑談の中で、新しいアメリカ大統領に選ばれたトランプの中国語表記はどんなだろうかと尋ねると、「 川普 」 と板書した。
 「 特朗普 」 ( 日本人の耳で聞けば 「 タランプ 」 ) と書く方法もあるが、「 川普 」 ( 同、チュアンプ ) に落ち着きそうな形勢らしい。
 就任前から毎度物議を醸しているが、無責任な悪ふざけは恐いもので、とんだ人物が選ばれたものです。

 日本語にはカタカナがあって便利だろう ( 中国語のように漢字を探す手間がいらないから ) というと、カタカナに置き換えるのが難しいからそうも感じないと意外な答が返ってきた。
 まあ、外国語の発音を聞き取るのはどんな言語間でも共通して悩ましいところだが、日本語の発音が単純なだけにどの音に集約されるのかが却って難しいと感じるのかも知れない。
 「 川普 」 だって、中国語に通じた大方の日本人は 「 四川の普通話 」 を連想し、「 特朗普 」 の方がまだしもと思えるのだが。日本人の耳にはトランプがチュアンプのようには聞こえない。

 中国人観光客が増えて中国語の看板や放送が目立つようになった札幌の街中で、ドンキホーテが 「 唐・吉訶德 」 と書くことを知った。これとて、日本人の耳には 「 トン・チハーダ 」 に近かったりして。
 日本式に当て字するとすれば、取り敢えず 「 呑・基法帝 」 などが思い浮かぶが、彼等はどんな印象を持つだろうか。
 因みにマクドナルドは 「 麦当労 」。日本人の耳には 「 マイタンラオ 」 としか聞こえないのだが。

 「 ドナルド・トランプ氏の中国語名 」 というサイトに、『 中国語を使う5つの地域で、どうもそれぞれ違う表示になっているらしい。 』 として、
 大陸 ( 簡体字 ): 唐納徳・特朗普 ( 便宜的に簡体字を日本の漢字に直した。以下、繁体字も同じ )
 香港 ( 繁体字 ): 当労・特朗普
 澳門 ( マカオ、繁体字 ): 当労・杜林普
 馬新 ( マレーシア・シンガポール、簡体字 ): 唐納徳·川普
 台湾 ( 正体字 ): 唐納・川普
と比較の一覧があった。
 同じ中国語圏でも同じ名前がこれだけ違うというのは悩ましい。
 中国国内には表記を一元化する機関があるように聞いているが、地域や国家間での調整はないようです。

 イーベイを覗いてみれば、あやかり商法ですでに多くのいかがわしい切手発行国から多くのトランプ切手が発行されているが、まともな方の一つを話の種に掲げておきます。
 去年リベリアから発行された小型シートです。

trump.jpg
2016年、リベリア。米大統領選挙記念の小型シート。
二人の候補者を並べている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月18日(水)
 郵便物から土地の歴史を知る。
 今回の材料は、図の外信に使われた 「 東京名所 九段靖国神社 」 の絵はがき。
 菊4銭貼り。 ( 4銭は当時の国際船便はがき料金 )
   消印は 「 武蔵・巣鴨 明治42年5月21日 」 の丸一印。カナダのトロント宛て。
 1909年5月26日のTOKIOの欧文印が押されているが、丸一印から5日も間が空いているのは珍しい。

 このはがきの押された差出人の楕円形のゴム印にある 「 東京府下北豊島郡滝野川 」 の記載にふと疑問がかすめた。
 今の北区がかつては現在の多摩地区のように東京都23区に入っていない時代があったのかと。
 かつて東京都は東京府であり、1868年 (明治元年) から1943年 (昭和18年) までの間に現在の東京都の前身に当たる東京府という日本の府県の一つが存在し、その府庁所在地が東京市であった。

 また、東京市は旧東京府 ( 現東京都 ) 東部に1889年 (明治22年) から1943年までの間に存在していた市で、最終的には現在の東京23区に相当する区域に市域を広げたが、それまでにはいくつかの段階を踏んでいる。

( 15区時代 )
 まず、1889年 (明治22年) に当初、以下の15の区域で市制施行。
 15の区域は、すでに1878年 (明治11年) の郡区町村編制法により編成。
 麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区。
 よって当初の東京市の区域は現在の千代田区、中央区、港区、新宿区、文京区、台東区、墨田区の範囲であった。

( 35区時代 )
 それが1932年 (昭和7年) に隣接5郡82町村を編入して、新たに以下の20区が編成されて加えられ、東京市は35区になった。
 品川区・荏原区・目黒区・大森区・蒲田区・世田谷区・渋谷区・淀橋区・中野区・杉並区・豊島区・滝野川区・荒川区・王子区・板橋区・足立区・向島区・城東区・葛飾区・江戸川区。
 このとき、東京府下、「 旧北豊島郡 」 の一部であった 「 滝野川 」 が滝野川区 ( 戦後に北区 ) として加わったのだった。

 その後、1943年 (昭和18年)、東京都制により東京府と統合されて東京市は廃止され、35区は東京都の行政区 ( 東京都区部23区の前身 ) となる。

( 23区時代 )
 戦後、1947年 (昭和22年)、35区はまず22区に整理統合され、すぐに板橋区から練馬区が分離して23区となった。

 なお、要らぬ者の参拝でとかく話題になる靖国神社だが、日本の軍人、軍属等を主な祭神として祀る意図で1869年 (明治2年) に創建された特異な神社で、元来は東京招魂社 (しょうこんしゃ) という名称で、各地にある護国神社の創建も同様の趣旨である。
 戦後、1946年 (昭和21年) に、日本国政府の管理を離れて東京都知事の認証により、宗教法人法の単立宗教法人となった。
 Wikipediaの 「 靖国神社 」 には、祭神として 『 幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を 「 英霊 」 と称して祀り、その柱数は2004年 (平成16年) 10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ。 』 としてその内訳が一覧表に示されており、やはりこの神社がいかに特異な性格を持つ神社であるかを改めて知る。

 一覧表には、戊辰戦争・明治維新 7751柱 ( 新政府軍側のみ )、西南戦争 6971柱 ( 政府軍側のみ、西郷隆盛ら薩摩軍は対象外 ) 以下、主だったところだけでも、日清戦争 1万3619柱、日露戦争 8万8429柱、支那事変 ( 日中戦争 ) 19万1250柱、大東亜戦争 ( 太平洋戦争 ) 213万3915柱と異様です。

 戦犯の合祀は論外にしても、ともあれ戦争の犠牲者には素直に頭を垂れるべきだが、わざわざこれ見よがしに参拝をひけらかし、これを政治的道具として利用する存在があり、彼等の参拝は却って祀られた多くの犠牲者を愚弄するものと言えるのではあるまいか。

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 「 武蔵・巣鴨 明治42年5月21日 」 消印のカナダのトロント宛ての外信絵はがき。
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絵はがき裏面の 「 東京名所 九段靖国神社 」。 明治40年前後の写真か。
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 1月17日(火)
 日曜日の台湾の会の中国語の話題は 「 中国料理 」 だった。
 本来の中国語は 「 中国菜 」 ( 日本人には 「菜」 は第一義には 「野菜」 のイメージだが、「お総菜」 の語を思い浮かべれば違和感も緩和される ) だが、日本語の 「料理」 という言葉が中国語としても重宝に使われ出したようだ。
 余談ながら、もうかなり前の中国で 「歯科」 の看板を見かけて引っ掛かった。従来は 「牙科」 だった筈で、聞いてみると、日本語の 「歯科」 の方がカッコよく聞こえるとのことだった。

 提供された資料では 「 八大菜系 」 ( 中華八大料理 ) として紹介されたが、日本では一般的に中国四大料理として、北京料理、上海料理、広東料理、四川料理を耳にする。
 Wikipediaの 「 菜系 」 ( 菜系は中国語で料理の種類を意味する ) によれば、中国で最も一般的な区分法とされるその 「 八大菜系 」 は、山東料理 ( 魯=ロ菜。以下はそれぞれの地方の略称による )、江蘇料理 (江菜)、浙江料理 (浙=セツ菜)、安徽料理 (徽=キ菜)、福建料理 (閩=ビン菜)、広東料理 (粤=エツ菜)、湖南料理 (湘=ショウ菜)、四川料理 (川菜)を指すという。

 より大きく括る 「 四大菜系 」 の区分 ( 山東料理、淮揚料理、広東料理、四川料理 ) もあり、これが日本での 「 中国四大料理 」 とほぼ重なっているが、香辛料を使った辛い料理が多いという麻婆豆腐、乾焼蝦仁 (エビチリ) の四川料理のイメージはあるが、甘みが強いとされる上海料理 ( 八宝菜、小籠包、ワンタンなど )、味が濃く塩辛いとされる北方系の山東・北京料理 ( 北京ダック、炸醤麺(ジャージャー麺)、水餃子など )、薄味で材料の味を生かすという広東料理 ( ふかひれスープ、シュウマイ、チャーシューなど ) の区分はよく自覚できていない。

 料理の話ときて連想するのは2014年から年末に発行されている 「 海外グリーティング ( 差額用 ) 」 切手です。 ( 二種連刷の10枚シート )
 絵柄に日本の食べ物が取り上げられていて人気があり、2016年は 「 ざるそばと親子丼 」。
 シート余白には 「そば湯」 「わさび」 「さじ」 「七味」 も描かれている。
 ただし、まさかとり年だから鶏肉の親子丼と言うわけでもないでしょうが。
 因みに、2015年は 「 ラーメンとすき焼き 」、2014年は 「 寿司とてんぷら 」 でした。

 なお補足すると、国際郵便はがき ( 航空便用 ) 料金は、1988年4月1日の料金改正から、地域を問わず世界中どこへでも70円で送ることができようになり、2014年 ( 2015年用年賀対応 ) 以降、海外への年賀状を想定した時期に、『海外在住者へ季節の挨拶を伝えるために、通常葉書 (52円) を航空便扱いの国際郵便葉書として差し出すのに必要な郵便料金 (70円) との差額 (18円) に対応した、グリーティング切手 「 海外グリーティング ( 差額用 ) 」 が発行されるようになった。

( 付記 ) 「 スウェン・ヘディンまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー 」 は最終落札価格は、11 bids US $510.00 となりました。

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昨年 2016 (平成28) 年11月1日に発行された、2017年用年賀対応の
「 海外グリーティング( 差額用 ) 」 切手の 「 ざるそばと親子丼 」。
シート余白には 「そば湯」 「わさび」 「さじ」 「七味」 が描かれている。

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2015 (平成27) 年発行の 「 ラーメンとすき焼き 」。
シート余白に、ラーメンには 「コショウ」、すき焼きには 「玉子」 が描かれている。

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2014 (平成26) 年発行の 「 寿司とてんぷら 」。
シート余白にはエビのにぎり寿司と、エビの天ぷら。



 1月16日(月)
 いまヤフオクに図のような沖縄垣花郵便局の貯金通帳が出品されています。
 まあ、いろんなものが出てきます。
 通帳には出納の日にちが順次記録されているが、最終の消印日付が昭和19年8月5日になっている。
 垣花局の郵便局為替貯金記号は 「 もはい 」 。

 併せて、先日出品されていた同時期の沖縄関係のものを借用しておきます。
 昭和19年4月の沖縄国頭に宛てられた八王子 ( 19.4.17 ) からの速達便。
 もう翌年には終戦を迎える戦争末期の、と言うよりも翌年の沖縄戦の悲劇を控えた時期のもの。
 翌、昭和20年6月には米軍が沖縄に上陸し、国内唯一の戦場になった沖縄戦では多くの民間人が巻き込まれ多数の戦死者を出す悲劇に見舞われている。そんな前夜のものです。
 沖縄戦での両軍及び民間人を合わせた戦没者は20万人とされ、日本側の死者・行方不明者は18万8千人、そのうち民間人の犠牲者は半数の9万4千人に上った。

 なお、14日に紹介した今日午後1時半締め切りの 「 スウェン・ヘディンまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー 」 はあと6時間を残して 9 bids US $404.00 まで値を上げている。

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沖縄垣花郵便局の貯金通帳。最終の出納日の消印日付が昭和19年8月5日になっている。

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昭和19年4月の沖縄国頭に宛てられた八王子 ( 19.4.17 ) からの速達便。



 1月15日(日)
 映画 「 アイヒマンを追え 」。 「 ナチスがもっとも畏れた男 」 と副題されている。
 11日に見てきた映画だが、少し間が空いたのは一気に書かせる興奮がなかったからで、 ラストシーンの肩すかし ( いよいよアイヒマンの裁判シーンが見られるかと思いきや、ようやくそこにたどり着いたところでプツンと終了してしまう ) がそうであったように、怒りや感動とは別の、なにか静謐さが漂う映画です。

 それは、この映画がアイヒマン逮捕、ホロコーストで多くのユダヤ人を死に追いやったアイヒマンの悪行を暴き、裁判の様子を再現するといった、怒りや公憤を覚える場面を描こうとするものではないからだ。

 映画は、アイヒマンをその一人として、ナチの犯した残虐行為を改めて問い質そうとした良心の人物、のちにナチの残虐行為の細部を広く世界に知らしめることとなったフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判 ( ニュルンベルク裁判において裁かれなかったナチスの過ちに対する責任を問うものとして、ホロコーストに関わった収容所の幹部らをドイツ人自身によって裁いた裁判。1963年12月から65年8月までフランクフルトで行われた ) を起こした、ヘッセン州の検事長だったフリッツ・バウアーを主人公として、その 「 戦い 」 を描いている。

 時は1950年代のドイツ。戦後の経済復興にむけて歩みを進めるこの国にあって、「 戦前のことは戦前のこと 」 としてナチス時代の罪を振り返ることのない国民が多い中にあって、彼の問いかけた問題意識は、映画冒頭に映された生前に撮影されたフリッツ・バウアー本人の言葉に集約されている。

 『 ドイツの誇りは奇跡的な経済復興と、ゲーテやベートーベンを生んだ国であるということだ。
 一方でドイツはヒトラーやアイヒマンやそのお仲間を生んだ国でもある。
 どんな日でも昼と夜があるように、どの民族の歴史にも陽の部分と陰の部分がある。
 わたしは信じる。ドイツの若い世代なら可能なはずだ。
 過去の歴史と真実を知っても克服できる。
 しかし、それは彼らの親世代には難しいことなのだ。 』。

 余談だが、打合せで仲間を迎え入れた事務所の部屋を映したシーンがある。
 そこに置かれたステレオから懐かしい曲が流れている。
 ああ、好きなチャイコフスキーの 「 悲愴 」 だ。
 映画のフリッツ・バウアーが 『 チャイコフスキーの 「 悲愴 」。好きなんだよ 』 と漏らす。
 壁には私の好みのビュッフェの絵も掛けられている。
 不思議な気持ちになったシーンだった。

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パンフレット表紙。

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パンフレットから、映画の各シーン。
「 右のページの左下 」 にある応援に寄せられた手紙の中に紛れて、ナチスの小旗に銃弾を包んだ脅迫の手紙も送られてくる。
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 1月14日(土)
 困ったときの借用画像。
 またも前出のニューヨークの出品者からのものだが、この人、というよりこの業者から出品されている量がすごい。まるで、当時の郵便局からの郵袋を丸ごと失敬してきたよう。
 大半が中国関係のもので、試しに10頁に亘る出品を 「 China 」 で絞ってみると 9頁が中国関係のもので、1頁に25点がリストアップされているから、こうした高級カバーを含む出品数は 9頁で 200点を超える。

 CHINA-RARE-1894-SVEN-HEDIN-1st-Expedition-KASHGAR-SINKIANG-RUSSIA-SWEDEN- R-COVER
 タイトルに、スウェーデンの西域探検家スヴェン・ヘディン ( 1865-1952年。スウェーデンの地理学者・中央アジア探検家 ) の1894年の第一回目のカシュガル遠征にまつわる新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバーであることが記されている。
 新疆のロシア郵便局とは、19世紀末にロシアが現在の中国・新疆 ( 現在の新疆ウイグル自治区 ) に進出して開設していたロシアの郵便制度による郵便局。
 このカバーにも見られるように、ロシアの切手が使用され ( 帝政ロシアの20コペイカ )、「 НОВ.МАРГЕЛАНЪФЕР. ОБ」 の1894年1月27日のロシアの消印が使用されている。

 消印の 「 НОВ.МАРГЕЛАНЪФЕРГ.ОБ 」 は、「 フェルガナ州・新マルギラン 」。 1875年、ロシア帝国が占領し、1876年、ロシアはこの地に軍事要塞を建設、マルギランの北に位置していたことから 「 新マルギラン 」 ( Новый Маргелан= ノーヴィ・マルギラン ) と名づけた ( 1876-1907 )。
 その後、スコベレフと改名 ( 1907-1924 )、更にロシア革命でボルシェビキ軍がこの地を占領すると、1924年にフェルガナの名前になった。

 中国切手研究会の会長を務めた中島八十一氏に 「 新疆郵便史 」 という金字塔があり、1910年の大清郵政による郵便制度が導入される以前の前史としてのロシア郵便局の進出についても、あるいは触れられているかも知れない。
 ロシア~大清郵政の塔城 ( タルバガタイ ) ~迪化 ( ウルムチ ) ~ 蘭州 ( 甘粛省 ) に重なるルートがあったのだろう。

 俄に調べは付かないが、中国切手研究会の会報 「 中国郵便史研究 」 ( 1987年の発足から27年、2014年10月、第162号で刊行を終了 ) のどこかに 「 新疆のロシア郵便局 」 の記述が見つかるかも知れない。

 なお、かつてスウェン・ヘディンゆかりのカバーを所有していたが、これについてはホルダー 「 豊かな日々のつれづれに 」 の 「 15 「 郵趣の楽しみ 」 ( その二 ) ヘディン・カバーについて 」 に書いているので併せてご覧ください。
 また、2014年5月202号の 「 200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 」 に、そのリーフを載せています。

 カバー記載の判読。上半分はフランス語か。
 名宛人の記載はあるが、差出人の名は見えない。ヘディン本人であるのか。
 一番上は 「 書留 」 ( Recommandé )。
 二行目不明。
 三行目の名宛人の名がルードヴィッヒ・ヘディンと読める。ヘディンの身内の名でもあるのか。
 四行目不明。長い綴りはドイツ語のようにも見えてくるが。
 五、六行目に宛先の住所が、ストックホルム、スウェーデンと鳴っている。
 下の三行はロシア語だが、一行目はルードヴィッヒ・ヘディンとは読めない。
 二、三行目はストックホルム、スウェーデンとなっているが。
 右下は 「 書留 」 ( Заказное )。

 そうそう、これは前二者とは違って入札方式。 現在6人が応札しており、US $232.50 まで値をつけている。
 締め切りまであと1日と20時間。 果たして最後は幾らで決着するのでしょうか。

 なお、同人から出品されていたヘディンの遠征支援のために1932年に発行された西北科学考査団記念切手4種の各5枚ストリップを張り付けておきます。



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スウェーデンの西域探検家スウェン・ヘディンの1894年の第一回目のカシュガル遠征にまつわる
新疆のロシア郵便局からスウェーデン宛ての書留カバー。 フェルガナ州・新マルギラン 1894年1月27日。
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裏面のストックホルムの到着印。

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ヘディンの遠征支援のために、1932年に発行された西北科学考査団記念切手4種の各5枚ストリップ。
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 1月11日(水)
 今日もイーベイからの借用で、8日に取り上げた満州国・ハルビンからスイスに宛てたカバーと同じ出品者からの出品。
 「 CHINA-1941 RARE WWII Censor Airmail EurasiaCover-Hami/Alma-Ata/Moscow-Germany 」。
 1941年4月25日の中国・重慶からドイツ・ベルリン宛の航空カバーで、新疆省 ( 現・新疆ウイグル自治区 ) のハミ ( 哈蜜 )、アルマ・アタ ( カザフスタンの都市アルマトイの旧称 )、モスクワ経由。
 裏面に開封後の帯状の封緘紙に第二次世界大戦に係わるドイツの検閲印が押されている。「 geöffnet 」 は検閲による 「 開封 」。
 当時、重慶から、哈蜜-アルマ・アタ-モスクワを結んだユーラシア大陸横断の航空便輸送の飛行ルートが開設されていたようだ。

 これも「 Buy it Now 」の即譲扱いだが、何と前回に輪を掛けてUS $3,000.00 の高額な値段が付けられている。それなりの時代物のカバーだが、いかんせん高すぎる。
 金額が金額だけに、$144.02× 24ヶ月の分割払いも応じるとしている。

 裏面のベルリンの着印の日付は1941年5月22日で、翌6月22日には、バルバロッサ 作戦の発動によりドイツ軍のソ連侵攻が開始されている。
 一方の重慶も、日中戦争で首都の南京が陥落すると南京国民政府 ( 蒋介石政権 ) は、政府を武漢、ついで重慶に移し、重慶にはこの時期臨時首都が置かれていた。

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 1941年4月25日の中国・重慶からドイツ・ベルリン宛の航空カバー。
哈蜜 ~ アルマ・アタ ~ モスクワ経由。

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(裏面)1941年5月22日のベルリンの着印。
開封後の帯状の封緘紙に第二次世界大戦に係わるドイツの検閲印
 1月10日(火)
 昨日からの続きで、1930年 (昭和5年) に発行された記念切手のもう一方の、第2回国勢調査記念の切手二種。

 地図の部分がエンボス加工されたように盛り上がって見えるが、凹版による印刷インキの盛り上がりで、鮮明な日本地図 ( 当時は日本領土の最大版図 ) の表現と印刷が見事な戦前の切手の中の名品です。
 図はその時の絵はがきにこの切手を貼ったFDCで、円グラフに日本本土の四島と千島他の外地 ( 朝鮮、台湾、南樺太 ) の面積割合が円グラフで示されている。
 その順を改めて見てみると、本州-朝鮮-北海道-九州-南樺太-台湾-四国-千島でこの順番を正確に言い当てるのは意外に難しいのではないか。
 因みに、本州の面積23万 km2と朝鮮半島の面積22万km2はほぼ拮抗しており、台湾と南樺太はどちらも約36万km2でほぼ等しい。
 なお図では肩を並べているが、未解決の北方領土・南千島4島(5千km2)を含む千島全体の面積は1万km2強で、四国の面積1.8万km2には及ばない。
 また、仮に樺太全体では76.4万 km2で、78万 km2の北海道とこれまた拮抗する。  

 南樺太、千島、朝鮮、台湾、南洋群島にまで及んだ日本領土の最大版図については、2009年1月第138号 「 旧制中学入試問題集から 」 で詳しく触れていますので併せてご覧ください。

 1930年 (昭和5年) 10月1日を期して一斉に行われたこの第2回国勢調査調査で、日本の本土人口は約6,500万人。
 またこの時の外地・租借地・委任統治領での各種センサスによる人口は、台湾が約460万人 ( 中華民族、原住民族を含む。台湾の現在人口は約2,400万人 )、樺太約30万人、朝鮮約2,100万人 ( 大半の朝鮮民族を含む、現在人口、韓国約5,100万人と北朝鮮に約2,500万人 )、南洋群島に約7万人。
 このほか、関東州 ( 旅順、大連および遼東半島租借地 ) に約96万人、南満州鉄道沿いの満鉄附属地 ( 日露戦争講和のポーツマス条約の規定によりロシア帝国が経営する東清鉄道の南満州支線を継承したときに、鉄道附属地制度もそのまま継承した ) に約37万人を数えている。

 1930年9月25日発行の第2回国勢調査記念切手は、1920 (大正9年) 9月の第1回国勢調査記念切手に次ぐ第二弾である。
 国勢調査は以来5年ごとに、西暦で下一桁が0の年の 「 大規模調査 」 と5の年の 「 簡易調査 」 が交互に実施され、昨年・平成27年 (2015年) の国勢調査で第20回目を数えたが、今回の調査で日本の総人口は1,271万人となり、これまで一貫として増え続けてきた人口が初めて減少に転じた。
 戦争で多くの犠牲者 ( 軍人230万人、民間人80万人 ) を出したにもかかわらず、第5回の昭和15年の731万人が、第6回の昭和22年で781万人と増えているのは外数であった外地からの引揚者がが一気に加わったためであるが、数百万人単位での出入り勘定は凄まじい。

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1930年(昭和5年)発行の第2回国勢調査記念の切手二種。 ( 150% )
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第2回国勢調査記念の1銭5厘切手を貼ったFDC。 ( 115% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月9日(月)
 7日の土曜日、テレビ東京の番組 「 美の巨人たち 」 で明治神宮が取り上げられた。
  「 美の巨人たち 」 は民放番組なのだが、そのタイトルからNHKの 「 美の壺 」 となんとなく混同していた。
 それはともかく、明治神宮は初詣で日本一の参拝者を集めることでも知られており、毎年大晦日から正月三が日の間に300万人前後が参拝する。

 明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を御祭神として、1920年 (大正9年) に新たに造営された神社で、まもなく鎮座100年を迎える。
 鎮座とは社殿が造成されたのち神霊をここに鎮めることで、鎮座祭はこの年11月2日に行われ、皇室からは大正天皇の名代として皇太子裕仁親王 ( のちの昭和天皇 ) が行啓した。

 第二次大戦中の空襲で本殿の他かなりの部分が焼失しており、現在の本殿などはその後に再建されたものであることを今回初めて知った。
また、明治神宮が内苑と外苑の部分に区分され、馴染みのイチョウ並木の正面にある絵画館 ( 聖徳記念絵画館。1926年 (大正15年) 10月に竣功し、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している ) や神宮外苑球場のある神宮外苑の意味をこれまた今回初めて知った。

 明治天皇 (1852- 1912年) と昭憲皇太后 (1849- 1914年) の崩御に、その造営が建議され、境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備された。今日まったく天然自然のものと思われる明治神宮の森もこの時に全国からの献木による植樹で人工的に造成されたものである。
 代々木御料地のこの場所は、元々は樹木のない荒地であったところに、神社設営のために人工的に森林を造成したもので、東大林学の本多静六博士の設計の下、日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。

 この森林造成は植生遷移 ( サクセッション ) を踏まえ、植えられた多様な樹種を多層に植栽することで、およそ100年後には広葉樹を中心としたこの地域における自然植生の極相林 ( クライマックス ) の達成を想定して、1915年 (大正4年) の建造物の着工とともに開始され、それが今日の神宮の森として見事に実現している。

 また明治神宮境内の南側部分には江戸時代の大名下屋敷の庭園に由来する明治神宮御苑 ( 通称、神宮御苑 ) があって、宮内省所轄の御料地となったあとは代々木御苑と呼ばれ、明治天皇と昭憲皇太后にゆかりの場所として整備され今日に至っている。

 ところで、明治神宮と聞けば、郵趣の立場からは戦前の記念切手、1930年11月1日発行の 「 明治神宮鎮座10年記念 」 の切手を思い出す。
 切手は同図案で、緑の1銭5厘と朱の3銭の二枚セットで発行されたが、FDCは3銭の方だけで、特別記念印 ( 日付は11月3日 ) が押されている。
 戦前の記念切手の発行は、今日の粗製濫造・濫発の時代と比べれば驚くほど僅かで、この年の発行は9月25日の第二回国勢調査記念とこの切手の二回だけであった。

 なお、第二回国勢調査記念の切手については、明日取り上げることにします。

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1930年11月1日発行の 「 明治神宮鎮座10年記念 」 の切手2種。 ( 150% )
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同切手のFDC。切手は3銭の方だけで、特別記念印の日付も11月3日のサードデイ・カバーですが。 ( 105% )
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 1月8日(日)
   今日はイーベイの出品からの借用でショート・ショート。
 アメリカ・ニューヨークからの出品ですが、Buy It Now ( 即譲 ) で、まさかのUS $1,500.00 では、先ず売れることはないと思いますが。
 特別価値のある切手でもなし、有名人のものでもなし、特別意義のあるカバーとも思われず、どこに着目した価格設定であるのか、どう見ても値付けの根拠が見い出せない。

 左肩の差出人の住所の記載にある 「 駐華依那非里達 」 に首を捻った。
 「 駐華 」 からどこかの国の領事館か駐在事務所かと思ったが、「 イナフェイリダ 」 の発音に該当する国は見当たらない。

 スイスのヴォーレン宛て。ヴォーレンはスイス北部、チューリッヒの西20kmにあって、ドイツ語圏。
 封筒上部に 「 I. NEUFERT 」。「 輸入-輸出 」 とあるのは貿易会社か。

 ドイツ語圏だから 「 NEUFERT 」 はドイツ語読みで 「 ノイフェルト 」。
 答は封筒の中にあった。
 そこで、「 依那非里達 」 が 「 I. NEUFERT 」 に対応していることに気づく。
 謎が解けた。「 I. NEUFELD 」 は欧米の人名、または会社名で、その音訳の漢字表記が 「 依・那非里達 」 という訳だ。

 残念ながら、ハルビンの消印が不鮮明だが、切手に掛かった右側の消印に目を凝らすと 「 濱江 (哈爾濱) 」 の1932年10月30日となんとか読み取れる。
 因みに出品タイトイルは、「 CHINA-1932-Harbin-Pinkiang-MANCHUKUO-Switzerland via Dairen-R Cover-Emperor Puyi 」 ( 中国 1932年ハルビン-濱江-満州国-スイス、大連経由書留カバー、皇帝溥儀 ) となっている。
 皇帝溥儀とあるのは、貼られた5角 (=50分) の溥儀の肖像の描かれた切手を指している。

 裏面のヴォーレンの到着印の日付は 1932年11月29日となっており、送達に約一ヶ月を要している。
  「 An dis Firma 」 は 「 会社内 」。
 大連を経由しているところを見ると、当時一般的であったシベリア鉄道によらず、スエズ運河経由の船便であったか。

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1932年の満州国ハルビンから大連経由スイス宛ての書留カバー。
第一次普通切手、皇帝溥儀の肖像50分切手貼り。
( 画像をクリックするとそれぞれ二段階で拡大します )

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左肩の差出人の住所記載部分にある「駐華依那非里達」。



 1月7日(土)
 惜しまれながら昨年末の12月5日で廃線になった留萌線、留萌−増毛間の終着駅のあった増毛 ( ましけ ) です。
 鮮明な消印で、日付は明治27年9月10日。
 2015年6月第215号にこれを含めた 「 北海道消印・アイヌ語由来の地名 」 がありますので併せてご覧ください。

 留萌線は1910年 (明治43年) に深川駅 - 留萠駅間 (50 km) が開業し、1921年 (大正10年) にこの留萠駅 - 増毛駅間 (16.7 km) が延伸開業している。
 よって、この切手の消印の使われた時期には、増毛にはまだ鉄道が通じていなかったことになる。

  かつて国鉄時代には留萌からさらに羽幌線 ( 留萠駅 - 羽幌駅間と羽幌駅 - 幌延駅間に分けられ、この2つの区間がそれぞれ留萠駅 (昭和2年着工) と幌延駅 (昭和10年着工) を起点として、南北から建設が進められ、1958年 (昭和33年) に最後の区間である初山別駅 - 遠別駅間が延伸開業して留萠駅 - 幌延駅間が全通 ) が分岐して日本海に沿って北上し、幌延駅で宗谷本線に接続していたが、国鉄分割民営化直前の1987年 (昭和62年) 3月30日に廃止となった。

 留萌−増毛間は1日に上り7本、下り6本の運行であったが、どういう計算か 「 同区間の1キロ当たりの1日平均利用者数は2014年度にはわずか39人 」 とされているが、ということは掛ける16.7 kmで一日の利用者は651人になるか。いくらなんでも一日の利用者がまさか39人である訳もなく、廃線のために見せる目くらましの数字であったか。

 その留萌本線ですら、JR北海道は昨年11月30日、経営効率優先 ( 民営化はその口実を与えた ) から維持困難との意向を表明した追加10路線13区間に加えている。
 こんなことをしていたら、路線網はずたずたになってしまう。

 民営化さえすればの大合唱のもとで、諸々の意図を含みながら行われた旧国鉄の分割民営化であったが、公共交通機関の役割をかなぐり捨てて不採算路線の廃止に走るであろう事は当初から予見されたことであった。
 地方路線切り捨ての一方で、関係者寄って集ってのパフォーマンスで景気よく北海道新幹線を引っ張ってきたが、その赤字構造は札幌まで延伸したとて新たな荷物を背負い込む事になるだろうと、これまた予見している。

 増毛は早くからニシン場として栄え、1897年 (明治30年) に新たに発足した19支庁の一つとして 「 増毛支庁 」 ( のちに留萌支庁 ) が設置されている。
 増毛のアイヌ語、マシケには多説あるが、一説に 「 マシケ・イ 」 で 「 カモメが多いところ 」。

 このことについては、2005年8月第97号 「 北海道行政区画の変遷 ( 「 函館区 」 の時代について ) 」 を参照されたい。
 消印に見るとおり、明治27年にはまだ天塩国で、97号では 『 1869年 (明治2年)、明治政府は地域の呼称を蝦夷地から北海道に改めるとともに、開拓使を設置し、11国 ( 渡島、胆振、日高、後志、石狩、天塩、北見、十勝、釧路、根室、千島 ) とその下の郡に区分した。 』
 また、 『 1897年 (明治30年) に19支庁を設置し、その後の統合を経て明治43年までに現在の14支庁になった。 』 と書いている。

 増毛は、2010年5月のエビ祭りの折に訪れて日本最北の國稀 ( くにまれ ) 酒造も訪れ、また昨年10月の豊富温泉の帰りにも訪れて廃線間近の増毛駅にも寄ってきた。
 どちらも観光バスで鉄道の利用ではなかったが、今回の増毛線の廃止は寂しいことであった。

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U小判5銭に丸一印、天塩・増毛、明治27年9月10日。



 1月6日(金)
 知識は連鎖だ。
 そして、本にも連鎖性がある。
 ある本を読んでいて、関連するいろいろな記述について、その源泉になった本の存在をを知る。
 あちこち読み散らかしていると、それがどこに書いてあったのか分からなくなることがあるが、ともかく、本を通じてまた別の本を知ると言った具合です。

 それから インターネット百科事典 「 ウイキペデイア(Wikipedia) 」 の存在。
 昨年6月の盛岡での大会で、このことに触れて。次のように話しました。
 ( 「2(3)全国郵趣大会2016in盛岡」 の 「2 郵趣家の日常」、「(4)インターネットのこと」 の 「①ウイキペデイア」参照 )
 『 知識の源泉としてウイキペデイアの存在は、本当に便利で貴重。
 お抱えの図書館であり、いわば居ながらにして世界中の図書館と繋がっている。
 知識は核分裂と同じ。知識は連鎖反応。
 ウイキペデイアには、文字色が青になったものと赤になったものがあり、青はクリックするとその項目へ飛ぶ。またその項目の中に知りたい、調べたい項目が青字になっていれば、またそこからその項目へ飛んでゆく。( ただし赤は、現在掲載取組中の項目 )
 知識の連鎖は果てしない。 』

   そんな 「 本の連鎖性 」 の中から巡り会った本。
 「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 ( 横田健一郎、産経新聞社 )。
 本書は、数ある唱歌・童謡の中から時代を代表する作詩者、作曲者によるすぐれた歌の誕生の背景を紹介するとともに、心ない文科省行政のゆとり教育やご都合主義に翻弄されて、日本人に長年歌い継がれてきたかけがえのない日本の文化の一つである大切な唱歌や童謡が軽んじられて教科書からどんどん消えている実態を訴え、また替わって採用された歌の問題を指摘し、警鐘を鳴らしている。

 『 唱歌・童謡を放逐して、二十一世紀にふさわしい愛唱歌が登場するのなら許せようが、どの教科書も乱れた日本語、意味不明な単語の羅列にすぎない曲や外国曲が随分目に付く。 』
 歌詞に使われている日本語の乱れについて、『 低学年でも、遊びの時間と明確に区切った授業が必要だ。にもかかわらず教科書は依然、遊戯感覚。これは子どもへの迎合だろう。 』
 そう、「 遊びの時間と明確に区切った授業 」。子どもながらに授業に臨むときの当時の厳粛な気持ちを思い出す。

 腰の定まらない文科省行政の対応について語られた部分からは目を背けたくなるが、「 あとがき 」 には、「 詩情を損なう歌詞の勝手な改定 」 に係わる金田一春彦氏のこんなエピソードも紹介されている。
 「 春の小川 」 の歌詞の 「 さらさら流る 」 が 「 行くよ 」 などと改定されたことに触れて、
 『 私はたまたま伊豆の御用邸で、今の天皇、皇后両陛下と同席したことがある。・・・陛下は私に向かって 「 川は流れるものであって、行くものではありませんよね 」 と言われたが、たしかに行くのは水であって川ではない。私は今の天皇陛下がこのように正確な語感を持っていらっしゃることに敬服した 』 と。

 なお、この本の中で紹介された唱歌・童謡のうちの主要な20曲が収められたCDも発売されている。 ( ポニーキャニオン )
 我々の時代の者は、ここに挙げられた歌は一つとして歌えないものはない。ところが、こうしたありさまでは、今の子どもたちが幾つ歌えるのかとなると、はなはだ心許ない。

 愚かな文部行政が、グローバル化への対応などという浅はかな口実で、小学校からの英語教育をはじめたが、英語はその話す手段より、話す中身が大切。
 その中身はまず日本語の読解力を通じて論理的思考力や情緒力や教養力を高めることだとある人が言っているが、その通りだと思う。
 大事な時期に、限られた授業時間を生半可な英語を教えるのに割かれれば、それだけ大事な日本語が疎かになる。

 最後に関連の本を挙げておきます。
・ 日本唱歌集 ( 岩波文庫、堀内敬三・井上武士編、緑92-1 )
・ 日本童謡集 ( 岩波文庫、与田準一編、緑93-1 )
・ 子どもの替え歌傑作歌 ( 鳥越信、平凡社、2005年 )

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「 教科書から消えた唱歌・童謡 」 ( 横田健一郎、産経新聞社 ) の表紙。



 1月5日(木)
 一昨日、いつものシアターキノで韓国の映画 「 弁護人 」 を見てきた。
 暮れにも行こうとしていたところだったが、うかうかしていると見過ごしかねない。
 このところ韓国映画が続く。近年の中国映画は不作、台湾は小休止。

 時は全斗煥の軍事政権時代。
 クーデター政権が当初の統治基盤を確保するために、各地で民主勢力の弾圧を行う中で ( 光州事件も起きた )、国家・警察・検察の結託によって引き起こされた、国家保安法違反を口実にした捏造事件。
 先の「戦場のメロディー」のイム・シワンがここでも重要な役柄 ( 学生連盟の弾圧事件で不法逮捕、監禁、拷問を受けて無実の罪を着せられた、クッパ屋=大衆食堂の孝行息子の大学生 ) を演じている。
  「 戦場のメロディー 」 には涙したが、「 弁護人 」 は怒りに震える映画だ。

 主人公の弁護士は、連れ去られた息子をよやく探し当てたものの国家権力を前に途方に暮れるクッパ屋の女主人を見かねて弁護を引受け、財務・会計弁護士として成功していた立場から、一転、政治・社会問題に係わる道を選ぶ。

 主人公は後に大統領になる盧武鉉氏 ( 退任後、自殺している ) で、基本的な部分は実話に基づく話だが、演じる名優ソン・ガンホのタイプが盧武鉉氏とはだいぶ違うように、そこは映画の世界だ。
 高卒の身で働きながら司法試験に合格 ( その前に資格試験で受験資格を取得 ) し、裁判官になったが弁護士に転職した主人公 ( 盧武鉉その人 ) が、建設現場で働いていた時代にクッパ屋の女主人に世話になった縁があったという設定。

 それにしても、今回の醜聞の挙げ句に辞任したパク・クネ、アメリカでは面白半分がトランプを大統領に押上げ、また数を頼みに 「 最高責任者は私だ 」 と憲法までねじ曲げるどこかの国の独裁者もいて、国家の指導者が愚か者で覆われる世界になった ( 北朝鮮のキム・ジョンウン、シリアのアサドなどは論を待たない )。
 それでも、韓国では大統領を辞任に追い込み、アメリカでは大統領選直後のトランプ拒否の反対運動もあったが。
 国民の多数決で決まるはずの民主主義が、「 小選挙区比例代表制 」 という選挙制度のカラクリ ( 今回の米大統領選挙も、得票数ではクリントンがトランプを上回っていた ) で、少数の得票で多数の議席をかすめ取った連中が、数を頼みに民意を無視して勝手放題をやっている。
 一方にはこれを支える者がいて、因果の仕組みが見抜けず、たわいもない選挙での口車に乗って、懲りもせず相も変わらずの投票行動を繰り返して自分の首を締めている。これは彼等の思うツボ、カラクリを見抜こうとしない 「 愚民 」 こそ彼等にとってまたとない有り難い見方。民主主義と衆愚政治は紙一重。

 増大する防衛費、年金の三割カット。公安調査庁職員の増員計画も企らまれているという ( 現役の時代に中国の関係で公安の聞き取り調査を受けてたが、仕事柄とはいえ特高まがいのねじ曲がった先入観で凝り固まった鼻持ちならない連中であった )。
 自分たちが掲げた 「 株価維持 」 の政策目標 ( そんなものが政策目標といえるのか。また数字は結果であって作るものではない ) を達成するために、年金資金をリスクの大きな株式への運用が図れるようにまでするという、数を頼みにしたやりたい放題。
 将来三割下がることが見込まれるという年金カット法案の 「 三割減 」 の数字が、意外なことにマスコミで取り上げられないのが不思議だ。
 きっと圧力がかかっているに違ない。
 いつのまにか頼みのマスコミもすっかり牙を抜かれ、爪を剥ぎ取られたようだ。
 骨のあるキャスターの姿も次々と消えている。

 将来の年金会計維持のためとすり替えているが、そもそも放蕩三昧で財政危機を招いてきた者の吐く言葉は軽い。
 今でさえ基礎年金だけでの暮らしは厳しいというのに、それを充実するどころか 「 三割減 」 では年金会計が維持されても、これでは若者の将来に夢も希望も持てない。
 その一方で生活保護世帯が増え続けているのは無能な政治の反映でもあるが、どこかおかしい。

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「 弁護人 」 のパンフレットから。
( 画像をクリックするとそれぞれ二段階で拡大します )



 1月4日(水)
 イーベイに出品されていたニセカバー。
 出品はイギリスのSHROPSHIREから。
 シュロップシャーの名は珍しい。
 シュロップシャーはリバプールの南、バーミンガムの西にあるイングランドの町。サロップとも呼ばれる。州庁所在地はシュルーズベリー。すぐ西にウェールズと接する。
 大麦、小麦といった穀物や、テンサイ、ジャガイモの生産がおこなわれている。ブルーチーズの一種シュロップシャー・ブルーの産地でもある。

 それはともかく、このカバー。タイトルは 「 JAPAN 1945 COVER TO UK HMNZS GAMBIA AT TOKYO 」( 1945年、東京の巡洋艦ガンビアからイギリスに宛てたカバー ) となっているが、おかしい。
 こんな露骨なニセカバーが堂々と出品されるとは。というよりも、こんなお粗末なものを作るとは。
 真ん中の東郷7銭に消印がなく、左右の切手の消印が封筒にタイしていない。
 おまけに 巡洋艦ガンビアから発信のカバーに 「 見積書在中 」 とは。
 即却下だが、それでも少しは辻褄が合っている。
 右の切手で東京の欧文印、1945年9月と読め、左の切手でそれが9月2日と読める。 この二つの切手の 「 出所 」 は一緒のようだ。
 そして、1945年9月2日といえば、東京湾の米戦艦ミズリー艦上で降伏調印が行われた日だ。

 ところで、巡洋艦ガンビア ( HMNZS:ニュージーランド海軍。HMSはイギリス海軍艦艇の名前につけられる艦船接頭辞で、女王陛下の船(Her Majesty's Ship)の略 ) とはいかなる船か。
 となると、このニュージーランド海軍所属の巡洋艦ガンビアは、終戦直後、日本占領を控えてこのとき結集した多くの連合軍艦船の一隻として東京湾にいたのではないか。

 巡洋艦ガンビアは ( コロニー級巡洋艦のフィジー級巡洋艦 ) は1938年の建造計画の下で、同クラスの7つの巡洋艦の一隻として1つとして誕生し、1936年のロンドン海軍軍縮条約の要件を満たすため8,000トンに制限された。
 1940年11月30日に進水したが、1942年2月までに完工せず、同月に就役した。
 最初の任務、マダガスカル ( フランス・親独ビシー政権下 ) の攻撃を経て、1943年の初めに、東インド諸島 ( 東南アジア方面 ) に配置された。
 一旦、改装のためにイギリスに戻り、対空防御力が強化され、優れたレーダーシステムが配備され、1943年9月22日、HMNZSガンビアはニュージーランド海軍に所属することになる。その後、太平洋各地での任務に当たり、沖縄方面での防空任務では神風の攻撃も受けた。
 やがて終戦。8月20日に横須賀で日本海軍の接収に当たり、英太平洋艦隊の一部の艦船は8月31日に東京湾に停泊し、1945年9月2日には米戦艦ミズーリ艦上で降伏調印が行われたが、ガンビアはこの歴史的な機会にニュージーランド海軍を代表して参加した。
 やはり、場面設定の辻褄は合っていた。
 だがしかし、どう見てもこのカバーはいただけない。

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ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアからの発信を装ったニセカバー
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月3日(火)
 昭和12年元日の熱海の風景印の押された米国カリフォルニア州サンタ・ポーラ宛ての ちょうど80年前の年賀状。
 サンタ・ポーラはロサンゼルスの北西80Km、農業の盛んなオックスナード平原の現在人口約3万人の町。
 今日、「 世界のイチゴの首都 」 とあだ名されるようにイチゴの産地として知られ、毎年開催されるカリフォルニア・イチゴ祭は国内最大級。 また、「 世界の柑橘類の首都 」 というあだ名もある。
 主な農作物としては、セロリ、ライマメ、レタス、トマト、ブロッコリー、タマネギ、柑橘類特にレモンがあり、ハクサイなどアメリカ合衆国に移植されたアジア野菜の主要な生産地でもある。
 農業に加えて、この地域にはかなりの石油埋蔵量を抱えており、オックスナード油田とウェストモンタルボ油田の二大油田があるほか、農地には石油掘削施設も散在している。

 おそらく、名宛人は日系移民だろう。
  「 おめでとう 」 は旧仮名遣いなら 「 おめでたう 」 だが、カタカナ書きならこの時代も 「 オメデトー 」 であったか。
 昭和12年用の年賀切手 「 二見ケ浦の夫婦岩 」 に熱海局の風景印。この風景印の使用開始は昭和6年8月1日で、7月10日の開始から間もなく、最初期のものとなっている。
 それは、1931年7月7日の逓信省告示での制度創設の趣旨、「 名勝史跡等に因メル図案ヲ挿入シタル通信日附印 」 にあるとおり、この時は、全国主要局の他に有名観光地で開始されており、その初めは同年7月10日の富士山郵便局 ( 現・富士山頂郵便局 ) と富士山北郵便局であった。
 熱海の風景印の図案がまた、有名な梅林の梅に湯けむりとは、新年にまことに恰好の風景印になっています。

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昭和12年元日の熱海の風景印の押された米国カリフォルニア州サンタ・ポーラ宛ての年賀状。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 1月2日(月)
 今年も穏やかに明けました。
 さて、今年の北海道銀行のカレンダー。
 北海道銀行のカレンダーはこのところ道内出身画家の絵を題材にしており、今年は、安田祐三氏の 「 札幌中島公園~豊平館~ 」。

 豊平館 ( ほうへいかん ) は、札幌市中央区中島公園内にある西洋館。
 1880年、今の大通に面する位置に高級西洋ホテルとして開拓使が建造した。
 最初の利用者は明治天皇で、以後要人の宿泊、祝賀会、各種大会に用いられた。
 後に公会堂となり、第二次世界大戦中に日本軍、戦後にアメリカ軍に接収された。
 1958年 に中島公園に移設され、以後は 2012年3月 まで市営の結婚式場として利用されていた。国の重要文化財に指定されている。

 作者、安田祐三のプロフィールを見ると、
 1951年 北海道平取町生まれ 
 1974年 パリ国立美術院 ( ENSBA ) に学ぶ ( ~76年 )、78年山形大学卒業
 国内外の公募展で多数の受賞歴を持つ。
 道都大学美術学部デザイン学科教授      

 この人の持ち味は先ず写実性で、西洋絵画によく見るガラスの透明感、甲冑などの金属やビロードの質感に驚嘆したものだが、この人の絵もその写実性に特徴を持つが、静物画と違って、視野の広い対象を写実で捉えることの大変さと再現力にまず驚く。
 この絵でも、草や木の葉、水面のリアルな描写は写真ではないのかと目を疑うばかりだ。

 安田祐三ホームページ http://www5f.biglobe.ne.jp/~yyasuda/ のGallery で作品のいくつかを見ることができる。

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今年の北海道銀行のカレンダー。
安田祐三氏の 「 札幌中島公園~豊平館~ 」。



 1月1日(木)
 新年明けましておめでとうございます。

 年賀状で今年初のブログを飾ります。
 年賀状は新春に相応しい漢詩を選び、これにオリジナルの訳詞を添えるというこのスタイルに落ち着いて以来、かれこれ25年これを踏襲してきました。

 このことに関連して、コレクションリーフ (1) に下記の二篇を収めています。
 遙か昔のことで今更、面はゆい思いではありますが。
 43 「 漢詩を添えた年賀状 」 ( 2003年。「 豊かな日々のつれづれに 」 所収 )。
 42 「 心に染みる年賀状 」 ( 同、1990年3月 )。

◆ 1月の原稿もアップしておきます。
 「 世界の高層建築物の歴史 」。
 なお、参考にした 「 高層建築物の世界史 」( 大澤昭彦。講談社現代新書 ) は、読み物としても、そして何より資料として素晴らしい。

 文中にも記したが、著者は高層建築物の中心地の歴史上の移り変わりを冒頭の 「 はじめに 」 でこう書いています。
 『 古代においては巨大な宗教的建造物を建設したメソポタミア文明や、ピラミッドを作ったエジ゙プト文明の位置する中東地域が中心であった。
 中世にはいるとキリスト教のゴシック大聖堂のあるヨーロッパへ移っていく。
 19世紀末には大西洋を越えて、摩天楼が林立する北アメリカへと渡る。
 そして、20世紀末以降、アジアや中東へと移ることになった。
 つまり、高い建築が立地する中心地は、中東にはじまり、約5000年を経て地球を一周して、再び中東へ戻ってきたことになる。 』
  改めて、なるほどと思われます。

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今年の年賀状

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2017年用年賀切手。


新2016



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2016年分 ー覧表

2016年 号数 タイトル
12月 233  南洋群島トラック島碇泊、神戸高等商船学校練習船進徳丸乗組員宛て封  3頁
11月 232  戦後日本人引き揚げ者に対する大連電話局の通信事務封緘  2頁
10月 231   関連マテリアルから知る満蒙開拓団の悲劇 ~ 映画 「 望郷の鐘 」 と重ねて ~    5頁
09月 230(1)  胆振・壯渓珠(ソーケシュ)局の消印   1頁
230(2)  手彫り切手のオーソリティ、市田左右一氏ゆかりのカバー 2頁
08月 229  入札三題、初日カバーの話 4頁
07月 228  中華郵政史 5頁
06月 227  エベレスト、第三次イギリス遠征隊にかかわるシール 3頁
05月 226  臨時北部南西諸島政庁の設置から奄美群島復帰まで 5頁
04月 225  サザーランド切手について 6頁
03月 224  東京商船学校練習船月島丸  2頁
02月 223  テレジン収容所の小包切手    2頁
01月 222  カール・ルイスの新商売    4頁


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1957年イヤーセット・ホルダーの表紙。

新 2015



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2015年分 ー覧表

   
2015年 号数 タイトル
12月 221  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (下)   6頁
11月 220  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (上)  6頁
10月 号外  港区赤坂のアメリカ大使館と横浜にあった総領事館  3頁
09月 218  ルイス・カバーについて(下)  7頁
08月 号外  台北駅の変遷  2頁
07月 216  ルイス・カバーについて(上)  8頁
06月 215  北海道消印・アイヌ語由来の地名  4頁
05月 214  清国宛てエンタイヤ3通  5頁
04月 213  洋画家・金子博信の絵はがき  3頁
03月 212  (続)有名人の関連アイテム ~ 横山大観 ~  5頁
02月 211  伊豆の南端、石廊崎の長津呂にまつわる話 ~ 特攻兵器「震洋」の基地があったところ ~  4頁
01月 210  大学関連マテリアル 8頁


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昭和35年の網走国定公園切手発行記念FDC。

2014~

   
2014年 号数 タイトル
12月 209  戦前の台湾の風景印 8頁
11月 208  有名人の関連アイテム  6頁
10月 207  紙ものコレクション( 印紙類 )   7頁
09月 206  砲艦ツツイラ号関係カバー二点  6頁
08月 205   誌上「なんでも鑑定団」  6頁
07月 204  佐久間ダム関係マテリアル(映画「東京原発」とからめて)   5頁
06月 203  1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本  4頁
05月 202  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その3)  7頁
200号記念誌  200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 9頁
04月 201  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その2)  7頁
03月 200  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その1)  5頁
02月 199  1929年中国、パリ~東京間特別飛行の航空カバー(広州~上海)   4頁
01月 198  「北海道後志支庁忍路郡塩谷村」宛ての外信絵はがき二点   4頁
2013年 号数 タイトル
12月 197  水原明窓ゆかりの二点 5頁
11月 196  日本統治時代の台湾消印 10頁
10月 195  航空機の切手(特徴ある二機種について) 4頁
09月 194  富士山、よくぞ世界遺産に 6頁
08月 193  東京・わが心の故郷、ゆかりの二点  +「東京、わが街」(8頁) 5頁
07月 192  北朝鮮の出品にまつわるエピソード 6頁
06月 191  北杜夫とファーブルと 6頁
05月 190  明治の絵はがき「駅弁売り」の図 3頁
 逓信総合博物館の閉館 3頁
別冊  台北紀行(下) 15頁
04月 189  文革関係マテリアル三題 4頁
03月 188  燕京大学関連マテリアル 4頁
別冊  台北紀行(上)( 郵政博物館と牯嶺街の切手商 ) 10頁
02月 187  切手に見られる言語と文字について(下) 4頁
01月 186  ミント・未使用・使用済み、その落差  6頁
2012年 号数 タイトル
12月 185  切手に見られる言語と文字について(中) 5頁
11月 184  中国の郵票冊、二点 4頁
10月 183  切手に見られる言語と文字について(上)  5頁
09月 182  三井物産のカバー二点 4頁
08月 181  ジャーマン・ステーツ(領邦国家郵政)とプリバート・ポスト(ドイツ民間郵便) 8頁
07月 180  1968年・北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国20周年記念」8種連刷 3頁
06月 179  関連マテリアルから偲ぶ「郵便友の会」(6頁)+「郵趣の楽しみ」(7頁) 13頁
05月 178  フライング・タイガース(飛虎隊)関連マテリアル 17頁
04月 177  「切手」は各国語で何という 6頁
03月 176  「北方四島」のタブの付いたボーガス 3頁
02月 175  チャールトン・ヘストン宛のファンレター 4頁
01月 174  その後のイザワ・エイジ氏 3頁
別冊  郵便以前「アイヌの郵便」 3頁
2011年 号数 タイトル
12月 173 大英帝国の版図が描かれたカナダの切手について 3頁
11月 172 ジョージ6世とその時代(英領植民地の「地誌シリーズ」) 7頁
10月 171 在満州国日本領事館のマテリアル 6頁
札幌オリンピック冬季大会の扉 1頁
2011「北海道郵趣大会in旭川」を記念して 1頁
09月 170 リビア、二つの首都 3頁
08月 169 オールド上海の建築物(下) 8頁
07月 168 オールド上海の建築物(上) 10頁
06月 167 ウォルデンブルグ収容所郵便(ポーランド) 8頁
05月 166 Lagerpost Bando(板東収容所郵便)マテリアル 3頁
04月 165 沖縄暫定切手 丸検印 1947-48(参考品) 3頁
03月 164 Red Period(赤の時代)~ アメリカ 1926-32 ~ 10頁
02月 163 インドの一番切手・シンド州切手とインド藩王国の切手 7頁
01月 162 八十余年ぶりの邂逅 4頁
2010年 号数 タイトル
12月 161 「花柳」の世界 6頁
別冊 台湾鉄路一周の旅(13頁+11リーフ) 24頁
11月 160 エスペラント関係マテリアル 6頁
10月 159 有名なシンデレラ、南モルッカ共和国の切手 8頁
09月 158 インドネシア独立時期のウィーン版の切手について 6頁
08月 157 中国人民志願軍兵士差し立てカバー二通 5頁
07月 156 朝鮮近代郵便史 6頁
新・国際返信切手券(第七様式)について 3頁
06月 155 「中国占領地域」の時代 (Ⅱ蒙疆編) 8頁
朝鮮戦争ソウル占領北朝鮮二重丸印加刷 1頁
別冊 ミニ切手展「世界各国から届いた美しい郵便物」の開催 2頁
05月 154 「中国占領地域」の時代 (Ⅰ華北編) 6頁
04月 153 一枚の絵はがきから(屯田兵について) 5頁
03月 152 リーフ解説・オランダ領東インド 5頁
02月 151 カリカチュア(風刺画) 6頁
01月 150 「御料林」「北海道模範林・公有林」のマテリアル 7頁
2009年   号数 タ イ ト ル
12月 149 一枚の絵はがきから(東京日日新聞ニッポン号の世界一周飛行) 3頁
リーフ解説 マニラ大聖堂 2頁
別冊 私の1リーフ 中国解放区の布票 1頁
私の1リーフ 戦後満州のソビエト軍票 1頁
号外 セントローレンス運河中央逆刷エラー 2頁
11月 148 一枚のはがきから(白系ロシア人にまつわる話)
~ 東京・神田の白系ロシア人の業者から、中国・青島の切手商あてのはがき ~
5頁
10月 147 一枚のはがきから(郵便配達員の殉難)
~ 併せてアイヌの郵便逓送人・吉良平治郎のこと ~
5頁
09月 146 ミニ国家と切手発行 7頁
巻頭コラム 九月、初秋の候となりました 1頁
参考資料 三船殉難事件 3頁
08月 145 リーフ解説・モンテカルロ自動車ラリー 4頁
07月 144 TWA世界一周便の就航記念カバー 7頁
1932年・ニューファンドランドの民間航空切手 1頁
06月 143 映画の中に題材あり(「ショアー」と「ヒットラーの贋札」から) 5頁
別冊付録 北海道立文書館に眠るエンタイア 5頁
05月 142 浅草凌雲閣(十二階)の絵葉書 5頁
04月 141 民信局と僑批局について 5頁
03月 140 中国の公用便「公文封」について 4頁
02月 139 ロンドン王立郵趣協会主催切手展のスーベニア 3頁
01月 138 旧制中学入試問題集から 7頁
2008年   号数 タ イ ト ル
12月 137 クリスマスシール(複十字シール) 3頁
これでも届いた??? 2頁
別冊 eBayにまつわる話 5頁
11月 136 タロとジロ、奇跡の生還(第一次~三次南極観測隊) 4頁
付録 多彩な船歴を全うした「宗谷」 4頁
10月 135 万国郵便連合(UPU)にかかわるマテリアル 4頁
09月 134 反共フランス義勇軍 4頁
号外 「税済」消印にかかわる後日談 4頁
08月 133 開道140年(北海道庁関連マテリアル) 6頁
07月 132 地震の話~中国・四川大地震から~ 6頁
06月 131 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(8)」
「ウルグアイ・モンテビデオ切手展開催記念小型シート」
2頁
05月 130 スエズ運河国有化宣言記念切手初日カバー 4頁
04月 129 中国の特異な速達切手、「快逓郵票」について 3頁
03月 128 二人のボース 6頁
別冊資料 二人のボース「関連資料」 11頁
02月 127 フランスの香りパリの香り 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(7)」
「ソビエト切手発行25周年記念小型シート」
2頁
01月 126 ツール・ド・ポローニュ(ポーランドの自転車ロードレース) 3頁
私の1リーフ 「ワルシャワの人魚」 1頁
2007年   号数 タ イ ト ル
12月 125 米ソ合同探検隊のベーリング海峡横断 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(6)
「ベルギー、Orval修道院修復のための附加金付き小型シート」
1頁
11月 124 1970年・北朝鮮「朝鮮労働党第5回大会記念小型シート」を巡って ~ 4頁
10月 123 竹島問題(「 独島 」のマテリアルから) 4頁
09月 122 大きな大きな小型シート(ドイツ民主共和国誕生15周年記念小型シート) 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(5)」
「キプロスのボーイスカウト切手小型シート」
1頁
08月 121 古文書入門(挨拶状を材料として) 4頁
号外 二重丸印・利尻島局について 4頁
07月 120 1968年・北朝鮮「朝鮮人民軍創設20周年記念小型シート」(4P+資料1) 4頁+資料1
06月 119 書信往来 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(4)」
「ガボン、1970年航空切手のミニシート」
1頁
05月 118 私の1リーフ
「ウルグアイ/モンテビデオ~フロリダ間のFFC」
1頁
号外 あなたの誕生日は何曜日? 1頁
04月 117 ノー・モア・ヒロシマ ピース・フロム・ナガサキ 3頁
03月 116 硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima) 4頁+新聞2
別冊 ルーズベルトに与うる書 6頁
02月 115 私の1リーフ (エンタイヤを読む)
「満州国第二次航空切手39分一枚貼り」
1頁
01月 114 円形の切手 4頁
2006年   号数 タ イ ト ル
12月 113 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(3)」
「キューバ・切手発行100年記念にAAMS大会加刷」
1頁
11月 112 遺愛女学校 3頁
私の1リーフ (2006年ビザなし交流から)
「北方領土択捉島からのカバー」
1頁
10月 111 (北海道会員大会展示記念)
私の1フレーム「中国解放区東北各区三題
3頁
09月 110 似ている(似通ったデザインの切手) 3頁
08月 109 バナナの話 3頁
07月 108 変形切手の原点、三角切手 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(2)」
(ルーマニアの正三角形シート)」
1頁
06月 107 ロングリレー/蒋介石誕生日記念印の押印20年 4頁
05月 106 記念印/東京アンソロジー 4頁
04月 105 南洋の話+資料 6頁
03月 104 私の1リーフ 「私の好きな小型シート」(ロシア十月革命40周年記念) 1頁
02月 103 ワルシャワ蜂起とポーランド亡命政権 4頁
01月 102 ウラジオストク反共政権発行「プリアムール加刷」記念貼りカバー 3頁
私の1リーフ 「ポツダム会談を伝える中国の宣伝ビラ」 1頁
2005年   号数 タ イ ト ル
12月 101 国際返信切手券 4頁
11月 100 ラトビアの地図切手について 4頁
100号記念誌 表紙+会報の名称「赤れんが」について 2頁
札幌ボタ印における手へんの「扎」について 1頁
私の1リーフ 「ロシア附加金付きミニチュア切手のフルシート」 2頁
10月 99 エルトゥールル号の遭難(日本とトルコ、友好交流の原点) 5頁
別冊資料 日本とトルコの関係史概説
山田寅次郎伝
エルトゥールル号事件のこと
6頁
09月 98 オーストラリア・シドニーとマダガスカル・ディエゴスアレスを結ぶもの(特殊潜航艇の話) 5頁
08月 97 北海道行政区画の変遷(「函館区」の時代について) 3頁
07月 96 1979年・ブルガリア「Philaserdica’79」 4頁
巻頭コラム いかに郵趣への理解を広げるか 1頁
06月 95 コロンビアの初期航空切手 3頁
05月 94 ロードス島異聞 3頁
04月 93 満州鉄道まぼろし旅行 5頁
03月 92 セラソップ・セトラックの謎 3頁
02月 91 タンヌツーバの切手 4頁
01月 90 一九七九年・香港中国切手展記念カード 6頁
2004年   号数 タ イ ト ル
12月 89 明治天皇の函館上陸記念碑 4頁
11月 88 ウラジオストク物語 4頁
「集郵」すなわち「益智」である 2頁
10月 87 函館大火(千島・択捉島別飛から函館大火を見舞う) 3頁
09月 86 誕生日へのこだわり 2頁
明治から大正へのサドル便 1頁
オークションから(函館ロシア領事館差立てのカバー) 2頁
08月 85 日の目を見なかった第1次及び2次昭和切手の原画 3頁
07月 84 有名人にかかわるマテリアル 3頁
06月 83 久米島切手のシートを巡って 3頁
05月 82 昆虫館へようこそ(蝶に関するマテリアル) 5頁
私の1リーフ 「ホワイトロシア」 1頁
04月 81 TABROMIKのラベル(ポーランドの民間航空切手) 3頁
03月 80 男爵コルヴィザール 2頁
02月 79 謝文東のドクロ切手について 3頁
01月 78 樺太の日露国境境界標について 3頁
2003年   号数 タ イ ト ル
12月 77 ハングルの勧め(ハングル表付き) 4頁
11月 76 小さな同志への手紙
(昭和18年、東郷4銭貼第四種郵便について)
3頁
10月 75 雁の便り 3頁
09月 74 偽物百科 3頁
08月 73 札幌村郷土記念館に展示された思いがけないマテリアル 3頁
私の1リーフ「ポルトガル植民地」 1頁
07月 72 シンデレラを紹介します 3頁
以下は「豊かな日々のつれづれに」に掲載
06月 71 古書目録の中に見つけた「附加金付アイヌ紀念切手発行願」 2頁
05月 70 国旗をテーマに 3頁
04月 69 エピルスの切手について 3頁
03月 68 昭和11年、北海道陸軍大演習 4頁
02月 67 シベリア出兵にかかわるチェコ軍団の切手について 3頁
01月 66 オオカミの乳を飲む双子の兄弟の不思議な像を描いた切手 3頁
2002年   号数 タ イ ト ル
12月 65 極東選手権競技大会について 3頁
私の1リーフ「エンタイアの裏側に注目」 1頁
11月 64 一通のカバーから(中国の水害にまつわる話) 3頁
10月 63 何がどうということもないのだが、多数貼りの魅力
(ニューギニアとサモアのカバー二点)
3頁
09月 62 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(東京帝国大学附属樺太演習林)
3頁
08月 61 モーリシャス・ポストオフィス切手の記事に応えて 2頁
07月 60 マテリアルを俎上に その5
「漁師の日」記念の初日カバー
3頁
06月 59 マテリアルを俎上に その4
ブラジル1843年、牛の目
3頁
05月 58 マテリアルを俎上に その3
皇太子殿下北海道行啓紀念、下々方44-9-11
3頁
04月 57 FFCは一対のものである
日本航空・東京~札幌線深夜割引夜行便オーロラ号就航
2頁
03月 56 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(千島択捉島年萌局留置・単冠湾碇泊農林省海洋調査船)
2頁
02月 55 中国切手研究会「これはいくら?」のコーナーから
(旅順バイリンガル偽カバーと中華民国大型公用封筒)
3頁
01月 54 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その2
「紀元2600年記念貯金シール」「檀紀年号」
3頁
2001年   号数 タ イ ト ル
12月 53 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その1
「成紀年号」「主体年号」
3頁
11月 52 千島関係マテリアル二題 3頁
10月 51 マテリアルを俎上に その2  ツェッペリン号訪日記念絵はがき 3頁
私の1リーフ「北大VS小樽商大」 1頁
09月 50 切手の図案と配色について 4頁
08月 49 映画「阿片戦争」における一場面
ペニーブラック誕生にまつわる秘話
3頁
07月 48 マテリアルを俎上に その1
ASDA(米国切手商協会)切手展のスーベニア・シート
3頁
06月 47 第一次昭和切手厳島30銭凹版切手の無目打について 2頁
05月 46 みせびらかしで失礼します その4
ロンドン国際切手展のスーベニア・シートについて
3頁
04月 45 みせびらかしで失礼します その3
帝政ロシア時代の地方切手「ゼムストーボ切手」
3頁
補足資料 4頁
03月 44 みせびらかしで失礼します その2
中国解放区・旅大区の「郵票彙編」について
3頁
別冊 別冊 独断・郵趣川柳批評 3頁
02月 43 みせびらかしで失礼します その1の(2)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
3頁
01月 42 トピックス(「3シリングバンコ」について) 2頁
会員紹介 1頁
2000年   号数 タ イ ト ル
12月 41 みせびらかしで失礼します その1の(1)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
2頁
11月 40 一寸一言(ちょっとひとこと)「深川一已」地名の由来 1頁
10月 39 郵趣に関するエッセーについて 2頁
09月 38 樺太「九春古丹・野戦局」の消印について 2頁
08月 37 「北見・利矢古丹」の消印について 2頁

対馬の話

2017年4月第237号

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来場者数
プロフィール

 木村博海 (きむらひろみ)

Author: 木村博海 (きむらひろみ)


 1949年、東京都台東区生まれ。谷中三崎町で育ち、1956年竜泉寺町に移る。
 都立白鴎高等学校、宇都宮大学農学部林学科卒業。
 小学二年生の頃から切手収集を始める。初めて郵便局で買った思い出の一枚は「関門トンネル開通記念」。大学受験を控えて収集を中断。約20年の長いブランクを経て、1987年頃から収集を再開。
 深川木場(~晴海)の木材会社に2年勤務の後、昭和50年度東京大学農学部林政学教室研究生。
 1976年北海道庁入庁とともに渡道。主に林業畑を歩み、34年間勤務。うち地方では網走、帯広、根室、函館に各三年勤務。
 2010年3月、定年退職。この間、職場の部内誌に郵趣エッセーを含め、さまざまなエッセーを投稿。
 退職後は、外国人のための日本語学習支援ボランティア活動、郵趣活動。
 JPS札幌中央支部会員。北海道漢字同好会会員。アイヌ語地名研究会会員。
収集対象: ゼネラル。特に中国、ロシア、旧東欧など。
著書(自費出版): 「豊かな日々のつれづれに」(2003年4月)

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