2017巻頭言

 長年に亘って書き溜めてきた郵趣エッセーを集大成して、ブログをスタートすることになりました。
 この十数年来、切手収集家の団体・日本郵趣協会(2011年4月1日から公益財団法人)の札幌中央支部に所属して、毎月の会報「郵趣・赤れんが」に欠かさず原稿を寄せてきました。それらを過去に遡って一括掲載するとともに、新たな作品をその都度、追加・更新してまいります。
 それにしても、ずいぶんなボリュームになりました。
 職場の部内誌(北海道林務部「林」。1952~2001)に寄せていたエッセーや会報の郵趣エッセーをまとめて2003年に自費出版しましたが、三百余頁の約3分の2は郵趣関係の作品が占めました。その部内誌もやがて廃刊となり、以降、書く場は会報のみとなりました。
 その後の作品を続編として二冊目の本にまとめるつもりでいましたが、区切りが付かぬままに分量は膨らむ一方で、いつしか出版は難しく感じられるようになりました。それが、今回のブログという手段によって「二冊目の出版」を実現しました。これは随時、追加・更新もできるという、出版にまさる願ったり叶ったりの方法でした。
 マテリアル(題材)は広い分野に亘っています。まずは作品一覧に目を通していただき、これはというものから適宜お読みいただければ幸甚です。
 なお、お気づきの点についてはコメント欄でご教示いただければ幸いです。
                                                                         2012年2月

                                     江戸っ子だってねェ。
                                     おう、神田の生まれよォ。いや、じいさんが神田。おやじが浅草で・・・。
                                     こちとら、江戸っ子の筈が今じゃ 「 蝦夷っ子 」 というわけでして。

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                              あの頃   昭和33年用年賀切手 「 犬はりこ 」 ( 東京の玩具 ) の渡辺版初日カバー。
                                     浅草局の初日風景印。 ( 昭和32年12月20日 )


利用に当たって

1 一覧表で見たい作品をクリックすると、その作品がすぐに表示されます。
  また、「 カテゴリー 」 を選択して国別に関連の作品を見ることもできます。
  なお、時に原稿のページに歪み ( 縦方向が詰まる ) が出ることがありますが、
  一旦他の月の原稿を開くなりすると、歪みが直ります。
  左上の矢印 (←) で一旦送り、(→) で戻すのが手軽な方法です。

2 画面を拡大すると文章が読みやすくなります。
  ツールバーの「表示」で倍率を選択。原稿は200%が読みやすい。
  これでリーフは実物とほぼ同じ大きさになります。
  ただし、原稿以外の部分は拡大すると段ズレを生じます。
  拡大した画面でクリックすると、二段階でさらに拡大されます。

3 面倒ですが印刷はページ単位で行います。
  印刷したいページにカーソルを合わせて左クリックすると、画像が一旦左側に寄って小さくなります。
  そこで 「 ファイル 」 から 「 印刷 」 をかけると、そのページが印刷されます。
  トップページの部分を印刷する場合には 「 印刷方向 」 を 「 横 」 にする必要があります。
  なお、印刷に便利なCD版 ( 文章は打ち出しで読みやすく、作品単位で連続印刷ができる ) を用意していますので、コメント欄からお申し込み下さ   い。

4 各ページの右下にある 「 Pagetop 」 でその月のトップページに戻ります。
  また、各月の一番後ろにある 《 前のページ ホーム 次のページ 》 を利用して、
  次の作品または前の作品を見ることができます。
  また、「 ホーム 」 でサイトのトップページに戻ります。

5 リンクは、関係項目をクリックするだけでリンク先のページが表示されます。

6 「 日本語の面白さ、日本語再発見 」 は字が小さいので、ブロックコピーして印刷いただくと読みやすいと思います。



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」 掲載郵趣エッセー 2017年分 ー覧表

   ※ タイトルをクリックするとその関連頁が開きます。
2017年 号数 タイトル
12月          
11月         
10月          
 9月         
 8月          
 7月         
 6月 239  家紋の話 ( 下 )      5頁
 5月 238  家紋の話 ( 上 )   5頁
 4月 237  対馬の話  3頁
 3月 236  戦前の台湾の絵封筒  2頁
 2月 235   ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー   2頁
 1月 234  世界の高層建築物の歴史  5頁


                              ※ 2016年分以前 ( ~2000年 ) の郵趣エッセー一覧は、「 写真日記 」 の次にあります。



1 コレクション コーナー

下の切手をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                        (1) コレクション・リーフ                (2) 新作リーフ

ハワイ数字_0001                ハワイ数字_0002
                             1859年                       1864年
                         ハワイ数字切手 1c               ハワイ数字切手 2c



2 千 島 関 係 資 料

下の地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                               千島郵便史                その他の千島リーフ

kunashiri1000.png             etorofu1000.png
                                   国後島                  択捉島





2(2) 台 湾 特 集

下の台湾地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。


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2(3) 全国郵趣大会2016in盛岡

下の大会資料をクリックすると、関係資料が表示されます。


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3 「日本語の面白さ、日本語再発見」
(外国人のための日本語学習支援ボランティアの活動から)

下の“辞書”をクリックするとコンテンツが表示されます。

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4 過去の写真日記

(4) 2017年4月~

下の “ Diary ” をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(3) 2016年4月~2017年3月

下の“ Diary ”のアイコンをクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(2) 2015年5月~2016年3月

下の“ストック・ブック ”をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(1) 2015年4月~2012年4月

下の“日記帳”をクリックすると過去の写真日記の月別一覧表が表示されます。

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5 豊かな日々のつれづれに
第一部 随筆集
第二部 郵趣エッセー集

下のアイコンをクリックすると目次が表示されます。

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                                                                   (画像はクリックすると拡大します)

写 真 日 記
                                ( 画面を125%に拡大してお読みください )

 6月28日(水)
 昨日は漢字同好会の仲間と野幌森林公園の植物観察に出かけ、帰りには江別の千古園 ( 野幌開拓を担った新潟からの移民集団・北越殖民社の創立者の一人で、江別の開拓に貢献した関矢孫左衛門の住居跡地 ) にも立ち寄って久しぶりに樹齢140年の見事なブナの巨木と対面してきました。
 天気にも恵まれ、爽やかな新緑の森を満喫してきました。

 さて、また唐突ながら絵はがきを一枚。(図1)
 さして見栄えのしない材料だが、百年も前のもの。
 裏面の宛名書きの部分は、横須賀の大正5年 (1916年) 6月22日の消印、敦賀の中継の欧文印は翌23日、当時のロシアの首都ペトログラード ( 1914年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルク、第一次世界大戦開戦以降 (1914 - 24年) はペトログラード、ソ連時代 (1924 - 91年) はレニングラード、ソ連崩壊後のロシアでサンクトペテルブルクが復活した ) の着印日付は6月28日。シベリア横断鉄道 ( 「 Via Siberia 」 ) 経由で、一週間足らずとは順調で早い。「 シベリヤ経由露都行 」 という当時の表現も面白い。(図2)

   時代は第一次世界大戦下、帝政ロシアの最後の時期で翌年にはロシア革命 ( 1917年にロシア帝国で起きた2度の革命、いわゆる 「 二月革命 」、「 十月革命 」 ) が起こっている。

 戦艦 「 きりしま 」 の図。『 艦種巡洋戦艦。排水量27,500トン。速力28節 ( ノット )。主砲14インチ砲8門 』。
 艦船接頭辞H.I.J.M.S.はHis Imperial Japanese Majesty's Shipの略で 「 大日本帝国の天皇陛下の軍艦 」 の意。イギリス海軍に倣った。

 ところで、日本の軍艦に関する名著がある。「 聯合艦隊軍艦銘銘伝 ~ 全860余隻の栄光と悲劇 」( 片桐大著、光人社 )
 日本海軍の艦艇860余隻の諸元、艦歴を記したこの分野の金字塔。600頁にも及ぶ大作で軍艦事典とも言うべき存在だが、戦歴のみならず艦名の由来やエピソードを綴った 「 一大軍艦物語 」 ともなっている。
 これによれば 「 霧島 (きりしま) 」 は、金剛型の四番艦 ( 二番艦は比叡、三番艦は榛名 )。
 このクラスは当初一等巡洋艦として計画され、建造中の類別標準改定 ( 大正元年 ) により巡洋戦艦、さらに昭和6年に戦艦となった。
 長崎の三菱造船所で1912年3月起工、1913年12月進水、1915年4月就役。
 36センチ砲 ( =14インチ砲 ) 搭載は、本級4隻が世界のトップを切った。
 昭和初期に第一次改装、さらに太平洋戦争前に第二次改装を行って艦容も一変し ( 図2 ) 一躍30ノットを超す高速戦艦に生まれ変わった。

 本級4艦はその高速性能により太平洋戦争で最も活躍したが、特にこの霧島は、開戦劈頭の真珠湾からインド洋作戦、ミッドウェー海戦を経て南太平洋海戦まで常に空母機動部隊に属し、直接空母の支援に当たった。
 昭和17年11月、初めて機動部隊から離れ、別作戦に出動したのが霧島の最期となった。
 僚艦・比叡らとともにガダルカナル飛行場の砲撃に突入したが、敵艦隊と遭遇する第三次ソロモン海戦で大きな戦果を挙げたものの比叡を失い、霧島も大戦を通じて唯一の日米戦艦同士の砲撃戦で大破、自沈した。

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図1 戦艦霧島の絵はがき。( 原寸 )
( 画像をクリックすると原寸に拡大します )

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図2 絵はがき裏面の宛名書きの部分。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図3 1940年3月、二次改装後の霧島。



 6月27日(火)
 今日はチョット手抜きで。
 変則川柳、『 まだあった これでもかと マルケッティ 』。
 サボイア・マルケッティ S.55を描いた切手がまだありました。
 当時のイタリアにはこの機種に対する特別の思い入れがあったようです。
 1931年にイタリアの植民地トリポリタニア ( 現在のリビアの西部、首都トリポリを中心とする地方 ) で発行された5枚組みの航空切手。
 図柄はスコットの説明によれば 「 遺跡の上を飛ぶ飛行機 」 で、遺跡は様子からローマの歴史地区にあるフォロ・ロマーノ ( ローマ市民の広場 ) のようです。

 切手の上段に 「 イタリア植民地農業研究所 」、「 1904-1929 」 の表示があるが詳細は不明。
 トリポリタニアはもとトルコの領土で、1911年の伊土戦争 ( イタリア・トルコ戦争=イタリア王国とオスマン帝国 ) によってフェザーン、キレナイカ地域とともにイタリア領リビアとなり、1951年にリビア連合王国が成立するまで続いた。

 なお、リビアの切手については、2011年9月第170号に 「 リビア、二つの首都 」 を書いていますのでご覧ください。

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1931年にイタリアの植民地トリポリタニアで発行された5枚組みの航空切手。
ローマの遺跡の上を飛ぶサボイア・マルケッティ S.55が描かれている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月25日(日)
 前にも取り上げたことがあるが、1926年発行のギリシアの航空一番切手で、パステルカラーが印象的なつくづく惚れ惚れする名品です。
 イタリア~ギリシア~トルコ~ロードス島を結ぶ航空郵便路線開設に伴う発行であったようだ。
 ここにも、サヴォイア・マルケッティ S.55が登場しており、この路線の運行に使われたのだろう。サヴォイア・マルケッティ S.55の初飛行は1924年というから、それから間もない就航であった。

 独特のパステルカラーの2ドラクマはアテネに近いファレロン湾 ( サラミスの海戦ゆかりの地 )、3dにはアクロポリス ( 古代ギリシアのポリス=都市国家のシンボルとなった小高い丘のこと。その代表となるアテナイのアクロポリスであろう )、5dは南ヨーロッパの地図 ( まさに飛行コースの地域 )、10dにはコロネード ( ギリシャ建築などに見られる列柱 ) のそれぞれの上を飛ぶサヴォイア・マルケッティが描かれている。

 先日、テレビでイタリアに住むギリシャ人のコロニーの生活を映していたが、あとから調べるとイタリアの長靴の踵の部分に当たるサレント半島のグレチア・サレンティーナという地域で、古代からこの地域に移住したギリシャ系のマイノリティでグリコ語を話すグリコ人であった。

 ギリシアとイタリアが古くから深く関わってきたことは感じ取ってはいるが、うまくは語れない。こんなとき、地中海世界を深く承知している塩野七生さんに、端的に語るとどうなるのかと尋ねたら、どんな答えが返ってくるだろうか。
 塩野七生 ( しおの ななみ ) は、日本の歴史作家、小説家。名前の 「 七生 」 が七月七日生まれに由来すると聞いてなるほどと感心した。
 女性で七夕の生まれというのはロマンチックだが、ただその年、1937年の7月7日は盧溝橋事件の起こった日であった。

 彼女の執筆の源泉がイタリア遊学にあったにしても、日本人にとって馴染みの薄い古代ローマ史やイタリア史、イタリア文化への深い造詣と注ぐ情熱が不思議に思える。
 ただ、厖大な著作は少し難解でボリュームも多いので敬遠してしまうが、いずれにしてもすごいと思う人の一人だ。

ギリシア航空
1926年発行のギリシア航空切手の一番切手。( 120% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月24日(土)
 ヘリコプターというと当時のソ連南極探検隊がミールヌイ基地からモスクワに宛てた記念カバーの絵柄を思い出す。(図1)
 スプートニク3号の発射記念や国際地球観測年の3枚組みの切手が貼られている。

 そして、映画のランボーシリーズに登場した Mi-24 ( ミル24 ) と覚しき大型の軍用ヘリコプターが、いかにもロシアのものらしい無骨さで印象強い。
 Mi-24はソ連時代の1970年に運用が開始された攻撃ヘリコプターで2,300機以上が生産された。
 また、ロシアはソ連時代からヘリコプター王国と言われるほどカモフやミルを中心に多彩な機種を生み出してきた。

 そこで、1980年に発行されたソ連時代のヘリコプターの切手。(図2)
 1コペイカにヤクのYak-24(1953年)、 2kにミルのMi-8(1962年)、 3kにカモフのKa-26(1965年)、 6kにミルMi-6(1957年)、 15kにミルMi10、 32kに試作機のV12がそれぞれ描かれているが、何が選定の拠り所になっているのか分からない。

 Yak-24は、ソ連で開発された唯一の双発タンデムローターのヘリコプターである。
 Ka-26は、ソビエト連邦のカモフ設計局が開発したヘリコプターで、二重反転ローターを有する双発ピストンエンジンの機体。
 V12は1960年代後半のソビエト連邦の貨物・輸送用の重ヘリコプターの試作機で特異な姿をしており、胴体から左右に伸ばした翼の両端にそれぞれ6枚羽のローターとガスタービンエンジンを持つ。
 Mi-6は、ソ連時代の多目的輸送ヘリコプターで1957年に初飛行。1962年に運用を開始し2002年退役している。1983年に後継機であるMi-26が登場するまで世界最大のヘリコプターで大量生産され、軍民問わず多数が運用された。
 Mi-8は1962年初飛行、1967年に運用開始、生産数12,000機で現在も現役。
 Mi-10は1960年初飛行のクレーンヘリコプターで、1963年運用開始、生産数は僅か。

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ソ連南極探検隊がミールヌイ基地からモスクワに宛てた記念カバー。( 原寸 )
ミールヌイ基地局の消印1959年1月14日、モスクワ着印3月10日。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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1980年に発行されたソ連時代の6種組みのヘリコプター切手。
ロシア語でВЕРТОЛЕТ ( ベルトリェト ) とあるのはヘリコプター。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月23日(金)
 オートジャイロからヘリコプターへ。
 ヘリコプターに代表される回転翼機は、固定翼機に比べると滑走無しの離着陸、下向きの気流を直接発生させることによるホバーリング機能を持ち、また低速での飛行に特性を持つが、そのかわりに高速での飛行はできず、最高速度は400 km/h程度である。
 回転翼機に高速性能を持たすように考えられたのが沖縄配備で問題になっている軍用機オスプレー ( V-22 ) で、ティルトローター ( 回転翼を機体に対して傾ける ) 性能を持つ。
 その最高速度は550km/hとヘリコプターの2倍に達する。

 V-22は、アメリカ合衆国のベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル ( 現ボーイング・ロータークラフト・システムズ ) 社の共同開発による。
 愛称のオスプレイは、猛禽類のタカの仲間である 「 ミサゴ 」 ( 空中で静止できることから ) を意味する。

 この分野も探せばいろいろな材料があるはずだが、一つだけ。
 レバノンで1949年にUPU75周年を記念して発行された切手の小型シート。ラクダ図案の通常の切手3種とヘリコプター図案の航空用切手2種が収められている。( 図1 )
 実逓ならば面白いが、これは記念に封筒に貼って記念印 ( 1950年7月18日 ) を押しただけのもの。それもFDC ( 切手と小型シートの発行は1949年8月16日 ) にもなっていない。
  「 BAYROUTH 」 はベイルートのフランス語表記。

 現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった。
   レバノンは第一次世界大戦後後、オスマン帝国の支配から解放されたが、セーヴル条約 ( 第一次世界大戦後、連合国とオスマン帝国との間に締結された講和条約。フランス・パリ郊外のセーヴルで締結されたことによる。オスマン帝国はこの条約によって広大な領土を失った ) でフランスの委任統治領のシリアの一部とされた。
 その後、1941年にフランスはキリスト教徒を保護する名目でシリアからレバノンを分離、レバノンは1943年に独立した。

 レバノンは地中海東岸に面し、気候の温暖な、生産力の豊かな土地で、古代にはフェニキア人がシドンやティルスなどの都市を造り、地中海の海上貿易に活躍し、そのころから杉は 「 レバノン杉 」 ( 優秀な造船材 ) といわれて名産であった。
 栄華の象徴であるレバノン杉が僅かに残る ( 最早レバノン全体で1,200本ほど ) ガディーシャ渓谷は 「 神の杉の森 」 として世界遺産にも登録されている ( 古い教会建築とともに文化遺産に登録 )。

 その後、アッシリア、新バビロニア、ペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国、セレウコス朝の支配の後ローマ領となる。ビザンツ帝国 ( 東ローマ帝国。395~1453年 ) が衰えてイスラム化してからは住民の多くはアラブ系となったが、古来のキリスト教徒 ( ビザンツ教会に服さず、ローマ教皇を支持する一派のマロン派 ) も多い。またアラブ系も、スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派などに別れ、宗教的なモザイク地域となっている。

 ついでに。
 我が国でもヘリコプターは郵便輸送の手段として注目されたことがあり、昭和30年に首都圏を周回する飛行コースも検討されたが実用には至らなかった。 ( 図2 )

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図1 レバノンで1949年にUPU75周年を記念して発行された切手の小型シート。( 原寸 )
ラクダ図案の通常の切手3種とヘリコプター図案の航空用切手2種が収められている。
封筒に貼って、ベイルートの消印押し。

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図2 昭和 30 年の郵便週間記念ヘリコプター便試行。( 原寸 )



 6月22日(木)
 昨日、ヘリコプターで有名なアメリカ合衆国の航空機メーカー・シコルスキーの名が出たところで、その連想からオートジャイロの話。

 昔、ヘリコプターに似た回転翼機のオートジャイロ ( 別名ジャイロコプターやジャイロプレーン ) という存在があった。
 見た目はヘリコプターにも似ているが、ヘリコプターが動力によって直接回転翼を回転させるのに対し、オートジャイロには回転翼を回転させる動力はなく、飛行にはプロペラなどの推進力を使い、前進によって起こる相対的な気流を受けて回転翼が回転し揚力を生じて飛行するもの。

 最初のオートジャイロはスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバが開発し、1923年に初飛行を成功させた。シエルバはその後、イギリスでシェルバ社を設立し、多くの機種を生産した。そのこともあってか、スペインで発行された切手にオートジャイロを描いた切手があって印象深い。
 一つは1935年発行のセビリアの上を飛ぶオートジャイロを描いた航空切手。
 もう一つは1936年に 「 マドリード新聞社協会40周年 」 を記念して発行された航空切手で、4種類の図案による15枚組みの大型セットで発行されたものだが、そのうちの1種にオートジャイロの図案があって、その4枚を掲げておく。
 ついでながら、このうち 「 ドンキホーテとサンチョパンサ 」 を描いた幻想的なデザインの高額切手3枚があり、好みで掲げておく。

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図1 スペインで1935年に発行された、セビリアの上を飛ぶオートジャイロを描いた航空切手。 ( 300% )
高い塔は98mの高さを誇るセビリアのシンボル 「 ヒラルダの塔 」 で、隣はセビリア大聖堂。
この切手には二タイプあり、右の暗い色調のものは彫り直した原版による。 ( 原寸。画像をクリックすると拡大 )

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図2 スペインの1936年の航空切手で、4種類の図案で発行されたうちの1種にオートジャイロの図案の4枚がある。( 90% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図3 4種類のうち、「 ドンキホーテとサンチョパンサ 」 を描いた幻想的なデザインの高額切手3枚。( 90% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月21日(水)
 航空切手の続き。
 アフリカの国・ガボンで1970年に発行された航空切手の小型シートです。( 図1 )
 こんな存在を知る人はまず少なかろう。
 古く見えてそう古いものでもないが、それでも発行から50年近く経つ。
 小型シートに魅せられて、関連で遙か昔に手に入れていたものです。
 アフリカのものと言えばさすがに、エジプト、リビアのキレナイカとトリポリタニア、モロッコ、リベリア、ベルギー領時代のコンゴ、マダガスカル、モザンビーク、アンゴラと少しのエチオピアくらいですが、ガボンもあとは数えるほどで縁は薄い。
 ただし、ガボンというと図2のような薄く突き板に削いだ木材を使った変わり種の切手で知られる。

 ガボンは、中部アフリカの大西洋に面した赤道直下の国。
 その歴史はアフリカのご多分に漏れず、西欧の植民地主義に翻弄された。大航海時代のポルトガルによる奴隷貿易に始まり、ついで、オランダ、イギリス、フランスが進出したこの地は、皮肉なことに奴隷貿易と象牙の集散地として栄えた。
 現代史では、1885年にフランスが占領、1910年にフランス領赤道アフリカの一部となり、この状態は1960年の独立まで続いた。

 1970年の航空切手の小型シートの話。
 珍しい8枚構成のシートには、往年の名機が並んでいる。
 15フランは、後にヘリコプターで名を馳せるアメリカ合衆国の航空機メーカー・シコルスキーの双子エンジンを積んだ1928年初飛行の水陸両用機、シコルスキーS-38。
 25 f は、1928年にキングスフォード・スミスが、初の太平洋横断飛行に成功(サンフランシスコ→ブリズベン)したフォッカー・トライモーター ( 乗員2乗客8名。長距離飛行、洋上での安全性を高めた3発エンジン ) の 「 サザンクロス ( 南十字星号 ) 」。
 その航続距離、安定性を生かし、北極探検飛行、大西洋横断飛行、南太平洋横断飛行など、数々の冒険飛行に使用された。
 フォッカー社は1910年にドイツで設立され、第一次世界大戦の敗戦で航空機製造が禁止されたため、1919年にオランダに新しいを設立した。

 40 f と60 f には、ドイツのドルニエ社が製造した当時世界最大の旅客用飛行艇ドルニエ Do Xと第二次世界大戦の開戦前にドイツ空軍で使用された飛行艇ドルニエDo 18 。
 80 f はフランスの航空会社ブレゲーのBr.521ビゼルテ。第二次世界大戦開戦前にフランスで開発された長距離の軍用偵察用の飛行艇で、1933年の初飛行で、第二次世界大戦開戦時でも現役であった。
 125 f は、1920年代のアメリカの複座長距離複葉機複葉機、ダグラス・クラウドスター。
 150 f は、イギリス航空のパイオニア、デ・ハビランドの第一次世界大戦中の推進式単座複葉戦闘機エアコーDH.2。
 そして、200 f には、第一次世界大戦時のイギリスの重爆撃機ビッカース・ビミー。

 150 f の単座機から60 f の乗客 150人の巨大飛行艇ドルニエ Do Xまで、大きさの違いをあまり感じ取ることができないというのがこの切手の欠点と言えば欠点ですが。

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図1 ガボンで1970年に発行された往年の名機を描いた航空切手の小型シート。( 原寸 )
( 画像をクリックすると拡大します )

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図2 薄くスライスした木材を使ったガボンの変わり種切手。
1984年の航空切手の小型シート。「 ハンブルグ切手展記念 」
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月20日(火)
 昨日の 「 サボイア・マルケッティ S.55 」 には思い入れがあって、これを描いたもう一つ、1933年発行のイタリア植民地 ( アフリカ各地 ) 用の7枚組みの航空切手を掲げる。
 エリトリア ( エチオピアの紅海沿いの地域 ) 併合50周年を記念したもの。
 一方のデザインは分かりづらいが鷲を描いている。
 高額の50リラだけは5日遅れて発行された。

 ここで、サボイア・マルケッティ S.55 について。
 イタリアのサボイア・マルケッティで開発された双胴の飛行艇で、1927年2月13日- 6月16日にかけて、フランチェスコ・デ・ピネードとカルロ・デル・プレーテの乗ったサンタ・マリア号はセネガルのダカールから大西洋を越えて南北アメリカ大陸の飛行を行った。また、1933年にはイタリア空軍大臣イタロ・バルボに率いられた有名な24機の編隊でイタリアのオルベテッロからアメリカ合衆国のシカゴまでの飛行を行ったことで知られる。

 機体のレイアウトは独特で、乗客や貨物は双胴の艇体に収納され、操縦席は艇体の間の厚い主翼内に置かれた。双発のエンジンは主翼のうえにエンジン架を組んで前後に串型に配置され、2枚の垂直安定板と中央に方向舵が艇体から梁で支えられている。

 地中海沿いのローマの北西約120kmに位置するオルベテッロの潟湖は、戦間期のイタリアにおいて水上飛行場として利用され、大西洋横断飛行の出発地などイタリア空軍の航空イベントの舞台となった。
 フランス領のコルシカ島 ( フランス語ではコルス島。皇帝ナポレオン1世の出身地として知られる ) を望み、近くにはコルシカ島との間にイタリア領エルバ島 ( ナポレオン・ボナパルトが最初の退位後に追放された地として知られる ) もある。

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サボイア・マルケッティ S.55 が描かれた、1933年発行のイタリア植民地用の7枚組みの航空切手 ( 原寸 )
50リラは200%に拡大



 6月19日(月)
 「 一物一価の法則 」。経済学では 「 自由な市場経済において同一の市場の同一時点における同一の商品は同一の価格である 」 というのが一つの理屈だが、スーパーの食品の値段一つをとって見ても、現実は 「 一物多価 」 の世界だ。
 様々な条件も加味されるから、理屈どおりにいくものではない。却って自由経済の市場競争が価格を一つに収斂させはしない。
 要は売り手と買い手が納得ずくでそれぞれの取引がまとまる。そこには、同じものでありながらいろいろな 「 一物多価 」 が存在することになる。
 いいときもあればそうでないときもある。市場は常に裏腹だ。

 さて、今回の市場に戻した 1936年のイタリア航空切手の名品は、80年ぶりで母国イタリアに戻っていった。
 いかにもデザインの国イタリアの切手で色調・構図ともに素晴らしい。
 当時の補助貨幣単位25チェンテシミには特異な双胴の飛行艇、サボイア・マルケッティ S-55 が描かれている。
   当時の航空機は個性的で面白い。
 サボイア・マルケッティ S-55 の写真を借用して載せておきます。

 2013年10月第195号に 「 航空機の切手 ( 特徴ある二機種について ) 」 を書いていますのでご覧ください。

italy-l1600.jpg 1936年のイタリア航空切手の5種セット。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

800px-Savoia-Marchetti_S_55_felszállás_közben サボイア・マルケッティ S-55 ( 借用画像 )



 6月18日(日)
 昨日に引き続いて、第一次国立公園切手の小型シートのタトウ表紙の戦後編。
 改めて眺めて見ると、昨日の戦前の国立公園切手の小型シートのタトウが非常に丹誠込めて作られていたのに比べ、戦後のものは地図と英語対訳の公園の概要、切手の図案説明だけの至って単純なものになってしまった。
 「 吉野熊野 」 と 「 富士箱根 」 は重複するが、昨日と同じスタイルで並べておく。

 先ずは表紙のデザインについて。
 昭和24年4月発行 「 吉野熊野国立公園 」。リュックサックと鋲を打った登山靴にピッケル。
 昭和24年7月発行 「 富士箱根 」。曾我兄弟が仇討ち向かう姿。
 昭和25年7月発行 「 阿寒 」。 ニジマスと阿寒湖のマリモ。
 昭和26年7月発行 「 十和田 」。奥入瀬の渓流。この年は 「 国立公園法施行二十周年 」「 十和田国立公園指定十五周年 」に当たり、関係の文字を記載している。
 昭和27年7月発行 「 中部山岳 」 。乗鞍岳への登山道路と懐かしいボンネットバス。もうすでにこんなにバスが入り込んでいたのかと驚く。これまでのものとトーンが変わった。
 昭和27年10月発行 「 磐梯朝日 」 。月山の修験者。

 切手4種による大型のこのスタイルの発行はここまでで、昭和28年の 「 支笏洞爺国立公園 」 以降は切手の発行は二種となり ( 国内用はがき、書状料金のみ )、小型シートも従来の半分の大きさになってしまった。

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 戦後初期の6つの国立公園のタトウを発行の順に並べる。
「 吉野熊野 」「 富士箱根 」「 阿寒 」 の各タトウ。 ( 43% )
( 画像をクリックするとそれぞれに二段階で拡大します )

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「 十和田 」「 中部山岳 」「 磐梯朝日 」 の各タトウ。 ( 43% )
( 画像をクリックするとそれぞれに二段階で拡大します )



 6月17日(土)
 第一次国立公園切手の小型シートのタトウの表紙に描かれたワンポイントの絵が味わい深いので見ておきたい。
 日専はじめ、どのカタログも小型シートこそ図版に載せているが、タトウの表紙の図柄まで示したものは見たことがない。関係者はいつかどこかで目にしているだろうが、このコーナーでは紙幅から少し無理気味だが取り上げておきたい。

 今日は戦前に発行された6箇所。
 戦前の発行は昭和13年の 「 日光 」から、「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」「 大雪山 」「 霧島 」 と、昭和16年の 「 台湾/」大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 まで。
 昭和13年12月発行 「 日光国立公園 」。日光東照宮・坂下門の左甚五郎作 「 眠り猫 」。
 昭和14年4月発行 「 大山・瀬戸内 」。二つの国立公園を合わせて発行した。鳴門の渦潮と壇ノ浦の合戦で那須与一が平家の扇を射るのに使った鏑矢 ( かぶらや )。
 昭和14年8月発行 「 阿蘇 」。阿蘇神宮を背景に、編み笠と矢筒。
 昭和15年4月発行 「 大雪山 」。森の羆(ひぐま)。
 昭和15年8月発行 「 霧島 」。ミヤマキリシマを図案化。
 昭和16年3月発行 「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」。銅鏡に原住民の模様。

 タトウは表紙のみならず、中身も凝っている。
 地図と英仏語による切手図案の説明を基本としながら、それぞれに違った工夫がなされている。
 「 日光 」。見開きに地図と切手4種の図案説明。
 「 大山・瀬戸内 」。見開き右側には、万葉集第七巻の歌と英文対訳。「 海人小舟 ( あまをぶね ) 帆かも張れると見るまでに 鞆の浦囘 ( うらみ ) に浪立てり見ゆ 」。
 「 阿蘇 」。見開き右側には、日本後記巻五 「 桓武天皇 」 と仏語対訳。「 延暦十五年秋七月辛亥、詔曰朕以眇身忝承司牧、日肝忘食、・・・ 」。
 「 大雪山 」。見開き右側には、アイヌ神話とその仏語対訳。「 太古蒼茫の代、森々たる大海の表に、ただ大雪山がいただきを現していた。国土創造の神、そのいただきに降りたちて、雲を埋めては陸地として行った。・・・ 」。
 「 霧島 」。見開き右側には、「 高千穂峰の一伝説地 」 の一文と 「 日本書紀巻第二 」 の一節を、その仏語対訳とともに掲載。
 「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」。いわゆる外地の台湾の国立公園切手のタトウには内地で発売された 「 逓信省 」 銘のものと、ここにある台湾で発売された 「 台湾総督府 」 銘のものがある。このタトウには、二つの台湾国立公園の小型シートが収められている。見開き右側に、「 明治天皇御製 」 二首 「 新高のやまよりおくにいつの日か うつしうゝうべきわがおしへぐさ 」 と 「 新高の山のふもとの民草も茂りまさるときくぞ嬉しき 」、また 「 昭憲皇太后御歌 」「 天つ日の光をうけて年々にしげりそふらむ新高の山 」 を仏文対訳で記している。

 いずれも高尚優雅の極みであった。

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 戦前に発行された6つの国立公園のタトウを発行の順に並べる。 ( 43% )
「 日光 」「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」 国立公園小型シートの各タトウ。
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「 大雪山 」「 霧島 」「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 の各タトウ。 ( 43% )
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 6月16日(金)
 昨日、国立公園切手の原図のもとになった写真の構図について、『 近景、遠景、点景 ( 風景画・風景写真などで、全体を引き立たせるために加えられた人や物など ) を意識した撮影理論を見るようだ 』 と書いた。

 その 「 点景 」 の例としては、戦前の阿蘇2銭の久住山手前の茅葺きの農家、同じく戦後の二次富士箱根24円の農家、磐梯朝日5円の吾妻小富士をバックに岩頭に立つ人、羊蹄山麓のサイロと畑を耕す農婦、そして縦長の中部山岳の二枚、5円の登山者、10円の黒部峡谷の吊り橋を渡る人などが挙げられる。( 図1 )

 また 「 近景 」 の例を挙げれば、戦前の一次富士箱根10銭の三島からの富士の手前の東海道の松並木、大雪山20銭の十勝連山を望む右手前の枯木、大屯・阿里山2銭の大屯山の手前に描かれた植物、吉野熊野5円の手前右側の老木、二次富士箱根2円の三つ峠のススキ、磐梯朝日24円の月山斜面の高山植物、そして縦長の次高・タロコ2銭の清水断崖を穿って作った道路、などがある。( 図2 )
 やはり、どれを見ても惚れ惚れする。

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図1 国立公園切手に見る 「 点景 」 の例。( 135% )
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図2 国立公園切手に見る 「 近景 」 の例。( 135% )
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 6月15日(木)
 昨日に引き続き、今日は 「 富士箱根国立公園 」 の小型シートを。
 この国立公園シリーズを通じて切手の原画となる写真の選定に当たっては、名カメラマンによる多くの写真の中から、どれほど神経が払われて厳選されたかを聞いた憶えがある。
 そのことが切手に反映して、小さな切手の印面に描かれた風景が驚くほど広がりをもって大きく感じとれる。小さな印面から大きな風景が広がる。写真の力だ。
 それに比べて、1962年からの第二次国立公園切手は、安直に選ばれた平凡な写真が多く、それらは印面に収まっただけのものでしかなく、そこから広がりなど微塵も感じられない。また版が小さくなったことはさておいても、原画の写真に 「 撮影理論 」 はなく、色もわざわざ何でこんな色を選ぶのかと首を傾げるほどに悪い。

 第一次の国立公園切手に戻って、それらの原画の写真は厳しいカメラアングルで撮影され、さらに厳選されたもの。近景、遠景、点景 ( 風景画・風景写真などで、全体を引き立たせるために加えられた人や物など ) を踏まえた撮影理論を見るようだ。このシリーズに時おり見られる大自然の中に登山者などが点景として登場するのもまたよい。この24円に見える茅葺きの農家もその一つで、人の営みと自然の織りなす景観、それは世界遺産の 「 文化的景観 」 にも通ずるものがある。

 また、この富士箱根はシリーズの中でも独特で、他に見られない特色があるのに気づく。
 他がそれぞれの国立公園を代表するいろいろな場所を選んでいる ( 昨日の吉野熊野のように ) のに対して、この富士箱根に限っては対象を富士山に絞り込んで、それを四季と絡めているところに、他に見られない独特な発想が見られる。

 四季で言えば、2円の三つ峠からの富士はススキがなびく 「 秋 」、8円の河口湖畔は桜が満開の 「 春 」、14円の七面山からの富士は夏雲が沸き立つ 「 夏 」、そして24円の山中湖の手前にわら屋根の民家が点在する雪景色の 「 冬 」。
 雑誌 「 郵趣 」 で以前、「 昔のカメラアングルの地を尋ね、昔と今を比べる 」 企画記事があったが、当然ながら24円の場所にも市街化の波が押し寄せて、多くの建物が建ち並んだ狭苦しい風景にすっかり変わってしまった。

 もう一つ、このシリーズで厳選された写真とともに素晴らしいと思うのが、4種の額面に対応して選定された色使い。
 2円の茶の濃淡の妙。14円の日専では 「 暗い赤 」 と表現されている独特な赤、そして24円の明るい青のそれぞれの色合いと色調の素晴らしいこと。

 タトウの表紙に描かれているのは、富士の裾野にゆかりの曾我兄弟が仇討ち ( 建久4年=1193年、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件 ) に向かう姿だという。

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「 富士箱根国立公園切手 」 小型シートのタトウ表紙。 ( 90% )
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「 富士箱根国立公園切手 」 小型シート。( 90% )
標題の 「 富士箱根 」 は篆書体。
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タトウ見開き右側の地図。( 90% )
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 6月14日(水)
 チョット能のない話ですが、昨日 「 吉野熊野国立公園切手 」 を取り上げたところで、同時に発行された小型シートの話。
 郵趣仲間には今さらですが、外国人観光客を誘致する意図で発行が始まったという国立公園切手のシリーズは、切手ととともに小型シートが発行され、一連の発行には当時の切手制作者の魂の籠もった意気込みが感じられる。

 小型シートとセットで発行された国立公園切手は、戦前には昭和13年の 「 日光 」 から、「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」「 大雪山 」「 霧島 」と、昭和16年の 「 台湾 / 大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 まで続き、以降戦争で中断し、戦後は昭和24年のこの 「 吉野熊野 」 が再スタートの第一号になった。

 小型シートは、英文対訳 ( 戦前の当初は英仏文入り ) の付いた説明文と地図を入れたタトウ ( 畳紙=たとうがみ。中身を包む紙 ) が付けられた丁寧で立派な造りになっている。
 また、タトウや小型シートの標題の篆書に子ども心に味わい深さを感じ、振り返ればこれが漢字の書体に興味関心を向けるきっかけになったように思われる。

 タトウの表紙に描かれたリュックサックと鋲を打った登山靴、ピッケルに、戦後間もなく始めた叔父達の登山のアルバムに見た時代の匂いを感じ、「 青い山脈 」 の歌詞が重なる。
 図案は、2円が三重県熊野市井戸町にある「獅子岩」、5円が奈良県南部にある 「 大峰山 」、10円は和歌山県新宮市から奈良県吉野郡十津川村にまたがる峡谷 「 瀞八丁 」、16円は紀伊半島の南端、潮岬近くにある 「 橋杭岩 」 である。
 なお、この一帯は後に 「 紀伊山地の霊場と参詣道 」 として登録された世界遺産の地域と重なる。

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「 吉野熊野国立公園切手 」 小型シートのタトウの表紙。 ( 90% )
標題の 「 吉野熊野国立公園郵便切手 」 の篆書体の字が味わい深い。
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「 吉野熊野国立公園切手 」 小型シート。 ( 90% )
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タトウ見開き右側の地図。 ( 90% )
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 6月13日(火)
 これも誕生日関連のマテリアル。ただし一日違いですが。
 こちらは外信便。( 図1 )
 当時のチェコスロバキアの首都プラハの 「 エスペラント研究所 」 (?)宛て。
 函館の欧文印の日付は 「 30.5.49 」。
 色々取り合わせた切手4枚の額面合計は16円で、国際・平面路 ( 船便 ) の料金。
 この郵便料金は、昭和23年9月1日から昭和24年5月31日までで、この16円の国際書状料金は、二日後には24円に変わっている。

 郵便料金の変更と前後して、当時シリーズで発行されていた国立公園切手の額面も改定料金に合わせて変更されている。( 図2、3吉野熊野の額面から二次富士箱根の額面に )
 昭和24年5月1日の国内料金の改定で、国内書状料金が5円から8円に。はがき料金は2円で変わらず。
 昭和24年6月1日の国際郵便料金の改定で、国際書状料金が16円から24円に、はがき料金は10円から14円に値上げ。

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図1 チェコスロバキアの首都プラハ宛ての外信便。( 原寸 )
 函館の欧文印の日付は 「 30.5.49 」。
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図2 吉野熊野国立公園切手。昭和24年4月10日発行。2円、5円、10円、16円。( 135% )
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図3 二次富士箱根国立公園切手。昭和24年7月15日発行。2円、8円、14円、24円。( 135% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月12日(月)
 脈絡無しの思いつきですが。
 この世界に首を突っ込んでいる者が一度は考える、誰しもに共通するテーマ。
 自分の誕生日の消印とそのマテリアル。ただそれだけのたわいもない話ではありますが。
 勿論、年月日が揃ったものです。
 意識的に探し求める場合もあり、偶然に入手する場合もある。またこのような仲間からのプレゼント。

 その前に、その日、昭和24年5月31日の発行の切手が・・・それはない。
 ただ惜しくも一日違いの6月1日に、珍しく 「 中央気象台創立75年記念 」 と 「 郵政省・電機通信省設置記念 」 ( いわゆる両省設置記念 ) の二種が同時に発行されている。
 図1はその二種のFDCのリーフ。
 これに先立つ5月1日の国内郵便料金の改定で、書状用の額面がそれまでの5円から8円に変わった。

 さて、肝心の誕生日の消印が押されたマテリアル。( 図2 )
 静岡県富士宮市から茨城県真壁郡大宝村 ( 現在は下館市の一部 ) に宛てられた封書。  日付部分が鮮明なのがこのテーマの何よりポイントで、見えずらい部分には 「 富士宮 / 静岡縣 」 と記されている。
 切手三枚の合計は当時の第一種の封書基本料金の8円 ( 昭和24年5月1日~昭和26年10月31日 ) で、戦後のまだ占領下の時代 ( 敗戦からサンフランシスコ講和条約が発効する1952年(昭和27年)4月28日まで ) で、占領軍の検閲制度によるPC ( Post Censor ) の検閲印と開封を閉じた封緘のセロテープ 「 OPEND BY MIL.CEN.-CIVIL. MAIL 」 ( 軍事検閲により、民間郵便物を開封 ) が貼ってある。
 そんな時代でした。

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図1 昭和24年5月31日の発行の二種。
「 中央気象台創立75年記念 」 と 「 郵政省・電機通信省設置記念 」 のFDC。( 85% )

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図2 昭和24年5月31日消印のマテリアル。 ( 85% )
左、表の下部にPC印。
( 画像をそれぞれクリックすると二段階で拡大します )



 6月10日(追加)
 孫の運動会に行ってきましたが、札幌の幼稚園の運動会は多くが近くの小学校のグラウンドを借りて実施しているのに、会場が真駒内 ( まこまない ) のアイスアリーナの貸し切りというのはゴージャスです。雨の心配も要りません ( 実際今日は雨でした )。
 図1 に会場屋内の様子。

 いきなり余談ですが、飾られた万国旗 ( 札幌オリンピックの会場となった当時のままであろう ) に 「 青天白日 」 と今はなきソ連の国旗があるのに違和感を覚えた。 ( 図2 )
 札幌オリンピックがあった1972年、この年の9月には日中の国交が回復し ( 9月29日に 「 日中共同声明 」 の調印式 )、中国が国連の代表権を獲得するとともに、青天白日の台湾が国際舞台から姿を消した。
 そうしてみると、この万国旗は当時の歴史を伝える 「 貴重な存在 」 ということができ、却って青天白日を 「 五星紅旗 」 に、「 鎌とハンマー 」 をロシアの 「 スラブの三色旗 」 に変える必要もなかろう。
 いや、国連総会で中国の代表権が認められた ( 同時に中華民国政府 ( 台湾=国民政府 ) の追放 ) のは、この前年、1971年の10月で、それからすると 「 青天白日 」 が 「 五星紅旗 」 になっていないのは変だ。
 そこで、札幌オリンピックの参加国・地域を確認すると、35か国・地域からの参加で、中華民国とフィリピンは冬季オリンピックに初めて参加したとあり ( 中国からの参加はない )、参加地域の台湾の 「 青天白日 」 があるのは当然としても、1971年10月、1972年2月、9月はその辺の線引きが錯綜した過渡期であった。

 真駒内屋内競技場は、札幌オリンピックの会場として1970年 ( 昭和45年 ) に竣工した、札幌市南区にある多目的施設 ( アリーナ )。
 ここでも余談だが、最近の倣いで、北海道セキスイハイムが 「 ネーミングライツ ( 命名権 ) 」 を取得し、名称が 「 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 」 になっている。

   ここは1972年に開催された札幌オリンピック冬期大会 ( 2月3~13日 ) の スピードスケート競技の会場となったところで、近くに設けられた真駒内選手村の宿舎はその後 「 五輪団地 」 として一般の入居者に利用され、近くの橋も 「 五輪大橋 」 と名付けられるなど、地元にその名を残している。

 その開催を記念して、1972年2月3日に発行された 「 札幌オリンピック冬期大会記念 」 の三種は日本初のテート・ベッシュtete-bche ( フランス語。 「 上下あべこべ、互い違いに 」 の意。同じ種類の切手が、シートの中の隣どうしで、逆向きに印刷されている ) として発行されている ( 図3 ) が、この斬新な切手の発行経緯 ( 誰の発案でどのような経過を経て発行に至ったのか ) が知りたい。

 この大会で 「 銀盤の妖精 」 と呼ばれ有名になったジャネットリンのフィギュアスケートの会場となったのは札幌市東区の美香保公園にある札幌市美香保体育館 ( 1972年の札幌オリンピック、フィギュアスケートの会場として1970年に竣工した ) で、50円切手の二人のスケーターのバックに描かれているのはスピードスケート会場となった真駒内のアイスアリーナで、デザインとしては誤解を招く。

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図1 会場屋内 ( 真駒内のアイスアリーナ ) の様子。

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図2 飾られた万国旗に 「 青天白日 」 と今はなきソ連の 「 鎌とハンマー 」。 ( 図1の左手部分 )

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1972年2月3日に発行された 「 札幌オリンピック冬期大会記念 」 の三種は日本初のテート・ベッシュ。 ( 107% )



 6月10日(土)
 逓信省発行の記念はがきの話の続き。
 昭和3年11月10日発行の、No 31の昭和大礼 ( 昭和天皇の即位式 ) の二枚組みのもの。
 売価15銭。発行数134万組。( 図1,2 )
 この時には、4種の切手 ( 記念はがきに貼付の二図案 ) も同時に発行され、記念特印 ( 図3。儀式に使用される大錦旗の霊鵄 (とび) と大太鼓の図案化 ) との3点セットであったが、このうち、奉納の舞を描いた記念はがきの一枚は多色刷 ( 確か15色とか ) の木版画で、手間の掛かる手刷りの工程に全国から集められた摺師 ( すりし ) は納期の期限に昼夜兼行の大童であった。

 即位の礼は、天皇が践祚 ( せんそ。天子の位を受け継ぐこと ) 後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。
 即位式の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼または御大典と称される。

 昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都御所で行われ、1928年 ( 昭和3年 ) 11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城から京都に向かった。
 京都で一連の儀式が行われたのち、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨を奉告し、11月26日に帰京した。
 帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。

 今上天皇 ( 平成天皇 ) の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年 ( 平成2年 ) 1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。
 その即位礼の中心となる 「 即位礼正殿の儀 」 が1990年 ( 平成2年 ) 11月12日、皇居宮殿正殿松の間で行われたが、桓武天皇など古代の天皇はほとんどが朝堂院大極殿で、大極殿が焼失してからは内裏紫宸殿で行われ、大正天皇、昭和天皇は京都御所紫宸殿で 「 紫宸殿の儀 」 として行われたが、東京で即位礼を挙げるのは今上天皇からである。

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図1 No 31 昭和大礼記念はがきのタトウと説明書。

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図2-1 昭和3年11月10日発行の昭和大礼二枚組の記念はがき。
No 31-2 『 響宴場における五節の舞の図 ( 木版多色刷 ) 』

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図2-2 No 31-1 『 承明門より紫宸殿の儀式を望む図 ( 岡田三郎助画 ) 』

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図3 記念特印印影。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月9日(追加)
 季節の花便り。
 札幌はフジやライラックが盛りを過ぎて、いまルピナスとジャーマンアイリスが盛りの時期を迎えています。
 ジャーマンアイリスは乾燥にも強く、大振りの色とりどりの花で札幌にすっかり定着しています。
 ハマナスも咲き始めました。

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ジャーマンアイリスの花は色とりどり。

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ルピナスも多彩な花です。

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ハマナスも咲き始めました。



 6月9日(金)
 昨日の続き。
 「 日本切手百科事典 」 の第5部、ステーショナリーのⅡ 「 記念絵はがき 」 の説明に、
 『 戦前の逓信省は、国家的に重要な意義のある記念事項がある場合に、記念事項にふさわしい意匠を盛った記念絵はがきをしばしば発行した。 』
 『 記念絵はがき ( 略称 「 記葉 」 ) 発行の場合は、特殊通信日付印 ( 「 特印 」 ) が、ほとんどの場合に使用された。 』 とあり、
 逓信省発行の記葉は、1902年 ( 明治35年 ) の万国郵便連合加盟25年紀念 ( 図1,2 )を初めとして、明治時代には日露戦争関係を中心に数多く発行され、このころの記念絵はがき収集熱の高まりと相俟って発行は賑わいをみせた。
 大正時代は 「 大正大礼 」 や 「 平和記念 」 ( 第一次世界大戦の終結 ) で5回、昭和は 「 昭和大礼 」 や 「 式年遷宮 」 などで戦前に4回の発行があり、戦後は唯一となった 「 日本国憲法公布 」 記念で大量の売れ残りが出たのに懲りて、記念絵はがきの発行はこれが最後になった。

 図3の絵はがきは逓信省発行の 「 記念絵はがき 」 ではないが、中段の写真に 「 神田郵便局戦役記念絵葉書光景 」 と説明がある。
 裏面の消印から1907年使用の絵はがきであるが、「 ( 日露 ) 戦役記念 」 は前後5回発行されており、このときは1906年5月の第5回の 「 明治37-38戦役 」 記念発売時の光景と見られ、延々長蛇の列が明治期の 「 記葉収集熱の高まり 」 を伝えている。

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図1 初の記念絵はがき「万国郵便連合加盟25年紀念」の6枚セットのうち、No 1-4
『 加盟当時のわが駅逓局と、1874年初めて連合大会議を開いたベルン ( スイス ) の会場 』 右下に記念特印。
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特印参照

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図2万国郵便連合加盟25年紀念の6枚セットのうち、No 1-6 日本交通地図
右上に、白抜きで 「 万国郵便連合加盟二十五季祝典紀念 」 の文字。
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拡大で地図参照

記葉行列
図3 1906年5月の第5回 「 明治37-38戦役 」 記念絵はがき発売時の神田郵便局に並ぶ延々長蛇の列。
上には記念絵はがきを買い求める人たちの手許、右下に特印の押印風景。
交通学館発行 「 第一回交通記念絵葉書 」 とあるが不明。
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中央の神田郵便局に連なる人々の列に注目。



 6月8日(木)
 6月2日に取り上げた絵はがきに押された 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印にかかわる記念絵葉書がこれです。
 袋に入った二枚組で、袋には 「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 「 大日本帝国逓信省発行 」 と書かれている。
 逓信省発行の記念絵葉書となれば、そういえば 「 日本切手百科事典 」 に載っていた筈と調べてみるとありました。
 「 記念絵はがき 」 のNo 22で、発行日は明治41年10月17日、売価10銭とある。
 No 22-1の説明には 『 アメリカ艦隊司令長官スペリーの写真を中心に、鷲、イカリ、両国旗、軍艦旗、月桂樹などを配して歓迎の意を表わした図案 』。
 No 22-2の説明には 『 米国艦隊旗艦コネチカット号の写真を中央にイカリとバラを配し、錨綱で米国艦隊を表わしたもの 』 と書かれている。

 米国艦隊の陣容は、旗艦コネチカット以下戦艦16隻、通報艦ヤンクトンほか駆逐艦6隻、給炭船など補助艦船5隻、乗組員14,000人を擁する大艦隊で、この西回りの世界周航は所要日数14ヶ月、航程43,350マイルに及ぶものであった。
 全行程は3つに区分され、第1航程は米東海岸のハンプトン・ローズを1907年12月16日に出港、大西洋を南下、マゼラン海峡を通って太平洋を北上、サンフランシスコまで。 
 第2航程はサンフランシスコから太平洋の横断。ハワイを経由し、ニュージーランド、オーストラリアの各港に寄港し、マニラから日本 ( 1908年10月18日から25日まで碇泊 ) を往復。
 第3航程はマニラを12月1日に出港、マラッカ海峡を通ってインド洋を横断し、スエズ運河から地中海に入り、ジブラルタル海峡から大西洋を横断してハンプトン・ローズに帰港 ( 1909年2月22日 ) するものであった。

 米艦隊の日本来航時期に合わせて、民間レベルの交流も企画され、主要5都市商業会議所連名で米国の実業団を招き、一行は米艦隊の歓迎行事にも加わるとともに、鉄道での移動に際しては食堂車を連結した特別列車が提供されるなど優遇された。
 また、米艦隊の来航に合わせて、同艦隊に所属する士官の家族 ( 婦人、令嬢 ) も来日し、彼等もまた各種の歓迎行事に招待されるとともに、鉄道の移動や宿泊などにも特別な待遇を受けている。
 そうした歓迎行事の折にも、この絵葉書が配布されたのではなかろうか。

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「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 袋。 ( 原寸 )

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「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 の二枚セット。 ( 原寸 )
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旗艦コネチカット。

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絵葉書裏面に押された 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印



 6月7日(水)
 世界遺産がらみで世界地図を改めて眺め渡してみると、各国の面積が自分の頭に思い描いたイメージとずれていることに気がつく。

 頭の中に描かれた地図は、低緯度地方は過小に、高緯度地方は過大に描かれるメルカトール図法のイメージに支配されて、低緯度地方の国の面積は実際よりも小さく、高緯度地方のそれは実際よりも大きいものと先入観で捉えられている節がある。
 それで特にズレの大きいと感じた国を挙げてみると、エジプトが日本の2.6倍、エチオピアが約3倍、インドネシアが5倍、トルコが2倍、ミャンマーの1.8倍というあたりで、それぞれ日本よりそんなに大きかったのかと思わされた次第。
 逆に思っていたより小さいと感じたのが、ドイツの94% ( 対日本 )、ポーランドの82%、ルーマニアの63%といったあたりで、主要国のフランス ( 1.7倍 )、スペイン ( 1.3倍 )、イタリア ( 80% ) 、イギリス ( 64% ) などはほぼイメージと重なるものであった。

 また意外だったのが北極海に突き出したロシアのノヴァヤゼムリャで、ずいぶん大きな島に思えていたが、改めて数字で確認すると面積はおよそ9万km2で北海道 ( 8万3千km2 ) よりやや大きい程度であるというのはイメージと大部ずれていた。

 ついでながら、赤道の位置も頭の中の地図は曖昧で、南米やアフリカでは少し北にずれていた。ポイントを押さえておけば確かで、改めて南米はエクアドル、インドネシアではニューギニアの恐竜の頭の上をかすめて、スラウエシのKの頭、ボルネオの下部、スマトラの中央を横切って、アフリカではくびれの少し下と心得ておけばよい。

 ところで、エチオピアという国も想像していた以上に面積の大きい国で、世界で27番目、日本の2.9倍ある。そして何より、3,000年の歴史を有するアフリカ最古の独立国で現存する世界最古の独立国の一つという存在に注目される。とかく馴染みの薄いアフリカにあって、国名と位置が強く意識されている国だ。
 現代史では、イタリアの侵略を受け、1896年の第一次エチオピア戦争ではアドワの戦いに勝利してイタリアを退けたが、第二次エチオピア戦争 ( 1935-36年 ) に敗れ、首都アディスアベバ陥落後、皇帝はロンドンに亡命し、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され全土を占領された。第二次世界大戦が始まるとイギリス軍の支援のもとで皇帝ハイレ・セラシエ1世が1941年にアディスアベバに凱旋して再び独立を回復し、独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として第二次世界大戦に参戦した。

 エチオピアの切手というと、1947年に第二次世界大戦の終結記念して発行された、ルーズベルト大統領と皇帝ハイレ・セラシエ1世 ( エチオピア帝国最後の皇帝。在位1930-1974年 ) が描かれた大型の切手が印象的だが、切手下部に 「 Wright Bank Note Company 」 の銘が入っているとおり、戦後の同時期にリベリアやインドネシアの切手も手がけたフィラデルフィアの紙幣製造会社ライト・バンクノート社製である。
 また、切手の上部に記されているのはエチオピアの公用語・アムハラ語を表記するゲエズ文字で極めて古い歴史を持つ。
 世界遺産に登録されている 「 ラリベラの岩の聖堂群 」 ( 12~13世紀に造営されたエチオピア正教会の岩窟聖堂群 ) のギョルギス聖堂は、中国・四川省の巨大な楽山大仏と同じく、足下の岩を掘り下げる方法 ( 足場が要らない ) で作られている。

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1947年発行。スエズ運河会議記念 (?)。
ルーズベルト大統領とともに描かれた皇帝ハイレ・セラシエ1世。

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同時に発行された航空切手。第二次世界大戦の終結記念。



 6月6日(火)
 6月6日というと、関係のないことではあるがこの日はノルマンディー上陸のDデーであった。

 さて唐突ながら、イギリスで一番高い山はどこかという疑問が浮かんだ。イギリスは野原を行くフットパスのイメージで、山岳のイメージはない。
 また森林のイメージもない。( 英国10%程度、日本は森林率67%で、うち人工林率41% )
 イギリスで一番高い山はスコットランドのハイランド地方にあるベン・ネビス山で1344m。また、googleで 「 イギリスで一番高い山 」 を検索すると最高峰のベン・ネビス山を筆頭に、1,100m以上の山が10座が挙げられている。それほどにイギリスの山はやはり高くない。
 韓国の最高峰は済州島にある漢拏山 ( ハルラ山。1,950m ) で、2007年に 「 済州の火山島と溶岩洞窟 」 として韓国初の世界自然遺産に登録 ( 韓国は文化遺産11件と合わせ12件でランキング21位 ) されているが、韓国から韓国にはない3,000m級の日本アルプスの登山に来る人たちの気持ちがよくわかる。

 意外だったのはハワイ島の火山マウナロア ( 「 ハワイ火山国立公園」として1987年に世界遺産登録 ) で4,169mもある。因みにハワイ島は四国の6割ほどの面積の島である。
 利尻島 ( 利尻山1,721m ) や屋久島 ( 最高峰の宮之浦岳1,936m ) が洋上アルプスとしてそそり立っているが、ハワイに富士山より高い山があったというのはやはり意外だった。

 マウナロアの描かれた切手を探してみると、唯一1984年の 「 ハワイ州25周年記念 」 の切手があった。主役ではなくバックに霞んでいるが。( 図1 )
 1959年8月21日、ハワイはアメリカ50番目の州に昇格し、本格的なリゾート開発が始まった。
 最後の王で 「 アロハ・オエ 」 の作者として知られる女王リリウオカラニが王位を追われ、1898年に米国によるハワイ共和国の併合以来の米自治領ハワイ準州からの昇格であった。

 ついでながら、ハワイからミッドウエイまで広い太平洋に島はないと思っていたのだが、その間には小島と環礁の集合体、海の楽園 「 パパハナウモクアケア 」 の存在があった。
 ハワイ諸島から北西約250キロ、東西に1900キロ以上にも亘って広がる世界最大の広さの海洋保護区の一つで、多様な生物が生息する世界最大級の海洋保護区として2010年に世界遺産に登録された。

 それから、モアイ像で有名なイースター島は、一般的にはパスクア島 ( パスクアはスペイン語で復活祭を意味する ) と呼ばれていることを知った。( 日本では英称由来の 「 イースター島 」 と呼ばれている )。現地語名はラパ・ヌイ。
 何より世界遺産では 「 ラパ・ニュイ国立公園 」 として登録されている。
 世界遺産に首を突っ込んでいると、いろいろな意外なことに出くわします。

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1984年の 「 ハワイ州25周年記念 」 の切手に描かれたマウナロア。バックに噴煙を上げている。 ( 300% )



 6月4日(日)
 唐突ですが、世界遺産の本を見ていたら、ふとモンテネグロの12枚組みの古い切手を思いだしました。
 1896年発行の二色刷のカラフルな大きなセットで、ツェティニェの修道院が描かれている。
 「 1696-1896 」 とあって、何かの200周年を記念したものと思われるが分からない。

 ツェティニェはアドリア海沿いの世界遺産に指定されたコトルとロヴツェン山を夾んで背中合わせの内陸側にあり、モンテネグロの歴史的な首都であったところである。
 コトルは 「 コトル地方の歴史的建造物と自然 」 として、古く1979年に文化遺産に登録されており、イエローストーン国立公園やガラパゴス諸島などが世界遺産として最初に登録された1978年の翌年、世界遺産条約に基づく登録開始から二年目という早早の登録であった。

 上段にロシア文字で 「 ЦРНА ГОРА 」 の表示があって何処のことかと面食らうが、モンテネグロ語による自国モンテネグロの国名表記で 「 ツルナ・ゴーラ 」 と読む。一方、モンテネグロはヴェネト語 ( ベネチア語 ) による名称で、いずれも 「 黒い山 」 ( 英語風に言えばマウントニグロ ) を意味する。
 中国語では黒山 ( ヘイシャン ) と意訳している。

 ヴェネト語はかってこの地方を支配したイタリアのヴェネツィア共和国 ( 7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、ベネチア ( ベニス ) を拠点にアドリア海沿岸から、ギリシャ先端部、クレタ島、キプロス島、コンスタンチノープルまで、アドリア海から地中海沿岸に沿って点々と領土を持った ) の名残である。

 改めて、モンテネグロはヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。
   1918年にオスマントルコの保護領から独立し、1929年には多民族国家ユーゴ゙スラビアの独立に際しその一員として加わった。
 ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国 ( 1992-2003年 ) およびセルビア・モンテネグロ ( 2003-2006年 ) を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。

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 モンテネグロの1896年発行の12枚組の切手。ツェティニェの修道院が描かれている。( 115% )

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一枚大きくしておきます。



 6月2日(金)
 予定では今日上京しているはずでしたが、咳の酷いマイコプラズマ肺炎が長引いて、やむなく上京を取り止めました。

 熱がほとんど出ないのは幸いですが、咳と鼻水、そしてだるさは気力を失わせて、何もやる気を起こさない。
 安静が第一とは言うが、これくらいは許してもらって。

 今日の一品。「 東京浅草公園 」 の手彩色の絵はがき。( 図1 )
 地元ゆかりの人間にしても、「 浅草公園 」 の名に馴染みは薄く、一昔、いや二昔前の時代感覚の言葉だ。
 写っているのは慶安2年(1649年)の再建という浅草寺の旧本堂、本尊の聖観音像を安置するための観音堂で、昭和20年 (1945年) の東京大空襲で焼失し、この跡に建てられた現在の堂は昭和33年 (1958年) に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。

 こんなところに噴水が設えてあったのかと思う。
 子どもの頃はこの辺にたくさんのハトが群がり、鳩の餌 ( アルマイトの小皿に茹でた大豆がひと並べ。15、6粒もあったろうか ) を売っていた。
 今ここには、昭和37年 (1962年) に建てられたという 「 鳩ポッポ 」 の歌碑 ( 東くめ作詞、瀧廉太郎作曲。明治33年 ) が残る。
 『 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポと 飛んで来い お寺の屋根から 下りて来い 豆をやるから みな食べよ 食べてもすぐに 帰らずに ポッポポッポと 鳴いて遊べ 』
 憐れ今ハトはフン害で閉め出され、風情の一つが失われた。

 裏の宛名書きの面には不鮮明ながら押された記念特印から辛うじて時代が特定できる。 ( 図2 )
   その記念特印。半分が見えず、見えている部分で何とか 「 米国艦隊歓迎記念・横浜 」 「 1908 」 と読める。この時、何があったのか。( 図3にその記念特印の印影を借用画像で示す。 「 東京 」 のものですが )
 時代 ( 1908年=明治41年 ) は、日露戦争終結から三年目。

 日露戦争は米大統領セオドア・ルーズベルトの講和勧告のお陰でポーツマス条約で終結したが、その後日米間の関係は、日本人移民の増加・軋轢・排斥の動き、日本のアジアでの台頭、フィリピン防衛の意識、排日的な世論の高まりなどから、急速に悪化していた。

 そんな折、1907年7月4日に 「 米大西洋艦隊を航海演習のため太平洋方面に回航する 」 旨が伝えられると、日本側に緊張が走った。以降、翌年の米国艦隊の歓迎(1908年10月18-24日 )に至るまで、緊張を回避すべく軍関係者や外交ルートによる必死の折衝が続く。
 それを、たまたま巡り会った防衛省関係者の研究報告 「 外国軍艦の日本訪問に関する一考察 -1908 (明治41) 年の米国大西洋艦隊を対象として- 」 からその過程を知る。  いずれ、「 米国艦隊歓迎記念 」 の関係マテリアルで一つの作品にまとめたい。

 なお、「 浅草公園 」 については、当ブログの関係ホルダー 「1 コレクション・コーナー 」 の 「 (1)コレクション・リーフ 」、「 1 上野と浅草 」 を併せてご覧ください。

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図1 「 東京浅草公園 」 の手彩色の絵はがき。
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図2 裏の宛名書きの面。米ワイオミング州宛て。菊4銭切手に 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印が押されている。
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図3 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印。( 借用画像の援用 )



 6月1日(木)
 今日から6月。
 早速6月の原稿を張り付けました。
  「 家紋の話 (下) 」。
 5月の (上) に続いて 「 家紋の話 」 の下篇。

 ワンポイントには、この本文の最後に取り上げた 「 (6)香の図 」 から一つ、「 花散里 ( はなちるさと ) 」 を取り上げておきます。
 かつてポマードで一世を風靡した柳屋、江戸創業の化粧品メーカー、柳屋本店が1910年 ( 明治43年 ) に源氏香之図の一つ、この 「 花散里 」 ( はなちるさと ) を図案化して商標登録 ( 登録番号369号 現存日本最古の登録番号 ) している 。
 会社のサイトを見ると今日ではローマ字を添えた新しいロゴが使われているようですが。

 源氏香の組合せは、数学的には順列組合せで5の5乗、3,125通りあることになるが、源氏香の組み合わせのように単に異同だけに注目すれば52種となる。  例えば5種の香がAからEであったとして、実際に香を聞いた場合 ( 各種を5包ずつ、計25包の中から5包を選ぶ )、一番単純に全部が同じ場合でも全部がAである場合から全部がEである場合までその組合せは5種類となる。これを源氏香の場合は全部同じとして1種と扱っている。

 3,125通りが 52通りに集約されることの証明は容易いことではない。
 その成立は享保の頃 ( 江戸中期 )。
 前にも書いたように江戸時代の高い数学レベルがこんな所にも垣間見られる。

ロゴ

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柳屋本店の登録商標に使われている源氏香之図の一つ 「 花散里 ( はなちるさと ) 」 と、現在のロゴ。
この図は、本文 「 (6)香の図 」 の解説のとおり、右から、最初の香と三番目が同じ、
二番目と四番目が同じもので五番目は他と違う独立のものであることを示す。

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源氏香之図。52通りある。 「 花散る里 」 が二列目最上段に見える。
( 泡坂妻夫著 「 家門の話 」 から )
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 5月31日(水)
 先日届いた 「 郵趣 」 6月号の特集は 「 “ 大蔵省印刷局 ” 製の外国切手 」 であった。
 記事に 『 大蔵省印刷局 ( 平成15年から(独)国立印刷局 ) は1950年代から約20年間にわたって外国切手を製造し、製造・納入した先は13カ国・2地域と国連で、その数は1,000種以上に及ぶ 』 とある。
 技術力を試される場として、また外貨獲得の手段として大いに取り組まれたのであろう。
 そうした存在を承知してはいたが、そんなに多くに上っていたとは知らなかった。

 ついでながら 「 13カ国・2地域 」 の2地域とはどこだろう。一方は台湾だが、もう一つの地域が分からない。
 因みに、取り上げられた国と地域は順不同であったが、その範囲で並べて見ると、1位はタイで 278種、2位台湾で 256種、3位フィリピン 181種、4位南ベトナム 93種となっている。国連も 44種ある。
 かっては自国に切手製造の技術力のない国が外国に委托発注していたが、経済のグローバル化で今日ではコスト削減の観点から外国への発注がおこなわれるようになり、民営化以降の郵便事業会社では国際入札で外国に切手を発注するケースが増えている。

 特集とは別のプレゼントの頁に示された 「 大蔵省印刷局製の外国切手セット 」 の写真 ( 図1にその三枚を手持ちで表示 ) の中に見覚えのある三角切手が目が止まった 。
 コスタリカの三角切手だ。( 図2。1963年発行の8種セット。センティモ単位の7枚と一枚破格の5コロン )。
 図案・配色とも素晴らしく、動物切手の一つとして入手していたものだが、そのセンスが南米のコスタリカには異質なものに感じていたが、なんとこれが日本製であったとは。
 入手から何十年後に知ったことであった。

 余談ながら、この分野を収集するとなれば、その何よりの証拠となる銘版 ( 例えば 「 日本政府 大蔵省印刷局製造 」 「 GOVERNMENT PRINTING BUREAU. TOKYO 」 などの ) 付きが必然となるでしょう。

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図1 プレゼントの頁に示された 「 大蔵省印刷局製の外国切手セット 」 の三枚。
( 台湾1958年、フィリピン1958年、コスタリカ1963年 )
( 画像をクリックすると拡大します )

記事
図1付 プレゼントの頁に示された 「 大蔵省印刷局製の外国切手セット 」 の記事。 これでも二倍に拡大してある。
モノトーンになった小さな図柄からでも、もとの記憶に結びつけることができる、
事物をトータルで認識・記憶する人間の脳のアナログ的な機能に驚く。

costalica_0002.jpg 図2 1963年発行のコスタリカの動物切手8種セット。 ( 120% )
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 5月30日(火)
 ふと見かけて、そういえばと思い出しました。
 どこかに仕舞い込んだような気もしますが、ロシアの関係アルバムにチョット見当たりませんので借用画像で間に合わせます。
 1927年に、10月革命十周年を記念して7枚組みで発行されたものの一枚で、描かれた地図のサハリンの部分に注目。
 サハリンの北半分はソ連の領土 ( この時点では北緯50度線以南の南樺太は日本が領有=1905~1945年 ) で本来は赤く塗らなければならない ( 図1右 ) ところを、色の付いていないエラー切手が存在する ( 図1左。不思議なことにスコット・カタログはこの存在に触れていない )。エラーは本来の10倍から20倍の価格で取引されている。

 色落ちがなぜ存在するのかについて書かれたものは見たことがない。
 例えば、二色刷りの赤のシート原版上のあるポジションに色漏れが生じたのか。

 同様に地図の要点部分の色が落ちたエラー切手の例がある。
 「 全国山河一片紅 」 ( 全国の山河は赤一色 ) と名付けられた文革時期の有名なデザインエラーの切手で、勿論レプリカです。( 図2 )
本来の縦長の 「 小一片紅 」 の他に横長の 「 大一片紅 」 の存在 ( レプリカ用に作られた本来ありもしないボーガスか。これについて書かれたものは見たことがなく、詳細は不明 ) が知られている。

 こちらは発売前に重大なエラー ( 台湾が建前としての中国領土の赤に塗られていない ) が発覚したので、急遽発売中止となったがすでに一部の局で誤って発売されたものがあり、市場に流れたものには驚異的な高値がついている。

 地図にかかわるエラーの切手は日本にもある。
 大東亜共栄圏の地図落ち。
 図3の左だが、ただしこちらは印刷漏れではなく、色褪せによるもの。地図がうっすらと陰のように残っている。比較のために右の正常なものと並べておく。
 地図部分の本来の印刷漏れではないが、雰囲気だけでもと参考に供します。

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図1 1927年に当時のソ連で、10月革命十周年を記念して7枚組みで発行されたものの一枚。
サハリンの北半分の赤色が抜けている。正常な右のものと参考比較。
( 画像をクリックするとそれぞれが拡大します )

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図2 「 全国山河一片紅 」 ( 全国の山河は赤一色 ) と名付けられた文革時期の有名なデザインエラー ( 台湾が赤くない ) の切手。
本来の縦長の 「 小一片紅 」 と横長の 「 大一片紅 」。
( 画像をクリックすると拡大します )

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図3 昭和17年発行の第二次昭和切手の一枚、大東亜共栄圏の地図落ち(左)と正常なもの(右)。
ただし、本来の印刷漏れでなく、色褪せの参考品。
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 5月29日(月)
 27日の国連切手の話でメータースタンプが出てきましたので、メータースタンプについて。
 図は、最近シンガポールから送られてきた郵便物に貼られたメータースタンプです。
 要点は料金と日付ですが、金額の前にある日付が2017年5月15日と読めます。 ( 図1 )
 また、日本の例を挙げておきます。( 図2。札幌中央 平成19年7月7日 )
 Wikipediaを参考に要約すると、メータースタンプは郵便切手に代えて、専用の機械で打ち出した料金額を表示したレシート様の証紙を用いる万国郵便連合共通の制度で、日本でこの制度は 「 料金計器別納 」 といい、内国・国際郵便ともに通用する。
 「 メータースタンプ 」 は切手収集家の呼び方で、郵便局では証紙と呼ぶ。

 すでに1920年に万国郵便連合共通の制度として採用されていると言うから、かれこれ百年になる歴史は古い。
 因みにイーベイで 「 meter stamps 」 の出品を当たってみると何百件もヒットし、まさかと思いつつ制度発足の年の 「 meter stamps 1920 」 で検索すると 「 HUNGARY 1920 VERY SCARCE 40f METER FRANKED PROOF 」 ( 40 フィラーのメータースタンプの試し刷り? ) と言うのがすぐに見つかりました。(図3)
 インドのカルカッタからの出品でUS $190.00 と高い。
 ヒットした数限りないデザインの数々を眺めていると、この分野に乗り出す人の気持ちも分からないでもない。

 専用の機械の 「 郵便料金計器 」 はかなり高価で、簡易郵便局などでは設置していないところもある ( 扱う郵便物の量も少なければその必要もない ) が、海外ではハンコ型のメータースタンプが普及しており、日本の様な料金計器は不要であるという。

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図1 シンガポールのメータースタンプ。金額の前にある日付が2017年5月15日と読める。 ( 原寸 )
( 画像をクリックすると拡大します )

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図2 札幌中央 平成19年7月7日。

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図3 メータースタンプが発足した1920年のハンガリーの額面 40 フィラーのメータースタンプの印面。
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 5月28日(日)
 郵趣の世界ではいろいろなものに巡り会う。
 このほど市場に戻したエンタイア。

 材料そのものからすれば、1899年 (明治32年) に売り出された 「 菊3銭長形の切手付き封筒 」 ということになるが、その宛名が 「 大蔵省内北海道拓殖銀行設立委員事務所 」 となっていて歴史を物語る。
 消印は局名が読み取れないが、裏面の差出人の住所 「 日本橋区北島町 」 ( 現・日本橋茅場町 ) からすれば、その近辺の郵便局であったろう。
 日付は 「 明治33年2月5日 」。

 (株)北海道拓殖銀行は、1998年 (平成10年) まで存在した都市銀行で、札幌市に本店を置き道内を地盤とする北海道第一の銀行として 「 拓銀 」 の名で親しまれた。
 道外では東京・埼玉・千葉・神奈川・愛知・大阪・京都・兵庫などの主要都府県に支店を置き、香港、ニューヨークにも海外支店を置く大手銀行の一つであったが、都市銀行として一番小規模な銀行でもあった。

 北海道開拓が進められていた明治初期、既に北海道には中小の民間銀行があったが、開拓途上で資本蓄積の乏しい北海道には、これに代わって拓殖事業に長期・低利の融資を行う特別の国策銀行が必要とされた。
 このため1899年(明治32年)3月に北海道拓殖銀行法 ( 拓銀法 ) を制定、5月20日付けで23名の設立委員が任命され、定款作成や株式募集などの設立準備が進められた。
 そして、翌1900年 (明治33年) 2月16日、拓銀法に基づく特殊銀行として北海道拓殖銀行が設立された。
 明治33年2月5日付けのこの封書は、まさにこの時期のものである。

 拓銀はバブルの波に翻弄され、創業百年を目前にして1997年(平成9年)11月に経営破綻、1998年 (平成10年) 11月に北洋銀行および中央信託銀行 ( 現・三井住友信託銀行 ) へ事業を譲渡した。
 都市銀行としては戦後初、また唯一の破綻銀行で、格下の地方銀行、それも第二地方銀行 ( 旧相互銀行 ) への事業譲渡というのも異例であった。北洋銀行はその後2008 (平成20) 年10月に(株)札幌銀行を合併している。

 晴れて拓銀に入行した人が、後に思いもよらず北洋銀行の行員になろうとは、人生何が起こるか分からないという典型に思えます。
 今回は事実関係のみで、面白い物語にはなりませんでした。

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「 大蔵省内 北海道拓殖銀行設立委員事務所 」 宛ての 「 菊3銭長形の切手付き封筒 」。(表裏)
( 画像を二度クリックするとそれぞれが拡大します )

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消印部分。「 (  ) 明治33年2月5日 」。
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 5月27日(土)
 パラパラとアルバムを捲っていたらこんなものが目に留まりました。 ( 図1 )
 世界遺産がらみかと思ったが、国連が発行している 「 国連切手 」 でした。
 国連切手は収集家の注目を集めた時期がありましたが、眺め渡したところではあまり人気はないようです。

 世界遺産でも森林は欠かせない要素。「 知床 」 「 白神山地 」 「 小笠原諸島 」 「 屋久島 」 の豊かな森林を含む自然遺産は固より、文化遺産でも 「 平泉 」 や 「 日光 」 「 紀伊山地の霊場と参詣道 」 の森厳な森の存在があり、厳島神社の背後にある弥山 ( みせん ) の原生林、「 古都奈良 」 の春日山原始林が構成資産になっており、「 富士山 」 も構成資産面積の9割が森林です。

 国連切手は国際連合の郵便組織である国際連合郵便 ( United Nations Postal Administration ) が発行する本来国連事務局で使用するための 「 公用切手 」 だが、一般人であっても国際連合の郵便局で差し出す郵便物に限って使える点が、各国で発行されている通常の 「 公用切手 」 ( それぞれの国の郵政で官公庁の公用郵便に使用するために発行される切手。日本ではこれまで発行されていない ) と異なる。

 国連切手は、国連本部があるニューヨークで1951年から発行され( 図2 )、スイス・ジュネーブの国連ヨーロッパオフィスでも1969年から、またオーストリアの国連ウィーン事務局でも1979年から、それぞれの国連機関内の郵便局で独自の国連切手が発行されるようになった。

 多くの国際機関で差し出される郵便物の多くはメータースタンプ ( 切手の代わりに専用の機械で納付料金額が打出されるラベル ) が使われるが、これらの国連切手は国連の活動を切手を通じて広報するとともに、世界中の切手収集家や国連機関を訪ねる観光客に対して販売する目的としても発行されている。

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図1 「 森林の保護 」 を訴えた1988年発行の国連切手の初日カバー。
上から、ニューヨーク本部 ( 25セントと44c )、ジュネーブの国連ヨーロッパオフィス ( 50サンチームと1.1フラン )、
ウィーン事務局 ( 4シリングと5s ) の三者連携による発行。
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図2 最初に発行された国連切手 ( 1951年 )。
周囲に国連の公用語、英語、中国語、フランス語、ロシア語、スペイン語で 「 国連 」 ( 中国語では 「 聯合國 」 ) と書いてある。
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 5月26日(金)
 24日の 『 中島敦 父から子への南洋だより 』の話で、大型の四六版と思い込んだ先入観が禍して中々見つけられなかったという思い込みの原因となったのが、今回の 『 柳田國雄の絵はがき ( 家族にあてた270通 ) 』 ( 田中正明編、晶文社 )。 ( 図1 )
 これも郵趣の観点から入手したものだったが、「 豪華本 」 で高かった。
 何しろ300頁を超える大型本にカラーを交えた ( まだモノクロが中心の時代だった ) 実物大の 「 家族にあてた270通 」 の絵はがきが収められているのだから。
 私にとって、これを見るまで 「 日本民俗学の創始者 」 の柳田國雄に海外と結びつくイメージはなかった。
 国内篇と国外篇の二部に分けて整理されており、『 国内篇は、「 雪国の春 」 「 海南小記 」 として結実した旅をはじめ、明治23年から昭和26年にわたって投函された126葉。国外篇は、大正6年の台湾・中国への旅、および大正11年から13年の間に国際連盟統治委員会委員として滞欧した先々から投函された144葉である。 』
 柳田が 「 国際連盟統治委員会の委員 」 であったことも知らなかった。
 これらはこれまで公表や公開をされることなく、散逸を免れて長い年月を柳田家に保管されてきたもので、貴重な資料、研究材料となるものである。

 270枚の中から一枚を選ぶのは難しいが、エイやっと一枚。 ( 図2 )
 シカゴに 「 市儀古 」 の字を当てていることに興味を惹かれたこの一枚。
 絵はがき表に 「 市儀古の三越の七階で今御ひるをたべて居る。・・・ 」。

 便乗で自前のマテリアルを。春洋丸の姉妹船の天洋丸で運ばれた郵便。 ( 図3 )
 左上に赤字で示されているが、S/Sとあるのは艦船を種別ごとに区別する略称表記 ( 艦船接頭辞 ) で、SSはSteamship ( 蒸気船 ) の略である。

 天洋丸 ( 1908年竣工。26年に日本郵船に移籍 ) は、サンフランシスコ航路を開拓した東洋汽船の優秀客船。日本で造船された初の1万総トンを超える天洋丸級 ( 「 天洋丸 」、「 地洋丸 」、「 春洋丸 」 ) の大型貨客船であった。
 また、1927年 (昭和2年) に日米友好の目的で交換された 「 青い目の人形 」 「 答礼人形 」 を乗せた一隻でもあって、それから間もなくの昭和5年に引退し、浅間丸など最優秀船にその道を譲った。

 なお、海外渡航者を乗せた春洋丸や天洋丸をはじめとする遠洋定期船 ( オーシャン・ライナー ) の歴史について、2014年3~5月の第200~202号に 「 船内局印 (SEA POST)/ 船旅の黄金時代 」 ( その1~3 ) 」 を書いていますのでご覧ください。

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図1  『 柳田國雄の絵はがき ( 家族にあてた270通 ) 』 ( 田中正明編、晶文社 )。

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図2 No156 1921年5月31日。シカゴの景観。
裏 ( この面 ) に 「 此対岸がミシガン湖也。・・・これからニウヨークに行く。明朝つく筈 」。
柳田は、東洋汽船の春洋丸でホノルルを経由して、5月25日にサンフランシスコに入港、そこから東部に出た。

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図3 春洋丸の姉妹船・天洋丸で運ばれた郵便。
1930年 (昭和5年) 4月10日の大阪の欧文印。米・コネチカット州ブリッジポート宛て。



 5月25日(木)
 「 世界遺産 」 は世界史のお復習いです。
 そして、いつもながらに思うのは、切手は歴史と一体不可分の存在ということです。
 だから、切手収集を通じて必然的に歴史を学ぶことになる。

 世界遺産の最大の登録件数を誇るイタリアの世界に冠たる時代がローマ帝国であった。 重宝にしている歴史世界地図 「 総合世界史図表 」 ( 第一学習社 ) で改めてその最大版図の大きさに驚く。その図を掲げておきます。( 図1「 ローマ帝国の発展 」 )

 ローマ帝国は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉で、最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア ( イギリス )、ダキア ( ルーマニア )、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。
   シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では 「 大秦 」 の名で登場する。

 ローマ帝国の全貌を捉えるのは難しいが、一つ、こんな分かり易い数字がある。
 首都をローマに置いた時代 ( 紀元前27年-330年 )、遷都後の首都がコンスタンティノポリス ( 330年-1204年 / 1261年-1453年 ) に置かれた時代。
 共和政から帝政へ移行してローマ帝国が誕生した紀元前27年から、313年にコンスタンティヌス1世が、首都をローマからコンスタンティノポリス ( コンスタンティノープル ) へ遷し、1453年に首都コンスタンティノポリスがオスマン帝国により陥落し、東ローマ帝国が滅亡することによって、古代からのローマ帝国は完全に滅亡した。

 イタリアが世界遺産登録数51件でランキングの1位を誇るのに対して、ローマ帝国に引き継がれたヘブライズム ( ユダヤ風文化 ) とともに、ヨーロッパ文化の二大源流の1つである 「 ヘレニズム 」 ( ギリシャ風文化 ) を引き継ぐギリシアの世界遺産が18件で15位というのは意外な気がする。

 ついでながら、世界遺産検定二級の公式テキスト 「 世界遺産300 」 は日本以外は、文化遺産では 「 文化的景観 」 「 文化の多様性 」 「 都市計画 」 など、自然遺産では 「 地球の歴史 」 「 氷河地形 」 「 火山 」 「 海洋生態系 」 など合わせて37の章立てに分けられているが、上下二分冊の一級向けのテキスト 「 世界遺産大事典 」 は 「 日本 」 の他は、まず 「 アジア 」 「 アフリカ 」 「 オセアニア 」 「 ヨーロッパ 」 「 ( 南北 ) アメリカ 」 の5地域に区分され、その中では国別でなく、「 宮殿と庭園 」 「 歴史地区 」 「 国立公園 」 などのカテゴリー毎に分けて掲載されている。

 世界遺産に結びつくイタリアの切手の名品を取り上げる。
 1933年に発行された6種セットの航空切手で、ツエッペリンとともに描かれた歴史的建造物は期せずして後に世界遺産に選定されている。
 大振りの重厚なデザインの切手で、両脇にドーリア式の柱を据えて上部に 「 ツェッペリン型飛行船クルーズ 」、右柱にローマ数字でMCMXXXIII ( 1933 )。( 図2 )
 それらは、1980年に登録された 「 ローマの歴史地区 」 に含まれる12リラの 「 サンタンジェロ城 ( 正面にサンタンジェロ橋を置く城塞 ) 」 であり、15リラの 「 フォロ・ロマーノ ( 公共広場、「 ローマ市民の広場 」 ) 」、20リラの 「 コロッセウム ( 円形闘技場 ) 」 であるが、10リラの 「 ムッソリーニ・スタジアム 」 ( 1934年のFIFAワールドカップのために前年の1933年に建設され、時の為政者ムッソリーニにちなんで 「 スタディオ・ムッソリーニ 」 と名付けられた ) だけは全く異質で、他に取り上げられた歴史的遺産とは異なり、新たに建設されたばかりの建築物であり、郵政当局者の権力者に対するの阿りであったろう。
 なお、3リラの 「 ガイウス・ケスティウスのピラミッド 」 ( ローマ市のサン・パオロ広場にあるピラミッド。紀元前18年から12年の間に建造されたもので、古代ローマの執政官、法務官を務めたガイウス・ケスティウス・エプロの墓 ) と5リラの 「 チェチーラ・メテッラの墓 」 ( ローマ郊外のアッピア街道州立公園内にある紀元前1世紀に建てられた古代ローマの霊廟 ) は世界遺産には未登録。

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図1 ローマ帝国の最大版図。
 色調で段階を追ってはいるが、地中海を囲む北アフリカから、今日のトルコ、ギリシャ、旧ユーゴスラビア、フランス、
スペイン、イギリスまでをも含む、要はこの地図の色の付いているところ全てが最終的なローマ帝国の領土だ。

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図2 イタリアで1933年に発行された6種セットの航空切手。
ツエッペリンとともにローマの歴史的建造物が描かれている。
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 5月24日(水)
 20日のこの欄で、友人の著作「 土方久功正伝 日本のゴーギャンと呼ばれた男 」を取り上げましたが、併せて触れた『 中島敦 父から子への南洋だより 』 ( 川村湊、集英社 ) をようやく見つけたので掲げておきます。( 図1 )
 菊版 ( 通常の単行本の大きさ ) であったのに、大型の四六版と思い込んだ先入観が邪魔をしていました。まさに 「 視れども見えず 」 です。
 これを機会に、もう一度読み直してみようと思います。( 図2。巻頭の口絵 )

 また同じ時期に書かれた 「 南洋通信 」 ( 中島敦。中公文庫 ) も掲げておきます。( 図3 )
 この中で、ロタ島から妻タカに宛てた便りの中に 『 この島の高原には鹿が出るそうだ 』 と書いているとおり、ロタ島にはシカがいて、戦前の風景印にもシカが描かれている。(図4)
 この絶海の孤島 ( この表現で相応しいかどうか ) のロタ島にシカがいるというのは不思議だ。
今のことだから、DNAを調べれば遺伝系統を辿れることと思うが。

 ロタ島は、アメリカ合衆国内の自治領、北マリアナ諸島の島の一つで、北にテニアン島 ( いまいましい原爆搭載機が発進した島 )、南にアメリカ合衆国準州のグアム島のちょうど中間に位置している。
 スコールが多いため、サバナ高原には地下水が溜まり、水質も良いことから飲料水として利用されている。日本統治時代、清らかな水と湿潤な気候という好条件に恵まれたサバナ高原の麓に醸造所が建設され、日本酒 「 南の誉 」 が生産されていた。
 太平洋戦争中、米軍の攻撃をあまり受けなかったため、サイパンやテニアンとは異なり、島全体に原生林が多く残っている。

 ロタはスペイン、次いでドイツに統治された後、第一次世界大戦中の1914年に、大日本帝国軍が赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領したことにより支配権は日本に移り、1920年には国際連盟の委任統治領となり、終戦まで日本の統治下にあった。

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図1 『 中島敦 父から子への南洋だより 』 ( 川村湊、集英社 )

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図2 巻頭の口絵から。 息子 「 中島桓君 」 宛て。

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図3 「 南洋通信 」 ( 中島敦。中公文庫 )

ロタ
図4 戦前のロタ島の風景印。シカが描かれている。
昭和9 ( 8に見えるが ) 年10月1日は、南島庁各島郵便局での風景印使用初日。
ロタの他に、サイパン、テニアン、パラオ、アンガウル、ヤップ、トラック、ポナペ、ヤルートのものがある。
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 5月23日(火)
 世界遺産検定の手始めに、二級公式テキスト 「 世界遺産300 」 ( ただし、2013年版。本来は最新版を購入するべきところだが、取り敢えずでなるべく近年の中古版を購入 )、を読み始めているが、実に楽しい。
 これとは別に、「 世界遺産登録数ランキング 」 というウエブサイトによれば、2016年段階での世界遺産登録数は165ヶ国、1052件で、ランキングの1位はイタリアで51件、以下中国、スペイン、フランス、ドイツと続き、日本は登録数20件で12位となっている。

 「 世界遺産300 」( ただし、2013年版 ) の300を、当時の900件余りの中からどのような基準で選定したのか分からないが、日本のものは全て ( ただし、この段階では17件 ) 取り上げられている。( 二級の出題範囲は、日本の全遺産と主要な世界の遺産300件 )

 因みに世界遺産登録は1978年のガラパゴス諸島やイエローストーン国立公園の自然遺産を含む12件にはじまり、2009年分の登録段階で累計900件を超えた。

 「 世界遺産300 」 ( 2013年版 ) の日本の遺産17件は登録年代順でなく、立地する場所によって北から南への順で配列しており、その後、「 富岡製糸場と絹産業遺産群 」 (2014年)、「 明治日本の産業革命遺産 ( 製鉄、製鋼、造船、石炭産業 ) 」 (2015年。 8県にまたがる28遺産で構成される )、「 国立西洋美術館本館 ( ル・コルビジェの建築作品-近代建築運動への貢献 ) 」 ( 2016年。ル・コルビジェ作品の一つとして、世界7カ国で構成される国境を越えた世界遺産 ) の文化遺産3件が追加登録されている。

 当時、とくに世界遺産を強く意識していた訳でもないが、2013年9月第194号 「 富士山、よくぞ世界遺産に 」 を書いていますのでご覧ください。

 なお、最近の商売優先で粗製濫造される切手は最早収集の対象にするものでもないが、知らないうちに 「 世界遺産シリーズ 」が発売されていて、そのうちの一つに 〈 第7集 〉 「 富士山-信仰の対象と芸術の源泉 」 があるので、日本郵便の 「 日本の世界遺産 切手一覧 」 から画像を拝借して載せておきます。

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世界遺産シリーズ 〈第7集〉 「 富士山-信仰の対象と芸術の源泉 」
発行日は2014 (平成26) 年6月26日



 5月22日(月)
 ある特定の地域に関する文化や歴史などを出題し認定証を発行する試験があちこちにあるが、はて、その名称は何であったか。
 検索のために、当てずっぽうに検索キーワードを 「 ご当地検定 」 としてみたらこれが正解で、Wikipediaに 「 ご当地検定 」 として、「 ご当地検定とは、ある特定の地域に関する文化や歴史などの知識を測る試験のこと 」 と説明されている。

 アイヌ語地名研究会で同席している札幌市のボランティアガイドを務めている人から世界遺産検定の存在を知ったが、この人は北海道内全ての「ご当地検定」を受験し、全ての認定証を取得しているとのことであった。

 因みに、北海道内のご当地検定は北海道を単位とする 「 ほっかいどう学検定 」 ( 北海道生涯学習協会 )、「 道産子検定 」 ( 北海道ファンマガジン主催 )、「 北海道観光マスター検定 」 ( 北海道商工会議所連合会 ) のほか、札幌市 ( 札幌シティガイド検定 )、旭川市 ( 旭川大雪観光文化検定 )、函館市 ( 函館歴史文化観光検定 )、帯広市 ( 十勝の観光文化検定 )、小樽市 ( おたる案内人検定 )、釧路市 ( くしろ検定 )、江別市 ( 江別まち検定 ) など、主要都市でも実施されている。

 話が逸れたが、世界遺産検定の話だった。
 世界遺産検定のテキストを入手したが、受験はともあれ、知らなかったことに次々と出くわして、読み物としても面白い。
 現在日本には日光、京都、奈良、宮島、富士山などの文化遺産が16件と、知床、小笠原、屋久島など4件の自然遺産が登録されている。

 ユネスコが主催する事業で、これら不動産を保護する世界遺産とは別に、口承による 伝統や表現、伝統芸能や祭礼、習慣、工芸技術などの無形の遺産を保護する 「 無形文化遺産 」 と、書物や楽譜、手紙などの記録物を保護する 「 世界記憶遺産 」 がある。

 その 「 世界記憶遺産 」 で、これを意識せずに映画 「 坑道の記憶 」 を2014年の8月に、今はない札幌市内の蠍座 ( 北海道内に最後まで残った名画座形態の映画館であったが、2014年12月末で閉館 ) で見ているが、それが日本の世界記憶遺産第一号になった 「 筑豊炭鉱の記録画 」 を残した山本作兵衛 (1892~1984) その人の生活ぶりを追ったドキュメンタリーであった。

 山本作兵衛は日本一の石炭生産地であった福岡県・筑豊に生まれ育ち、14歳から50年間、炭鉱で働き続けた人で、炭鉱の生活の記録を子や孫たちに残したいと、60歳を過ぎてから筆をとった。映画は、作兵衛を直接知る人物たちの証言から、その人物像に迫るほか、北海道・釧路 ( 太平洋炭礦~釧路コールマイン ) や研修生の本国ベトナムにある現役の炭鉱を取材し、名もなき炭鉱夫であった作兵衛の絵が、なぜ後世に伝えるべき 「 世界の記憶 」 となり得たのかを描いている。

 山本作兵衛による 「 筑豊炭鉱の記録画 」 は、福岡県田川市と福岡県立大学が共同で2010年 (平成22年)3月、炭鉱記録画家・山本作兵衛が描き残した筑豊の炭鉱画など約700点の推薦書をユネスコに提出し、翌2011年5月25日、697点の作品が国内初の記憶遺産として登録された。

 なお、認定された日本の 「 世界記憶遺産 」 は、他に 『 慶長遣欧使節関係資料 』 ( 仙台市博物館蔵 ) や舞鶴引揚記念館が所蔵する 『 舞鶴への生還 1945-1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録 』 等があって興味深い。

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映画 「 坑道の記憶 」 のパンフレット。

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田川市石炭・歴史博物館開館25周年記念特別企画展 「 山本作兵衛の世界 」 ( 平成20年 ) の図録。
採炭の現場 ( 坑道 ) や炭鉱の生活を描いた584枚の絵を収録している。



 5月20日(土)
 高校時代の仲間が本を出した。
 そして図書館に購入を依頼していた本がこのほど届いた。

 「 土方久功正伝 日本のゴーギャンと呼ばれた男 」 ( 清水久夫、東宣伝出版 )。
 「 日本のゴーギャン 」 のキャッチコピーは、2008年に世田谷美術館で開催されたときのタイトル 「 パラオ ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功 展 」 に由来しているのだろう。
 このときには、南洋パラオでの二人の出会いとそれぞれの生涯や芸術を、パラオに焦点を当てて展示・紹介している。

 『 李陵 』 や 『 山月記 』 で知られる中島敦(1909 - 1942年)が南洋とかかわりを持っていたことは、以前、2006年4月第105号「 南洋の話」を書いたときから承知していた。この時に手に入れた 『 中島敦 父から子への南洋だより 』 ( 2002年 ) を探したのだが、それこそ筐底深くしまわれてどうしたわけか見つけられなかった。
 中島敦は昭和16年、私立横浜高等女学校 ( 現・横浜学園高等学校に1933年から国語と英語の教師として奉職 ) を6月に辞職し、文部省の嘱託職員としてパラオ南洋庁へ教科書編纂掛 ( 日本語教科書作りの調査 ) として赴任するが、戦争の激化により、翌年1942年3月には土方久功とともに帰国している。
 この本はその折り、現地から毎日のように息子へ書き送った手紙や絵葉書のそれらの全自筆書簡がほぼ原寸大で示されたもので、郵趣の観点から入手したものだった。

 なお、久功は1940年当時パラオにいた丸木俊 ( 北海道秩父別町の生まれ。のちに夫君の丸木位里との共作 「 原爆の図 」 で有名になった ) とも親交があったという。
 パラオの主島 ・ バベルダオップは覚えずらい名で馴染みは薄く、却ってその南にある小さな島、南洋庁のあったコロールや玉砕の島ペリリューの方が印象深い。

 肝心の本、「 土方久功正伝 」。
 土方久功 ( ひじかた ひさかつ。 1900 - 1977年 ) は彫刻家で詩人であるとともに、戦前に長く日本統治領の南洋群島、ミクロネシアのパラオに住んで未開芸術と彫刻の探索を続け、緻密な観察眼と言語能力に基づいて、この対域の民族文化に関する資料を収集・記録した。その作品の多くはゆかりの ( 土方家は土佐藩士出身 ) 高知県立美術館に収蔵されている。

 詳しくは、1929年 (昭和4年)、パラオに渡り、公学校 ( 現地住民の初等教育学校 ) の図工教員として彫刻を教える傍ら、パラオ諸島の各島、ヤップ島を詳細に調査する。1931年 (昭和6年)、ヤップ諸島の最東端・サテワヌ島 ( 現在のサタワル島 ) に渡り、7年間を同島で過ごす。1939年 (昭和14年)、パラオに戻り、コロールにおかれた南洋庁に勤務する。トラック諸島 ( 現在のチューク諸島 )、ポナペ島 ( 現在のポンペイ島 )、クサイ島 ( 現在のコスラエ島 )、ヤルート ( 現在のジャルート環礁 )、サイパン島、ロタ島を引き続き調査する。1942年 (昭和17年)、小説家の中島敦とともに帰国し、同年、ボルネオ調査団に参加し、同年から日本が統治した北ボルネオを調査した。

 著者・清水久夫は、本の奥付の 「 著者プロフィール 」 を借りれば、
 1949年 (昭和24)、東京に生まれる。法政大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。日本学術振興会奨励研究員、法政大学非常勤講師を経て、世田谷区総務部美術館建設準備室学芸員となる。世田谷美術館開館後は、学芸部教育普及課長、資料調査課長等を勤める。現在は法政大学非常勤講師、跡見女子大学非常勤講師。

 この本は、清水が縁あって遺族から預かった土方久功の日記を、ライフワークとして取り組んできた翻刻作業 ( 読みずらい手書きの文章を読み解き活字にする作業 ) をベースに生まれた。

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「 土方久功正伝 日本のゴーギャンと呼ばれた男 」 ( 清水久夫、東宣伝出版 ) 表紙。



 5月19日(金)
 俳人・村上霽月( せいげつ ) にまつわるマテリアル。
 宛先住所は新居郡垣生村。
 垣生村 ( はぶむら ) は、愛媛県新居郡にあった村。現在の新居浜市垣生に当たる。
 名宛人、村上半太郎は俳人・村上霽月( せいげつ。1869 - 1946 )。
 村上霽月宛てであっても、本人差し立てのものではないから 「 有名人直筆 」 でもないし、霽月自身も一般的には 「 著名人 」 でもないから注目されることもないエンタイアでした。

 消印は伊予・松山の明治31年12月7日。
 裏面の差出人は 「 海南政友会創立事務所 」 とある。
 この時期、背景になる中央政界では、1898年 (明治31) 6月,板垣退助の自由党と大隈重信の進歩党が合同して憲政党が結成され、日本最初の政党内閣を組織したが,合同四か月にして同年10月には早くも両派の対立により内閣は瓦解し,旧自由党系の新憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂した。
 これを受けて、愛媛政界では中央政界を超越して両派の合同を存続する意向で12月1日に 「 海南政友会 」 の創立準備会を開き、挨拶状と趣意書を発して広く同志の賛同を呼びかけることにしたが、これがその時の 「 事務所 」 からの通知と思われる。

 四国・松山は 「 俳都 」 と呼ばれ、愛媛県は 「 俳句県 」 と称される。正岡子規を頂点とする虚子、碧梧桐、東洋城、草田男、波郷ら、多くの近代俳句の先達をこの県から輩出している。俳句は愛媛県民の伝統的な文学活動として根付いており、俳句県を象徴するものとして句碑が県下の至る所に見られるという。

 俳人・村上霽月は、実業家・村上半太郎でもあった。明治2年に旧伊予郡垣生村 ( 現松山市西垣生 ) に生まれ、明治25年、第一高等学校を中退して帰郷、家業を継ぎ今出 ( いまず ) 絣 ( かすり ) 株式会社の社長となり、のちに銀行頭取、信用組合連合会長などを務めた。
 俳句は子規の指導を受け、子規を通じて漱石とも親しかった。同30年 「 ほととぎす 」 の選者となり、同年「今出吟社」を結成、晩年まで地元俳人の指導に当たった。
 漱石の漢詩を読んでいて、ふとその感興が句になったという、漢詩を俳句で読む 「 転和法 」 の創始者でもあった。

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村上半太郎 ( 俳人・村上霽月 ) 宛ての 「 海南政友会創立事務所 」 からの通知。



 5月17日(水)
 今日、「 さっぽろライラックまつり 」 が始まりました。
 季節到来であちこちでライラックが咲き始めた。
 第59 回になるそうで、28日 (日) まで。
 といっても、地元の者は雪祭りと同じで、わざわざ会場の大通り公園まで毎度出かけていくものでもなく、毎度どころか近年出かけた記憶も定かでない。
 北海道に渡ってきた40年前のこの時期の札幌の爽やかさは、カッコウの啼き声とともに鮮烈な印象として記憶に残る。
 ライラックは英語、フランス語ではリラ。在来種もあって和名はハシドイ。

 庭にイカリソウが咲きそろい、クマガイソウが二つ花を付けた。今年は二つだけか。
 近くの百合が原公園に行ってみたらあまりライラックは見られず、目玉のユリもまだまだで、今はムスカリとチューリップが花盛りでした。

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ライラックの花。借用画像で、実際はまだ咲き始めです。

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イカリソウ。

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クマガイソウ。

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百合が原公園はムスカリとチューリップが花盛り。

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サイロの展望台からの眺め。

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サイロの展望台。



 5月16日(火)
 郵趣の世界にはこんな収集対象もある。
 ここに掲げる 「 明治から大正へのサドル便 」 のような存在、明治と大正という二つの元号を跨いだものは 「 サドル便 」 ( 自転車のサドルのようにまたがる存在に掛けて ) と呼ばれている。

 函館 ( 明治45年7月29日 )→ 滋賀・石塚 ( 大正元年8月1日 )。
 明治天皇が7月30日に崩御されると同時に年号が大正に改められたことにより、7月29日に函館から投函されたこのカバーは、送達の途中で明治から大正に年号が変わり、滋賀・石塚局の到着印は大正の年号で表示された。
 よってサドル便は他に、大正15年12月25日-昭和元年、昭和64年1月7日-平成元年への移行期のものも存在することになる。

 日本は世界で唯一 「 元号 」 の使われている国といわれる。
 元号は「特定の年代」に「年を単位として」付けられる称号で、「 年号 」 とも呼ばれることもあるが、元号のみならず西暦や皇紀などの紀年法の名称を年号と呼ぶ場合もある。また別に、歴史上の年数を数える基準となる最初の年を設定した 「 紀元 」 とするものもある。

 元号については、2002年1月第54号 『 郵趣にまつわる年号の話とその関連マテリアル ( その2 ) 「 紀元2600年記念貯金シール 」「 檀紀年号 」 』 と、2001年12月第53号 『 郵趣にまつわる年号の話とその関連マテリアル ( その1 ) 「 成紀年号 」「 主体年号 」 』 に書いていますのでご覧ください。

 第二次世界大戦敗戦後に、日本国憲法制定に伴う皇室典範の改正をもって、元号の法的根拠は消失したが、官民問わず 「 昭和 」 の元号が使用され続けた。
 ただ、天皇制と一体と見なされる元号の使用に異議を唱える向きもあり、戦後の一時期 「 元号の廃止 」 が論議を呼んだが、朝鮮戦争が勃発すると元号の議題は棚上げされ、以来、元号の廃止や新たな元号に関する議論は低調にとどまり、元号と西暦が併用された。
一方で、皇紀 ( 神武天皇即位紀元。2600年に当たる昭和15年には盛大に祝賀行事が行われた ) に関しては ( 文化的な場での使用を除き ) 公文書でも使用されなくなった。

 第二次世界大戦後に制定された日本国憲法、1947年 (昭和22年) 施行の皇室典範では元号の規定が明記されず、同年5月3日を以って元号の法的根拠は消失した。
 その後も元号は慣例として用いられていたが、昭和天皇の高齢化に伴い、元号法制化を求める声が高まったのを受け、1979年 (昭和54年) 6月6日には元号法が成立した。
 昭和天皇崩御を受けて、「 平成 」 の元号が定められ、明治維新以来の一世一元が継続されている。

 なお、「 元号法 」 は、次の本則2項をもって構成され、日本の法律の中では最も条文の短い法律である。
 第 1項:元号は、政令で定める。
 第 2項:元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める ( 一世一元の制 )。
 このことからすれば、平成天皇の退位となれば次の元号が定められることになるが気になるところだ。

 なお、「 NEWSポストセブン 」 の記事で、「 天皇の生前退位 国民の冷静な反応に世界が驚く 」 として、世界が日本に驚嘆の眼差しを向けている出来事がある。それは、天皇の生前退位に臨む国民の冷静な反応だったことだという。
 『 世界はこうしたところにこそ、日本という国の 「 安定 」 を見出している。 』 ともコメントしている。

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明治と大正を跨いだサドル便。 ( 70% )
( 画像をクリックすると拡大します )

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うまい具合に発信局印と着印が並んで押されている。
投函時の明治が到着時には大正の「御代」に変わっていた。
函館 ( 明治45年7月29日 ) → 滋賀・石塚 ( 大正元年8月1日 )。
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 5月15日(月)
 13日の土曜日、札幌市内で、SHUT泊、脱原発をめざす女たちの会・北海道、生活クラブ生活協同組合、北海道のエネルギーの未来を考える10,000人の会、さっぽろ自由学校 「 遊 」 等の主宰で、原発の危険を訴える映画、「 チャルカ 」( 放射性廃棄物の処分場の目処も付かないまま、全てを先延ばし・棚上げにしたまま原発を推進することへの問題提起。チャルカはガンジーが提唱したインド独立のシンボル、自立のためのワタを紡ぐ糸車で、抵抗運動の象徴的な存在として取り上げたもの ) と 「 太陽の蓋 」 の二本立ての 一日上映会があった。
  「 太陽の蓋 」 は昨年見たところだが、せっかくの機会だからともう一度見ることにした。

  『 太陽の蓋 』 ( たいようのふた ) とは、東日本大震災と福島第一原子力発電所事故を題材とする映画。2016年7月16日公開。
 太陽はエネルギーの象徴だが、これに擬えた原発について、「 原発事故を経験した我々は原発に蓋をするのか否か 」 を問いかける。
 そして、「 原発事故そのものに蓋 ( 臭いものには蓋の譬え ) をしてしまうのか否か 」。

 東日本大震災とその影響による福島第一原子力発電所事故が発生した2011年3月11日からの緊迫した5日間を、主人公の新聞記者を中心に、原発事故の対応に追われる慌ただしい首相官邸内の様子 ( 菅直人首相、枝野官房長官らの配役者を実名で登場させる ) と、情報隠蔽に走る東電、福島での住民の避難の状況などを交えて描いた、『 真実に迫るポリティカルドラマ 』 であり 『 ジャーナリスティック・エンターテイメント 』 ( チラシのコピー )。
 その後、再稼働に執着し回帰していく政権交代後の現政権に、「 これだけの目に遭ってもでもまだ懲りないのか 」 との絶望的な言葉が響く。
 そして、「 それでもなお原発を支持する存在があり、何より信じるさせる罪な存在 」 がいることへの絶望感。

 「 東京でなくて東北で良かった 」 と心ない発言をした担当大臣がいた。確かに不穏当な発言 ( 思ってもいって良いことと悪いことがある。その弁えもないのはやはりこの人の器が問われて然るべき ) ではあるが、「 一面の真理 」 であることに間違いはない。一千数百万の集積人口の避難、集積した膨大なインフラ・資産を放棄しなければならないという事態は想像も付かない。  だから、その最悪の事態を想像して官邸は青くなった。

 先の見えない事故処理の収束、廃炉までに要する70兆円とも言われる膨大な処理費用。
 そもそも、一朝事あったときには制御不能に陥る原発があり、満足な補償も出来ない実態 ( 戦争と同じで、ひたすら国民に負担を強いるのみ ) がある。原発事故には掛けられる保険もない。政府、地方自治体の首長こぞっての無責任、想像力の欠如。
 それこそ憚る話だが、もう一度何らかの原因で再びどこかの原発で事故が起きたら、また新たな永久避難地域が生まれ、この日本で住めない場所がまた出来る。日本は破産。  さすがにそうなれば、いよいよ考える時が来るのだろうか。
 いや、その時には否応なしに考えを迫られる。

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映画 『 太陽の蓋 』 のチラシ。



 5月12日(金)
 映画館の古書販売コーナーで偶然に巡り会った本。
 季節外れの話題になりますが。
 「 1812年の雪 ( モスクワからの敗走 ) 」 ( 両角良彦。講談社文庫 )。
 1812年と言えば言わずもがな、ナポレオンのロシア遠征 ( 「 1812年ロシア戦役 」 ) にかかわる年。
 それから百数十年後の1941年には、再びモスクワを巡る戦い、ロシアにとっての厄災 ( 独ソ戦 ) が繰り返されることになるのだが。
 それ以降、ロシアではこれを二つの 「 祖国戦争 」 、「 祖国戦争 」 ( 1812年 ) と 「 大祖国戦争 」 ( 1941-45年 ) と呼ばれるようになった。

 著者、両角良彦は通産官僚で事務次官まで努めた人。のちに電源開発総裁も務めたが、私人としては 「 ナポレオン研究家 」。関連の多くの著書がある。
 余談ながら、紛らわしいことに同姓同名の自衛隊幹部がいた。

 新たな資料が見つかったとかで、想像を絶する敗走の生々しい様子が延々と克明に記述されていて、いいかげんうんざりするが、これが一人の功名心に駆られた稀代の 「 英雄 」 ( 何が英雄なんかであるものか ) の気まぐれから引き起こされたとすれば、こんな罪なことはない。
 著者も書いている。『 孤高の天才ともなれば、とかく名もない人たちの心を理解しようともせず、しばしば 「 人間を軽蔑した 」。一人の男が内なる衝動に駆られて戦陣を馳せるとき、夥しい将兵は苦しみ、無数の民は嘆きつつ命を散らしてゆく。 』 と。まさに 「 一将功成りて万骨枯る 」 の言葉通りだ。
 いつの世にもとかく安易な 「 英雄待望論 」 があって危うい。身近にもその紛い者が見え隠れしているが、誰であれ 「 英雄 」 などとあまり持ち上げるものではない。
 「 狂人 」 の暴走を止められないものか。

 遠征軍の総兵力は47万5千。その過半はフランス兵ではなく、三分の二がそれまでに征服した諸国の外国兵で、その出身はドイツ(統一前のザクセン、プロイセンなどの領邦国家)、ポーランド、クロアチア、オーストリア、イタリア、スイス、デンマーク、ベルギー、スペイン、ポルトガルなど18カ国を超えた。

 また、6月にロシア侵攻した段階で47万5千あった兵員が、ポロジノの戦いを経て9月にモスクワに到達したときにはすでに11万に減じていたという。それは、戦死傷もさることながら、病没 ( チフスの蔓延 )、脱走、同盟軍の離脱など、さまざまであった。
 ようやく到達したモスクワはロシア側の焦土作戦 ( フランス軍に食料や拠点となる建物など、何もかも渡さないように自らモスクワの町へ火を放つ。その裏にはそれまでの安穏な生活を追われた市民がいた ) を前に撤退を余儀なくされ、10月19日、フランス軍はモスクワから撤退を始める。

 敗走するナポレオン軍にとって、皮肉にもこの年の寒さは格別だった。
 スモレンスク ( モスクワの西350 Km ) に近付いた11月5日、本格的な雪が降り出す。この時の気温はマイナス10度。だが12日にはマイナス25度まで下がった。

 その後も餓えと寒さで残存兵は激減し、1812年12月14日、ロシア領内から駆逐された2万2千の将兵も、最終的に国にたどり着いた者は5千というから47万5千からの損耗は凄まじい。
 ロシア側でも、戦線の通過で荒廃した地域の住民の死傷者は軍隊を上まわり、仏露双方、軍民合わせた全体の犠牲者は数百万人にも上るとされる。
 また、人命同様にフランスは軍馬20万頭を失った。それは、飼料の燕麦の補給が滞って餓死するか、食料として飢えた兵士に殺されたことによる。馬がなくなったことで騎兵は徒歩を余儀なくされ、何より馬の激減は大砲と荷馬車の廃棄、戦力の低下に繋がった。

 このナポレオンのロシア遠征 ( 「 1812年ロシア戦役 」 ) にかかわる、こんな切手がある。
 ロシアの地方切手ゼムストボのクラスニンスカーボの郵政で、「 1812年ロシア戦役 」 百年に当たる1912年に発行された切手で、まさに 「 フランス軍の退却 」 が描かれている ( 図1 )。
 この切手には、セットのもう一種があって、こちらには両軍の戦闘の様子が描かれている ( 図2 )。

 なお、ロシアの地方郵政・ゼムストボの切手については、
(1) 2001年4月第45号「みせびらかしで失礼します ( その3 ) 帝政ロシア時代の地方切手の、「 ゼムストーボ切手 」 と 「 補足資料 」。
(2) また、ホルダー 「 1 コレクション コーナー 」 の 「 (1)コレクション・リーフ 」 の 「 19(12年5月)ロシア・ゼムストーボの切手 」。
(3) それに、「 5 豊かな日々のつれづれに 」 の 「 14(171~78頁) 「 郵趣の楽しみ 」 (七)( ゼムストーボとその切手について ) 」 をご覧ください。

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図1 「 1812年ロシア戦役 」 百年に当たる1912年にクラスニンスカーボの郵政で発行された切手。 ( 200% )
まさに 「 フランス軍の退却 」 が描かれている。
( 画像をクリックすると拡大します )

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図2 「 1812年ロシア戦役 」 百年記念のもう一種。 ( 200% )
こちらには両軍の戦闘の様子が描かれている。
( 画像をクリックすると拡大します )

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「 1812年の雪 ( モスクワからの敗走 ) 」 ( 両角良彦。講談社文庫 ) の表紙。



 5月11日(木)
 台湾・彰化の切手商からのはがき。
 いろいろと賑やかだが、左上の切手に注目 ( 拡大図参照 )。
 シャチが描かれているが、その右下に 「 虎鯨 」 とあって、これがシャチ。

 確認すると、シャチは中国語で 「 虎鲸 」 の他にも、「 倒戟鲸 」、「 逆戟鲸 」、「 大海豚 」 などの呼び名がある。 鯨類にはいろいろな行動パターンが見られるが、「 倒戟鲸 」 や 「 逆戟鲸 」 などの名は、シャチが海面から身体を迫り出して海面に 「 戟 」 ( ほこ ) を突き立てるような仕草に由来しているのではないか。
 右上に小さく 「 1997年 賞鯨 」 と書かれているが、「 賞鯨 」 はホェールウォッチングのことで、なるほど観賞の 「 賞 」 で鯨を愛でることかと納得する。
 「 賞鯨 」 は花蓮など台湾東部で人気らしいが、実際に見られるのはイルカ ( 海豚 ) で 「 賞豚 ( ドルフィン・ウォッチング ) 」 らしい。

 もう一つ。高士神社とある。また裏面には 「 台湾国一之宮 」 と書かれているが、高士神社は地元の彰化ではなく屏東県にある神社で、「 一之宮 」 ( ある地域の中で最も社格の高いとされる神社 ) であるとしたいわれは身びいきからと言うわけでもなさそう ( 何のご縁か )。

 改めて高士神社はと調べてみると、1939年 ( 昭和14年 )、高雄州恒春郡蕃地 ( 現在の屏東県牡丹郷 ) のクスクス社 ( 部落 ) の 「 クスクス祠 」 として鎮座された。
 台湾で著名な開山神社などは鄭成功 ( オランダ人を駆逐した英雄 ) を祀る廟宇を改良したものだが、この高士神社は当初から神社として鎮座された。
 また台湾では比較的新しい神社は北白川宮能久親王 ( 日本に割譲後の台湾征討近衛師団長として出征し現地でマラリアに罹り台南で陣没 ) を祀ることが多かったが、ここは天照大神を祀っており、現在は 「 髙士佛戦沒之霊神 」 ( 大戦中に村から日本兵として出征した戦没者 ) を祭神としている。
 戦後、廃社となり、社殿が取り壊されたが 2015年に住民からの要望で日本側関係者の支援を受けて再興された。

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台湾の切手商からのはがき。

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はがきに貼られた1997年発行のシャチの切手。 ( 200% )
右上の 「 賞鯨 」 はホェールウォッチング。



 5月10日(水)
 台湾の比較的新しい 「 抗戰勝利曁臺灣光復七十週年紀念 」 切手。
 自ずと発行は2015年ということになる。
 4枚組みの5圓切手の一方に、「 日本の降伏発表後、重慶中央放送局の前で市民の歓迎を受ける蒋介石 」 の写真が取り上げられている。
 歴史の事実とはいえ、いまさら忌まわしい蒋介石を登場させるあたりは、さすがに馬英九政権時代 ( 2008年5月20日~2016年5月20日。第12代、13代中華民国総統を二期務めた ) ならばこそ。また国民党が仇敵・中国共産党に近づいているのは歴史の皮肉。

 ところで、台湾での漢字は戦後も一貫としていわゆる旧字体を 「 正字 」 としており、この15字の範囲でも 「 戰-戦 」、「 臺-台 」、「 灣-湾 」 があり、字体は同じでも 「 週年-周年 」 「 紀念-記念 」 に、現在の日本語とは違う表現が見られる。
 何より見慣れない 「 曁 」 ( き ) は 「 ~と( および ) 」 を意味するが、文章のみに使われる硬い表現で、一般的には話し言葉に 「 和 」、書き言葉には 「 与 」 が使われている。

  「 光復 」 とは中国語で固有のものを回復すること、とりわけ失われた国土の回復を指し、「 抗戦 」 は盧溝橋事件以来の8年に及ぶ日中戦争を指す。
 よって 「 抗戰勝利曁臺灣光復七十週年紀念 」 は、「 対日戦争勝利および台湾国土復帰70周年記念 」 となる。

 もう一枚の5圓切手には台北公会堂前の集会を撮った写真が使われているが、図案の説明には 「 台北市中山堂前広場の第18回光復祝賀の群衆 」 とある。

 台北公会堂は台北市の中心部にある建築物。日本統治時代の1936年に台湾総督府営繕課の設計で建築された。
 1945年の日本敗戦に伴う降伏接受は蒋介石の命を受けて台湾省行政長官に任命された陳儀が対応し、第10方面軍司令官・安藤利吉 ( 最後の台湾総督 ) の降伏調印式が10月25日、台北公会堂で行われ、以降この日は 「 台湾光復節 」 ( 台湾における日本の統治が終わった日 ) と定められた。
 台北公会堂は国民政府による接収が行われると 「 台北中山堂 」 と改名され、1992年には中華民国政府により国家二級古跡に指定されている。

 なお、ホルダー 「 2(2)台湾特集 」 の 「 11 料金不足切手と記念印 」 でも紹介したが、1948年4月に光復二周年を記念して、この 「 台北中山堂 」 を描いた二種セットの切手が発行されているので載せておく。
 この時はまだ国民党政権は大陸にあり ( 国民政府は1946年5月に重慶から南京に戻っている )、この切手も北京で印刷され、台湾でも発売されたが、この翌年、国共内戦に敗れた国民党政権が台湾に移り、中国は二つの道を歩き始める。

 ところで、日本ではあまりニュースに取り上げられなかったが、4月16日早朝、台湾の鳥山頭ダムにある八田與一の銅像の頭部が切り取られるというショッキングな事件があった ( すでに急ぎ修復された )。 親日国台湾でなぜかと首を傾げたが、間もなく名乗り出た犯人は元台北市議会議員で中台統一を目指す男であった。犯人が分かってみればやはりその筋であったかと納得するが、台湾の国内事情も複雑です。

 八田與一は多くの日本人にとっては無名だが、台湾では教科書にも取り上げられて知らぬ者はない。
 八田與一 ( 1886 - 1942年 ) は金沢の人。第四高等学校 ( 四高 ) を経て、1910年 ( 明治43年 ) に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職し、台湾の農業水利事業に大きな貢献をした人物として知られる。

 1920年 ( 大正9年 ) から10年の歳月を掛けて、大貯水池・烏山頭ダム( 現・台南市官田区 ) を完成させるとともに、嘉南平野( 嘉義、台南 ) 一帯に嘉南大釧 ( かなんたいしゅう。 「 しゅう 」 の字は 「 土偏に川 」 だが変換できないので便宜的に 「 釧 」 の字を当てておく。 「 土偏に川 」 の字は用水路の意。音は 「 しん 」 だが、「 しゅう 」 の慣用音で通っている ) と呼ばれる総延長16,000kmに及ぶ用水路網を巡らし、水不足に悩む嘉南平野を台湾最大の穀倉地帯に変えた。

 今回被害にあった八田の銅像は、ダム完成後の1931年(昭和6年)に地元住民の要望で設置されることになり、依頼を受けた郷里加賀出身の彫刻家の都賀田勇馬によって制作され、同年7月に八田立会いのもと除幕式が行われた。
 その後、戦時中の国家総動員法に基づく金属類回収令による供出を心ある人たちによって危うく免れ、戦後もとの場所に戻されたが、蒋介石時代の日本統治時代の痕跡を一掃しようとする動きの中で、水利組合と地元の有志によって銅像は保護されて再び隠され、1981年に再びダムを見下ろす元の場所に設置されるという数奇な運命を辿っている。

台湾
2015年に台湾で発行された 「 抗戦勝利および台湾国土復帰七十周年記念 」 の4種。 ( 150% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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1948年4月に光復二周年を記念して発行された 「 台北中山堂 」 を描いた二種セット。 ( 150% )
この切手は北京で印刷され、台湾でも発売された。
( 画像をクリックすると拡大します )



 5月9日(火)
 第二次世界大戦中のドイツによる占領地で発行された野戦局郵便は、フランスでも発行されている。
 「 反共フランス義勇軍 」 として発行されたもので、その第一号は、胸に赤い星を付けた白熊を描いた強烈な印象を与える小型シート。
 白熊は 「 仇敵 」 ソ連を意味している。
 上部に 「 フランス軍遠征旅団 」、下部には 「 反共フランス義勇軍 」 とある。また、切手の右肩の手斧に欠かれた 「 LVF 」 は、フランス義勇軍 ( レジョン・デ・ボロンテール・フランセ ) の頭文字。

 「 フランス義勇軍野戦局 」 ( ミッヘル専門カタログ掲載 ) の二番手はこれも大胆な構図の爆撃機を含む二枚のセット、三番手はそれへの加刷版 ( 左上の二行。上にフランス語、下にドイツ語で 「 東部戦線 」 と加刷 )。
 そして四番手の5種セットで、「 反共フランス義勇軍 」 による発行は都合1小型シートと切手9種であった。
 これらについては、2008年9月の第134号 「 反共フランス義勇軍 」 をご覧ください。
 改めて読み返すと、背景となった第二次世界大戦前夜のヨーロッパ情勢、開戦に伴うドイツのフランス侵攻・占領の過程、さらに 「 反共フランス義勇軍 」 の創立者ジャック・ドリオについても触れており、我ながら良くまとめたものと感心する。

 なお、ベルギー野戦局郵便で触れた、一方の南部のワロン地域で発行された 4種を、イーベイの出品からの借用画像でおまけに追加しておきます。

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図1  1941年10月24日発行の小型シート。 ( 借用画像 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図2 1941年発行の二番切手。下辺にシート周辺の模様。 ( 原寸 )
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図3 1942年発行の加刷版。 ( 原寸 )
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図4 1942年4月20日発行。 ドイツ軍の一員になって東部戦線での 「 反共フランス義勇軍 」 の戦いぶりを描いた5種。
反共義勇軍のタブ付き。 ( 120% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図5(追加) ベルギー野戦局郵便。南部のワロン地域で発行された 4種。 ( 借用画像 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 5月8日(月)
 今日は朝から小雨が降っています。
 昨日の写真になりますが、庭の梅が満開。今日は風に花びらが落ち始めています。

 不思議なもので、ゴールデンウイーク中に見ごろを迎えた桜は、東京に比べて一月余りの遅れ。それに対して梅は二月遅れ。それに開花も桜より遅い。

 シラネアオイとイチリンソウ。シラネアオイは勢いがなくなってきて今年は小さい花がたった一つ。小さな庭の花々の様子も変転している。ユキワリソウのように大きな株になってたくさん花を付けていたのに、見られなくなってしまったものもある。
 いつの間にか、タツタソウの花はなくなり、水仙も終わり、今はチューリップとムスカリ。スズランはこれから。

 周辺のタマネギ畑ではタマネギの植え付けが始まりましたが、とくに天候が悪い訳でもないのに、今年は少し遅いようです。

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満開になった昨日の梅。
バックが自転車置き場とはカメラアングルが悪い。

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シラネアオイとイチリンソウ。シラネアオイは勢いがなくなってきて今年は小さい花がたった一つ。



 5月7日(日)
 昨日のドイツ・ベルギー野戦局郵便の続き。
 ドイツの切手カタログ・ミッヘルのベルギー占領地切手は、北部のフランデレン地域 ( フラマン語圏 ) 発行のもの ( 3シリーズの計14種と不発行の5種 ) と、南部のフランス語圏のワロン地域で発行されたもの ( 4種 ) に分けて掲載されている。
 1941年発行の第一シリーズの4種と、不発行の5種を掲げる。
 ただし、4種の方は本物、不発行の5種の方はご多分に漏れず高価で、ここに示すのはレプリカである。本物が今イーベイに500ドルで出品されている。

 不発行切手は1944年の発行予定であったが、この年は連合軍が6月6日にノルマンディーに上陸し、8月25日にはパリに入り、8月末までにはフランスの大部分が解放され、ドイツ軍は占領各地からの撤退を余儀なくされた年に当たる。
 まさに 「 不発行 」 となるべく情勢は逼迫していた。
 この年の12月には、ベルギーのアルデンヌの森で有名な 「 バルジの戦い 」 が行われ、ドイツ軍は決定的な敗北を喫し、以降戦場はドイツ国内へと移っていく。

 ここで 「 レプリカ 」 について一言。
 この言葉は訳語としては 「 複製品 」 ( 博物館などで貴重な実物は別途保管し、展示用にレプリカを用意する場合 ) とすべき場合と、ブランド品と偽って製造されるニセモノの 「 模造品 」 を意味する場合とがある。
 本物は高価で、代替の参考品とする場合には 「 レプリカ 」 の他に 「 リプロダクション 」 ( 複製品 ) と表示される場合もあり、「 ファクシミリ 」 と表現されている場合もある。 また、高価な本物として欺く意図で製造または加工されたものは 「 フォージャリィ」 ( 偽造品 )、「 フェイク 」 ( 変造品 ) などと区別されている。
 なお、かなり以前になるが、そうしたいわゆるニセモノの話を、2003年9月の第74号に 「 偽物百科 」 として書いていますのでご覧ください。

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1941年発行のベルギー野戦局郵便、第一シリーズの4種。 ( 120% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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ベルギー野戦局郵便、不発行になった1944年の5種。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 5月6日(土)
 その昔、郵趣関係の雑誌には文通欄や交流のコーナーが設けられていて、特に分からないことを広く仲間に情報を問いかけ、また専門家に回答してもらえる貴重な質問コーナーの場が設けられていた。
 そんな長閑な時代を思えば、今は個人情報保護の妙に遠慮がちな気分が蔓延して、風通しの悪いイヤな世の中になったものです。

 「 珍し物好き 」 が高じていろいろな方面に触手を延ばし、見かけることのない分野にも通ずることになって、特殊なものに巡り会ってきました。
 さて今日は、5月3日に 「 ドイツ野戦局ローカルポスト1943年 チュニス 」 を取り上げたときに、「 これから、しばらくこの類を取り上げてみる。 」 と言ったその 「 類 」 の一つです。

 断片情報に依れば、ドイツ占領下のベルギーで1940年に結成された親ドイツの義勇軍 ( ドイツ武装親衛隊SSに所属 ) のプロパガンダとして、1942年に野戦郵便を装って発行された戦争捕虜のための慈善募金切手とされるもの。
 切手下部には募金の趣旨が記されているようだ ( 二種類の文面はフラマン語とフランス語か )。

 図に示すように目打ちの有る無しがあり、無目打ちの方は四枚のミニシートとして発行されている。
 この切手はミッヘルのベルギー占領地部分にも掲載されておらず、カタログによるデータは不明。
 余談だが、この配色と色合いデザインなどに1930年代のオランダ領東印度 ( インドネシア植民地 ) の匂いを感じる。同じドイツ占領下にあったオランダで、それらを製造した会社で印刷されたものではなかったかと思えるのだが。

 ベルギーは、オランダ語の一種であるフラマン語を公用語とする北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分されるが、義勇軍はドイツの影響の強いフラマン語を話す地域で結成された。

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ドイツ占領下のベルギーで、親ドイツの義勇軍の野戦郵便局で 1942年に発行された慈善募金切手。
有目打 と無目打のもの。 ( 125% )
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 5月5日(追加)
 4日はさる仲間の会の花見の折りに荒井山 ( 標高185m。山名は土地の所有者だった荒井保吉に由来する ) にも登ってきました。
 登るなどとは大げさなくらいで、ほんの少し登ればすぐ頂上で、裏側は大倉山シャンツェ ( 大倉山は標高307m。その名は1931年、私財を投じて大倉山ジャンプ競技場を建設した大倉喜七郎 ( 大倉財閥2代目総帥に因む。父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎 ) と向き合い、右手に三角山 ( =琴似山。標高311m。アイヌ名ハチャム・エプイは 「 発寒の ( エプイ=つぼみのような ) 小山 」。札幌に7カ所ある一等三角点の一つがある ) を見上げる。
 発寒 ( はっさむ ) の由来は諸説あるが、通説としてアイヌ語の 「 ハチャム・ペッ 」 ( ハチャム=桜鳥 ( ムクドリ ) が群生する川 )。

 目に付いたのは、エンゴサク ( 中国名・延胡索から ) のほか、珍しい名前と黄色い小花が印象的なジンチョウゲ科のナニワズ ( 夏に葉を落とすので別名ナツボウズ )、つややかな葉を持ちブラシ状の花が特徴のヒトリシズカでした。

 帰りに通りがかった円山公園は想像以上の賑わいで、恒例の花見のジンギスカンの匂いと煙が立ち込めていました。

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エゾエンゴサク ( 蝦夷延胡索 )。その色はピンク、水色、青、紫と変化に富む。

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ナニワズ。北海道の早春の花。

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ヒトリシズカ。やがてフタリシズカも咲く。



 5月5日(水)子どもの日
 第15回国際商業会議所総会記念初日カバー。
 コイノボリを描いた切手にコイノボリのカシェで、子どもの日にピッタリです。
 子供の日の切手と間違いやすいが、「 国際商業会議所総会 」 の記念になぜコイノボリなのか。何か理屈があったものと思いますが。
 それはともかく、色合いといい構図といい、またそれまで見なかったほぼ正方形のユニークな形と言い、印象深い切手です。おまけに、この切手は日本初の多色刷りグラビア切手ということで、4色刷りの色ごとに版を作り、木版画と同じように色を刷り重ねて印刷されたということで、当時の印刷技術の到達レベルを物語る。

 もう一つ。昭和55年5月5日の5並びの日の作りもの。
 こういう遊びをする人がいる。
 もう40年近くも昔に釧路の誰かさんが作った。
 右下のコイノボリと子どもの絵、「 こどもの日記念 」 としているところを見ると、商魂たくましい郵便局が仕掛けたものか。

 5並びの昭和55年5月5日の日の釧路局の風景印も押されている。
 55円切手のマリモは北海道、それも管内に阿寒国立公園を含む地元釧路に相応しい。
 この風景印の使用期間は1963年 (昭和38)年7月25日~1990年 (平成2)年7月1日で、図案の左は釧路市米町公園にある石川啄木の碑、「 しらじらと氷輝き千鳥鳴く 釧路の海の冬の月かな 」。
 また、啄木の歌にある 「 さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき 」。石川啄木が釧路駅に降り立ったのは明治41年1月21日の夜であった。

 啄木が釧路新聞の記者として釧路にいたのは僅か76日で、その後、船で釧路を後にしている。
 啄木の釧路との縁は儚いものであったが、現在釧路市内には啄木歌碑が27基あるとのこと。
 風景印には他に、釧路港、幣舞 ( ぬさまい ) 橋、タンチョウ、阿寒の山並みが描かれていて欲張りです。

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第15回国際商業会議所総会記念初日カバー.。
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昭和55年5月5日の5並びの日の作りもの。釧路局の風景印押し。
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 5月3日(水)憲法記念日
 今日の材料は 「 ドイツ野戦局ローカルポスト1943年 チュニス 」。 レプリカですが。
 これから、しばらくこの類を取り上げてみる。

 以前、「 中華郵政史 」 ( 2016年7月第228号 ) の初めの部分で、中国の郵便史の変化に富んだ歩みについて、ロシアやドイツを引き合いに出した。
 ドイツの郵便史もまた複雑であった。
 まずドイツ統一前の領邦国家による発行 ( 1850~70。領邦国家による17の郵政 ) があり、ドイツ統一によるドイツ帝国郵便の誕生 (1872年)、そして同時期に存在した民間郵便 (1886~1900) による発行、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線の戦域拡大に伴う占領地域での発行。また敗戦後の米、英、仏、ソの連合国4カ国による4年半にわたる分割占領による各地域 ( 首都ベルリンも市内を4カ国で分割された ) ごとのローカル切手の発行、冷戦下の東西両ドイツの時代を経て1990年のベルリンの壁の撤去に象徴される東西両ドイツの再統一に至る。 ( 2012年8月第181号 「 ジャーマン・ステーツ ( 領邦国家郵政 ) とプリバート・ポスト ( ドイツ民間郵便 ) 」 )。

 ミッヘルの専門カタログには特殊な占領地切手やローカル切手を含むこれらドイツ切手の全てが網羅されている。
 そこにこの 「 ドイツ野戦局ローカルポスト1943年 チュニス 」 も載っている。

  ヤシの木に鉤十字のシンプルなデザイン。いや、それどころか額面も国名表示もない。
 ドイツの切手に南国のヤシの木は馴染まないが。
 オンピースで仕立てられていて、1943年11月3日の野戦局 ( FELDPOST ) 郵便の日付印が押されている。カタログには断片を拾うと 「 ローカル版 」 「 チュニス1943年3-4月 」 「 北アフリカ軍 」 とある。

   ロンメルが活躍した北アフリカ戦線にまつわるものだ。
 北アフリカ戦線は、第二次世界大戦において1940年9月のイタリア軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュニジアの戦いで枢軸国軍が壊滅し、ヨーロッパ本土へ撤退するまでの、エジプトからモロッコに至る長大な北アフリカ北岸で行われた戦車戦を中心とした闘いであった。

 闘いは1940年秋のイタリア軍のエジプト侵攻から始まり、40年末のイギリス軍の反攻、イタリア軍の敗退、1941-43年のドイツ軍の支援・参戦 ~ イギリス軍のトブルクでの敗退、~ 1942年後半の第二次世界大戦の重要な転換点の一つとされるエル・アラメインでのイギリス軍の攻勢・枢軸軍の撤退。 このとき、ロンメルのドイツ・イタリア軍がエジプトのエル・アラメインから、リビアを東から西に横断し、チュニジアに撤退した距離は2,200Kmに及んだ。 一方で西側からの挟撃を狙う連合軍は、1942年11月、モロッコ、親独ヴィシー政権下のアルジェリアへの侵攻を開始し、フランス軍との停戦協定を結んだ。

 連合国軍のモロッコとアルジェリアに上陸したことで、エル・アラメインから敗退した枢軸国軍は東西からの連合国軍に挟み撃ちされる形で、1942年11月から1943年5月まで、チュニジアを戦場とする北アフリカ戦線最期の闘いが行われ、枢軸国軍は27万5千人に及ぶ捕虜を出して降伏し、北アフリカ戦線は終結した。

 このあと連合国軍は1943年7月10日にイタリアのシチリア島へ上陸し、7月25日にムッソリーニは首相を解任され逮捕され、9月3日にはイギリス軍がイタリア本土に上陸し、9月8日にイタリアのバドリオ政権が連合国と休戦協定を締結している ( イタリアの無条件降伏 )。

 この切手が作成された 「 チュニス1943年3-4月 」 はまさにこのチュニジアを舞台に戦闘が行われていた時期と合致するが、レプリカとはいえ、「 1943年11月3日 」 の野戦局印の日付はピントがずれている。

ドイツローカル_0001
1943年3-4月にチュニジアの首都チュニスで発行されたとされる、ドイツ野戦局ローカルポスト切手の記念作成を装ったレプリカ。
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 5月2日(火)
 五月の声を聞くと、札幌にも桜の季節が巡ってきます。
 ソメイヨシノもありますが、北海道の桜と言えば自生種のエゾヤマザクラが一般的で、こちらは葉が花と一緒に出て、葉の色が茶ばんでいるのですこし暗ったく見えます。
 花自体は、赤味が強い。
 有名な日高管内・静内の二十間道路の桜もエゾヤマザクラです。

 近所の桜並木のエゾヤマザクラ。
 木によってだいぶバラツキがありますが、まだ三分から五分咲きと言ったところです。

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近所の 「 桜通り 」 のエゾヤマザクラ



 5月1日(月)
 この 「 写真日記 」 も4月はよく書きました。
 さて今日から5月。
 北海道は遅れ馳せ、ようやく桜の季節です。

 早速5月号の原稿を張り付けました。
  「 家紋の話(上) 」。
 4月の漢字の会で話すために用意したした下原稿をまとめたもので、ボリュームがあることから上下二篇に分けることとし、下篇は6月に予定します。

 ワンポイントには地元の丘珠神社の神紋 「 右三つ巴 」 と、清田区平岡の厚別 ( あしりべつ ) 神社の 「 左三つ巴 」 を掲げておく。
 ついでにいえば、アシリはアイヌ語で 「 新しい 」 の意。この音に 「 厚別 」 を当てるのはは少し無理があるが、逆に、札幌市10区の一つに厚別区があって、こちらは 「 あつべつ 」 と素直に読むが、こちらの語源は一説にハシ・ウシ・ベツ ( 「 灌木の多い川 」 の意。ハシ→アシ ) とある。
 なお、右左の呼称については定まっておらず、未だに 「 巴紋の左右呼称論争 」 として尾を引いていると言うが、ここでは手許の紋帳による呼称を用いた。

 ただし、家紋を描く上絵師は、その技法上の理由から尾が流れてゆく方向に従って名称としており、簡単な見分け方として親指を外に出して拳を握った時、左巴は左手の親指が指し示す方向、右巴は右手の親指が指し示す方向を参考とする。歴史的にはこの使用例が多い。このことからすると、上記の紋帳の呼称とは逆になる。
 神紋については本文の中では改めて語ることはなかったが、北海道の一ノ宮・北海道神宮は開拓三神とともに明治天皇を祭神としており、天皇家の十六八重表菊を神紋としている。

 なお、東京オリンピックの年・2020年に鎮座百年を迎える明治神宮は、明治天皇を祀るために造営された神社で、神紋は十六八重表菊 ( 菊紋については下篇で触れています ) とされてきたが、昭和40年に明治神宮独自の神社紋を設けることになり、皇室ゆかりの菊紋と桐紋を併せたデザインとし、皇室に憚って十六弁の菊を十二弁に、五七の桐を五三の桐にした紋を新たに制定している。

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丘珠神社の神紋 「 右三つ巴 」( 左 ) と、清田区平岡の厚別 ( あしりべつ ) 神社の 「 左三つ巴 」( 右 )。

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昭和40年に新たに定められた明治神宮の神社紋。十二弁の菊と五三の桐の組み合わせ。



新2016



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2016年分 ー覧表

2016年 号数 タイトル
12月 233  南洋群島トラック島碇泊、神戸高等商船学校練習船進徳丸乗組員宛て封  3頁
11月 232  戦後日本人引き揚げ者に対する大連電話局の通信事務封緘  2頁
10月 231   関連マテリアルから知る満蒙開拓団の悲劇 ~ 映画 「 望郷の鐘 」 と重ねて ~    5頁
09月 230(1)  胆振・壯渓珠(ソーケシュ)局の消印   1頁
230(2)  手彫り切手のオーソリティ、市田左右一氏ゆかりのカバー 2頁
08月 229  入札三題、初日カバーの話 4頁
07月 228  中華郵政史 5頁
06月 227  エベレスト、第三次イギリス遠征隊にかかわるシール 3頁
05月 226  臨時北部南西諸島政庁の設置から奄美群島復帰まで 5頁
04月 225  サザーランド切手について 6頁
03月 224  東京商船学校練習船月島丸  2頁
02月 223  テレジン収容所の小包切手    2頁
01月 222  カール・ルイスの新商売    4頁


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1957年イヤーセット・ホルダーの表紙。

新 2015



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2015年分 ー覧表

   
2015年 号数 タイトル
12月 221  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (下)   6頁
11月 220  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (上)  6頁
10月 号外  港区赤坂のアメリカ大使館と横浜にあった総領事館  3頁
09月 218  ルイス・カバーについて(下)  7頁
08月 号外  台北駅の変遷  2頁
07月 216  ルイス・カバーについて(上)  8頁
06月 215  北海道消印・アイヌ語由来の地名  4頁
05月 214  清国宛てエンタイヤ3通  5頁
04月 213  洋画家・金子博信の絵はがき  3頁
03月 212  (続)有名人の関連アイテム ~ 横山大観 ~  5頁
02月 211  伊豆の南端、石廊崎の長津呂にまつわる話 ~ 特攻兵器「震洋」の基地があったところ ~  4頁
01月 210  大学関連マテリアル 8頁


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昭和35年の網走国定公園切手発行記念FDC。

2014~

   
2014年 号数 タイトル
12月 209  戦前の台湾の風景印 8頁
11月 208  有名人の関連アイテム  6頁
10月 207  紙ものコレクション( 印紙類 )   7頁
09月 206  砲艦ツツイラ号関係カバー二点  6頁
08月 205   誌上「なんでも鑑定団」  6頁
07月 204  佐久間ダム関係マテリアル(映画「東京原発」とからめて)   5頁
06月 203  1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本  4頁
05月 202  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その3)  7頁
200号記念誌  200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 9頁
04月 201  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その2)  7頁
03月 200  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その1)  5頁
02月 199  1929年中国、パリ~東京間特別飛行の航空カバー(広州~上海)   4頁
01月 198  「北海道後志支庁忍路郡塩谷村」宛ての外信絵はがき二点   4頁
2013年 号数 タイトル
12月 197  水原明窓ゆかりの二点 5頁
11月 196  日本統治時代の台湾消印 10頁
10月 195  航空機の切手(特徴ある二機種について) 4頁
09月 194  富士山、よくぞ世界遺産に 6頁
08月 193  東京・わが心の故郷、ゆかりの二点  +「東京、わが街」(8頁) 5頁
07月 192  北朝鮮の出品にまつわるエピソード 6頁
06月 191  北杜夫とファーブルと 6頁
05月 190  明治の絵はがき「駅弁売り」の図 3頁
 逓信総合博物館の閉館 3頁
別冊  台北紀行(下) 15頁
04月 189  文革関係マテリアル三題 4頁
03月 188  燕京大学関連マテリアル 4頁
別冊  台北紀行(上)( 郵政博物館と牯嶺街の切手商 ) 10頁
02月 187  切手に見られる言語と文字について(下) 4頁
01月 186  ミント・未使用・使用済み、その落差  6頁
2012年 号数 タイトル
12月 185  切手に見られる言語と文字について(中) 5頁
11月 184  中国の郵票冊、二点 4頁
10月 183  切手に見られる言語と文字について(上)  5頁
09月 182  三井物産のカバー二点 4頁
08月 181  ジャーマン・ステーツ(領邦国家郵政)とプリバート・ポスト(ドイツ民間郵便) 8頁
07月 180  1968年・北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国20周年記念」8種連刷 3頁
06月 179  関連マテリアルから偲ぶ「郵便友の会」(6頁)+「郵趣の楽しみ」(7頁) 13頁
05月 178  フライング・タイガース(飛虎隊)関連マテリアル 17頁
04月 177  「切手」は各国語で何という 6頁
03月 176  「北方四島」のタブの付いたボーガス 3頁
02月 175  チャールトン・ヘストン宛のファンレター 4頁
01月 174  その後のイザワ・エイジ氏 3頁
別冊  郵便以前「アイヌの郵便」 3頁
2011年 号数 タイトル
12月 173 大英帝国の版図が描かれたカナダの切手について 3頁
11月 172 ジョージ6世とその時代(英領植民地の「地誌シリーズ」) 7頁
10月 171 在満州国日本領事館のマテリアル 6頁
札幌オリンピック冬季大会の扉 1頁
2011「北海道郵趣大会in旭川」を記念して 1頁
09月 170 リビア、二つの首都 3頁
08月 169 オールド上海の建築物(下) 8頁
07月 168 オールド上海の建築物(上) 10頁
06月 167 ウォルデンブルグ収容所郵便(ポーランド) 8頁
05月 166 Lagerpost Bando(板東収容所郵便)マテリアル 3頁
04月 165 沖縄暫定切手 丸検印 1947-48(参考品) 3頁
03月 164 Red Period(赤の時代)~ アメリカ 1926-32 ~ 10頁
02月 163 インドの一番切手・シンド州切手とインド藩王国の切手 7頁
01月 162 八十余年ぶりの邂逅 4頁
2010年 号数 タイトル
12月 161 「花柳」の世界 6頁
別冊 台湾鉄路一周の旅(13頁+11リーフ) 24頁
11月 160 エスペラント関係マテリアル 6頁
10月 159 有名なシンデレラ、南モルッカ共和国の切手 8頁
09月 158 インドネシア独立時期のウィーン版の切手について 6頁
08月 157 中国人民志願軍兵士差し立てカバー二通 5頁
07月 156 朝鮮近代郵便史 6頁
新・国際返信切手券(第七様式)について 3頁
06月 155 「中国占領地域」の時代 (Ⅱ蒙疆編) 8頁
朝鮮戦争ソウル占領北朝鮮二重丸印加刷 1頁
別冊 ミニ切手展「世界各国から届いた美しい郵便物」の開催 2頁
05月 154 「中国占領地域」の時代 (Ⅰ華北編) 6頁
04月 153 一枚の絵はがきから(屯田兵について) 5頁
03月 152 リーフ解説・オランダ領東インド 5頁
02月 151 カリカチュア(風刺画) 6頁
01月 150 「御料林」「北海道模範林・公有林」のマテリアル 7頁
2009年   号数 タ イ ト ル
12月 149 一枚の絵はがきから(東京日日新聞ニッポン号の世界一周飛行) 3頁
リーフ解説 マニラ大聖堂 2頁
別冊 私の1リーフ 中国解放区の布票 1頁
私の1リーフ 戦後満州のソビエト軍票 1頁
号外 セントローレンス運河中央逆刷エラー 2頁
11月 148 一枚のはがきから(白系ロシア人にまつわる話)
~ 東京・神田の白系ロシア人の業者から、中国・青島の切手商あてのはがき ~
5頁
10月 147 一枚のはがきから(郵便配達員の殉難)
~ 併せてアイヌの郵便逓送人・吉良平治郎のこと ~
5頁
09月 146 ミニ国家と切手発行 7頁
巻頭コラム 九月、初秋の候となりました 1頁
参考資料 三船殉難事件 3頁
08月 145 リーフ解説・モンテカルロ自動車ラリー 4頁
07月 144 TWA世界一周便の就航記念カバー 7頁
1932年・ニューファンドランドの民間航空切手 1頁
06月 143 映画の中に題材あり(「ショアー」と「ヒットラーの贋札」から) 5頁
別冊付録 北海道立文書館に眠るエンタイア 5頁
05月 142 浅草凌雲閣(十二階)の絵葉書 5頁
04月 141 民信局と僑批局について 5頁
03月 140 中国の公用便「公文封」について 4頁
02月 139 ロンドン王立郵趣協会主催切手展のスーベニア 3頁
01月 138 旧制中学入試問題集から 7頁
2008年   号数 タ イ ト ル
12月 137 クリスマスシール(複十字シール) 3頁
これでも届いた??? 2頁
別冊 eBayにまつわる話 5頁
11月 136 タロとジロ、奇跡の生還(第一次~三次南極観測隊) 4頁
付録 多彩な船歴を全うした「宗谷」 4頁
10月 135 万国郵便連合(UPU)にかかわるマテリアル 4頁
09月 134 反共フランス義勇軍 4頁
号外 「税済」消印にかかわる後日談 4頁
08月 133 開道140年(北海道庁関連マテリアル) 6頁
07月 132 地震の話~中国・四川大地震から~ 6頁
06月 131 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(8)」
「ウルグアイ・モンテビデオ切手展開催記念小型シート」
2頁
05月 130 スエズ運河国有化宣言記念切手初日カバー 4頁
04月 129 中国の特異な速達切手、「快逓郵票」について 3頁
03月 128 二人のボース 6頁
別冊資料 二人のボース「関連資料」 11頁
02月 127 フランスの香りパリの香り 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(7)」
「ソビエト切手発行25周年記念小型シート」
2頁
01月 126 ツール・ド・ポローニュ(ポーランドの自転車ロードレース) 3頁
私の1リーフ 「ワルシャワの人魚」 1頁
2007年   号数 タ イ ト ル
12月 125 米ソ合同探検隊のベーリング海峡横断 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(6)
「ベルギー、Orval修道院修復のための附加金付き小型シート」
1頁
11月 124 1970年・北朝鮮「朝鮮労働党第5回大会記念小型シート」を巡って ~ 4頁
10月 123 竹島問題(「 独島 」のマテリアルから) 4頁
09月 122 大きな大きな小型シート(ドイツ民主共和国誕生15周年記念小型シート) 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(5)」
「キプロスのボーイスカウト切手小型シート」
1頁
08月 121 古文書入門(挨拶状を材料として) 4頁
号外 二重丸印・利尻島局について 4頁
07月 120 1968年・北朝鮮「朝鮮人民軍創設20周年記念小型シート」(4P+資料1) 4頁+資料1
06月 119 書信往来 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(4)」
「ガボン、1970年航空切手のミニシート」
1頁
05月 118 私の1リーフ
「ウルグアイ/モンテビデオ~フロリダ間のFFC」
1頁
号外 あなたの誕生日は何曜日? 1頁
04月 117 ノー・モア・ヒロシマ ピース・フロム・ナガサキ 3頁
03月 116 硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima) 4頁+新聞2
別冊 ルーズベルトに与うる書 6頁
02月 115 私の1リーフ (エンタイヤを読む)
「満州国第二次航空切手39分一枚貼り」
1頁
01月 114 円形の切手 4頁
2006年   号数 タ イ ト ル
12月 113 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(3)」
「キューバ・切手発行100年記念にAAMS大会加刷」
1頁
11月 112 遺愛女学校 3頁
私の1リーフ (2006年ビザなし交流から)
「北方領土択捉島からのカバー」
1頁
10月 111 (北海道会員大会展示記念)
私の1フレーム「中国解放区東北各区三題
3頁
09月 110 似ている(似通ったデザインの切手) 3頁
08月 109 バナナの話 3頁
07月 108 変形切手の原点、三角切手 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(2)」
(ルーマニアの正三角形シート)」
1頁
06月 107 ロングリレー/蒋介石誕生日記念印の押印20年 4頁
05月 106 記念印/東京アンソロジー 4頁
04月 105 南洋の話+資料 6頁
03月 104 私の1リーフ 「私の好きな小型シート」(ロシア十月革命40周年記念) 1頁
02月 103 ワルシャワ蜂起とポーランド亡命政権 4頁
01月 102 ウラジオストク反共政権発行「プリアムール加刷」記念貼りカバー 3頁
私の1リーフ 「ポツダム会談を伝える中国の宣伝ビラ」 1頁
2005年   号数 タ イ ト ル
12月 101 国際返信切手券 4頁
11月 100 ラトビアの地図切手について 4頁
100号記念誌 表紙+会報の名称「赤れんが」について 2頁
札幌ボタ印における手へんの「扎」について 1頁
私の1リーフ 「ロシア附加金付きミニチュア切手のフルシート」 2頁
10月 99 エルトゥールル号の遭難(日本とトルコ、友好交流の原点) 5頁
別冊資料 日本とトルコの関係史概説
山田寅次郎伝
エルトゥールル号事件のこと
6頁
09月 98 オーストラリア・シドニーとマダガスカル・ディエゴスアレスを結ぶもの(特殊潜航艇の話) 5頁
08月 97 北海道行政区画の変遷(「函館区」の時代について) 3頁
07月 96 1979年・ブルガリア「Philaserdica’79」 4頁
巻頭コラム いかに郵趣への理解を広げるか 1頁
06月 95 コロンビアの初期航空切手 3頁
05月 94 ロードス島異聞 3頁
04月 93 満州鉄道まぼろし旅行 5頁
03月 92 セラソップ・セトラックの謎 3頁
02月 91 タンヌツーバの切手 4頁
01月 90 一九七九年・香港中国切手展記念カード 6頁
2004年   号数 タ イ ト ル
12月 89 明治天皇の函館上陸記念碑 4頁
11月 88 ウラジオストク物語 4頁
「集郵」すなわち「益智」である 2頁
10月 87 函館大火(千島・択捉島別飛から函館大火を見舞う) 3頁
09月 86 誕生日へのこだわり 2頁
明治から大正へのサドル便 1頁
オークションから(函館ロシア領事館差立てのカバー) 2頁
08月 85 日の目を見なかった第1次及び2次昭和切手の原画 3頁
07月 84 有名人にかかわるマテリアル 3頁
06月 83 久米島切手のシートを巡って 3頁
05月 82 昆虫館へようこそ(蝶に関するマテリアル) 5頁
私の1リーフ 「ホワイトロシア」 1頁
04月 81 TABROMIKのラベル(ポーランドの民間航空切手) 3頁
03月 80 男爵コルヴィザール 2頁
02月 79 謝文東のドクロ切手について 3頁
01月 78 樺太の日露国境境界標について 3頁
2003年   号数 タ イ ト ル
12月 77 ハングルの勧め(ハングル表付き) 4頁
11月 76 小さな同志への手紙
(昭和18年、東郷4銭貼第四種郵便について)
3頁
10月 75 雁の便り 3頁
09月 74 偽物百科 3頁
08月 73 札幌村郷土記念館に展示された思いがけないマテリアル 3頁
私の1リーフ「ポルトガル植民地」 1頁
07月 72 シンデレラを紹介します 3頁
以下は「豊かな日々のつれづれに」に掲載
06月 71 古書目録の中に見つけた「附加金付アイヌ紀念切手発行願」 2頁
05月 70 国旗をテーマに 3頁
04月 69 エピルスの切手について 3頁
03月 68 昭和11年、北海道陸軍大演習 4頁
02月 67 シベリア出兵にかかわるチェコ軍団の切手について 3頁
01月 66 オオカミの乳を飲む双子の兄弟の不思議な像を描いた切手 3頁
2002年   号数 タ イ ト ル
12月 65 極東選手権競技大会について 3頁
私の1リーフ「エンタイアの裏側に注目」 1頁
11月 64 一通のカバーから(中国の水害にまつわる話) 3頁
10月 63 何がどうということもないのだが、多数貼りの魅力
(ニューギニアとサモアのカバー二点)
3頁
09月 62 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(東京帝国大学附属樺太演習林)
3頁
08月 61 モーリシャス・ポストオフィス切手の記事に応えて 2頁
07月 60 マテリアルを俎上に その5
「漁師の日」記念の初日カバー
3頁
06月 59 マテリアルを俎上に その4
ブラジル1843年、牛の目
3頁
05月 58 マテリアルを俎上に その3
皇太子殿下北海道行啓紀念、下々方44-9-11
3頁
04月 57 FFCは一対のものである
日本航空・東京~札幌線深夜割引夜行便オーロラ号就航
2頁
03月 56 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(千島択捉島年萌局留置・単冠湾碇泊農林省海洋調査船)
2頁
02月 55 中国切手研究会「これはいくら?」のコーナーから
(旅順バイリンガル偽カバーと中華民国大型公用封筒)
3頁
01月 54 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その2
「紀元2600年記念貯金シール」「檀紀年号」
3頁
2001年   号数 タ イ ト ル
12月 53 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その1
「成紀年号」「主体年号」
3頁
11月 52 千島関係マテリアル二題 3頁
10月 51 マテリアルを俎上に その2  ツェッペリン号訪日記念絵はがき 3頁
私の1リーフ「北大VS小樽商大」 1頁
09月 50 切手の図案と配色について 4頁
08月 49 映画「阿片戦争」における一場面
ペニーブラック誕生にまつわる秘話
3頁
07月 48 マテリアルを俎上に その1
ASDA(米国切手商協会)切手展のスーベニア・シート
3頁
06月 47 第一次昭和切手厳島30銭凹版切手の無目打について 2頁
05月 46 みせびらかしで失礼します その4
ロンドン国際切手展のスーベニア・シートについて
3頁
04月 45 みせびらかしで失礼します その3
帝政ロシア時代の地方切手「ゼムストーボ切手」
3頁
補足資料 4頁
03月 44 みせびらかしで失礼します その2
中国解放区・旅大区の「郵票彙編」について
3頁
別冊 別冊 独断・郵趣川柳批評 3頁
02月 43 みせびらかしで失礼します その1の(2)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
3頁
01月 42 トピックス(「3シリングバンコ」について) 2頁
会員紹介 1頁
2000年   号数 タ イ ト ル
12月 41 みせびらかしで失礼します その1の(1)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
2頁
11月 40 一寸一言(ちょっとひとこと)「深川一已」地名の由来 1頁
10月 39 郵趣に関するエッセーについて 2頁
09月 38 樺太「九春古丹・野戦局」の消印について 2頁
08月 37 「北見・利矢古丹」の消印について 2頁

家紋の話(下)

2017年6月第239号

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来場者数
プロフィール

 木村博海 (きむらひろみ)

Author: 木村博海 (きむらひろみ)


 1949年、東京都台東区生まれ。谷中三崎町で育ち、1956年竜泉寺町に移る。
 都立白鴎高等学校、宇都宮大学農学部林学科卒業。
 小学二年生の頃から切手収集を始める。初めて郵便局で買った思い出の一枚は「関門トンネル開通記念」。大学受験を控えて収集を中断。約20年の長いブランクを経て、1987年頃から収集を再開。
 深川木場(~晴海)の木材会社に2年勤務の後、昭和50年度東京大学農学部林政学教室研究生。
 1976年北海道庁入庁とともに渡道。主に林業畑を歩み、34年間勤務。うち地方では網走、帯広、根室、函館に各三年勤務。
 2010年3月、定年退職。この間、職場の部内誌に郵趣エッセーを含め、さまざまなエッセーを投稿。
 退職後は、外国人のための日本語学習支援ボランティア活動、郵趣活動。
 JPS札幌中央支部会員。北海道漢字同好会会員。アイヌ語地名研究会会員。
収集対象: ゼネラル。特に中国、ロシア、旧東欧など。
著書(自費出版): 「豊かな日々のつれづれに」(2003年4月)

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