2017巻頭言

 長年に亘って書き溜めてきた郵趣エッセーを集大成して、ブログをスタートすることになりました。
 この十数年来、切手収集家の団体・日本郵趣協会(2011年4月1日から公益財団法人)の札幌中央支部に所属して、毎月の会報「郵趣・赤れんが」に欠かさず原稿を寄せてきました。それらを過去に遡って一括掲載するとともに、新たな作品をその都度、追加・更新してまいります。
 それにしても、ずいぶんなボリュームになりました。
 職場の部内誌(北海道林務部「林」。1952~2001)に寄せていたエッセーや会報の郵趣エッセーをまとめて2003年に自費出版しましたが、三百余頁の約3分の2は郵趣関係の作品が占めました。その部内誌もやがて廃刊となり、以降、書く場は会報のみとなりました。
 その後の作品を続編として二冊目の本にまとめるつもりでいましたが、区切りが付かぬままに分量は膨らむ一方で、いつしか出版は難しく感じられるようになりました。それが、今回のブログという手段によって「二冊目の出版」を実現しました。これは随時、追加・更新もできるという、出版にまさる願ったり叶ったりの方法でした。
 マテリアル(題材)は広い分野に亘っています。まずは作品一覧に目を通していただき、これはというものから適宜お読みいただければ幸甚です。
 なお、お気づきの点についてはコメント欄でご教示いただければ幸いです。
                                                                         2012年2月

                                     江戸っ子だってねェ。
                                     おう、神田の生まれよォ。いや、じいさんが神田。おやじが浅草で・・・。
                                     こちとら、江戸っ子の筈が今じゃ 「 蝦夷っ子 」 というわけでして。

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                              あの頃   昭和33年用年賀切手 「 犬はりこ 」 ( 東京の玩具 ) の渡辺版初日カバー。
                                     浅草局の初日風景印。 ( 昭和32年12月20日 )


利用に当たって

1 一覧表で見たい作品をクリックすると、その作品がすぐに表示されます。
  また、「 カテゴリー 」 を選択して国別に関連の作品を見ることもできます。
  なお、時に原稿のページに歪み ( 縦方向が詰まる ) が出ることがありますが、
  一旦他の月の原稿を開くなりすると、歪みが直ります。
  左上の矢印 (←) で一旦送り、(→) で戻すのが手軽な方法です。

2 画面を拡大すると文章が読みやすくなります。
  ツールバーの「表示」で倍率を選択。原稿は200%が読みやすい。
  これでリーフは実物とほぼ同じ大きさになります。
  ただし、原稿以外の部分は拡大すると段ズレを生じます。
  拡大した画面でクリックすると、二段階でさらに拡大されます。

3 面倒ですが印刷はページ単位で行います。
  印刷したいページにカーソルを合わせて左クリックすると、画像が一旦左側に寄って小さくなります。
  そこで 「 ファイル 」 から 「 印刷 」 をかけると、そのページが印刷されます。
  トップページの部分を印刷する場合には 「 印刷方向 」 を 「 横 」 にする必要があります。
  なお、印刷に便利なCD版 ( 文章は打ち出しで読みやすく、作品単位で連続印刷ができる ) を用意していますので、コメント欄からお申し込み下さ   い。

4 各ページの右下にある 「 Pagetop 」 でその月のトップページに戻ります。
  また、各月の一番後ろにある 《 前のページ ホーム 次のページ 》 を利用して、
  次の作品または前の作品を見ることができます。
  また、「 ホーム 」 でサイトのトップページに戻ります。

5 リンクは、関係項目をクリックするだけでリンク先のページが表示されます。

6 「 日本語の面白さ、日本語再発見 」 は字が小さいので、ブロックコピーして印刷いただくと読みやすいと思います。



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」 掲載郵趣エッセー 2017年分 ー覧表

   ※ タイトルをクリックするとその関連頁が開きます。
2017年 号数 タイトル
12月          
11月         
10月          
 9月         
 8月 241  終戦直前の旅順宛て封筒 ( 併せて 「 八紘一宇 」 について )     2頁
 7月 240  ハルビン・秋林公司本社からドイツ宛のカバー  3頁
 6月 239  家紋の話 ( 下 )      5頁
 5月 238  家紋の話 ( 上 )   5頁
 4月 237  対馬の話  3頁
 3月 236  戦前の台湾の絵封筒  2頁
 2月 235   ニュージーランド海軍巡洋艦ガンビアに係わるニセカバー   2頁
 1月 234  世界の高層建築物の歴史  5頁


                              ※ 2016年分以前 ( ~2000年 ) の郵趣エッセー一覧は、「 写真日記 」 の次にあります。



1 コレクション コーナー

下の切手をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                        (1) コレクション・リーフ                (2) 新作リーフ

ハワイ数字_0001                ハワイ数字_0002
                             1859年                       1864年
                         ハワイ数字切手 1c               ハワイ数字切手 2c



2 千 島 関 係 資 料

下の地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。

                               千島郵便史                その他の千島リーフ

kunashiri1000.png             etorofu1000.png
                                   国後島                  択捉島





2(2) 台 湾 特 集

下の台湾地図をクリックすると、それぞれのコンテンツが表示されます。


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2(3) 全国郵趣大会2016in盛岡

下の大会資料をクリックすると、関係資料が表示されます。


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3 「日本語の面白さ、日本語再発見」
(外国人のための日本語学習支援ボランティアの活動から)

下の“辞書”をクリックするとコンテンツが表示されます。

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4 過去の写真日記

(4) 2017年4月~

下の “ Diary ” をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(3) 2016年4月~2017年3月

下の“ Diary ”のアイコンをクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(2) 2015年5月~2016年3月

下の“ストック・ブック ”をクリックすると最近の写真日記の月別一覧表が表示されます。


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(1) 2015年4月~2012年4月

下の“日記帳”をクリックすると過去の写真日記の月別一覧表が表示されます。

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5 豊かな日々のつれづれに
第一部 随筆集
第二部 郵趣エッセー集

下のアイコンをクリックすると目次が表示されます。

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                                                                   (画像はクリックすると拡大します)

写 真 日 記
                                ( 画面を125%に拡大してお読みください )

 8月18日(金)
 今朝、峰光寺のその後のモクゲンジを見てきましたが、もう盛りを過ぎて花は枯れかけています。一週間前くらいがピークだったようです。
 それにしても、7年前にこの珍しい木を発見したときには遠目にも木全体が真っ黄色に染まっていたのが、樹勢が衰えてきたのか今回はピークの頃でも全体が黄色に染まることはなかった。確かに花の房が疎らになっている。

 もうコンテナに収穫されたタマネギを見るようになった。タマネギの収穫は例年は9月の声を聞いてからだが、今年はそれだけ生育が順調だったと言う訳か。

 空気が澄んで、遠くの 「 山の端 」 がくっきり見えるようになった。 秋です。

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 収穫間近のタマネギ畑。葉が倒伏して枯れ上がってきている。

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北丘珠にはまだ広大なタマネギ畑が見られる。
中央右に手稲山、左手に定山渓方面の山々。



 8月17日(木)
 何でしょうか、これは。図1。
 イーベイに出品されているものだが、説明は 「 1934 China Soviet Red Army 2 Cents Old Stamps 」。
 レプリカとも謳っていないが、スタートの値段からして本物ではないでしょう。
 それにしても、レプリカを作るにしても原版となる本物が、いや参考になる鮮明なカタログの存在があったのだろう。

 当然ながら、水原明窗のJPS中国切手図鑑のⅢ解放区にも載っている。
 1932年の発行の蘇維埃 ( ソビエト ) 郵政発行の(2)地方印制版とされている切手の二分の花図案のもので、「 びん浙 ( せつ ) かん区 」 と記載されている。
 「 ( びん= 門構えに虫 ) 浙 ( かん = 贑 ) 」 は省名の略称で、それぞれ 「 門構えに虫 」 ( びん )= 福建、浙 = 浙江、 ( かん = 贑 ) = 江西の各省を指し、これらの地方に島状に存在した革命根拠地で使用されたということだろう。  当時の 「 門構えに虫 」 と 「 贑 」 に跨る瑞金を中心にした地方は最大の革命根拠地。紅軍はここを脱出し、1934年から1936年にかけて1万2500kmの長征を経て、新たな革命根拠地・延安に辿り着く。

 1990年に解放区切手発行60周年記念として、この時期に発行された切手を描いた二種一組の 「 切手の切手 」 が発行されている。図2にその初日カバー。
 8分に描かれているのは最初期の1930年の 「 びん西革命根拠地 」 の切手で、「 びん西交通総局 」 「 赤色郵花 」 ( 「 郵花 」= 郵便証紙 ( 切手 ) ) の文字、ソビエトのシンボル 「 槌と鎌 」 が描かれ、額面は 「 4片 」 となっている。
 12分に描かれているのは1932年の 「 蘇維埃郵政 」 の切手で、戦士と旗が描かれた一分のもの。

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図1 1932年の発行の蘇維埃郵政発行の二分の花図案の切手。イーベイ出品のペアのレプリカ。

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図2 1990年に発行された 「 解放区切手発行60周年記念 」 の二種一組の 「 切手の切手 」 の初日カバー。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 8月16日(水)
 一日遅れになってしまったが。
 昨日は終戦から72年。戦争ほど愚かしいことはないのだが、人類は二度の世界大戦を経験し、その後も大小含めていくつもの戦争があり、懲りたはずの戦争が一向になくならない。それにはどこにも愚かな指導者がいて、己の使命を忘れて、ただ己の存在を誇示したいが為のパフォーマンスを演じているゆえである。
 また一方に歴史の教訓を読み取らず、これに煽られて熱狂する度し難い大衆の存在があるゆえである。

 一昨日、終戦特集の一貫で制作されたNHKスペシャルの 「 知られざる地上戦 」。終戦後の戦闘で民間人を中心に5,000人もの犠牲者 ( 真岡への艦砲射撃や真岡郵便局の電話交換手の集団自決などの悲劇 ) を出したのはなぜであったのか。
 大本営の停戦指令が、第五方面軍司令官によって樺太守備隊には 「 死守せよ 」 として伝えられたことによる。それを知って、アレと思った。第五方面軍司令官といえば7月19日に書いた、樋口季一郎中将ではないか。その時には 『 北部軍司令官在任中は ( 昭和17年8月~終戦 ) 、アッツ島玉砕を余儀なくされる一方でキスカ島の軌跡の撤退を指揮し、敗戦後も北千島・占守島、樺太での対ソビエト軍の戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連の千島侵攻部隊に痛撃を与えている。 』 として肯定的に書いている。翻れば、『 北千島・占守島、樺太での対ソビエト軍の戦闘を指揮し 』 としていたが、その裏で多くの民間人を巻き込んだ樺太の悲劇があり、終戦を迎えながら占守島の戦いがあった。
 停戦協定に応じていれば、少なくともこんなに多くの犠牲者を出さずに済んだ。
 物事には二面性があって、それが良かったのか、誤りであったのか。結果からの評価に左右されることもあって一概には言い切れず、改めて考えさせられることであった。
 また、向こうにも終戦にもかかわらず、スターリンの野望に憐れにも翻弄されたロシア兵たちがいた。

 そして、昨日の終戦記念日のNHKスペシャルは 「 戦慄のインパール 」 であったが、馬鹿な現地軍司令官の二人の無責任な作戦で多くの犠牲者を出した。この兵站を軽視した無謀極まりない愚かな戦いを無責任に強いたビルマ方面第15軍司令官・牟田口廉也やビルマ方面軍司令官・河辺正三は、これを認可した大本営ともども責任を追求されることもなく ( 国際軍事法廷で裁かれずとも、自国民に対する背任として裁かれて然るべき戦犯行為だ )、日本人の甘さがここにも現れている。

 昨日の新聞に戦没者の遺骨収集の実態に触れた記事があり、フィリピンの数字が際だっていたが、改めてその実態を確認すると、第二次世界大戦において海外で戦死した旧日本軍軍人・軍属・民間人約240万人のうち、日本に送還された遺体は約半数の約125万柱で、残りの約115万柱については、海没したとされる約30万柱を含め、現在もなお海外に残されたままであるという。

 日本は第二次世界大戦中に進出した東南アジア各地、インドネシア ( ジャワ、スマトラ、ボルネオ )、マライ、ビルマ、フィリピンなどで、いわゆる南方占領地切手を発行した。
 そんな中で、日本は第二次世界大戦中の占領下のフィリピンで民心を回復するために、1943年10月14日、ホセ・ラウレルを大統領とするフィリピン第二共和国の独立を認め、これを記念して1943年10月14日にフィリピン独立記念の切手3種が発行されたが、ここにかかげるのは、その無目打切手を288×139mmの大型封筒に田型で貼ったFDC。
 戦後間もなく主権を回復したフィリピンに第三共和国が成立し、1946年7月4日にはアメリカ合衆国からの独立が承認された。

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1943年10月14日に発行されたフィリピン独立記念3種の無目打切手の田型を、
288×139mmの大型封筒に貼ったFDC。 ( 60% )



 8月12日(土)
 昨日に続いて、二日連続で映画に行ってきた。
 昨年制作の韓国映画 『 ラスト・プリンセス-大韓帝国最後の皇女 』。
 日本統治時代の韓国にとっての悲劇の一つ、李氏朝鮮最後の国王、第26代の高宗の側室の娘・徳恵翁主=トッケオジュの悲運の生涯を描いたもの。
 この人の歴史上の存在を知らなかった。

 大韓帝国最後の皇太子、李垠 ( り ぎん=イ・ウン、1897 - 1970年。妃は梨本宮守正王第一女子方子 ) とは異母兄弟になる。余談になるが、戦後、在日韓国人となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上王政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり帰国できなかった。
 1963年 ( 昭和38年 ) に日韓国交正常化交渉が始まり、大統領・朴正煕の計らいで帰国が許されて同年、夫婦ともに韓国へ渡る。李垠亡きあとも韓国人として生涯を障害児の福祉事業に尽力した方子妃も立派だった。

 なお、「 大韓帝国 」 は、1897年から1910年までの間李氏朝鮮が使用していた国号。
 日清戦争による清国の敗戦により清の冊封体制 ( 宗属関係による間接支配 ) からの離脱により国号を変更した。

 映画祭の時などの特別の場合を除けば、二日連続は記憶にない。
 昨日の 『 ヒトラーへの285枚の葉書 』 のときに知ったのだが、アンテナを常に張っていないと良い映画を見逃す。昨日までのあと一日と聞いて、二日連続となるが出かけたのだった。

 こんな気持ちになったのも初めてのことだが、二日連続の経験で、昨日のドイツのヨーロッパに比べると日本人としてはアジアの韓国がやはり本能的に 「 肌に合う 」 というか、しっくりすることを感じる。
 そして、いつも思うのだが、時代を超えた映画には時代の再現にいつも感心する。
 時代考証を踏まえた服装や建物、調度品や器物がよく用意できるものだ。
 赤坂プリンスホテルの旧館 ( 李垠夫妻の日本での居所 ) の代わりに設定された建物はどこだろう 。 調べると、辰野金吾の設計で、1911年に建てられた国の重要指定文化財にも指定されている福岡県北九州市戸畑区にある旧松本邸であることが判った。明治専門学校(現九州工業大学)の創設者の1人、松本健次郎の邸宅であった。
 日本での後年に精神を病んだ徳恵翁主が収容されていた松沢病院 ( 日本の精神病院の草分け、東京都立松沢病院 ) の閉鎖病棟。はて、この撮影地は何処だったか。
 そして、これはCGの技法かも知れないが、1961年の羽田空港。
 こうした映画の中に登場する歴史的建築物にまつわる撮影地を知りたくなる。
 映画は、史実をベースにしながらも 「 劇化 」 のための大胆なフィクションを交えており、李垠の亡命劇はさすがに度を外した感があり、韓国でも批判があったと言うが、「 史実だけで映画を作り上げるには限界があった 」 ということは理解できる。

 徳恵翁主 ( 1912- 1989年 ) は、李氏朝鮮国王・大韓帝国皇帝高宗の王女。「 翁主 」 は、王 ( 皇帝 ) の側室所生の王女 ( 皇女 ) の称号。ただし、徳恵は日韓併合後の生まれである。
 いわば 「 人質 」 として強要されて1925年、13歳で来日、学習院入学。母の葬儀にも帰国が許されず、精神を病む。1931年、強いられて朝鮮とも縁の深かった旧対馬藩宗家の当主、宗武志と結婚。事情はありながらも、二人の仲は睦まじく、翌年には長女・正恵も誕生した。しかし一貫として母国への思いが彼女の精神を蝕んだ。その後離婚。
 戦後、李承晩の妨害などで帰国できなかった徳恵を、1950年に韓国人新聞記者金乙漢が李垠家に続いて松沢病院を訪問し、徳恵の現状を韓国に紹介し、帰国のための運動を始めた。韓国で朴正煕が実権を握ってから李王家の人物の韓国帰還運動に手を差し伸べたため、徳恵は李垠に先立つ1962年にようやく韓国に帰国した。
 この映画のクライマックスは、帰国した日のソウルの金浦空港で、帰国を知った年老いたかつての侍女達が待ち受け、名を叫び涙で地面にひれ伏して迎える光景は、思わず涙する感動の場面であった。彼女たちは長い年月を徳恵を忘れずに待ち続けていたのだった。
 徳恵の晩年は異母兄・李垠の妃だった李方子とともに昌徳宮内の楽善斎に住み、長らく病に伏したのち1989年に同所で死去した。
 そういえば、一昨日の 「 ヒトラーへの285枚の葉書 」 には涙する場面はなかった。
 涙を催す映画はアジアの映画に多く、西欧の映画には西洋の映画には少ないように思う。

 なお、大韓帝国の切手など初期の韓国切手について、2010年7月第156号 「 朝鮮近代郵便史 」 を併せてご覧ください。
 韓国朝鮮の郵便の歴史も数奇な歴史を辿っている。
 1884~1905年の国家郵政時代 ( 李氏朝鮮末期~大韓帝国時代 )、1905~1945年の日本帝国郵政時代 ( 1910年の日韓併合に先立つ、日韓通信業務合同。大韓帝国が運営していた通信業務の接収 )、1946~の南北分裂で、大韓民国郵政と朝鮮人民郵政が発足。

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映画 「 ラスト・プリンセス-大韓帝国最後の皇女 」 パンフレットの表紙。 

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大韓帝国時代の切手。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 8月11日(金)
 昨日、久しぶりで映画を見てきた。
 「 ヒトラーへの285枚の葉書 」。イギリス、フランス、ドイツの三カ国合作映画。
 主人公はドイツ人の夫婦なのだが、演じているのがイギリスの俳優とはいえ、英語であるのにはいささか違和感あった。

 原作の 「 ベルリンに一人死す 」 は、この映画のモデルとなった 「 ハンベル事件 」 に関するゲシュタポ ( 秘密警察 ) の記録文書をもとに、ハンス・ファラダという作家によって終戦の翌年に書き上げられた長編小説で、今回はそれから遙かな時を経ての映画化。
 1940年、フランス・パリ陥落に沸くベルリン。そんな中で、一人息子の戦死を知らされた夫婦が、「 総統は私の息子を殺した。あなたの息子も殺されるだろう 」 という一枚を初めに、「 ペンとカード 」 で、ナチスに積極的に協力し、あるいは盲目的に追随し、また考えもせず、あるいは諦めている多くの人々に訴える、ナチスへの抵抗運動を始める。

 ゲシュタポの必死の捜査にもかかわらず、「 ヒトラー政権では暴力が正義に勝つ。加担するな 」 「 この自由な報道を広めよう。人殺しヒトラーを止めろ 」 など、いろいろなナチス批判のメッセージを書き込んだカードをあちこちの建物の階段などに置いていく二人の命がけの行動は、二年余りも続いたが、ついに逮捕されるときがきた。
 息子を戦死で失っていることが当初から 「 犯人 」 の唯一の手がかりで捜査は行き詰まっていたのだが、職場で落としたカードが逮捕のきっかけになった。
 訊問の最後に担当警部が何枚置いたのかと問う。285枚と答えると、捜査資料として手許に集められたカードが267枚であることを明かし、残りはたった18枚だったことを告げる。いかに虚しい行為であったかをダメ押しした積もりであったのだろう。またそれは、密告社会の監視下で、人々がすっかり萎縮していたことの反映でもある。
 最後に刑の執行を暗示するギロチンに、この時代にまだギロチンによる死刑が行われていたことを知る。

 ナチス・ドイツの戦争犯罪を告発する映画は絶え間なく作られている。
 最近見たものでも 『 アイヒマンを追え 』 や 『 顔のないヒトラーたち 』 『 ヒトラー暗殺、13分の誤算 』 などがあったが、この映画を見てすぐに連想したのが十数年前の函館時代に見た 『 白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々 』 で、同様にミュンヘン大学の大学生、ゾフィー・ショルが、兄のハンスや友人のクリストフとともに反ナチス抵抗組織 「 白バラ 」 のメンバーとして、ナチスへの抵抗と戦争の早期終結を呼びかけるビラまきを続け、彼女もまた国家反逆罪により21歳でギロチンにより処刑されたのだった。

 併せて、ソ連時代のロシアで1935年に発行された近代戦の恐怖を描いた反戦プロパガンダの5枚組みの切手を掲げておく。
 上部に 「 1914-1934 」 とあるのは第一次世界大戦の開始から20年の記念の意であろう。
 下部に 「 反戦 」 とある。
 デザインは、近代戦の恐怖を象徴的に描いている。
 5コペイカの切手は、上空に垂れ込めた暗雲から雨の滴のように都市に爆弾が降り注いでいる。
 10kは、燃える町からの避難民。
 15kは、戦争の前と後として、勇ましく出征した兵士が傷痍軍人となって戻ってくる。
 20kは、剣に脅された耕作。
 35kは、戦争画策者を踏みつけての連帯。
    この頃のソ連は再びひた寄せる戦争の気配に警戒を高めていた。
 この心配はのちに第二次世界大戦中の独ソ戦として現実のものとなり、国土が蹂躙されたため多くの民間人が犠牲となり、ソ連は第二次世界大戦で最も大きい人的被害を被った。

 戦争による国別の犠牲者を記したあるサイトによれば、第一次世界大戦でのロシアの犠牲者は170万人で、ドイツの177万4千人とほぼ同様の大きな犠牲者を出している。
 第二次世界大戦での日本の死者数は軍人230万、民間人80万の合計310万人。
 ドイツの、軍人422万、民間人267万の合計689万人に対し、ソ連では軍人1,360万、民間人700万の合計2,600万人という桁外れの,数字になっている。  また、ポーランドを中心に、ユダヤ人の犠牲者が700万人以上にも上っている。

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映画 「 ヒトラーへの285枚の葉書 」 パンフレットの表紙。 判決を申し渡される法廷で顔を合わせた二人。

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ソ連時代のロシアで1935年に発行された近代戦の恐怖を描いた反戦プロパガンダの5枚組みの切手。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 8月9日(水)
 一昨日、旅行に行く家内を朝早く札幌駅に送った帰り道、ちょうどラジオ体操の時間で、あちこちの町会のラジオ体操の会場の脇を通った。
 どこの会場も大人が中心で、それが一般的な最近のラジオ体操の風景だが、こちらのような子どもたち中心の会場は珍しい。
 今日は少なかったが、多い日には子どもたちだけでも百人近くが集まる。

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子どもたちが多く集まる当町会のラジオ体操の会場。

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 8月8日(火)
 先日道路端の緑地に出ていたネジバナ。
 勿体ないことにこのあとすぐの雑草刈りで刈られてしまった。

 今年はマイマイガの当たり年か。街路樹のニレの木が軒並み丸坊主にされている。  しかし、これだけの食害ならば相当な数の幼虫がいたはずなのだが、成虫が一向に見えないのが不思議だ。
 たった一匹を玄関で見かけたが。
 今は蛹で、これから大発生するものやら。

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 道路端の緑地に出ていたネジバナ。

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マイマイガの食害で軒並み丸坊主にされた街路樹のニレの木

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先日たった一匹を玄関で見かけたマイマイガの成虫。



 8月6日(追加)
 今年も北丘珠の曹洞峯光寺のモクゲンジがもうそろそろかと様子を見に行ったところ咲き始めている。
 あと一週間、十日もすれば満開になることでしょう。
 ただ、うっかりしていると盛りを外してしまう。
 咲きそろうと遠目にも目立つほどに木全体が黄色く染まる。

 モクゲンジはムクロジ科の中国原産の植物とのことだが、日本では本州から九州の日本海側の海岸に分布しており、自然分布か意見の分かれるところという。比較的珍しい樹木だが、山口県の牛島は島全体がこの木に覆われているという。
 本州での花期は6月中旬から7月初旬。
 英名の 「 Golden rain tree 」 は、花が咲ききったあとに金色の雨が降るようにはらはらと散るこの木の特徴を捉えている。
 葉がセンダンの葉に似るので 「 センダンボダイジュ 」 とも呼ばれる。
 本来の菩提樹とは全く別の植物だが、硬い種子は数珠に利用され ( 数珠にできるような大きさではないが )、寺院にも好んで植えられることから、菩提樹の名前がつけられたという。果実は3室の袋状で、各室に1、2個の種子ができる。

 庭のカサブランカも開き始めた。

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北丘珠の曹洞峯光寺のモクゲンジ。

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モクゲンジの花。黄色い中にオレンジがのぞく。

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庭のカサブランカ。



 8月6日(日)
 今日は広島に原爆が投下された日。72年が経つ。
 国連総会で先日7月7日、核兵器禁止条約が参加国の圧倒的な賛成で可決したが、信じがたいことに日本は今回も反対の立場から参加しなかった。

 これに先立つ昨年10月の 「 核兵器禁止条約に向けた交渉の開始を定める決議 」 の決定を受けて、3月に引き続き国連本部で開かれていた上記二回目の 「 核兵器禁止条約制定に向けた交渉会議 」 は最終日の7日、条約を賛成多数で採択した。
 「 核兵器のない世界 」 を目指し、核兵器の使用や開発、実験、生産、製造、保有などを禁止する内容で、核抑止力の根幹ともされる 「 使用するとの威嚇 」 も禁止する。
 1945年の日本への原爆投下以降、核兵器を違法とする条約が国連で採択されるのは初めてで、条約は9月20日に各国の署名が始まり、50カ国の批准を得て発効する。

 このとき、政府代表が空疎な屁理屈を並べる一方で、国連総会の場で条約の必要性、重要性を訴えた被爆者の声は議場の参加者に感動を呼び起こし、推進への大きな力となった。
 奢りと欺瞞に満ちた今の政権にはウンザリだが、このこと一つ取ってみても現政権の愚かさが見て取れる。

 今の時代にジャーナリズムの根本精神を忘れない貴重な硬骨の新聞、山口県下関市の 「 長周新聞 」 がある。
 今年の核兵器禁止条約に向けた交渉の開始を定める決議が、昨年の10月に国連本部で123カ国の賛成多数で採択されたが、米ロなどの核保有国が反対したのはまだしも、何とあるまじきことか、唯一の被爆国である日本が反対に回った。
 以下はそれに対する 「 世界に恥をさらした決議反対、唯一の被爆国が米国に同調 」 と題する長周新聞の論評。

   長周新聞は言う。『 核保有国がその軍事的な威力を振り回して他国を恫喝、支配してきたことへの国際的な批判の高まり、「 核なき世界 」 を掲げながら一向に具体的な動きを見せないどころか、新型核兵器の開発を進めるアメリカの欺瞞に対する国際世論の追撃といえる。そのなかで、世界で唯一核兵器の惨禍を経験した被爆国でありながら、孤立を深める原爆投下者の側に立って核兵器の禁止に反対する日本政府の動きは、被爆地をはじめ全国民的な世論と真っ向から対立し、世界的な潮流とも対立する恥ずべき姿として批判を集めている。 』 と。

 そして解説の後に、『 「 どこの国の政府か 」 被爆地の市民世論 』 として、市民の声を紹介している。
 少し長くなるが、事の核心を突く意見であり、以下に引用する。
 広島市内に住む90歳の男性被爆者の声。
 『 「 夜も眠れないくらいの怒りを感じている。核軍拡競争や新たな核開発は、核保有国が核を手放さないことが最大の原因だし、アメリカの二重基準を追及せずに核廃絶が進むわけがない。。
 アメリカは、広島、長崎に原爆を投下した後も、朝鮮、ベトナム、アフガン、イラクなどあらゆる国に侵攻し、枯れ葉剤などの化学兵器や小型核兵器まで使ってきた。
 四六時中、核攻撃のスイッチを持ち歩きながら “ 核なき世界 ” を説いて回る大統領の姿を見て、“ こんなものになんの期待もできない ” というのが世界の大多数の実感だろう。  日本政府は今年、オバマの広島訪問でお祭り騒ぎを演出したが、核廃絶に踏み込むどころか、逆に反対に回るという恥ずべき姿を世界に晒した。
 今後、いくら日本が “ 被爆国 ” の立場を主張しても、誰も聞く耳を持たなくなるだろう。唯一の被爆国でありながら、原爆を投げつけたアメリカの肩を持つようでは単なる属国でしかない。
 恥を恥とも思わない安倍首相は、どこの国の首相なのか 」 と怒りをにじませた 』 と伝えている。

 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式で、日ごろこれを愚弄しているような者がその場だけを取り繕うようなあいさつをするのは白々しい。
 慎しむべき神聖な場ではあるが、秋葉原の再来で帰れコールが巻き起こらないものか。

 今日のマテリアルは、原爆記念館と慰霊碑を写した絵はがき。
 1957年 ( 昭和32年 ) の消印。大阪から当時のユーゴスラビアの首都ベオグラードに送られたもの。「平和記念資料館 」 の記念スタンプ゚が押されている。

 なお、作品一覧に2007年4月117号 「 ノー・モア・ヒロシマ ピース・フロム・ナガサキ 」 ( 広島平和都市、長崎文化都市各2枚貼りの小倉謙氏宛て日本郵趣協会発の事務封筒 ) がありますので併せてご覧ください。

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原爆記念館と慰霊碑を写した1957年 ( 昭和32年 ) 消印の絵はがき。 ( 原寸 )
平和記念資料館の記念スタンプを押して、ユーゴスラビアの首都ベオグラードに宛てられたもの。
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 8月5日(追加)
 先ほど午後4時からのNHKスペシャルで 「 ドラマ東京裁判 」 ( 第1、2話連続放送。明日その続きがある ) を見た。
 実に見応えのあるドラマだが再放送で、その存在を知らなかった。
 『 ドラマ東京裁判 』 は日本放送協会 ( NHK ) の原案による日本、オランダ、カナダの合同制作のテレビドラマのシリーズで、東京裁判の判事たちの記録の手記等の資料をベースに制作され、日本で2016年12月12日~15日まで4回に渡って、『 NHKスペシャル 』 枠で放送された番組であったとのこと。

 企画段階では 『 東京裁判 ~人は戦争を裁けるか~ 』 と副題されていたというが、まさにその副題のとおり、関係国11人の判事による戦争犯罪を個人に問えるのか、それを裁く法はないというインドのパール判事主張と大方の 「 日本憎し 」 の感情が対立する。
 ナチスの戦争犯罪を追求したニュールンベルク裁判を覆すことは避けたいとするイギリス代表のパトリック判事が、代表判事のオーストラリアのウエッブ判事 ( 中立的立場を心掛けていた ) の姿勢に裁判の行方を懸念し、ニュージーランドとカナダの代表を抱き込んで、ウエッブ判事 の更迭工作が行われたことなど、知らなかったことが多かった。

 フィリピンの判事が意見を求められて、日本軍の残虐行為を見てきた者として証言が感情を交えないで話す自信がないとして意見を控えるとするなど、アジアの一員としての微妙な心情を反映したエピソードも折り込まれている。
 オランダのレーリンク判事が議論の過程でインドのパール判事 ( イギリス植民地主義に対する一抹の感情もあったろう ) の 「 公平さ 」 を訴える考え方に共感を覚えて考えを改めていく過程も描かれている。

 なお、NHKには見はぐった番組を見ることのできるNHKオンデマンド ( NHKで放送された番組の一部を、ブロードバンドインターネット接続されたパソコンやテレビで、いつでも視聴できる動画配信サービス ) という便利な手段がある。

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東京裁判の判事の中で唯一被告人全員の無罪を主張したラダ・ビノード・パール判事。



 8月5日(土)
 時の重み。ペルーのリマから、チリのサンチャゴ宛ての150年前のカバー。
 初期の紋章切手が貼られ、1861年7月23日のリマの消印が押されている。
 1861年は日本の年号では文久元年。
 この年、「 皇女和宮、徳川家茂に降嫁 」、前年には 「 桜田門外の変 」 があり、翌年には 「 生麦事件 」 があった。

 ペルーとチリのこと。
 ちょうど先月の例会で、「 南米の太平洋戦争 」 という話題が提供された。
 実はこの両国は、このカバーの年の二十年後に交戦している。
 その戦争は、何と 「 太平洋戦争 」 ( 1879~84 ) と名付けられている。
 南アメリカ大陸の太平洋岸の資源地帯を巡る戦争であり、係争3カ国の主要鉱石が硝石であったことから 「 硝石戦争 」 とも呼ばれる。

 現在のチリの北部にある港湾都市アントファガスタは当時はボリビア領で、ボリビアとチリは国境を接していた。
 それが鉱物資源を巡る軋轢から、ボリビアとチリの間に戦争が始まり、ペルーは1873年にボリビアと相互防衛条約を交わしていたため、ボリビアとともにチリと戦うことになったが海軍力に勝るチリに圧倒され、ペルー・ボリビア連合は敗北した。
 この戦争によってボリビアはアタカマ砂漠にある鉱物資源とアントファガスタの海への出口を失って、今日の内陸国となった。

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ペルーのリマから、チリのサンチャゴ宛てられた 1861年のカバー。 ( 125% )
今日ペルーとチリは海岸線で国境を接しているが、当時は両国の間に
ボリビア領のアントファガスタ地方が割って入っていた。
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 8月4日(金)
 昨日はインターネット回線が繋がらなくなり往生しました。固定電話も同一の回線を使っているもので、こちらも使えなくなります。
 マンションの他の住人に確認して、他でも同様のトラブルが出ており個別の問題でないことを知りひとまず安心しましたが、通信会社に連絡して工事による復旧は今になりました。
 原因は近くの工事現場に出入りする車輌がユニックを上げたままケーブルを引っかけて破損したのだそうで、インターネットに多くを依存している生活は、こんなことになると全くお手上げになります。

 とうに夏休みで、ラジオ体操も始まっていたのだが、今年はうっかりしていて8月になってから行き始めた。この町内会は子どもたちが多く100人近くが集まってにぎやかだ。

 今朝ウメの実を収穫した。余り大きくない木だが、それでも今年はザルに一杯採れた。  黒い斑点が出てしまったものが多く、あまり選果を厳しくすると食べるものが少なくなってしまう。梅酒を作った年もあったが、今年は全部梅干しにするという。
 長いこと次々と花をつけていたナツツバキもいよいよ終わりになったようだ。

 さて、今日の一品。
 ウルグアイのシンボル、アオサギをデザインした双子の航空切手。
 それぞれに 「 MONTEVIDEO 」、「 FLORIDA 」 と記されている。
 ただし、フロリダはアメリカのフロリダではない。
 ウルグアイの首都・モンテビデオから北に60マイル ( 約100キロ ) にある街で、モンテビデオとこのフロリダの間で1925年8月25日、この日の 「 フロリダ議会創立100周年 」 を記念して、一回だけ往復の郵便飛行が試行され、それに搭載される郵便物にこの切手が使用された。
 この特別飛行用に用意された書留切手と言う説もある。

 この切手は窓口での販売はされず、代わりに郵便局員が郵便物に直接貼付し、消印した。
 そのため、存在しないはずの未使用の切手が後に ( リプリントされたものか ) 市場に出回った。

 ウルグアイの正式名称は英語表記でOriental Republic of Uruguay。「 ウルグアイ東方共和国 」 は、アルゼンチンとの西部国境を流れるウルグアイ川の東方を意味する。
 ウルグアイの名は、先住民のグアラニー語で 「 ウルという鳥の棲む川 」 を意味するウルグアイ川にちなんで命名されたほど鳥になじみが深い。
東部の湿地帯ではサギの仲間が多く見られるという。

 モンテビデオと聞くと、ドイツの戦艦グラーフ・シュペーを思い出す。
 第二次世界大戦中に、大西洋、インド洋で通商破壊を行っていたグラーフ・シュペーは1939年12月、プラタ川河口の沖合いでイギリスの巡洋艦3隻と交戦、損傷を受けて中立国ウルグアイのモンテビデオ港に逃げ込んだが、後に脱出困難とみて港外で自沈した。

 併せて、アホウドリを描いた1928年の12枚セットの航空切手も添付しておきます。
 また 「 カテゴリー 」 に、ウルグアイ関係の二篇がありますので併せてご覧ください。

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1925年8月25日の特別飛行に際して用意された 「 MONTEVIDEO 」 「 FLORIDA 」 と記された、
アオサギの描かれたスコットNos. ♯C7-8 の航空切手。書留切手と言う説もある。

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モンテビデオからフロリダに宛てられた往路のカバー。
同年4月に発行された 「 ウルグアイ共和国の33人の創立者の上陸100周年 」 3種と、
「 立法議会の落成式 」 記念の2種を貼り、「 MONTEVIDEO 」 のアオサギが貼られている。 ( 110% )

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アホウドリを描いた1928年の12枚セットの航空切手。



 8月3日(木)
 何の用意もなくて、取り敢えず今日の穴埋め。
 7月25日に取り上げた1950年のサラワク、ジョージ6世のピクトリアル15種セットのトリバネアゲハの1cのペアと、1952年に遅れて一枚だけ発行されたサワワクの地図を描いたオレンジの10cの切手を貼ったシンプルな好ましいカバー。

 消印の擦れが玉にキズだが。
 1953年10月7日のシブ局の消印。ニューヨーク宛て。
 サラワクは南のクチンから北へ、シブ、ビンツルと主要な都市が並ぶが、ビンツルは1970年代の南洋材の積出港で、関係者には懐かしい当時よく耳にした地名だ。。
 他にもボルネオのサンダカン、バリクパパンやパンジェルマシン。フィリピン・ミンダナオ島のザンボアンガ、カガヤン、ティブンコなどの懐かしい名前が思い浮かぶ。。

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サラワクのシブからニューヨーク宛ての1953年のカバー。
1950年のジョージ6世のピクトリアル15種セットのトリバネアゲハ1cのペアと、
1952年発行のサワワクの地図を描いたオレンジの10cの切手が貼られている。
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拡大した地図の中に、クチンもシブも、ビンツルも見える。



 8月2日(水)
 面白いカバーを見つけた。
 出品のタイトルは 「 1931 JAPAN REGISTERED COVER KOBE ADVERTISING SS PRESIDENT TAFT SHIP 2 CANAL ZONE 」 とあって、上部にある記載から、米国の商船会社・プレジデント・ラインの第二代のタフト大統領号に搭載されたものであり、パナマ運河を通過したものとアピールしている。また、ニューヨーク経由とも書かれている。

 差出人は神戸の 「 同生公司 」、宛名が 「 永興大公司技行 」 で、華僑のものと見られる。宛先住所に 「 New China 」 ( チャイナタウン=中華街 ) とある。
 消印から1931年 ( 昭和6年 ) のカバーで、切手には神戸の9月25日の欧文印。ニューヨーク経由の宛先は単にクリストバルと書かれているだけで、クリストバルとはどこか。
 裏面には10月10日のニューオリンズの中継印があると言うことは、ニューオリンズで船から下ろされたと言うことか。
 とすると、ニューヨークを中継する話と矛盾する。
 クリストバルの着印も10月31日と読めて、それからずいぶん日数がかかっている。
 米国内にクリストバルの地名は見当たらない。クリストバルの名からはスペイン語圏が対象となると思われるのだが。謎だ。

 ガラパゴス諸島にクリストバル島があるが、パナマ運河から大西洋に出てしまっては最早その可能性はない。

 クリストバルのことは諦めて、ここからは、ついでに意外なことを発見したガラパゴスのクリストバル島の話を。
 クリストバル島はガラパゴス諸島の東端にある島だ。

 ガラパゴスと聞けば、絶海の孤島で、ビーグル号の航海でダーウィンが上陸して以来、人とのかかわりの薄い島とのイメージをもっていたのだが。サン・クリストバル島 ( 面積第3の島。面積は558km2で淡路島にほぼ等しい ) は1835年にガラパゴスを訪れたチャールズ・ダーウィンが最初に上陸した島であり、群島の最も古い入植地でもある。島のエル・フンコ ( 標高およそ700mにある火口湖 ) と呼ばれる湖は、群島において唯一の淡水の供給源であり、淡水を利用できることがサンクリストバル島の早期入植につながった。1880年にはサン・クリストバル島にエクアドル本土からの流刑地が構築された。ガラパゴス諸島の中心地で県庁所在地の港湾都市プエルト・バケリソ・モレノは、砂糖、コーヒー、キャッサバ、ウシ、魚類、ライムなど島の産物の積出港となっている。
 そして何より、サン・クリストバル島は空港まで備えている。
 また、人口が最も多いのは第2の島サンタクルス島 ( 面積は1,007km2 ) で、約12,000人がその郡都プエルト・アヨラ ( アヨラ港 ) に集中している。

 なお、ガラパゴス諸島は19の主な島と小さな島や岩礁からなり、最も北のダーウィン島と南のエスパニョラ島は220キロメートル離れている ( 伊豆七島の御蔵島が東京都心の南約190キロメートル )。最大の島イサベラ島の面積は4,588km2で沖縄本島の4倍近くもあり、島内のウォルフ火山は海抜1,707メートルある。

 ガラパゴス諸島は赤道下にあるエクアドル領の諸島。その名称はスペイン語でゾウガメを意味するガラパゴスに由来している。正式名称はコロン諸島 ( 「 コロンブスの群島 」 を意味する ) で、行政面ではガラパゴス県にあり、全域で約2万5千人 ( 2010年統計 ) が居住する。
 また、ガラパゴス諸島は1978年に世界で最初に登録された12件の世界遺産の一つとして登録されている。

 1990年代以降の急速な観光地化、それにともなう人口の急増により、直接的な環境汚染や撹乱、外来生物の繁殖、横行する密漁など多くの問題が持ち上がっている。これらに対して有効な対策を講じられていないと判断され、2007年6月、危機遺産リストに登録されたが、その後のエクアドル当局の取り組みが評価され、2010年の第34回世界遺産委員会で危機遺産リストから除去された。

 ひょなことからガラパゴスの意外な事実を知ることになりました。

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神戸から謎のクリストバル宛ての1931年のカバー。
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 8月1日(木)
 今日から8月。
 早速8月の原稿を張り付けました。
 「終戦直前の旅順宛て封筒 ( 併せて 「 八紘一宇」について ) 」
 終戦間近に差し立てられた旅順宛て、目黒・昭和20年7月24日消印の封筒。
 送達困難として差出人に戻されている。
 すでにこの段階では日本の周辺海域はアメリカ海軍の潜水艦部隊によって海上封鎖され、対馬海峡を渡るのさえ困難な状況になっていた。

 貼られた切手に二次昭和切手の八紘基柱の4銭があり、本文でその由来に触れている。
 八紘基柱は当時の十銭紙幣 ( 1944年 ( 昭和19年 ) 11月1日発行開始 ) のデザインにも取り上げられているので、オープン切手展よろしくワンポイントに掲げておく。
 なおこの紙幣は、意外なことに小額通貨の整理 ( 額面一円未満 ) により通用を停止する1953年 ( 昭和28年 ) 12月31日まで流通しており、軍国日本のシンボル的存在とされていただけに、戦後の使用には違和感があったろう。

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八紘一宇塔が描かれた十銭紙幣。
1944年 ( 昭和19年 ) 11月1日発行開始。
小額通貨の整理 ( 額面一円未満の日本銀行券・政府紙幣・貨幣および一円黄銅貨を廃止 ) により
1953年 ( 昭和28年 ) 12月31日の通用停止まで、戦後もしばらく通用した。
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 7月31日(月)
 世界一周カバーが作られた1939年、昭和14年は日本ではどんなことがあった年かと年表を見てみると 「 関門トンネル開通 」 とある。
 我々にとって関門トンネル開通と聞いてピンと来るのは昭和33年の関門トンネル開通記念の切手で、それだけに、なぜ昭和14年なのかと不思議に思った。
 調べてみると、昭和33年の関門トンネル開通は 「 国道2号の関門トンネル 」 ( 関門国道トンネル = 上段に自動車、下段に歩行者用の二階構造 ) の開通であったが、昭和14年に開通した関門トンネルは列車の通る鉄道の、山陽本線の関門トンネルの方であった。
 おまけに、1975年 ( 昭和50年 ) にはすでに新幹線の 「 新関門トンネル 」 もできていたのは知らなかった。
 つまり、関門海峡には鉄道、自動車、新幹線用三本の関門トンネルが通じていることになる。おまけに、高速道路の関門橋 ( 昭和48年開通 ) も通っている。

 昭和14年の 「 関門トンネル ( 山陽本線 ) 」 は、もともと関門連絡船が結んでいたこの海峡に、車輌の乗換・積替の手間を省き輸送力を増強するために関門海峡にトンネルの建設が計画された。

 関門トンネルは単線トンネル二本 ( 全長3.6km、うち海底部1140m ) で構成されており、当時は単線の輸送力で十分であったことに加えて、工事の容易さから、単線でトンネルを建設することになり、将来輸送量が増えた時にもう1本の単線トンネルを建設して複線とすることになった。
 先に建設されたのは下り線のトンネルで、昭和12年に着工。下関、門司側の両端から掘削が進められ、昭和14年に貫通し、貨物用に、次いで旅客用として昭和17年に供用を開始した。
 さらに昭和15年に上り線トンネルの着工も決定され、昭和19年に開通し、下り線から上り線に列車を移したうえで下り線トンネルの改修工事を行って、同年には複線での運転が開始され、第二次世界大戦中は船舶不足に陥るなか、九州・本州間の連絡に重要な役割を果たした。

 この世紀の一大事に記念切手が発行されなかったのは、この海底トンネルが臨戦態勢で開通が急がれたもので、戦時体制下の軍事上の秘匿事項であったろう。
 また、青函トンネル ( 後に昭和62年に完成。全長53.85 km、海底部23.30 km ) も待望されたが、当時の技術では困難であった。

 なお、新幹線の関門トンネルは高速運転を実現するためにルートの抜本的な見直しが行われ、本州側・九州側とも内陸側から緩やかに潜り、かつ海底部が最狭となる地点を通過する線形となっている。このため、新幹線の全長は18.7Kmと在来線の関門トンネルの5倍以上となっているにもかかわらず、海底区間は880mで、関門トンネルより短い ( 関門トンネルは全長3.6km、うち海底部1140m )。

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昭和33年の関門トンネル開通記念切手の初日カバー。地元・下関の記念印。 ( 原寸 )
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 7月30日(日)
 こんなものがある。
 ニューヨークから東回りの世界一周カバー。
 郵趣関係者はこんなことにも挑戦する。

 大振りの封筒に、いろいろとゴチャゴチャ貼ってある。
 子細に眺めると、世界一周を意図したものであることが判る。
 まず左上にニューヨークの差出人の住所等が印刷され、その下に同人への宛名が手書きされている。これで、同人に戻る仕組みのカバーであることが見て取れる。
 右上の切手の消印を追うと、
・ ニューヨーク発 1939年5月16日
・ 香港経由         5月27日
・ ロンドン経由       6月 6日
・ ニューヨーク着      6月12日
 これで東回りのルートであることが読み取れる。

 手順はこうだ。
 先ずこのカバーには、右下にタイプ打ちで香港の宛て先 ( ナショナル・シテイ・バンク ) だけが書かれ、右上の赤50セントと緑の20セントの二枚のアメリカの航空切手が貼られてニューヨークから発信された。ニューヨーク発、1939年5月16日。
 受け取った香港の関係者はジョージ6世の15セント ( 1角5分 ) 切手と、ロンドン宛ての住所が書かれたタイプ打ちのラベルを貼って ( ニューヨークの仕掛け人が用意したのであろう。ただし、このカバーはその目的からして恐らく途中で開封されることはなく、事前に送付していたものか。いずれにしてもこの実行のためには香港とロンドンの関係者と事前に打ち合わせていたのであろう )、最初の香港宛ての住所にスラッシュを入れ、ロンドンに向けて投函する。香港の消印は5月27日。ニューヨークの発信から11日目。

 受け取ったロンドンの関係者は、今度は左側のスペースにニューヨークの宛先を手書きで書き入れた上で、上部にジョージ6世のイギリスのピンクの8ペンスと緑の7ペンスの切手二枚を貼り付け、ロンドン宛てのラベルの住所にスラッシュを入れ、今度はニューヨークに向けて投函する。
その上の赤いラベルは香港からロンドンまでの 「 インペリアル航空のインド-ヨーロッパ線 」 使用の表示。
 残念ながら消印は外枠の一部だけで殆ど見えないが ( せっかくの仕掛けが台無しで、せめて 「 tied 」 = 消印が掛かっているとして、後貼りでないことをアピールしている )、幸いなことになぜか香港の切手の右側に6月 6日のロンドンの消印が押されている。ニューヨークの発信から21日目。

 そして、左側のニューヨーク宛ての手書きの住所の上にニューヨークの到着を記す6月12日の紫のゴム印が押されている。
 5月16日の投函から約一ヶ月、このカバーは香港、ロンドンを経由して無事ニューヨークに戻り、世界一周を果たした。

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ニューヨークから東回りの世界一周カバー。1939年5月16日~6月12日。 ( 70% )



 7月29日(土)
 トルキスタンからの連想で新疆の話。
 今は終了した中国切手研究会の会長を務めた中島八十一氏に、新疆地方の郵便開拓の歴史を辿った郵便史の金字塔 「 新疆郵便史 」 がある。
 そして、氏の 「 蒙疆より日本に宛てたる二通の封書 」 という一文に巡り会った。
 不思議なことに旧仮名遣いの文語調の文章で書かれている。
 その謎は、文章の後ろに記された 「 逍遥亭 」 という語と、文中の 「 かつがつ文語の修練に使用せるが専らなりき 」 から、「 逍遥亭 - 文語の苑 」 というサイトに辿り着いて了解した。何と 「 文語文の創作コンクール 」 を通じた文語文の研鑽の場があったのだ。
 全貌を掴みにくいサイトだが、「 蒙疆より日本に宛てたる二通の封書 」 はそこに寄せられた文章であるらしい。
 ともあれ、こちらにとっては 「 花より団子 」 で、関心は文語文よりも 「 二通の封書 」 にある。

   先ず、書き出し部分を原文で紹介しておく。
 『 幼少の折、古き文箱に泰西諸国より届きたる封書、はがきを見出し、爾来、切手収集に勤しみ、長じては 「 郵便史 」 なる、世人には甚だ了解しがたからむ趣味に進みたり。
 郵便史とは、これ郵便の歴史を一通の封書から説き起こし、さらには背後の歴史ならびに地政學を説くものなり。集めたる封書の類を眺むるに、淺學にて説くほどの學持たざれば、これを他人に語ること寡く、かつがつ ( 注: とりあえず ) 文語の修練に使用せるが専らなりき。 』

 ここからは、郵趣の観点から関係部分を現代文に置き換えて以下に抜粋する。
 『 郵便史で言う蒙疆という言葉は、蒙古と新疆を指すもので、日支事変勃発の後に万里の長城外で、徳王 ( 注: チンギスハン以来の大モンゴルを再興すると言う 「 汎蒙古主義 」 を夢見て、1930年代から日本軍に協力し傀儡政府の自治政権蒙古聯合自治政府の主席を務めた ) が建てた蒙疆ではない。そもそも蒙古と新疆は、清朝がその領土としたものの、辺境のために、大清郵政 ( 清国の国家郵政 ) の郵便網に組込まれてその運用を見るのは、明治43年 ( 1910年 ) のことである。このような清朝の郵政事業に先立って、帝政ロシアの郵便局が活動していた。 』
 ついでながら、徳王については2001年12月第53号 『 郵趣にまつわる年号の話とその関連マテリアル( その1 ) 「 成紀年号 」 』 に登場していますので、併せてご覧ください。

   『 今ここに紹介しようとする所蔵品のひとつは蟠龍切手を貼った封書で、封筒上の消印から差立地は新疆・古城で、差立日は庚戌二月三日 ( 陽暦明治43年3月12日、1910年 ) と判る。古城は現在の奇台で、新疆ウイグル自治区の政府所在地たるウルムチの東150キロに位置する街である。 』 (中略)
 『 これはこの地域の郵便事業の草創期の封書であり、大清郵政が運んだ外国宛ての郵便物として最早期のものになる。
 加えてその郵便料金も関心の対象になる。額面2分の蟠龍切手三枚で合計6分となっていることを見れば、読者の関心を呼び起こす。当時の大清郵政の封書基本料金は国内宛て3分、外国宛てが10分である。蒙疆は辺境であることを考慮して、省内宛ては3分、他省 ( 内地 ) 宛ては6分、外国宛ては10分とされた。大清郵政時代に新疆から出された封書の現存するものは二十通を越えず、しかも多くは北京に宛てたものである。その過半は、料金10分を払った封書で、省都・迪化 ( ウルムチ ) を出た後、一旦ロシア領内に入り、シベリア鉄道を経て満州から北京に入るので、外国便の扱いを受ける。

 甘粛から河西回廊を経て西安に向かう便、あるいは黄河沿いに戈壁 ( ゴビ ) の縁を通って北京に届く郵便は、シベリア経由で他省宛てとされた料金に比べて安いものの、所要日数がかかるので利用する者は少ない。このような逓送手段は、上海から雲南に封書を送る場合に外国便扱いにし、安南・海防 ( 注:ベトナム・ハイフォン ) までを船で、その後はフランスが建設した鉄道に乗せることや、あるいは北京から西蔵 ( チベット ) へ送るのに外国便とし、インドまで船で運び、陸路をヒマラヤまで運んだ後に、英国軍事郵便を利用して喇薩 ( ラサ ) へ届ける方法に似てはいまいか。 』

 『 そんなところに、明治36年 ( 1903年 ) に結ばれた日清仮郵便条約によって日清間の郵便物は互いの国内料金を適用することとされた。これにより、清国から日本に宛てた封書の基本料金は3分で、それは新疆から日本に宛てた郵便と変わるところはない。ところが迪化から北京に宛てたは料金は6分 ( 注: 僻地加算料金 )、迪化からの東京宛ては3分 ( 注: 国際協約料金 ) であるから、ここに料金の逆転を見ることになる。これを不思議だと思うことに無理はない。ただし、この封書は重量便であったために基本料金の二倍、6分を払ったものである。新疆から河西回廊を下って中国内地に入り、北京を経由して、満州の長春で4月14日に日本郵政に引き継がれたもので、この道のりに33日を要している。この後、朝鮮半島を経て東京に着いたのは4月20日のことで、日本に到達するやいなや、料金は半額になったものである。 』 ( 以下、もう一つの封書の部分は省略 )
 まあ、よく調べられるもので、その過程がこの趣味の醍醐味でもある。

 なお、ワンポイントに新疆・喀什 ( カシュガル ) のロシア郵便局扱いのオンピース ( 封書の切手部分切り取り ) を。1918年のカシュガル ( КАШГАРЪ ) の局印で、1910年の清朝郵政事業の進出後も、ロシア郵便局は競い合う形で残留していた ( これから間もなくロシア革命により撤退 )。

 このようなオンピースを見る度に、エンタイアで残しておいてくれたら貴重な情報が提供されるとともに、このマテリアル自体も何倍もの価値を持ったであろうことを残念に思うとともに、切り取った行為を忌ま忌ましく思う。

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新疆・カシュガルのロシア郵便局の消印。1918年5月15日。



 7月28日(金)
 一昨日、26日にインドネシアの地図に絡んで、正式な発行とは認められない、いわゆる継子扱いのシンデレラとされている切手として、南モルッカ共和国の切手を取り上げた。
 シンデレラものは、正規の郵政機関の発行でない切手を指すが、ダライ・ラマのチベット亡命政権による発行など、亡命政権がらみのプロパガンダとして発行されるものが多い。

 そしてこれ。
 東トルキスタン共和国のシンデレラ。
 トルキスタンは中央アジアのトルクメニスタンと紛らわしい。
 そもぞも 「 トルキスタン 」 とは、「 テュルク人の 」 という単語チュルク ( Turki ) に 「 〜が存在する ( ところ ) 」 「 国 」 を意味する接尾辞スタン ( -stan ) が付属した 「 テュルク人の土地 」 を意味するペルシア語に由来し、今日テュルク系民族が居住する中央アジアの地域を指す歴史的な地域名称。

 トルキスタンは、西はカスピ海から北をアラル海、バルハシ湖をかすめて東は中国の現・新疆ウイグル自治区まで、南はイラン国境からアフガニスタン北部と接して新疆に至る東西に広がった地域で、西トルキスタンと東トルキスタンに区分される。
 今日のカザフスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス ( かつての正式国名はキルギスタンで、1993年に改称 )、タジキスタンの中央アジア5カ国に、中国西北部の新疆ウイグル自治区とアフガニスタン北部を含む地域で、西トルキスタンは中央アジア5カ国、東トルキスタンは新疆ウイグル自治区に当たる。

 この地域では短期ではあるが過去二度に亘り中国からの独立政権を実現しており、今日のウイグル民族の独立気運の淵源となっている。
 最初は、東トルキスタン西南部のタリム盆地カシュガルを中心とした第1次東トルキスタン共和国 ( 1933年~1934年 )。
 二度目は、ソ連の影響下で東トルキスタン北部のイリ・タルバガタイ・アルタイの 3区を拠点とした第2次東トルキスタン共和国 ( 1944年~1946年 ) の独立があった。

 この東トルキスタンの地は、清の乾隆帝に征服されて以来、清朝 → 中華民国 → 中華人民共和国と異民族による支配が続き、これに対する独立の動きが続けられてきたが、今日独立運動は中国政府に非合法化され弾圧されている。また、1964年のロプノール湖での実験を皮切りに、1960年代後半を通じて中国が核を保有して以降も、東トルキスタンの各地で核実験が行われ、現地の放射能汚染が懸念されている。

 切手は、東トルキスタン共和国亡命政府 ( 亡命ウイグル人グループにより2004年にアメリカワシンDCで本部を設立 ) による2013年発行の 「 SF作家ハバード誕生102年 」 記念切手とされるものだが、東トルキスタンとSF作家ハバードの結びつきが分からない。
 羅恩賀伯特=ラファイエット・ロナルド・ハバード ( 1911 - 1986 ) はアメリカ合衆国のSF作家。宗教の教義や儀式の研究者で、「 サイエントロジー 」 という新興宗教を興しており、1911年と誕生102年の2013年は符合している。
 なお、1954年にロサンゼルスで最初のサイエントロジー教会が創設されて以来、現在では全世界の主要都市で合わせて150を超える教会が活動しており、東京にも1980年代に設立されている。

 また、描かれたアルゴル = USS Algol ( USS:United States Ship米国海軍艦籍 ) という名の軍事支援の戦時貨物船とのかかわりについても分からない。
 東トルキスタン共和国が中国語で 「 東突厥斯担共和国 」 と表記されている。突厥は世界史で馴染みの 「 とっけつ 」 で、チュルク ( トルコ ) 系の民族を指す。

 突厥といえば古代の突厥文字があり、これは古テュルク語の表記として5世紀から用いられたアルファベットであり、代表的なものとしてオルホン碑文 ( モンゴルの世界文化遺産 ) に書かれたものがあるため、オルホン文字とも呼ばれる。東アジアでは漢字を除いて日本のかなと並ぶ古い歴史を持つ。

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東トルキスタン共和国亡命政府による2013年発行の 「 SF作家ハバード誕生102年 」 記念とされる切手。



 7月27日(木)
 連鎖の意外な展開に驚くことがある。
 北ボルネオの関連でラブアン島の切手がある。
 図がその一つ。英領北ボルネオの切手に 「 LABUAN 」 と加刷されたもの。
 ラブアンの切手は初期のビクトリア女王の横顔を描いた切手 ( 1879年~ ) から、このような各種の北ボルネオ切手へのラブアン加刷など130種余りが発行されている。

 ラブアンは、マレーシアの連邦直轄領の一つで、サバ州の沖合い10Km、ブルネイ湾の入口に浮かぶ島。
 マレー語でラブアンは 「 良港 」 を意味し、正式には連邦領ラブアンと称する。中国語では 「 納□ ( 門構えに虫 ) 」 と記される。面積は85平方キロメートルで、中国の香港特別行政区の香港島よりわずかに大きく、伊豆大島より少し小さい。
 島の中心はバンダル・ラブアン ( ラブアン港 ) で、首都のクアラルンプールやボルネオ島最大の都市コタ・キナバルと国内線やフェリーで結ばれ、現在ではもともとリゾート地の他に、マレーシアのオフショア金融センターないし租税回避地として東南アジアや中東の注目を集めている。
 その歴史は、
 11世紀、マジャパヒト帝国の支配下で、洋上交易の拠点として栄える。
 1846年、ブルネイからイギリスへ割譲される。
 1942年、日本軍により占領、ボルネオ守備軍司令官だった陸軍中将前田利為にちなんで島名を 「 前田島 」 に改称する。
 1963年、サバ州内の一地域として、マレーシアへ加わる。
 1984年、連邦領となり、サバ州から離脱する。
 1990年、自由港として認定される。

 冒頭の 「 連鎖の意外な展開 」 とは、ラブアン島=前田島から始まって、以下の前田利為=駒場の旧前田侯爵邸=東大赤門へと続く連鎖である。
 東大教養学部 ( 駒場キャンパス ) のある東京都目黒区駒場の旧前田侯爵邸が、ラブアン島の前田島に名を残す前田利為の屋敷であったとは思いも寄らなかった。これだけの邸宅の主はどんな人かと思ったが、加賀百万石前田本家第16代当主であったと聞いて納得した。

 前田 利為 ( まえだ としなり。1885- 1942年 ) は、日本の華族、陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩主前田本家第16代当主 ( 侯爵 )。
 1942年4月ボルネオ守備軍司令官。同年9月ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶ち陣没 ( 後に戦死扱い )。
 利為は相続により、現在の東大本郷キャンパスの南西部 ( 現在の東大総合博物館・東洋文化研究所付近 ) に壮大な敷地 ( 旧加賀藩邸の敷地の一部 ) を所有していたが、1926年にこれらの敷地・邸宅を東京帝国大学 ( 当時 ) に譲り、代替用地として当時東京帝大農学部が所在していた駒場校地の一部を取得、ここに邸宅を新築した。
 東大の赤門は、もともと加賀藩前田家の江戸藩邸上屋敷の御守殿門であり、そもそも東大の本郷キャンパス自体が加賀藩前田家の藩邸が置かれた地で、東大の用地として確保されたものであった。

 また、東京都目黒区駒場の東大教養学部に隣接する区立駒場公園 ( 井の頭線駒場東大前駅に近在 ) 内に旧前田侯爵邸洋館があるが、ここの東大との縁は次のとおり。
 明治期にこの一帯には駒場農学校があった。同校はその後東京帝国大学農学部となり、本郷 ( 文京区弥生 ) へ移転した。跡地には逆にそれまで本郷に屋敷を構えていた旧加賀藩主の前田家が移ってきた。第16代当主である侯爵・前田利為の駒場本邸として、1929年には洋館が、1930年には和館がそれぞれ竣工した。1942年に前田利為が戦死すると邸宅は他人の手に渡り、一時期は中島飛行機の本社がおかれた。
 敗戦後は米軍に接収され、接収が解除される1957年までの12年間は連合軍極東軍司令官の官邸などとして使用された。
 その後、1964年に東京都の所有となり、1967年に東京都立駒場公園として開園、1975年に目黒区に移管にされた。
 1967年に公園の一角に日本近代文学館が開設されており、日本の近代文学に関する資料が閲覧できる。

 私的なことだが、ここには2014年の11月に東大教養部と併せて、旧前田侯爵邸、日本近代文学館を訪れている。

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ラブアンの 「 1897-1900 」 発行の12 種セットのうちの9 種のショートセット。 ( 125% )
ただし、欠落の3 種は1c、2c、5c の同図案で色違いのもの。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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駒場公園内の旧前田侯爵邸。



 7月26日(水)
 ボルネオ島が、思ったより大きいとの印象をもったと書いた。
 それは、頭の中にあるメルカトール図法の地図に影響されて、低緯度地方は実際よりも小さくイメージされがちなことを6月7日の当欄で書いた。
 ボルネオ島がまさにその典型で、低緯度地方どころか赤道直下の島なのだから。

 ボルネオ島が日本の約1.9倍の面積を持ち、グリーンランド島、ニューギニア島に次ぐ世界第3位の島であると書いたところで、アフリカのマダガスカル島はどうなんだと思った。
 そこで、こうしたときに便利な理科年表を引っ張り出す。
 「 地学部 」 の目次に打って付けの 「 世界のおもな島 」 が載っている。
 グリーンランド島、ニューギニア島、ボルネオ島の次にマダガスカル島がある。
 ボルネオ島よりマダガスカル島のほうが大きいイメージがあったのだが。
 そして、意外にも我が国の本州が7番目にランクインしている。 ( 北海道も19位に入っている )
 また、ボルネオ島の他にも6位にスマトラ島、9位にスラウェシ島、11位にジャワ島と、 インドネシアの主立った島がいくつも顔を見せている。
   それで、いっそのこと20 位まで、日本 ( 37万8千km² ) を100とした指数で比較しておく。

   島  名          所  属          日本を100とした指数
1  グリーンランド    デンマーク                5.75
2   ニューギニア    インドネシア・パプアニューギニア  2.04
3  ボルネオ      インドネシア・マレーシア・ブルネイ  1.95
4  マダガスカル    マダガスカル               1.56
5  バフィン       カナダ                   1.35
6  スマトラ       インドネシア                1.15
7  本州         日本                     0.61
8  グレートブリテン  イギリス                  0.57
9  スラウェシ     インドネシア                 0.47
10  N.Z.南島     ニュージーランド             0.40
11  ジャワ       インドネシア                0.33
12  キューバ      キューバ                  0.30
13  N.Z.北島     ニュージーランド             0.30
14  ニューファンドランド   カナダ               0.29
15  ルソン        フィリピン                 0.28
16  アイスランド    アイスランド                0.27
17  ミンダナオ     フィリピン                  0.25
18  アイルランド    アイルランド・イギリス         0.22
19  北海道       日本                    0.21
20  イスパニオラ   ハイチ・ドミニカ              0.20


 なお、地図の切手も切手収集の一分野としてあるが、インドネシアの地図で思い出す切手がある。正式な発行とは認められない、いわゆる継子扱いのシンデレラとされている切手だが、南モルッカ共和国で1951年に発行されたマッカーサーとインドネシアの地図を描いた同図案の9枚セットの切手で、その一枚を掲げる。
 この訳ありの南モルッカ共和国の切手については、2010年10月第159号 「 有名なシンデレラ、南モルッカ共和国の切手 」 にその事情を併せて書いていますのでご覧ください。

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南モルッカ共和国で1951年に発行されたマッカーサーとインドネシアの地図を描いた同図案の9枚セットの切手。( 250% )



 7月25日(火)
 北ボルネオの続き。
 北ボルネオ ( ボルネオ島の北部 ) は歴史的に三つの地域に分かれたので、それぞれの地域で切手が発行されていた。
 改めて三地域の切手を代表的に掲げる。
図1 英領北ボルネオの初期の紋章切手「1887-92」。
図2 日本占領時代の北ボルネオの切手。1908-31年のブルネイ切手に「大日本帝国政府」と加刷(1942年)。
図3 1950年のサラワクの切手。ジョージ6世のピクトリアル15種セット。

 改めて、これらを含むボルネオ島について総括しておく。
 ボルネオ島は日本の約1.9倍の面積を持ち、グリーンランド島、ニューギニア島に次ぐ世界第3位の島。
 意外に大きいとの印象を持つが、ボルネオ島の全てがインドネシア領ではないが、インドネシアの国土面積の合計が日本の5倍もあるということにも、その意外性に驚かされる。

 さて、その北部地域のいわゆる英領北ボルネオに触れてきたが、面積の多くを占める南部はインドネシア領で、そもそも「ボルネオ」の語源は、かつて島の北半分を占めていた「ブルネイ」が訛ったものといわれ、インドネシア語では「カリマンタン」と呼称されている。

 大まかにいえば、北部にはブルネイ王国があり、そこからサラワク王国が生まれ、英領北ボルネオを合わせた三区域が、戦中の日本占領、戦後のイギリス領を経て、1963年、北ボルネオ、サラワクが統合されてマレーシアに、1984年、イギリスの保護下に置かれていたブルネイが独立し、また、南部はオランダ領を経て戦後1949年のインドネシアの独立に際しその一部となった。

 改めてボルネオの歴史を年表で整理すると、
・ 4世紀末-5世紀初頭、クタイ王国(ボルネオ東部サマリンダ地方)が貿易で栄える。
・ 971年、ブルネイが宋に朝貢。
・ 15世紀、明の鄭和が「婆羅」に寄航したとある。婆羅はボルネオの中国語表記。
・ 16世紀頃、西欧の商人が渡来し始める。
・ 1521年、ブルネイ湾にマゼラン艦隊が入港。
・ 1777年、現在のインドネシア領西カリマンタン州 ( ボルネオ島南西部 ) 付近に、中華系国家蘭芳公司が設立され、羅芳伯が初代総長
( 大統領 ) となる。
・ 1881年、英国北ボルネオ会社 ( 北ボルネオ=現在のサバ州を統治するために設立されたイギリスの勅許会社 ) が設立される。
・ 1846年、現在のサラワク州部分に白人王ジェームズ・ブルックによるサラワク王国が設立される ( ブルネイからの独立 )。
・ 1888年、蘭芳公司が滅亡しオランダ領となる。
・ 1888年7月、イギリス保護国北ボルネオ ( 1882年 - 1963年 ) が成立。
・ 1942-1945年、第二次世界大戦では日本が占領。
・ 1946年、サラワク王国が統治権を返上しイギリスの直轄植民地に。
・ 1957年、マレー半島南部がマラヤ連邦としてイギリス領から独立。
・ 1963年、北ボルネオ、サラワクを統合してマレーシアが成立。
・ 1984年、イギリスの保護下に置かれていたブルネイが独立。
 こうした歴史を経て、ボルネオ島は今日のようにマレーシア、ブルネイ、インドネシアの三国が領有するところとなっている。

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図1 英領北ボルネオの初期の紋章切手「1887-92」。 ( 94% )
三タイプあって、それまでの 「 POSTAGE 」 に対して 「 POSTAGE & REVENUE 」 となっていて、収入印紙を兼ねたものとされた。<

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図2 日本占領時代の北ボルネオの地切手。1908-31年のブルネイ切手に 「 大日本帝国政府 」 と加刷(1942年)。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図3 1950年のサラワクの切手。ジョージ6世のピクトリアル15種セット。 ( 94% )



 7月24日(月)
 昨日の台湾の会で、「 単数 」 が奇数の意味だというので戸惑った。それなら偶数は?そして、日本語で言う単数は?
 先ず、「 奇数と偶数 」 は 「 単数と偶数 」 ( 釣り合いが取れないが ) または 「 単数と双数 」 そして日本語と同じく 「 奇数と偶数 」 ( 書き言葉? ) もあるようだが、どれが一般的なのか更に追求が必要。
 また、「 単数と複数 」 は?こちらは 「 単数と複数 」 で同じようです。
 となると、「 単数 」 は場合によって 「 奇数 」 と 「 単数 」 という二つの意味を持つというということか。次回にでもさらに尋ねてみましょう。

 ところで、16日の本欄で紹介したクエスチョンの中国の軍事切手のカバーの結果。
 「 果たして市場はいくらの値を付けるだろうか。 」 と問いかけたところ。
 冷やかしの私を含めて、関係の応札者が33人に上ったのは異例。107ビッドの競り合いでUS $2,025.00 となりました。衆目は本物と見た訳です。
 本物とすれば魅力的なカバーです。この値段なら、もし贋作のカバーに本物の切手を使っても十分引き合う値段です。
 今度は 「 鑑定やいかに 」 と訊きたいところです。

 手ぶらでも何ですから、サラワク関連で英領時代の北ボルネオ ( 今日のマレーシア・サバ州 ) のリーフ二枚。ここのコーナーでリーフはスペースに無理がありますが。
 一つは格調高い 「 1909-22年 」 発行のクラシック。(図1)
 文字枠の中に風物を収める古典の典型的な二色刷り。
 マレーバク、タビビトヤシ、ゾウやサイ、ヤシオウム、サイチョウ、ヒクイドリなど。バンテン ( 野牛 ) の加刷切手は穴埋め。
 北ボルネオには分布しない動物が含まれているのには首を捻るが。

 もう一つのリーフは戦後、英領最後の時期 ( 1963年には英領北ボルネオはマラヤ連邦と統合してマレーシアが成立 ) の1961年発行のエリザベス女王のピクトリアルの16種セット。これも色合いデザインともに格調高い。(図2)

 なお、「 ピクトリアル 」 のことについては、2011年11月第172号 「 ジョージ6世とその時代 ( 英領植民地の 「 地誌シリーズ 」 ) 」 に書いていますので併せてご覧ください。
 ここに、蝶の一番切手を含む1950年のサラワクの1リーフを関連の図版として添付しています。

 そこではピクトリアルについて、以下のように触れています。
 『 大英帝国の各地の植民地で発行された一連の 「 地誌シリーズ 」 ( 「 ピクトリアル 」 ( 絵入りの ) という表現は、それまでのイギリス切手に一般的だった国王の肖像画切手に対置する呼び名であって、その意味は 「 国王の肖像画に添えてさまざまな絵を入れたもの」で、あくまでも主役は国王の肖像である ) は、その土地特有の動植物、建物、風俗などが描かれ、国王の肖像とも相まって特有の雰囲気を持っており、一つの収集ジャンルを確立している。 』

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図1 北ボルネオの 「 1909-22年 」 発行のクラシック。

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図2 英領最後の北ボルネオの切手。 1961年発行のエリザベス女王のピクトリアルの16種セット。



 7月23日(日)
 これから材料に窮したら関連の世界遺産に目を向ければいい。
 新聞記者が記事の材料に困ったとき、動物園に足を向けると聞いた。
 「 新聞記者の格言に、ネタがなければ動物園に行け 」 という。動物園では先日のパンダが良い例で 「 子どもが生まれた 」 とか何かしら話題があるという。

 一昨日の話題にしたボルネオ北部の現在マレーシアのサバ州とサラワク州。
 ここに揃って世界遺産がある。
 マレーシアの世界遺産は三件。一つは太平洋とインド洋を結ぶ海上交通の要衝マラッカ海峡に臨む文化遺産、15世紀以来500年以上に亘りマラッカ海峡での東西の文化交流・交易地として栄えた 「 メラカとジョージタウン:マラッカ海峡の歴史都市 」 ( 2008年登録 )。
 そして、ボルネオ北部のサバ州とサラワク州にある自然遺産二つ ( 2000年登録 )。
 サバの 「 キナバル自然公園 」 と、サラワクの 「 グヌン・ムル国立公園 」。

 まずその切手。これらをセットにした世界遺産の切手が 「 マレーシアの世界遺産サイト観光地 」 として2009年に発行されている。
 文化遺産、自然遺産がそれぞれペア ( 図1 ) で20枚のシートに収められ、シート地の下段に大きな写真入りで観光地をアピールしている ( 図2 )。
 「 マラッカ海峡の歴史都市 」 の切手には、ポルトガルとオランダに支配された時代の名残のメラカの街並みとペナン島・ジョージタウンのイギリス統治時代の建物が取り上げられている。

 昨日の地図の「北ボルネオ」のジェセルトン ( 旧名アピ。現在はコタキナバル ) の北東に聳える東南アジアの最高峰キナバル山 ( 4,095m ) を中心とした「キナバル自然公園」は、麓の低地熱帯林から、高地熱帯林、熱帯山地林、亜高山帯へと高度差による垂直分布の環境変化により、世界でも有数の生物多様性に富む地域で、6,000種にも及ぶ植物が生育し、固有種を含む1,000種のランが見られる。
 また、世界最大のコケ、ドーソニアや食虫植物のウツボカズラ、世界最大の花、ラフレシアなどの特色ある植物が見られる。

 一方、サラワクの 「 グヌン・ムル国立公園 」 はムル山を中心とした石灰岩のカルスト地帯で、多様な動植物が生息するとともに、ムル山 ( 2,371m ) は世界一洞窟が多い山といわれ、総延長295Kmに亘る洞窟群が連なり、中には世界最大といわれる大規模な鍾乳洞のサラワク洞窟がある。
 なお、切手の隅に地域を代表する動物であるメガネザルが描き込まれている。

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図1 マレーシアで2009年に発行された世界遺産の切手。
自然遺産 ( 上 ) と文化遺産 ( 下 ) がそれぞれペアで発行された。

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図2 マレーシアの世界遺産の切手各20枚シート。
   シート地の下段に大きな写真を入れて観光地をアピールしている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 7月21日(金)
 その宛名書きに目を引かれるカバー。( 図1 )
 「 ○○越古晋埠 」。○○はともに月偏で 「 ○膀 」 と読めるが、一方の 「 月偏に少 」 と見える字に該当する漢字はない。
 「 古晋 」 はサラワクのクチン。サラワクは漢字で 「 沙撈越 」 と書き、また沙拉越、沙朥越、沙羅越などいろいろに書かれる。なぜサラワクに漢字かとなれば華僑社会の存在がある。クチンはサラワク川の河口に位置する河川港で、「 埠 」 は船着き場。私書箱 ( 信箱 ) の地区名にも 「 浮羅埠 」 とある。

 消印は 「 広東 」 で、日にちが読み取りづらいが、裏面の切手 ( 左の6枚ブロックの 「 延安の宝塔山 」 8分は1961年7月発行 ) から1961年7月以降のものと考えられる。 ( 右の4枚ブロック 「 旋盤工 」 1分は1955年以降の発行 )

 ボルネオ北部は現在マレーシアのサバ州、サラワク州と英連邦の独立国ブルネイ ( 1984年にイギリスから独立 ) に分かれるが、それぞれの歴史的経緯に由来しており、中でもサラワクは特異な存在として特筆される。
 サラワクは現在マレーシアに属するが、マレーシアは1957年、マレー半島南部がマラヤ連邦としてイギリス領から独立。1963年 シンガポール ( 1965年にはマレーシアから独立 )、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合してマレーシアが成立している。

 それに先立つサラワクには、サラワク王国100年の歴史があった。
 サラワク王国 ( 1841年 - 1946年 ) は、ボルネオ島北部 ( 現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ ) に存在した白人王国で、ジェームズ・ブルック ( 在位1841 - 68年 ) が建国し、ブルック王朝3代の白人王が統治した。
 19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルタンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼し、 ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクが割譲され、ラージャ ( 藩王 ) に任じられた。ブルックは “ 白人王 (ホワイト・ラージャ ) ” の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された。
 その後ブルックはイギリスの後ろ盾で次々とブルネイの領土を奪って領土を拡大し、王国は2代チャールズ・ブルック ( 在位1867年 - 1917年 )、3代 ヴァイナー・ブルック ( 在位1917 - 46年 ) に継承された。1941年には建国100周年を記念して憲法が制定され、立憲君主国になった。
 しかし、間もなく太平洋戦争が始まり、日本軍の占領でヴァイナー王はオーストラリアに亡命、サラワクは日本軍の軍政下に置かれた。日本降伏後、ヴァイナーは王位を辞退し、サラワクはイギリスの直轄植民地となり、3代続いた王国は消滅した。

 サラワクの歴史を年表で概括すると、
1521年、ブルネイ湾にマゼラン艦隊が入港。
     16世紀頃、西欧の商人が渡来し始める。
1777年、現在の西カリマンタン州付近に、中華系国家蘭芳公司が設立され、羅芳伯が初代総長(大統領)となる。
1881年、英国北ボルネオ会社が設立される。
1846年、現在のサラワク州付近に白人王ジェームズ・ブルックによるサラワク王国が設立される(ブルネイからの独立)。
1888年、蘭芳公司が滅亡しオランダ領となる。
1888年7月、イギリス保護国北ボルネオ(1882年 - 1963年)が成立。
1942-1945年、第二次世界大戦では日本が占領。
1946年、サラワク王国が統治権を返上しイギリスの直轄植民地になる。
1957年、マレー半島南部がマラヤ連邦としてイギリス領から独立。
1963年、北ボルネオ、サラワクを統合してマレーシアが成立。
1984年、イギリスの保護下に置かれていたブルネイが独立。

 この地域の関係地図として、現在の地図と重ねても基本的に境界に変わりはないので、日本占領時代 ( 1941年12月~終戦 ) の地図を掲げておく。( 図2 )
 クチンには 「 久鎮 」 の字が当てられ、また、北ボルネオの切手に 「 LABUAN 」 と加刷した19世紀のラブアン島の切手がこの地域の切手の一角を占めているが、ここは占領時代には 「 前田島 」 と名付けられた。
 北ボルネオには、明治時代に天草からボルネオのサンダカンに渡ったいわゆる 「 からゆきさん ( 唐行きさん ) 」 を描いた映画 「 サンダカン八番娼館 望郷 」 の舞台になったサンダカンの名も見える。

 サラワクを代表する切手としては、何と言っても世界最初の蝶切手、戦後の英領時代の1950年に発行されたトリバネチョウ ( Trogonoptera brookiana:アカエリトリバネアゲハ ) の切手が印象強い。種名ブルキアナは首長ジェイムズ・ブルックに因む。( 図3 ) サラワクは、1869年にサラワク王・ジェイムズ・ブルックの肖像を描いた一番切手が発行されており、以降の切手も初代ジェイムズ・ブルックから三代続いたサラワク王国の各首長の肖像を描いているが、1946年にはサラワク王国発足100年を記念した三代の首長の肖像を並べた切手が発行されている。( 図4 )

 歴代の白人王は、「 文化が進んだ少数のヨーロッパ人のために、先住民の利益を犠牲にしてはならない 」 として、外国資本による搾取から先住民を保護していた。そのため、サラワク王国では、国是として外国資本の投資や開発を原則禁止していたという。
 異例の王国が100年も存続した最大の理由であったろう。

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図1 広州からサラワクのクチン宛てのカバー。 「 広東 」 の消印は日にちが読み取りづらいが、使用の切手から1961年7月以降。

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図2 日本占領時代 ( 1941年12月~終戦 ) のボルネオ地図
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図3  世界最初の蝶切手として有名な、戦後の英領時代のサラワクで1950年に発行されたトリバネチョウの切手。
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図4 サラワクで1946年に発行された、サラワク王国発足100年を記念した三代の首長の肖像を描いた4種セットの切手。
左が初代ジェームズ・ブルック。
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 7月20日(木)
 台湾からオーストラリアのキャンベラ宛てのカバー。
 中にクリスマスカード ( 通例で年賀も兼用 ) が入っている。
 消印は台湾・龍譚 ( りゅうたん。現・桃園市の区 ) の1975年12月1日。
 裏面に台湾・中歴 ( ちゅうれき。本来の歴は 「 土偏に歴 」。桃園市南部の区 ) の同日の中継印が押されている。

 何とも手の込んだレタリングによる宛名書きになっている。
 レタリングという言葉を耳にしたのはもうかれこれ半世紀も前の記憶です。
 レコードのジャケットが活躍の場の一つで、新しい書体が生まれたりした。
 そんな時代の匂いを感じさせる文字が宛名書きに丁寧に描き込まれている。

 この書体は差出人のオリジナルか。
 中身のクリスマスカードにこれと同じ書体が印刷されている。
 とすればこの書体に倣って書いたという訳か。
 クリスマスカードにアルファベット26文字全てが含まれていれば世話ないが。

 長い宛名書きだが、中文と英文を補い合って何となく意味は分かるが、今ひとつピント来ない。
 「 羅斯福美援站長 」 の 「 羅斯福 」 は名前のようだが、英文見える名前はジョン・ハンコックでこれを指すようには思えない。「 美援 」 はアメリカ支援の意味か。これも対応する英文が見当たらない。また。アメリカ支援なら 「 援美 」 となるところだが。
 「 站長 」 はSTATIONMASTERSHIP のことでしょう。
 「 鈞啓 」 は宛名に添える言葉として、日本語では 「 ~様 」 に当たる言葉と考えればよいでしょうか。
 「 大理紋章院長総理外交司今 」 に対応する英文が見えないが、この中文自体の意味も今ひとつ理解できない。また、最後の 「 今 」 は何であるのか。
 最下段も英文は 「 オーストラリア・ニュージーランド警戒航空部隊 」 といった表現のように見えるが、「 聯軍統戦世界全球国際志願進航-聯軍総部 」 との対応が見られない。

 当時の世界情勢を見るに、1975年、この年の4月30日のサイゴン陥落でベトナム戦争が終結しており、これに先立つ1971年、台湾は国連での代表権を失い国連を脱退している。
 差出人の名前から何らかの戦略研究を目的とした民間組織のような匂いがする。

 ( 追記 )
 教えてもらいました。
  「 羅斯福 」 が、フランクリン・デラノ・ルーズベルト ( 富蘭克林 · 徳拉諾 · 羅斯福 ) であったとは、思いも寄りませんでした。
 また、「外交司今 」 は 「 司令 」 と読めて然るべきでした。

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手の込んだレタリングによる宛名書きのカバー。( 85% )
1975年のクリスマスカードの送付に使用。
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 7月19日(水)
 支部の仲間が所有するエンタイア。
 本人の入手の観点は、自分の誕生日に関するマテリアルということで 「 誕生日の消印 」 として披露されたものであった。
 だが、重大なことを見落としている。私もあとになって気がついたのだが。

 戦後間もない、札幌の昭和22年10月28日の消印。
 注目すべきは、名宛人 「 樋口季一郎 」 その人であった。
 樋口季一郎の存在を知ったのは何がきっかけであったか。

 樋口季一郎 ( 1888 - 1970年 ) は、日本の陸軍軍人。兵庫県淡路島出身。最終階級は陸軍中将。歩兵第41連隊長、第3師団参謀長、ハルピン特務機関長、第9師団師団長等を歴任し、最終役職は第5方面軍司令官兼北部軍管区司令官。
陸軍士官学校時代、東京外語学校でロシア語を学び、陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、陸軍大学校を経て、ロシア語が堪能であることから卒業後すぐ1919年にウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。満州、ロシア方面部署を転々と勤務、1925年公使館駐在武官(少佐)としてポーランドにも赴任している。
・ 昭和17年(1942年)8月1日 - 札幌北部軍司令官。
・ 昭和18年 (1943年) 北方軍司令官、アッツ島玉砕、キスカ島撤退(対アメリカ)
・ 昭和19年(1944年)3月10日 - 第五方面軍司令官。
・ 昭和20年(1945年)2月1日 - 兼北部軍管区司令官。 終戦、8月18日以降の占守島・樺太防衛戦に勝利(対ソ連)
  12月1日 - 予備役編入。
・ 昭和21年(1946年) 小樽市外朝里に隠遁
・ 昭和22年(1947年) 宮崎県小林市(現・都城市)に転居
・ 昭和45年(1970年) 東京都文京区白山に転居し、老衰のため死去。82歳。
 よって、このエンタイアは、朝里に住んだ最後の時期のものということになる。

 また、当ブログの 「 過去の写真日記 」 ((2)2015年5月~2016年3月 ) の2015年9月30日に、元北部軍司令官(樋口季一郎)官邸で、現在月寒の郷土資料館になっている 「 つきさっぷ郷土資料館 」を訪れたことを取り上げ、以下のように紹介している。
 『 「 つきさっぷ郷土資料館 」 は、昭和16年に北部軍司令官官邸として建築され、戦後の占領軍による接収をへて、昭和25~58年までは北海道大学の月寒学寮として使用された。その後、札幌市が国から譲渡を受け、かねてより地元から要望のあった郷土資料館として昭和60年に開館している。
 ここで思い出したのが、北部軍司令官を務めた樋口季一郎中将のことであった。
 樋口はここに着任する前の満州時代 ( ハルビン特務機関長 )、 「 オトポール事件 」 ( ユダヤ人難民救出事件 ) で、日独の関係が足を引く中、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人に人道的立場から保護の手を差し伸べ、満ソ国境の町オトポールで足止めされたユダヤ人の満州国への入国の道を切り開いたことで知られる。
 また、北部軍司令官在任中は ( 昭和17年8月~終戦 ) 、アッツ島玉砕を余儀なくされる一方でキスカ島の軌跡の撤退を指揮し、敗戦後も北千島・占守島、樺太での対ソビエト軍の戦闘を指揮し、占守島の戦いではソ連の千島侵攻部隊に痛撃を与えている。 』

 「 歴史街道 」 ( PHP研究所 ) という有益な雑誌がある。ときどきの歴史の転換点に重要な役割を果たした歴史上に名を刻まれるべき人物を取り上げ、その功績を詳しく追っている。
 その樋口季一郎の特集、2012年4月号の 「 奇蹟の将軍・樋口季一郎 」 が今になって、何処に仕舞い込んだか出てこない。あるいは、この間少し雑誌を処分したときに紛れ混んでしまったか。本の整理は皮肉なもので、往々にしてそのあとで探した本が出てこなくなる。
 「 WEB歴史街道 」 というサイトがあって、バックナンバーが概括されているが、2012年4月号の 「 今月号の読みどころ 」 を引用させてもらうと、
 『 「 日本はナチスドイツの属国にあらず。ヒトラーのお先棒を担いで弱い者いじめすることが、正しいことですか 」。
昭和13年 ( 1938年 )、一説に二万人ともいわれる凍死寸前のユダヤ人難民の命を救った陸軍軍人がいました。
樋口季一郎です。
杉原千畝のビザ発給の二年前のことでした。
樋口はまた、米艦隊に包囲され、玉砕必至のキスカ島守備隊六千人の無血脱出を成功させ、さらに終戦後に北方に侵攻するソ連軍への 「 断乎反撃 」 を命じ、北海道占領の野望を砕いて、日本軍最後の勝利をもたらしています ( この占守島攻防戦には2015年12月号 「 1945占守島の真実 」 で取り上げられている )。
これら三つの 「 奇跡 」 をもたらしたのは、常に人道に立脚した樋口の決断でした。
たとえ地位を失おうと、人として正しい道を貫いた樋口の信念を描きます。』 

 半藤一利の 「 昭和の名将と愚将 」 ( 文春新書 ) ではないが、栗林忠道などとはまた別の観点から名将の一番に挙げたい人である。
 樋口季一郎に関してはさらに 「 指揮官の決断―満州とアッツの将軍 」 ( 文春新書、早坂隆 ) がある。

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札幌の昭和22年10月28日の消印の 「 樋口季一郎 」 宛ての速達便。 ( 75% )
裏面の 「 11月28日 」 の記載は、10月の書き間違いと見られる。
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 7月17日(月)海の日
 今日7月17日は、来年の開道150年 ( 1869年の開拓使設置、蝦夷地を北海道と改称 ) を見据えて先に制定された道民の記念日 「 北海道みんなの日 」 ( 平成29年北海道条例、 平成29年3月31日から施行 ) の初日に当たるのを記念して、道庁旧赤れんが庁舎で 「 松浦武四郎まつり 」 が開かれた。 ( 昔、会議などでよく使ったバルコニーのある懐かしい二階 1号会議室 )
 アイヌ語地名研究会の大会の折のチラシで知って出かけていった。

 合田一道 ( ごうだ いちどう。北海道上砂川町生まれ。1934年 - 。ノンフィクション作家。もと北海道新聞社編集委員。退職後は札幌大学講師 ) 氏の講演 「 松浦武四郎とその時代 」、後援者が司会する参加パネラー3人によるパネル討論、そして阿寒湖コタン生まれのアイヌ民族の姉妹、「 カピウとアパッポ 」 の出演による歌とムックリ ( 口琴 )、トンコリ ( アイヌの五弦琴。ここでは三弦琴のようであった ) の演奏もあった。
 因みに、アイヌ語辞典によればカピウはカモメ、アパッポは花 ( 福寿草 )。

 主催者も予想外という百人を数える参加があった一方で、せっかくの折にマイクが不調で使えない、席が十分用意されない、パネル討論の案内チラシがないなど、主催者の不手際が目立った。また、せっかく多くの資料が展示されたのにもかかわらず、展示が僅か一日というのもいかにもアリバイ的で、道や議会の官製主導とこれに寄り添う実行委員会のうさんくささが杞憂ならばいいが。

 明治2年 ( 1869年 ) に武四郎は開拓判官となり、蝦夷地に 「 北海道 」 の名 ( 当初の案は 「 北加伊道 」 ) を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名 ( 11国86郡。武四郎の 『 北海道々国郡名撰定上書 』 をもとに命名された ) を選定したが、翌明治3年には、アイヌとの共生を訴えた武四郎の提言にも耳を貸すことなく、江戸時代と変わらぬアイヌ民族への搾取を温存する明治新政府、開拓使の姿勢を批判して職を辞し、従五位の官位も返上した気骨の人であった。
 この尊敬措く能わざる松浦武四郎が、その後に雅号として使った 「 馬角斎 ( ばかくさい ) 」 は明治新政府への気持ちであったに違いない。
 今回も松浦武四郎を担ぎ出したのはいいが、その名を汚さぬよう願いたい。

 墓は東京の染井霊園にあり先年詣でてきた。
 戒名は 「 教光院釈遍照北海居士 」。

 出がけにうっかりカメラを忘れて場面をお伝えできないが、せめて資料のホルダーと姉妹のCDジャケットで雰囲気なりともお伝えします。

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当日会場で配布された資料のホルダー

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アイヌ民族の姉妹、「 カピウとアパッポ 」 のCDジャケット



 7月16日(日)
 どこにも、ときに目を引く出品がある。
 いま 「 China M1 Military postal stamp on cover, 2days from FDC, Rare, collector's item 」 としてeBayに出品されているもの。締め切りまでまだ8日ある。

 軍人切手は1953年8月1日に発行された陸海空三軍の三種類のセットで、このオレンジは最もポピュラーな陸軍用だが、軍人切手のカバーを見るのは初めてだ。
 発行日から二日とあって、消印に 「 中国軍郵 53.8.3 」 とある。
 切手には、星に 「 八一 」 ( 建軍記念日。1927年8月1日の南昌蜂起の日 ) の中国人民解放軍のシンボル。
 宛名の 「 綏遠市 」 が気になる。雰囲気からニセカバーとも思えないが。
 ただし、JPSの中国切手図鑑には 『 軍人無料郵便用に配給されたが、使用されなかった。陸軍切手には一部誤使用がある 』 の但し書きがある。となれば、余計に 「 Rare 」 な訳だが。

 内モンゴルのフホホト市、包頭市等を含む地域にかつて 「 綏遠省 」 は存在したが、、綏遠市という存在はない。
 カリフォルニア州在住のハンドルネーム名 「 ワールド・コレクター 」 という出品者の他の出品を見ると全て中国関係のもので、或いは中国系の人か。
 締め切りまでに、果たして市場はいくらの値を付けるだろうか。

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軍人切手のカバー。 「中国軍郵 53.8.3 」。
裏面には着印。 「 火車郵局 53.8.7 」。 火車郵局 = 鉄道郵便。)
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 7月15日(土)
 キプロスでのボーイスカウト大会50周年を記念して1963年に発行されたボーイスカウト切手の名品。
 幻想的な雰囲気を湛えた三枚組みの切手で、その初日カバーと小型シートを掲げる。

 ところで、切手ほど広範なテーマを包含するものはない。
 それを象徴するように、「 郵趣 」 に 「 拝見!10枚の愛蔵コレクション 」 ( あるテーマに関しての10点を選び出す ) という連載記事がある。
 この7月号で177回を迎えているから、足掛け15年も掲載されていることになる。
 それが、とりもなおさず取り上げられたテーマの数になるから、その多様さときたら想像もつかない。
 これまでの掲載一覧があれば見たいものだが、その中に 「 ボーイスカウト 」 があったろうか。記憶はないが、たぶんあったろう。
 そしてその中にこの切手が入っていたろうか。多分に 「 選者 」 の好みにもよるから、 「 名品 」 といえども選定されていたかは定かではないが。
 3ミルのカブスカウトはボーイスカウトの年少組織 ( 8‐11歳 ) をいう。

 そういえば、この小型シートについてははるか昔、2007年9月の第122号の 「 * 私の1リーフ = 私の好きな小型シート(5) 」 で、「 キプロスのボーイスカウト切手小型シート 」 として取り上げていました。

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1963年に発行されたボーイスカウト切手の初日カバー。 ( 原寸 )
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キプロスのボーイスカウト切手の小型シート。 ( 原寸 )
目打ちは印刷。
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 7月14日(金)
 昨日の鬱陵島の消印にからんで、2007年に韓国で発行された朝鮮の古地図を描いた切手4種8枚を収めたシートがあったので掲げておく ( 図1 )。
 伊能忠敬 ( 1821年、大日本沿海輿地全図 ) らによって明らかにされる以前の大きく歪んだ日本地図を見ているだけに、朝鮮の地形は一体で比較的捉え易かったと見えて、4種の地図に大きな歪みはない。シート地の中央左に昨日話題にした鬱陵島 ( うつりょうとう ) が見え、その左に于山島 ( うざんとう ) がある。( 図2 )
 昨日は 『 ( 鬱陵島は ) 古くは于山国として独立していたが新羅に服属させられ・・・ 』 と書いたが、鬱陵島と于山国の関係はよく分かっていないようです。

 Wikipediaには、『 韓国に現存する地図のなかでも古いものでは于山 ( 島 ) は鬱陵島近傍の西 ( ※ シート地の絵がそれ )、あるいは北に描かれることが多いが、これに比定できる島は明確には存在しない。18世紀後半以降は鬱陵島の東に隣接して描かれるようになり、しだいに鬱陵島北東に隣接する現在の竹嶼を于山島として描いている。 』 と書かれている。
 于山島はまぼろしの島であったようだが、諸々の記録 ( 形状や位置 ) から鬱陵島の東約2.2kmに位置する竹嶼 ( チュクソ。韓国の最東端 ) と見なされるという。
 日本と領土問題のある 「 竹島 」 と同じ名称になるため混同され易いが、竹嶼は鬱陵島に張り付いた小さな島で、竹島とは異なる別の島である。

 切手は、600ウオンが1402年に李氏朝鮮で作られた 「 混一疆理歴代国都之図 ( こんいつきょうりれきだいこくとのず ) 」 = 略称疆理図 ( きょうりず )。名称は 「 歴史上の首都一覧図 」 を意味する。これはモンゴル帝国を表した地図としても有名であり、イスラムの先端科学と中国の先端科学が統合してできたものである。この地図は西はアフリカ、ヨーロッパから東は日本まで、いわゆる旧世界全体を表している。この地図は、15世紀末まで、世界地図としてはヨーロッパのものよりも優れていた。 ( シート上段左側の図。中央に大きく中国、左方に小さくインド、アフリカ、ヨーロッパ方面 )

 580ウオンは1531年の李氏朝鮮時代の地理書 『 新増東国輿地勝覧 』 ( しんぞうとうごくよちしょうらん ) の 「 朝鮮八道総図 」。于山・鬱陵 の2島が ( 蔚珍 ) 県の東の海にあると記されている。
 520ウオンは 「 大東 ( 朝鮮 ) 輿地全図 」 ( 19世紀後半 )。
 480ウオンは 「 輿地図中我国総道 」 ( 1780年代 )。


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2007年に韓国で発行された朝鮮の古地図を描いた切手4種8枚を収めたシート。 ( 75% )
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シート地の中央左部分のアップ。鬱陵島と、その左に于山島が描かれている。
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 7月13日(木)
 珍しい欝陵島 ( 現・韓国ウルルン島 ) の消印。
 「 欝陵 ( 島 ) ( 42 ) .6.20 」 。 図1。
 「 欝 」 ( うつ ) は 「 鬱 」 の異体字。( 以下 「 鬱陵島 」 と記載 )
 消印の年が半分見えないが、菊3銭の発行が1906年 ( 明治39年 ) 5月15日ということで特定できる。

 鬱陵島は気象庁予報部による気象通報の定点観測地点で、ラジオの気象通報で読み上げられる。
 その鬱陵島の歴史は興味深い。
 Wikipediaによれば、鬱陵島 ( 大韓民国慶尚北道鬱陵郡 ) は、日本海に浮かぶ直径10km程度の火山島。面積約73㎢ は日本の奥尻島 ( 人口3千人弱 ) の半分ほど。
 朝鮮半島から約130km沖合いに位置し、最高峰は聖人峯 ( ソンインボン ) で標高984m。平地はほとんどなく、道が悪いので車はほとんどが四輪駆動車である。
 住民は約1万人で、4割が漁業、2割が農業に従事している。
 江戸期の日本名は 「 竹島 」 ( 竹が自生することから。現在領土問題を生じている 「 竹島 」 とは別 ) または 「 磯竹島 」、明治期1905年までは 「 松島 」。

 この辺の事情については、2007年10月第123号 『 竹島問題 ( 「 独島 」 のマテリアルから ) 』 の中で触れていますのでご覧ください。
 渦中の竹島 ( 韓国名・独島 ) は、島根県隠岐郡隠岐の島町 ( 隠岐の西北157Km ) で、ここから朝鮮半島へ向かうほぼ中間に鬱陵島がある。図2の関係地図参照。

 古くは于山国として独立していたが新羅に服属させられ、朝鮮支配下でも目の届かぬ遠隔の地で兵役や税を逃れるため多数の移住者があった。
 倭寇の拠点となり、倭寇を装う島民まで現れ、李氏朝鮮では1417年に島民の本土への移住を命じ、以降 「 空島政策 」 により460年という長い期間無人島となった。
 その間幕府が鳥取・米子の商人に渡海免許を与え、海産物や竹の採取を行ったが、李氏朝鮮からの抗議により鬱陵島への出漁を禁じている。

 1882年、李氏朝鮮は空島政策を廃止、再び人が住み始める。
 1910年日韓併合により日本が領有、敗戦を経て1952年サンフランシスコ条約の発効により、再び朝鮮 ( 韓国 ) に帰属することになった。

 農業主体であったが、現在は観光と漁業の島になっている。
 浦項市 ( ポハンし ) から海路217Km、船で3時間かかっているが、小型の空港を建設中だが基礎工事の問題でつまずいている。

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図1 菊3銭に欝陵島の消印。明治42年6月20日。

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図2 関係地図



 7月12日(水)
 2000年に発行されたアメリカ合衆国の国旗の変遷を記した切手20枚を組合せたシート。
 星条旗 ( the Stars and Stripes ) と訳された、文字どおり星と縞で構成されたこの国旗のデザインはその意匠の意味を知るほどにつくづく感心する。
 それを改めて感じさせるのがこのシートです。

 星条旗は青地の星と赤い縞で構成されているが、星は独立時の13個から、連邦に州が加わるたびに増やされて現在に至っており、その度に、次の独立記念日に星の配置が変更される。
 このため、星条旗は世界で最も変更回数の多い国旗であり、現在の 「 50星 」 のデザインはハワイが州に昇格した翌年の1960年から続いており、2007年7月4日にはこれまで一番長い期間使われた 「 48星 」 の47年間を抜いて最も長い期間使われているデザインとなった。
(Wikipediaによる)

 ただし誤解なきよう。このシートに掲げられた旗には記念碑的なものが多く、4段目、5段目が現在の 「 50星 」 ( 右下 ) まで26回デザインが更新されたといういわゆる星条旗にかかわるものであるが、最下段右側の二枚 「 48星 」、「 50星 」 意外はそれぞれ 「 26星 」、「 29星 」、「 34星 」、「 38星 」 等の別仕様のものである。

 因みに、はじめの1775年の赤い横縞だけのものは植民地時代 ( アメリカ独立戦争 ( 1775年~1783年。1776年にアメリカ独立宣言 ) の最初期のもので、赤の横縞7本と夾まれた白の6本でいわゆる独立13州を表している。

 そして、左列二段目の1777年表示の星13個のものが独立時の国旗第一号。  以下、このシートの最後の現行 「 50星旗 」 まで、青地の星の数が新しい州の誕生とともに増やされきた。
 といっても、その殆どは19世紀、1800年代のことで、20世紀に入ってからは、1908年の46番目のオクラホマ州、1912年の47,48番目のアリゾナ州とニューメキシコ州、1959年の49番目のアラスカ州、そして1960年の50番目のハワイ州とわずかである。
 ただ、見事なのはそのときどきの星の数を規則的にうまく収めていることで、例えば
 ハワイでの50個は6個5行の30個と5個4行の20個でちょうど50個。
 アラスカでの49個も、7個7行 ( ただし、行を星半個分ずつ交互にずらせている )
 アリゾナ、ニューメキシコでの48個の場合は8×6で48。
 オクラホマでの46個の場合は8・7・8・8・7・8の6行で収めている。
 もう一つ、1896年の45番目のユタ州の時には、8個の3行と7個の3行を交互に組み合わせている。

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2000年に発行されたアメリカ合衆国の国旗等の旗の変遷を記した切手20枚を組合せたシート。
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 7月11日(火)
 札幌も暑い日が続いています。
 庭のナツツバキが次々に花を咲かせています。
 この花は満開になるようなことはなく、ポツポツと順に花を咲かせていきます。そして、ツバキの花の特徴で、花びらを散らすことなく丸ごとポタポタと花を落とします。
 もう50個も拾ったろうか。
 この様子だとひとシーズンに数百の花をつけることになりそうです。
 はっきりした記憶はないが、植えて10年くらいになりましょうか。
 5メートルにも伸びた。

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ナツツバキの花。ベランダから手の届きそうなところ。

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ナツツバキの花。先端部。



 7月10日(月)
 カシェで一見、姫路城と錯覚したが、よくみれば切手は昭和34年発行の 「 名古屋開府350年記念 」 で、これはその初日カバー。
 天守閣の再建に当たり設置された名古屋城のシンボル、金鯱 ( しゃち ) が描かれている。
 ために名古屋城は 「 金鯱城 ( きんこじょう ) 」 また 「 金城 」 の異名を持つ。
 切手には新たなシンボルになった名古屋テレビ塔 ( 1954年竣工 ) も描き込まれている。

 1612年 ( 慶長17年 ) 名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は雌雄一対で慶長大判 1940 枚分、純金にして215.3キログラムの金が使用されたといわれている。高さは約2.74メートルあった。
 再建天守建造の時に使用された金の重量は88キログラムとのこと。

 残念なことに、名古屋城は終戦の年の5月14日の空襲で焼失した。
 名古屋は 「 名古屋大空襲 」 の名で呼ばれる大規模な空襲を重ねて受けており、3月12日には中心市街地が罹災、3月19日には名古屋駅が炎上、そして5月には名古屋城を焼失した。
 名古屋への空襲は軍需工場などがあったため執拗に繰り返され、周辺地域を含め延べ63回に及んだ。
 また、陸軍の飛行場とゼロ戦の生産拠点として多くの軍需工場があった岐阜県の各務原 ( かかみがはら ) も度重なる空襲を受け、多くの動員学徒が犠牲になっている。

 名古屋と言えば 「 尾張名古屋は城でもつ 」 という有名なフレーズがある。( 「 伊勢音頭 」 の 「 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ 」 による )
 何と言っても名古屋城は名古屋のシンボルで、かつて名古屋城の本丸には、天守閣の南側に本丸御殿 ( 城主の居所 ) があり、この本丸御殿は京都二条城の二の丸御殿と並ぶ武家風書院造による近世城郭御殿の最高傑作と言われ、1930年(昭和5年)には国宝に指定されていた。
 勇壮な天守閣と優美な御殿が並び建つことで、名古屋城は城郭建築としての風格を形成しており、1959年 ( 昭和34年 ) に天守閣は再建されたが、本丸御殿についても、江戸時代の文献のほか、多くの写真、実測図が残されており、在りし日の姿を忠実に蘇らせることが可能として、2018年 ( 平成30年 ) の全体公開を目指して名古屋市によって総工費150億円をかけた復元事業が取り組まれている。
 また、河村名古屋市長の提唱で名古屋城天守閣木造復元の話が持ち上がっているが、聞けばこちらはいろいろな問題を含んでいるらしい。

 なお、韓国宛てのこのカバーの作成者が裏面の差出人記載から、かつて札幌第一支部長を務めた大條守氏であったことに気がついた。
 郵便料金40円は第一地帯向け航空通常郵便物料金。

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「 名古屋開府350年記念 」 の韓国宛て実逓初日カバー。
元札幌第一支部長・大條守氏差し立て。



 7月9日(日)
 中々お目にかかれないルイスカバーの逸品で、にもかかわらず即譲であった。
 チャンスと思いつつ、少し値が張るので躊躇したのがいけなかった。
 気持ちが固まったときには即譲だけにもう遅かった。良いものは足が速い。
 画像を借用して、せめて目の保養に。

 ルイスカバーの中では珍しい満州国の日付印を使用したもので、城壁を描いたしっとりとした色調の好ましい絵柄の逸品です。
 奉天 ( 現在の瀋陽 ) は長い歴史を持つ城郭都市で、重厚な城壁に囲まれていた。
 満州最古の都で、古くは渤海時代に瀋洲、元朝は瀋陽、清朝は首都を置いて盛京 ( 1636年-1644年。のち北京に移る ) と改称し、奉天を経て今日の瀋陽市。
 かつて三重の城壁で囲まれていたがその後取り払われ、満州帝国の建設当初には、城壁には八つの門が残されていたという。
  ( リンク 「 満州写真館 」 奉天 その1による )

 ただし、象の石像や楼閣の様子から明の十三陵のようにも見えて、あるいはこの絵は絵描きの想像によるものであったか。

 局名は 「 奉天大西辺門外 」。
 「 3.8.14 」 か。ならば康徳3年で1936年 ( 昭和11年 ) で、貼られた二枚の切手、第3次の普通切手、遼陽白塔6分 ( 1934年11月1日の発行 )、第3次満華通郵4分 ( 1936年4月12日の発行 ) とも整合する。
 差し出しは 「 満州国奉天 ( ムクデン。MOUKDEN ) 」。
 「 往美国 」 で 「 米国行き 」。アメリカ・ニュージャージー州ウエストウッドのお客さん ( ルイスはこのエキゾチックな肉筆のカバーを海外向けに販売していた ) に宛てられたもの。

 なお、ルイスカバーについては、
 ・ 2015年9月第218号 「 ルイス・カバーについて ( 下 ) 」
  ・   〃  7月第216号 「 ルイス・カバーについて ( 上 ) 」
に書いていますのでご覧ください。

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満州国発信のルイスカバー。



 7月7日(金)
 先日の当欄 ( 6月25日 ) で、歴史作家の塩野七生 ( しおの ななみ ) さんの名前の 「 七生 」 が七月七日生まれに由来すると聞いて感心したと書きました。
 今日はその七夕です。
 ただし、札幌の七夕は旧暦で8月ですが。
 そしてまた、『 女性で七夕の生まれというのはロマンチックだが、ただその年、1937年の7月7日は盧溝橋事件の起こった日であった。 』 とも書いた。それから80年。
 北京の盧溝橋近くで起こった日中の衝突は8月には主戦場は上海に移り、第二次上海事変 ( 中華民国軍の 「 日本租界 」 への攻撃と日本軍の反撃。上海戦 ) が起こる。また、この年の年末には南京陥落に伴うおぞましい事態を生じている。

 ところで、「 戦前の風景スタンプ集 」 に一連の 「 野戦局 」 ( 戦地に設置された将兵のための軍事郵便取扱郵便局 ) の風景印 ( 通常の日付印の他に所在地ゆかりの名所旧跡などを描いた特別印 ) が掲載されている。
 その説明には 『 この印は昭和13年4月3日に上海、杭州、湖州の3局で使用されたのが最初で、現在 ( 「 スタンプ集 」 発行の昭和51年段階 ) 38局が確認されている。 』 とある。
 ただし、同一局で印影の違うものを複数使用しているところもあり、92印が示されている。

 限られた手持ち6枚を掲げておくが、最初に使用されたという杭州と湖州 ( ともに浙江省北部で隣り合う ) のものが含まれている。
 ・ 杭州野戦局 昭和13年4月20日 西湖 有名な三潭印月。
   三潭印月は西湖に浮かぶ西湖三島の最大の島。「 三潭印月島 」 または 「 小瀛洲 」。
   西湖には蘇東坡が杭州の刺史 ( 知事 ) を務めた時に西湖を浚渫した泥で造った、全長2.8kmの長い堤防 「 蘇堤 」 と、白居易が同じく杭州の知事を務めた時代に作った 「 白堤 」 の二つの人工堤防がある。
 ・ 湖州野戦局 昭和13年4月20日 驛西橋。
 ・ 上海野戦局大場鎮 昭和13年4月20日 使用開始日初日印。
   大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となった。
   図案は丘陵上の未完成のトーチカ。
 ・ 南京陥落記念 ( 上海野戦郵便局 ) 昭和12年12月17日 こちらは風景印でなく記念印。
 ・ 祝勝新年 ( 南京野戦郵便局 ) 昭和13年1月1日 新年の慶賀印
 ・ 廟行鎮 昭和13年12月10日 「 爆弾三勇士 」
   時代は遡って昭和7年の第一次上海事変の折、独立工兵第18大隊 ( 久留米 ) の3 名の一等兵が自爆により敵陣を突破し、突撃路を開い      たとして英雄とされ、新聞各社により愛国美談に仕立てて祭り上げられた。

 なお、「 元 熊元の風景印蒐集社 」 という風景印等についての参考になるサイトがあるのでリンクしておく。カテゴリー 「 野戦郵便局・風景印」に28印が収められている。

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杭州、湖州、上海の各野戦局風景印。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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南京野戦局等の各種記念印。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 7月6日(木)
 今日の札幌は暑かった。
 今季最高ではなかったか。といっても29度。
 これで暑いと言ったら本州の人に笑われます。
 西日本では豪雨被害。地球温暖化が恨めしい。なにしろ雨雲のもとになる温められた海からの水蒸気は無尽蔵なのだから。

 庭のナツツバキが咲き始めた。今年は蕾をたくさん付けている。( 写真 )
 ナツツバキはシャラノキ ( 娑羅樹 )。
 日本では、『 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 』 として平家物語の書き出しに出てくる 「 沙羅双樹 」 がこの花とされているが、本来のインドの 「 沙羅の木 」 はこれとは異なる。
 かつて 「 沙羅の木 」 の代用として、各地の寺院でナツツバキが植えられたことから、ナツツバキが 「 沙羅双樹 」 と見做なされるようになったとか。

 今日の一品。
 「 鎌倉・由比ケ浜の海水浴 」 の絵はがき。(図1)
 裏面の宛名書きにある時代を特定できる肝心な消印が不鮮明で読めない。(図2)
 はがき料金1銭5厘の時代は明治32年から昭和12年までと長い。
 切手はどうかと見ると、これまた同様なものが何種類もあって判別の難しい田沢切手で、この類は大正初期から昭和初期に発行されたものだから、写真はその時期の鎌倉・由比ケ浜の海水浴風景ということになる。
 日傘の女性はみな着物姿。
 この頃は男も上半身を覆う水着が一般的であった。

  「 越中高岡市 」 宛て。読みづらいがこれくらいまでなら何とかなる。
  『 ( ) は御混雑中に参上仕り失礼いたしました。また、珍しき御菓子沢山に御土産頂戴仕り是また有難く存じます。去る三十一日当地発帰鎌仕りました。( ) からも御礼状差上ぐべき処略儀乍ら御礼までに。頓首 』

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庭のナツツバキが咲き始めた。丸い蕾をたくさん付けている。

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図1 「 鎌倉・由比ケ浜の海水浴 」 の絵はがき。( 原寸 )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図2 宛名書き側。肝心な消印は不鮮明で読めない。( 原寸 )



 7月5日( 追加 )
 ポプラの綿毛が盛んに漂う季節です。
 昨年の時期を思い出し、そろそろオオウバユリが咲き出す頃かと屯田防風林に行ってみたが、蕾は膨らんでいるものの、まだ一輪も開いてはいませんでした。去年の7月10日の日記では咲きそろっていますから、今年は少し遅いようです。
 そのかわり、オニシモツケの一人舞台。

 ついでに何年かぶりで東屯田川遊水地に足を伸ばしてみた。
 水面一面にヒシが広がり、睡蓮が咲き、ネムロコウホネがツヤのある大きな葉を伸ばし丸っこい黄色い花を付けている。アオイトトンボがたくさん飛び交う。

 池の周りでパークゴルフに興ずる人たち、釣り竿を担いだ人たちも来ている。
良い天気で、池の木道を歩けば涼しい風が吹いて心地良い。

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屯田防風林のオオウバユリはあともう少し。

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屯田防風林の道。

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オニシモツケが花盛り。

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東屯田川遊水地の案内板の見取り図。

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睡蓮の池。ヒシの葉が水面を覆っている。

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池の木道。

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ネムロコウホネの丸っこい黄色い花。

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近くにポニーが繋がれていた。

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拾ってきたヒシの実。バットマンのロゴマークのよう。



 7月5日(水)
 日本統治時代の台湾消印、「 蔴荳 」 ( まとう )。
 2013年11月第196号 「 日本統治時代の台湾消印 」 に、「7麻豆」として麻豆の消印を取り上げている。
 そこの引用。『 「 麻豆 」 は現在の台南市麻豆区。 麻豆は元来西拉雅 ( シラヤ ) 平埔族4大社の一つに数えられた蔴荳社の集落が存在しており 「 麻豆番社 」 とも称された。「 麻豆 」 ( 原住民語でMattau 或いは Mattauw ) の由来は平埔族語のMatta ( 目 ) とau ( 港 ) の複合語であり、この地区の中心地として 「 中枢、中心地 」 の意味から命名された。
 オランダ統治時代はこの地区に 「 教会大学 」 が設けられるなど、早くから開発が進み、清代になると漢人が大量に入植するようになり 「 蔴荳保 」 が設置された。日本統治時代初期には清代の制度を継承し、1897年に 「 蔴荳弁務署 」 が設置された。1920年の台湾地方改制に伴い台南州曽文郡麻豆街と改称された。戦後の1950年に 「 台南県麻豆鎮 」 と改称、2010年12月25日には台南県の台南市編入に伴い麻豆区と改称され現在に至っている。 』 として紹介している。

 この時取り上げた切手の消印の字は 「 麻豆 」 であったが、今回のは異体字で 「 蔴荳 」 と書かれている。また、今回気がついたが、『 「 麻豆 」 ( 原住民語でMattau或いはMattauw ) の由来は平埔族語のMatta ( 目 ) とau ( 港 ) の複合語であり 』 とあって、目のMattaはマレー語のマタ=目に通ずるが、台湾原住民語はオーストロネシア語族 ( かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていた ) で、マレー語との共通性をもっていても不思議ではない。

 台湾原住民の諸語は言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したものと聞くと、さすがにこちらは不思議な気がする。

 なお、日本統治時代の台湾消印については第196号の他に、
 2015年12月第221号 『 再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (下) 』
    同   11月第220号 『 再び「 日本統治時代の台湾消印 」 について (上) 』
がありますので併せてご覧ください。

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日本統治時代の台湾 「 蔴荳 」 の消印。 明治42年 7月22日。 ( 200% )



 7月4日(火)
 昨日、映画 『 いつまた、君と 何日君再来 ( ホーリージュンザイライ ) 』 を見てきた。
 俳優・向井理の祖母の手記を元に祖母の苦難の人生 ( 子ども三人を抱えて夫にも先立たれた ) を描いたもので、向井理が若くして亡くなったこの祖父を演じている。
 戦前、仕事を求めて二人して中国に渡ったときのきっかけになった当時の流行歌 「 何日君再来 」 がバックに流れる。
 好花不常開 好景不常在
 「 不常 」 は常には開かず、常にはあらずで部分否定。
 いつも綺麗な花があるわけでもなく、いつもよい景色がみられるものでもない。
 この夫婦のように、人生はよいときばかりとはかぎらない。人生無情。

 尾野真千子が若い頃の苦難の時代の祖母 ( 晩年は先ごろ亡くなった野際陽子 ) を演じている。この人を初めて見たのは台湾を舞台にした映画 『 トロッコ 』 で、若くして台湾人の夫を亡くした二人の子どもの母親役だったが、存在感をあまり感じられない役所であった。それだけに、その後のテレビドラマの 『 カーネーション 』 で演じた小篠綾子役には刮目するとともに、すっかり惚れこんだ。

 映画はともかく、この映画の象徴的存在になっている歌、「 何日君再来 」 の読み仮名 「 ホーリージュンザイライ 」 がいただけない。誰の仕業か。
 常識的に書くなら 「 ホーリーチンツァイライ 」 としたものだろう。
 いつまで経ってもこの辺に神経が払われることがない。
 久しぶりに本屋で見た囲碁雑誌に載っていた台湾出身の女流棋士・謝依旻の読みも 「 しぇい いみん 」 となっている。「 謝 」 の中国語の発音がおかしく、 「 シィエ イミン 」 とするところだろうが、なまじ中国語音にこだわらず、日本語の音読みで 「 しゃ いびん 」 とすればいい。
 Wikipediaの 「 謝依旻 」 もこの辺に無頓着な日本棋院が書いているのだろうから 「 しぇい いみん 」 となっている。
 他でもよくある 「 謝謝 」 の 「 シェイシェイ 」 のルビを見るたび、こちとら、イヤミ氏の 「 シェー 」 を思い出してしまう。

 このこと ( 中国語音のカタカナ表記 ) については、『 中国語音節表記ガイドライン [ 平凡社版 ] ( 2011年8月1日公開 ) 』 と言うサイトがあって、その中で 「 ガイドラインの趣旨について 」 にこう書かれている。
 『 近年、新聞、映画、アート、出版、音楽その他多くの領域で、中国の人名・地名のカタカナ表記がなされるようになってきました。「 フー・チンタオ ( 胡錦濤 ) 」 や 「 チャン・イーモウ ( 張芸謀 ) 」 といった表記も、今や私たちにとって馴染み深いものになりつつあります。
 しかし、カタカナ表記の方法それ自体は必ずしも統一されていません。たとえば、今言った 「 張 」 姓ひとつとっても、メディア上には 「 チャン 」 と 「 ジャン 」 という二つの表記が並列しています。人名検索の際の不便を考えれば、こうした事態は決して望ましいものではありません。また、翻訳書においても、中国音のルビの単純なミスが散見されます。これもやはり望ましくありません。 』
 『 とはいえ、この種の表記のバラつきやケアレスミスは、信頼に足る表記ガイドラインが誰にでもアクセスできる形で存在していれば、ほとんど未然に防げるものです。・・・ 』 私の言いたいことはまさにこのことです。

 とりあえず、中国語音のカタカナ変換ができる 『 中国語カタカナ変換 | どんと来い、中国語 』 というサイトを見つけたが、ここではさすがに謝謝は 「 シエシエ 」 となっているが、「 何日君再来 」 の方は見たこともない 「 フェ゛ァリ゛ージュンザイライ 」 という読みが出てきて、アレアレこちらは意外に今ひとつで、やはり安易にカタカナに頼ろうとするのは限界があって 「 生兵法は怪我もと 」。
 「 中国語音節表記ガイドライン 」 の重要性が痛感されます。

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映画 『 いつまた、君と 何日君再来 』 のチラシ。



 7月3日(月)
 昨日はアイヌ語地名研究会の総会を兼ねた研究大会で朝9時前に出かけて、総会後の懇親会にも出席して夜11時に帰宅するまで一日出ずっぱりだった。こんな日も珍しい。

 会場は初めて足を運んだ札幌コンベンションセンター。
 ここは旧国鉄東札幌駅 ( 1968年設置の札幌貨物ターミナル駅に移管するなどして廃止 ) 跡地の東札幌開発地区に、2003年にオープンした総合型コンベンションセンターで、目を見張る素晴らしい施設だった。
 それはさておき、大会のプログラムを掲げておくが、今年は1997年10月の会発足以来創立20周年を記念する大会でもあった。
 下段には毎年の楽しみな行事 「 アイヌ語地名探訪 」 の案内も載っていて、今年は積丹方面まで出かける。

 さて、内容の逐一には触れないが、特に印象に残ったこととして、研究発表の 「 旅来 ( たびこらい ) はタビコライベツ 」 の中で、北海道にアイヌ語由来の地名に難解な漢字が当てられるようになった原因の一つとして明治7年に開拓使から出された通達 「 当道仮名ノ村名本字に換ル件 」 があったことを知った。要はカナから漢字表記に直せというのだ。

   和人の早く入っていた地域は村名の漢字化が進んでいたが、漢字化が進んでいない地域もあって、そこではアイヌ語音そのままにカタカナで表記されていた。この通達はそのことに対するもので、これにより北海道全部の村名は一挙に漢字化が完了したが、通達の中にある 「 可成字数二字以上を不越様相当之文字ニ改正シ 」 が無理を生じることになった。
 なるべく二字以内に収めよというのだ。

 それで十勝ではセヲリサム村 ( セイ・オロ・サムで 「 貝殻のあるところ 」 の意 ) に 「 凋寒 」 の字が当てられ、やがて漢字に引っ張られて 「 しぼさむ 」 と呼ばれるようになる。
 演題の 「 旅来 ( たびこらい ) 」 のもとは 「 タビコライベツ 」 ( タプコプ・ライ・ベツで 「 タンコブのような山 ( タプコプ ) の麓、よどんだ流れのない ( ライ=死んだ ) 川 」 の近くの意 ) で、「 多福来 」 の字が当てられていたが、二字にせよとの通達に応じて 「 旅来 」 に改められた。

 そのほかにいくつか拾うと、「 ニトマフ村 」 が 「 人舞=ひとまい ( 現・清水町 ) 」 に、「 クッタルシ ( いたどり ) 村 」 が 「 屈足 」 に、「 オフエヒラ村 ( 負箙 ) 」 「 キロロ村 ( 蟻侶 ) 」 「 チョタ村 ( 蝶多 ) 」 「 ヤムワッカヒラ村 ( 止若 ) 」 「 マカンヘツ村 ( 幕別 ) 」 「 チロト村 ( 白人 ) 」 「 ヘチャロ村 ( 別奴 ) 」 等等。
 挙げ句に 「 イカンヘツ村 」 の 「 咾別 」 ( いかんべつ。幕別町の旧大字村名 ) に至っては 「 咾 」 の字は 「 啀(いが)み合う 」 の 「 啀 」 の間違いではないかという。

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アイヌ語地名研究大会次第



 7月2日(日)
 「 郵趣 」 7月号の 「 収集の還暦 」 と題した福井理事長の巻頭コラムに、「 1957年7月1日発行の国際地球観測年のペンギンと愛称されるこの切手を郵便局で買ったのが、私の切手収集のスタートだった 」 とある。
 そしてまた、「 私たちは “ グリコ切手ブーム ” 世代の生き残り 」 という。
 その 「 国際地球観測年のペンギン 」 のFDCを載せておきます。
 私にとっての最初の切手もこの年の 「 関門トンネル開通記念 」 だった。

 国際地球観測年とされた1957年には、各国でこれを記念する切手が発行されている。
 ちょうど先日6月24日の当欄で紹介したソ連南極探検隊の記念カバーにも国際地球観測年の3枚組みの切手が貼られている。

 国際地球観測年は、1957年7月1日から1958年12月31日までの期間に設定された国際科学研究プロジェクトの名称で、国際年の第一号として数えられる。
 国際地球観測年で行われた協力は、以下の12項目があった。オーロラ、大気光 ( 夜光 )、宇宙線、地磁気、氷河、重力、電離層、経度・緯度決定、気象学、海洋学、地震学、太陽活動。
 ソビエト連邦とアメリカ合衆国は、国際地球観測年のために初期の人工衛星・スプートニク1号とエクスプローラー1号を打ち上げた。主な成果は、バン・アレン帯の発見、中央海嶺、プレート・テクトニクス説の確認作業などがある。

 極地は特有の現象を持つ。空気と水は南極大陸内部に封じ込められ、そのまま数十万年の間、大陸に堆積したままになる。これらは過去の地球の気象等を知る手がかりになることから、各国による南極での観測が行われ、その観測結果は国際協力により共有された。
 この国際協力をきっかけに、複数の国により領有権の主張がなされていた南極大陸について、今後も大陸全体を国際協力で観測できるようにするには国境線で大陸を分断しないことが重要という認識が参加国の間で広がり、1959年の南極条約 ( 「 南極地域の平和的利用 ( 軍事的利用の禁止 ) 」、「 科学的調査の自由と国際協力 」、「 南極地域における領土主権、請求権の凍結 」、「 核爆発、放射性廃棄物の処分の禁止 」 などを骨子とする南極地域の平和的利用を定めた条約 ) へと繋がった。

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1957年7月1日発行の国際地球観測年記念切手のFDC。



 7月1日(木)
 今日から7月。
 今年も半年が過ぎた勘定になります。
 早速7月の原稿を張り付けました。
 「 ハルビン・秋林公司本社からドイツ宛のカバー 」。
 ハルビンの有名な老舗デパートの 「 秋林 ( チューリン ) 」 の本社からドイツに宛てられたカバーに取材したもので、今回のことで 「 秋林公司 」 の由来を知ることができました。
 ワンポイントに、今も秋林デパートの玄関のウインドに残る秋林公司のエンブレムの借用画像を載せておきます。

 もとは白系ロシア人が経営するデパートで、その名はロシア人の創業者に由来する。
 チューリン ( Чурин=Churin ) 『 チューリン商会 ( 音訳で中国名 「 秋林 」 ) は1867年に極東ロシアのイルクーツクで創業し、ロシア革命を逃れて1918年 哈爾浜に本社を移したが、これに先立つ1900年にハルビンに支店を開設し 「 秋林洋行 」 と称した。
 本文で触れられなかった部分を関係文献から引用すれば、『 I・I・チューリンは1833年生まれ。若年の頃はイルクーツクで日用品、軽工業製品、簡単な農具などを扱う行商人であったが、次第に利益を上げて、黒龍江の水運を利用して沿岸各地を往来し大量の商品を売買した。冬期には毛皮などシベリアの特産、農産物を買い付けイルクーツクで販売して、次第に財を蓄え、1867年ニコライエフスクにI・I・チューリン商会を設立し、社長として経営を行った。
 その後、チタの河港都市スレチェンスクからアムール河口に近いニコラエフスク・ナ・アムーレにかけて、すなわちチタから黒龍江沿いに沿海州まで配送販売を行い、1870年代にはブラゴヴェシチェンスクやウラジオストックに支店 ( デパートなど ) を開業して、事業を拡大していった。さらに、チューリン商会は人材と出資者を集めて、ハバロフスク、ニコリスコエなどに進出し、イルクーツクに百貨店、化学工場、醸造工場、農機具製造工場などを開設した。
 1882年チューリン商会がチューリン会社に改組された後、I・I・チューリンと同郷で大株主であったA・カシヤノフが社長となった。カシヤノフは経営の才能豊かであり、チューリン会社をさらに発展させていった。
 I・I・チューリンは1895年イルクーツクで死去したが、その後のチューリンを育てたのは、カシヤノフである。 』

 ここに登場するイルクーツク、チタ、 ニコライエフスク、ブラゴヴェシチェンスク、ウラジオストック、ハバロフスク、ニコリスクなど、これらシベリア~極東地方の数々の地名は、私にとっては過去に手がけた作品との関係で懐かしい。

 ということで、以下の関係の作品もご覧ください。
 ・ 2014年1月第198号 『 「 北海道後志支庁忍路郡塩谷村」宛ての外信絵はがき二点 』
 ・ 5 豊かな日々のつれづれに 14「 郵趣の楽しみ 」 (五) 極東共和国について 185~190頁
 ・ 2006年1月第102号 『 ウラジオストク反共政権発行「 プリアムール加刷 」 記念貼りカバー 』
 ・ 2004年11月第88号 「 ウラジオストク物語 」

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今も秋林デパートの玄関のウインドに残る秋林公司のエンブレム。
( サイト 『 冬至の哈爾濱紀行-ロシア建築-鉄道駅周辺-旧・チューリン百貨店 』 からの借用画像 )



 6月30日(金)
 海外から届く郵便物を見るのも楽しい。
 このほどアメリカ・ケンタッキー州のサマセットから届いたメール。
 少し前の切手、古い切手、だいぶ古い切手も貼ってある。
 何と3セントの切手はラファイエット ( フランスの軍人、政治家で、1777年にアメリカに渡り、義勇兵としてアメリカ独立戦争に参加した恩人 ) の来米175周年を記念した1952年発行のもの。
 届く手紙は郵趣関係者からのものだから、時にこのように古い切手が織り交ぜて貼られてくる。

 このカバーには額面33セントの切手が三枚に、13セントと3セントのものが貼ってあるが、都合1ドル15セントは最近のいくつかも同額となっており、書留の表示もないので現在の日本宛ての通常航空料金であるらしい。130円ほどは、日本から第二地帯アメリカ宛の航空郵便基本料金110円とも相応している。

 アメリカの郵便料金の改定はめまぐるしい。
 手許にアメリカの郵便料金改定の推移を見とれる資料がないので、カタログを追ってみると、1932年から58年の足掛け27年間は長く3セントの時代が続いたが、以降は4c、5c、6c、70年代の 8c、10c、13c、15c、80年代の18c~25c、90年代の29c~33c、 2000年代の34c~41c、そして現在の50cに至るまで3、4年のペースで値上げが行われている。

 貼られている13セント ( 1975年から78年にかけてのの封書基本料金 ) の切手は有声映画 ( トーキー ) 50周年を記念して1977年に発行されたもの。
 三枚の33セントも1999年から2001年までの基本料金時代の切手で、いずれも20世紀シリーズとして発行されたもの。
 20世紀シリーズは1999年から20000年にかけて、20世紀を1900年代、1910年代・・・と10年毎に区分して、各年代を代表する事物の切手を15枚組みのシートとして発行したもので、都合150 種の切手が収められている。

 「 TITANIC 」 は1912年のタイタニック号の沈没ではなく、アカデミー賞を受賞した1997年の映画タイタニックを描いたもので、1990年代を代表する一枚として取り上げられている。
 これを見ても、このシリーズの切手図案選定のコンセプトが各年代の 「 事物 」 といいながら、一般的な視点、価値観とは異なることが感じられる。
 あとの二枚も同じ1990年代のシートにある 「 バーチャルリアリティ 」 と 「 ジュラッシックパーク 」。  選定基準はどういったものだったのだろう。

 20世紀シリーズの切手としては、この1月の原稿、第234号 「 世界の高層建築物の歴史 」 でも、1930年代を代表する一枚として発行されたエンパイアステートビルの切手を紹介しています。

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アメリカ・ケンタッキー州から届いたメール。( 73% )
少し前の切手、古い切手、だいぶ古い切手が織り交ぜて貼ってある。



 6月28日(水)
 昨日は漢字同好会の仲間と野幌森林公園の植物観察に出かけ、帰りには江別の千古園 ( 野幌開拓を担った新潟からの移民集団・北越殖民社の創立者の一人で、江別の開拓に貢献した関矢孫左衛門の住居跡地 ) にも立ち寄って久しぶりに樹齢140年の見事なブナの巨木と対面してきました。
 天気にも恵まれ、爽やかな新緑の森を満喫してきました。

 さて、また唐突ながら絵はがきを一枚。(図1)
 さして見栄えのしない材料だが、百年も前のもの。
 裏面の宛名書きの部分は、横須賀の大正5年 (1916年) 6月22日の消印、敦賀の中継の欧文印は翌23日、当時のロシアの首都ペトログラード ( 1914年までロシア帝国の首都サンクトペテルブルク、第一次世界大戦開戦以降 (1914 - 24年) はペトログラード、ソ連時代 (1924 - 91年) はレニングラード、ソ連崩壊後のロシアでサンクトペテルブルクが復活した ) の着印日付は6月28日。シベリア横断鉄道 ( 「 Via Siberia 」 ) 経由で、一週間足らずとは順調で早い。「 シベリヤ経由露都行 」 という当時の表現も面白い。(図2)

   時代は第一次世界大戦下、帝政ロシアの最後の時期で翌年にはロシア革命 ( 1917年にロシア帝国で起きた2度の革命、いわゆる 「 二月革命 」、「 十月革命 」 ) が起こっている。

 戦艦 「 きりしま 」 の図。『 艦種巡洋戦艦。排水量27,500トン。速力28節 ( ノット )。主砲14インチ砲8門 』。
 艦船接頭辞 H.I.J.M.S .は His Imperial Japanese Majesty's Ship の略で 「 大日本帝国の天皇陛下の軍艦 」 の意。イギリス海軍に倣った。

 ところで、日本の軍艦に関する名著がある。「 聯合艦隊軍艦銘銘伝 ~ 全860余隻の栄光と悲劇 」( 片桐大著、光人社 )
 日本海軍の艦艇860余隻の諸元、艦歴を記したこの分野の金字塔。600頁にも及ぶ大作で軍艦事典とも言うべき存在だが、戦歴のみならず艦名の由来やエピソードを綴った 「 一大軍艦物語 」 ともなっている。
 これによれば 「 霧島 (きりしま) 」 は、金剛型の四番艦 ( 二番艦は比叡、三番艦は榛名 )。
 このクラスは当初一等巡洋艦として計画され、建造中の類別標準改定 ( 大正元年 ) により巡洋戦艦、さらに昭和6年に戦艦となった。
 長崎の三菱造船所で1912年3月起工、1913年12月進水、1915年4月就役。
 36センチ砲 ( =14インチ砲 ) 搭載は、本級4隻が世界のトップを切った。
 昭和初期に第一次改装、さらに太平洋戦争前に第二次改装を行って艦容も一変し ( 図2 ) 一躍30ノットを超す高速戦艦に生まれ変わった。

 本級4艦はその高速性能により太平洋戦争で最も活躍したが、特にこの霧島は、開戦劈頭の真珠湾からインド洋作戦、ミッドウェー海戦を経て南太平洋海戦まで常に空母機動部隊に属し、直接空母の支援に当たった。
 昭和17年11月、初めて機動部隊から離れ、別作戦に出動したのが霧島の最期となった。
 僚艦・比叡らとともにガダルカナル飛行場の砲撃に突入したが、敵艦隊と遭遇する第三次ソロモン海戦で大きな戦果を挙げたものの比叡を失い、霧島も大戦を通じて唯一の日米戦艦同士の砲撃戦で大破、自沈した。

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図1 戦艦霧島の絵はがき。( 原寸 )
( 画像をクリックすると原寸に拡大します )

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図2 絵はがき裏面の宛名書きの部分。( 原寸 )
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図3 1940年3月、二次改装後の霧島。



 6月27日(火)
 今日はチョット手抜きで。
 変則川柳、『 まだあった これでもかと マルケッティ 』。
 サボイア・マルケッティ S.55を描いた切手がまだありました。
 当時のイタリアにはこの機種に対する特別の思い入れがあったようです。
 1931年にイタリアの植民地トリポリタニア ( 現在のリビアの西部、首都トリポリを中心とする地方 ) で発行された5枚組みの航空切手。
 図柄はスコットの説明によれば 「 遺跡の上を飛ぶ飛行機 」 で、トリポリタニアとくれば世界遺産にも登録されている古代ローマの北アフリカにおける港湾都市、レプティス・マグナの考古遺跡であろう。

 切手の上段に 「 イタリア植民地農業研究所 」、「 1904-1929 」 の表示があるが詳細は不明。
 トリポリタニアはもとトルコの領土で、1911年の伊土戦争 ( イタリア・トルコ戦争=イタリア王国とオスマン帝国 ) によってフェザーン、キレナイカ地域とともにイタリア領リビアとなり、1951年にリビア連合王国が成立するまで続いた。

 なお、リビアの切手については、2011年9月第170号に 「 リビア、二つの首都 」 を書いていますのでご覧ください。

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1931年にイタリアの植民地トリポリタニアで発行された5枚組みの航空切手。
ローマの遺跡の上を飛ぶサボイア・マルケッティ S.55が描かれている。
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 6月25日(日)
 前にも取り上げたことがあるが、1926年発行のギリシアの航空一番切手で、パステルカラーが印象的なつくづく惚れ惚れする名品です。
 イタリア~ギリシア~トルコ~ロードス島を結ぶ航空郵便路線開設に伴う発行であったようだ。
 ここにも、サヴォイア・マルケッティ S.55が登場しており、この路線の運行に使われたのだろう。サヴォイア・マルケッティ S.55の初飛行は1924年というから、それから間もない就航であった。

 独特のパステルカラーの2ドラクマはアテネに近いファレロン湾 ( サラミスの海戦ゆかりの地 )、3dにはアクロポリス ( 古代ギリシアのポリス=都市国家のシンボルとなった小高い丘のこと。その代表となるアテナイのアクロポリスであろう )、5dは南ヨーロッパの地図 ( まさに飛行コースの地域 )、10dにはコロネード ( ギリシャ建築などに見られる列柱 ) のそれぞれの上を飛ぶサヴォイア・マルケッティが描かれている。

 先日、テレビでイタリアに住むギリシャ人のコロニーの生活を映していたが、あとから調べるとイタリアの長靴の踵の部分に当たるサレント半島のグレチア・サレンティーナという地域で、古代からこの地域に移住したギリシャ系のマイノリティでグリコ語を話すグリコ人であった。

 ギリシアとイタリアが古くから深く関わってきたことは感じ取ってはいるが、うまくは語れない。こんなとき、地中海世界を深く承知している塩野七生さんに、端的に語るとどうなるのかと尋ねたら、どんな答えが返ってくるだろうか。
 塩野七生 ( しおの ななみ ) は、日本の歴史作家、小説家。名前の 「 七生 」 が七月七日生まれに由来すると聞いてなるほどと感心した。
 女性で七夕の生まれというのはロマンチックだが、ただその年、1937年の7月7日は盧溝橋事件の起こった日であった。

 彼女の執筆の源泉がイタリア遊学にあったにしても、日本人にとって馴染みの薄い古代ローマ史やイタリア史、イタリア文化への深い造詣と注ぐ情熱が不思議に思える。
 ただ、厖大な著作は少し難解でボリュームも多いので敬遠してしまうが、いずれにしてもすごいと思う人の一人だ。

ギリシア航空
1926年発行のギリシア航空切手の一番切手。( 120% )
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 6月24日(土)
 ヘリコプターというと当時のソ連南極探検隊がミールヌイ基地からモスクワに宛てた記念カバーの絵柄を思い出す。(図1)
 スプートニク3号の発射記念や国際地球観測年の3枚組みの切手が貼られている。

 そして、映画のランボーシリーズに登場した Mi-24 ( ミル24 ) と覚しき大型の軍用ヘリコプターが、いかにもロシアのものらしい無骨さで印象強い。
 Mi-24はソ連時代の1970年に運用が開始された攻撃ヘリコプターで2,300機以上が生産された。
 また、ロシアはソ連時代からヘリコプター王国と言われるほどカモフやミルを中心に多彩な機種を生み出してきた。

 そこで、1980年に発行されたソ連時代のヘリコプターの切手。(図2)
 1コペイカにヤクのYak-24(1953年)、 2kにミルのMi-8(1962年)、 3kにカモフのKa-26(1965年)、 6kにミルMi-6(1957年)、 15kにミルMi10、 32kに試作機のV12がそれぞれ描かれているが、何が選定の拠り所になっているのか分からない。

 Yak-24は、ソ連で開発された唯一の双発タンデムローターのヘリコプターである。
 Ka-26は、ソビエト連邦のカモフ設計局が開発したヘリコプターで、二重反転ローターを有する双発ピストンエンジンの機体。
 V12は1960年代後半のソビエト連邦の貨物・輸送用の重ヘリコプターの試作機で特異な姿をしており、胴体から左右に伸ばした翼の両端にそれぞれ6枚羽のローターとガスタービンエンジンを持つ。
 Mi-6は、ソ連時代の多目的輸送ヘリコプターで1957年に初飛行。1962年に運用を開始し2002年退役している。1983年に後継機であるMi-26が登場するまで世界最大のヘリコプターで大量生産され、軍民問わず多数が運用された。
 Mi-8は1962年初飛行、1967年に運用開始、生産数12,000機で現在も現役。
 Mi-10は1960年初飛行のクレーンヘリコプターで、1963年運用開始、生産数は僅か。

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ソ連南極探検隊がミールヌイ基地からモスクワに宛てた記念カバー。( 原寸 )
ミールヌイ基地局の消印1959年1月14日、モスクワ着印3月10日。
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1980年に発行されたソ連時代の6種組みのヘリコプター切手。
ロシア語でВЕРТОЛЕТ ( ベルトリェト ) とあるのはヘリコプター。
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 6月23日(金)
 オートジャイロからヘリコプターへ。
 ヘリコプターに代表される回転翼機は、固定翼機に比べると滑走無しの離着陸、下向きの気流を直接発生させることによるホバーリング機能を持ち、また低速での飛行に特性を持つが、そのかわりに高速での飛行はできず、最高速度は400 km/h程度である。
 回転翼機に高速性能を持たすように考えられたのが沖縄配備で問題になっている軍用機オスプレー ( V-22 ) で、ティルトローター ( 回転翼を機体に対して傾ける ) 性能を持つ。
 その最高速度は550km/hとヘリコプターの2倍に達する。

 V-22は、アメリカ合衆国のベル・ヘリコプター社とボーイング・バートル ( 現ボーイング・ロータークラフト・システムズ ) 社の共同開発による。
 愛称のオスプレイは、猛禽類のタカの仲間である 「 ミサゴ 」 ( 空中で静止できることから ) を意味する。

 この分野も探せばいろいろな材料があるはずだが、一つだけ。
 レバノンで1949年にUPU75周年を記念して発行された切手の小型シート。ラクダ図案の通常の切手3種とヘリコプター図案の航空用切手2種が収められている。( 図1 )
 実逓ならば面白いが、これは記念に封筒に貼って記念印 ( 1950年7月18日 ) を押しただけのもの。それもFDC ( 切手と小型シートの発行は1949年8月16日 ) にもなっていない。
  「 BAYROUTH 」 はベイルートのフランス語表記。

 現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった。
   レバノンは第一次世界大戦後後、オスマン帝国の支配から解放されたが、セーヴル条約 ( 第一次世界大戦後、連合国とオスマン帝国との間に締結された講和条約。フランス・パリ郊外のセーヴルで締結されたことによる。オスマン帝国はこの条約によって広大な領土を失った ) でフランスの委任統治領のシリアの一部とされた。
 その後、1941年にフランスはキリスト教徒を保護する名目でシリアからレバノンを分離、レバノンは1943年に独立した。

 レバノンは地中海東岸に面し、気候の温暖な、生産力の豊かな土地で、古代にはフェニキア人がシドンやティルスなどの都市を造り、地中海の海上貿易に活躍し、そのころから杉は 「 レバノン杉 」 ( 優秀な造船材 ) といわれて名産であった。
 栄華の象徴であるレバノン杉が僅かに残る ( 最早レバノン全体で1,200本ほど ) ガディーシャ渓谷は 「 神の杉の森 」 として世界遺産にも登録されている ( 古い教会建築とともに文化遺産に登録 )。

 その後、アッシリア、新バビロニア、ペルシア帝国、アレクサンドロスの帝国、セレウコス朝の支配の後ローマ領となる。ビザンツ帝国 ( 東ローマ帝国。395~1453年 ) が衰えてイスラム化してからは住民の多くはアラブ系となったが、古来のキリスト教徒 ( ビザンツ教会に服さず、ローマ教皇を支持する一派のマロン派 ) も多い。またアラブ系も、スンニ派、シーア派、ドゥルーズ派などに別れ、宗教的なモザイク地域となっている。

 ついでに。
 我が国でもヘリコプターは郵便輸送の手段として注目されたことがあり、昭和30年に首都圏を周回する飛行コースも検討されたが実用には至らなかった。 ( 図2 )

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図1 レバノンで1949年にUPU75周年を記念して発行された切手の小型シート。( 原寸 )
ラクダ図案の通常の切手3種とヘリコプター図案の航空用切手2種が収められている。
封筒に貼って、ベイルートの消印押し。

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図2 昭和 30 年の郵便週間記念ヘリコプター便試行。( 原寸 )



 6月22日(木)
 昨日、ヘリコプターで有名なアメリカ合衆国の航空機メーカー・シコルスキーの名が出たところで、その連想からオートジャイロの話。

 昔、ヘリコプターに似た回転翼機のオートジャイロ ( 別名ジャイロコプターやジャイロプレーン ) という存在があった。
 見た目はヘリコプターにも似ているが、ヘリコプターが動力によって直接回転翼を回転させるのに対し、オートジャイロには回転翼を回転させる動力はなく、飛行にはプロペラなどの推進力を使い、前進によって起こる相対的な気流を受けて回転翼が回転し揚力を生じて飛行するもの。

 最初のオートジャイロはスペイン人のフアン・デ・ラ・シエルバが開発し、1923年に初飛行を成功させた。シエルバはその後、イギリスでシェルバ社を設立し、多くの機種を生産した。そのこともあってか、スペインで発行された切手にオートジャイロを描いた切手があって印象深い。
 一つは1935年発行のセビリアの上を飛ぶオートジャイロを描いた航空切手。
 もう一つは1936年に 「 マドリード新聞社協会40周年 」 を記念して発行された航空切手で、4種類の図案による15枚組みの大型セットで発行されたものだが、そのうちの1種にオートジャイロの図案があって、その4枚を掲げておく。
 ついでながら、このうち 「 ドンキホーテとサンチョパンサ 」 を描いた幻想的なデザインの高額切手3枚があり、好みで掲げておく。

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図1 スペインで1935年に発行された、セビリアの上を飛ぶオートジャイロを描いた航空切手。 ( 300% )
高い塔は98mの高さを誇るセビリアのシンボル 「 ヒラルダの塔 」 で、隣はセビリア大聖堂。
この切手には二タイプあり、右の暗い色調のものは彫り直した原版による。 ( 原寸。画像をクリックすると拡大 )

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図2 スペインの1936年の航空切手で、4種類の図案で発行されたうちの1種にオートジャイロの図案の4枚がある。( 90% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図3 4種類のうち、「 ドンキホーテとサンチョパンサ 」 を描いた幻想的なデザインの高額切手3枚。( 90% )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



 6月21日(水)
 航空切手の続き。
 アフリカの国・ガボンで1970年に発行された航空切手の小型シートです。( 図1 )
 こんな存在を知る人はまず少なかろう。
 古く見えてそう古いものでもないが、それでも発行から50年近く経つ。
 小型シートに魅せられて、関連で遙か昔に手に入れていたものです。
 アフリカのものと言えばさすがに、エジプト、リビアのキレナイカとトリポリタニア、モロッコ、リベリア、ベルギー領時代のコンゴ、マダガスカル、モザンビーク、アンゴラと少しのエチオピアくらいですが、ガボンもあとは数えるほどで縁は薄い。
 ただし、ガボンというと図2のような薄く突き板に削いだ木材を使った変わり種の切手で知られる。

 ガボンは、中部アフリカの大西洋に面した赤道直下の国。
 その歴史はアフリカのご多分に漏れず、西欧の植民地主義に翻弄された。大航海時代のポルトガルによる奴隷貿易に始まり、ついで、オランダ、イギリス、フランスが進出したこの地は、皮肉なことに奴隷貿易と象牙の集散地として栄えた。
 現代史では、1885年にフランスが占領、1910年にフランス領赤道アフリカの一部となり、この状態は1960年の独立まで続いた。

 1970年の航空切手の小型シートの話。
 珍しい8枚構成のシートには、往年の名機が並んでいる。
 15フランは、後にヘリコプターで名を馳せるアメリカ合衆国の航空機メーカー・シコルスキーの双子エンジンを積んだ1928年初飛行の水陸両用機、シコルスキーS-38。
 25 f は、1928年にキングスフォード・スミスが、初の太平洋横断飛行に成功(サンフランシスコ→ブリズベン)したフォッカー・トライモーター ( 乗員2乗客8名。長距離飛行、洋上での安全性を高めた3発エンジン ) の 「 サザンクロス ( 南十字星号 ) 」。
 その航続距離、安定性を生かし、北極探検飛行、大西洋横断飛行、南太平洋横断飛行など、数々の冒険飛行に使用された。
 フォッカー社は1910年にドイツで設立され、第一次世界大戦の敗戦で航空機製造が禁止されたため、1919年にオランダに新しいを設立した。

 40 f と60 f には、ドイツのドルニエ社が製造した当時世界最大の旅客用飛行艇ドルニエ Do Xと第二次世界大戦の開戦前にドイツ空軍で使用された飛行艇ドルニエDo 18 。
 80 f はフランスの航空会社ブレゲーのBr.521ビゼルテ。第二次世界大戦開戦前にフランスで開発された長距離の軍用偵察用の飛行艇で、1933年の初飛行で、第二次世界大戦開戦時でも現役であった。
 125 f は、1920年代のアメリカの複座長距離複葉機複葉機、ダグラス・クラウドスター。
 150 f は、イギリス航空のパイオニア、デ・ハビランドの第一次世界大戦中の推進式単座複葉戦闘機エアコーDH.2。
 そして、200 f には、第一次世界大戦時のイギリスの重爆撃機ビッカース・ビミー。

 150 f の単座機から60 f の乗客 150人の巨大飛行艇ドルニエ Do Xまで、大きさの違いをあまり感じ取ることができないというのがこの切手の欠点と言えば欠点ですが。

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図1 ガボンで1970年に発行された往年の名機を描いた航空切手の小型シート。( 原寸 )
( 画像をクリックすると拡大します )

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図2 薄くスライスした木材を使ったガボンの変わり種切手。
1984年の航空切手の小型シート。「 ハンブルグ切手展記念 」
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 6月20日(火)
 昨日の 「 サボイア・マルケッティ S.55 」 には思い入れがあって、これを描いたもう一つ、1933年発行のイタリア植民地 ( アフリカ各地 ) 用の7枚組みの航空切手を掲げる。
 エリトリア ( エチオピアの紅海沿いの地域 ) 併合50周年を記念したもの。
 一方のデザインは分かりづらいが鷲を描いている。
 高額の50リラだけは5日遅れて発行された。

 ここで、サボイア・マルケッティ S.55 について。
 イタリアのサボイア・マルケッティで開発された双胴の飛行艇で、1927年2月13日- 6月16日にかけて、フランチェスコ・デ・ピネードとカルロ・デル・プレーテの乗ったサンタ・マリア号はセネガルのダカールから大西洋を越えて南北アメリカ大陸の飛行を行った。また、1933年にはイタリア空軍大臣イタロ・バルボに率いられた有名な24機の編隊でイタリアのオルベテッロからアメリカ合衆国のシカゴまでの飛行を行ったことで知られる。

 機体のレイアウトは独特で、乗客や貨物は双胴の艇体に収納され、操縦席は艇体の間の厚い主翼内に置かれた。双発のエンジンは主翼のうえにエンジン架を組んで前後に串型に配置され、2枚の垂直安定板と中央に方向舵が艇体から梁で支えられている。

 地中海沿いのローマの北西約120kmに位置するオルベテッロの潟湖は、戦間期のイタリアにおいて水上飛行場として利用され、大西洋横断飛行の出発地などイタリア空軍の航空イベントの舞台となった。
 フランス領のコルシカ島 ( フランス語ではコルス島。皇帝ナポレオン1世の出身地として知られる ) を望み、近くにはコルシカ島との間にイタリア領エルバ島 ( ナポレオン・ボナパルトが最初の退位後に追放された地として知られる ) もある。

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サボイア・マルケッティ S.55 が描かれた、1933年発行のイタリア植民地用の7枚組みの航空切手 ( 原寸 )
50リラは200%に拡大



 6月19日(月)
 「 一物一価の法則 」。経済学では 「 自由な市場経済において同一の市場の同一時点における同一の商品は同一の価格である 」 というのが一つの理屈だが、スーパーの食品の値段一つをとって見ても、現実は 「 一物多価 」 の世界だ。
 様々な条件も加味されるから、理屈どおりにいくものではない。却って自由経済の市場競争が価格を一つに収斂させはしない。
 要は売り手と買い手が納得ずくでそれぞれの取引がまとまる。そこには、同じものでありながらいろいろな 「 一物多価 」 が存在することになる。
 いいときもあればそうでないときもある。市場は常に裏腹だ。

 さて、今回の市場に戻した 1936年のイタリア航空切手の名品は、80年ぶりで母国イタリアに戻っていった。
 いかにもデザインの国イタリアの切手で色調・構図ともに素晴らしい。
 当時の補助貨幣単位25チェンテシミには特異な双胴の飛行艇、サボイア・マルケッティ S-55 が描かれている。
   当時の航空機は個性的で面白い。
 サボイア・マルケッティ S-55 の写真を借用して載せておきます。

 2013年10月第195号に 「 航空機の切手 ( 特徴ある二機種について ) 」 を書いていますのでご覧ください。

italy-l1600.jpg 1936年のイタリア航空切手の5種セット。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

800px-Savoia-Marchetti_S_55_felszállás_közben サボイア・マルケッティ S-55 ( 借用画像 )



 6月18日(日)
 昨日に引き続いて、第一次国立公園切手の小型シートのタトウ表紙の戦後編。
 改めて眺めて見ると、昨日の戦前の国立公園切手の小型シートのタトウが非常に丹誠込めて作られていたのに比べ、戦後のものは地図と英語対訳の公園の概要、切手の図案説明だけの至って単純なものになってしまった。
 「 吉野熊野 」 と 「 富士箱根 」 は重複するが、昨日と同じスタイルで並べておく。

 先ずは表紙のデザインについて。
 昭和24年4月発行 「 吉野熊野国立公園 」。リュックサックと鋲を打った登山靴にピッケル。
 昭和24年7月発行 「 富士箱根 」。曾我兄弟が仇討ち向かう姿。
 昭和25年7月発行 「 阿寒 」。 ニジマスと阿寒湖のマリモ。
 昭和26年7月発行 「 十和田 」。奥入瀬の渓流。この年は 「 国立公園法施行二十周年 」「 十和田国立公園指定十五周年 」に当たり、関係の文字を記載している。
 昭和27年7月発行 「 中部山岳 」 。乗鞍岳への登山道路と懐かしいボンネットバス。もうすでにこんなにバスが入り込んでいたのかと驚く。これまでのものとトーンが変わった。
 昭和27年10月発行 「 磐梯朝日 」 。月山の修験者。

 切手4種による大型のこのスタイルの発行はここまでで、昭和28年の 「 支笏洞爺国立公園 」 以降は切手の発行は二種となり ( 国内用はがき、書状料金のみ )、小型シートも従来の半分の大きさになってしまった。

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 戦後初期の6つの国立公園のタトウを発行の順に並べる。
「 吉野熊野 」「 富士箱根 」「 阿寒 」 の各タトウ。 ( 43% )
( 画像をクリックするとそれぞれに二段階で拡大します )

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「 十和田 」「 中部山岳 」「 磐梯朝日 」 の各タトウ。 ( 43% )
( 画像をクリックするとそれぞれに二段階で拡大します )



 6月17日(土)
 第一次国立公園切手の小型シートのタトウの表紙に描かれたワンポイントの絵が味わい深いので見ておきたい。
 日専はじめ、どのカタログも小型シートこそ図版に載せているが、タトウの表紙の図柄まで示したものは見たことがない。関係者はいつかどこかで目にしているだろうが、このコーナーでは紙幅から少し無理気味だが取り上げておきたい。

 今日は戦前に発行された6箇所。
 戦前の発行は昭和13年の 「 日光 」から、「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」「 大雪山 」「 霧島 」 と、昭和16年の 「 台湾/」大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 まで。
 昭和13年12月発行 「 日光国立公園 」。日光東照宮・坂下門の左甚五郎作 「 眠り猫 」。
 昭和14年4月発行 「 大山・瀬戸内 」。二つの国立公園を合わせて発行した。鳴門の渦潮と壇ノ浦の合戦で那須与一が平家の扇を射るのに使った鏑矢 ( かぶらや )。
 昭和14年8月発行 「 阿蘇 」。阿蘇神宮を背景に、編み笠と矢筒。
 昭和15年4月発行 「 大雪山 」。森の羆(ひぐま)。
 昭和15年8月発行 「 霧島 」。ミヤマキリシマを図案化。
 昭和16年3月発行 「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」。銅鏡に原住民の模様。

 タトウは表紙のみならず、中身も凝っている。
 地図と英仏語による切手図案の説明を基本としながら、それぞれに違った工夫がなされている。
 「 日光 」。見開きに地図と切手4種の図案説明。
 「 大山・瀬戸内 」。見開き右側には、万葉集第七巻の歌と英文対訳。「 海人小舟 ( あまをぶね ) 帆かも張れると見るまでに 鞆の浦囘 ( うらみ ) に浪立てり見ゆ 」。
 「 阿蘇 」。見開き右側には、日本後記巻五 「 桓武天皇 」 と仏語対訳。「 延暦十五年秋七月辛亥、詔曰朕以眇身忝承司牧、日肝忘食、・・・ 」。
 「 大雪山 」。見開き右側には、アイヌ神話とその仏語対訳。「 太古蒼茫の代、森々たる大海の表に、ただ大雪山がいただきを現していた。国土創造の神、そのいただきに降りたちて、雲を埋めては陸地として行った。・・・ 」。
 「 霧島 」。見開き右側には、「 高千穂峰の一伝説地 」 の一文と 「 日本書紀巻第二 」 の一節を、その仏語対訳とともに掲載。
 「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」。いわゆる外地の台湾の国立公園切手のタトウには内地で発売された 「 逓信省 」 銘のものと、ここにある台湾で発売された 「 台湾総督府 」 銘のものがある。このタトウには、二つの台湾国立公園の小型シートが収められている。見開き右側に、「 明治天皇御製 」 二首 「 新高のやまよりおくにいつの日か うつしうゝうべきわがおしへぐさ 」 と 「 新高の山のふもとの民草も茂りまさるときくぞ嬉しき 」、また 「 昭憲皇太后御歌 」「 天つ日の光をうけて年々にしげりそふらむ新高の山 」 を仏文対訳で記している。

 いずれも高尚優雅の極みであった。

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 戦前に発行された6つの国立公園のタトウを発行の順に並べる。 ( 43% )
「 日光 」「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」 国立公園小型シートの各タトウ。
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「 大雪山 」「 霧島 」「 台湾/大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 の各タトウ。 ( 43% )
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 6月16日(金)
 昨日、国立公園切手の原図のもとになった写真の構図について、『 近景、遠景、点景 ( 風景画・風景写真などで、全体を引き立たせるために加えられた人や物など ) を意識した撮影理論を見るようだ 』 と書いた。

 その 「 点景 」 の例としては、戦前の阿蘇2銭の久住山手前の茅葺きの農家、同じく戦後の二次富士箱根24円の農家、磐梯朝日5円の吾妻小富士をバックに岩頭に立つ人、羊蹄山麓のサイロと畑を耕す農婦、そして縦長の中部山岳の二枚、5円の登山者、10円の黒部峡谷の吊り橋を渡る人などが挙げられる。( 図1 )

 また 「 近景 」 の例を挙げれば、戦前の一次富士箱根10銭の三島からの富士の手前の東海道の松並木、大雪山20銭の十勝連山を望む右手前の枯木、大屯・阿里山2銭の大屯山の手前に描かれた植物、吉野熊野5円の手前右側の老木、二次富士箱根2円の三つ峠のススキ、磐梯朝日24円の月山斜面の高山植物、そして縦長の次高・タロコ2銭の清水断崖を穿って作った道路、などがある。( 図2 )
 やはり、どれを見ても惚れ惚れする。

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図1 国立公園切手に見る 「 点景 」 の例。( 135% )
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図2 国立公園切手に見る 「 近景 」 の例。( 135% )
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 6月15日(木)
 昨日に引き続き、今日は 「 富士箱根国立公園 」 の小型シートを。
 この国立公園シリーズを通じて切手の原画となる写真の選定に当たっては、名カメラマンによる多くの写真の中から、どれほど神経が払われて厳選されたかを聞いた憶えがある。
 そのことが切手に反映して、小さな切手の印面に描かれた風景が驚くほど広がりをもって大きく感じとれる。小さな印面から大きな風景が広がる。写真の力だ。
 それに比べて、1962年からの第二次国立公園切手は、安直に選ばれた平凡な写真が多く、それらは印面に収まっただけのものでしかなく、そこから広がりなど微塵も感じられない。また版が小さくなったことはさておいても、原画の写真に 「 撮影理論 」 はなく、色もわざわざ何でこんな色を選ぶのかと首を傾げるほどに悪い。

 第一次の国立公園切手に戻って、それらの原画の写真は厳しいカメラアングルで撮影され、さらに厳選されたもの。近景、遠景、点景 ( 風景画・風景写真などで、全体を引き立たせるために加えられた人や物など ) を踏まえた撮影理論を見るようだ。このシリーズに時おり見られる大自然の中に登山者などが点景として登場するのもまたよい。この24円に見える茅葺きの農家もその一つで、人の営みと自然の織りなす景観、それは世界遺産の 「 文化的景観 」 にも通ずるものがある。

 また、この富士箱根はシリーズの中でも独特で、他に見られない特色があるのに気づく。
 他がそれぞれの国立公園を代表するいろいろな場所を選んでいる ( 昨日の吉野熊野のように ) のに対して、この富士箱根に限っては対象を富士山に絞り込んで、それを四季と絡めているところに、他に見られない独特な発想が見られる。

 四季で言えば、2円の三つ峠からの富士はススキがなびく 「 秋 」、8円の河口湖畔は桜が満開の 「 春 」、14円の七面山からの富士は夏雲が沸き立つ 「 夏 」、そして24円の山中湖の手前にわら屋根の民家が点在する雪景色の 「 冬 」。
 雑誌 「 郵趣 」 で以前、「 昔のカメラアングルの地を尋ね、昔と今を比べる 」 企画記事があったが、当然ながら24円の場所にも市街化の波が押し寄せて、多くの建物が建ち並んだ狭苦しい風景にすっかり変わってしまった。

 もう一つ、このシリーズで厳選された写真とともに素晴らしいと思うのが、4種の額面に対応して選定された色使い。
 2円の茶の濃淡の妙。14円の日専では 「 暗い赤 」 と表現されている独特な赤、そして24円の明るい青のそれぞれの色合いと色調の素晴らしいこと。

 タトウの表紙に描かれているのは、富士の裾野にゆかりの曾我兄弟が仇討ち ( 建久4年=1193年、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件 ) に向かう姿だという。

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「 富士箱根国立公園切手 」 小型シートのタトウ表紙。 ( 90% )
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「 富士箱根国立公園切手 」 小型シート。( 90% )
標題の 「 富士箱根 」 は篆書体。
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タトウ見開き右側の地図。( 90% )
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 6月14日(水)
 チョット能のない話ですが、昨日 「 吉野熊野国立公園切手 」 を取り上げたところで、同時に発行された小型シートの話。
 郵趣仲間には今さらですが、外国人観光客を誘致する意図で発行が始まったという国立公園切手のシリーズは、切手ととともに小型シートが発行され、一連の発行には当時の切手制作者の魂の籠もった意気込みが感じられる。

 小型シートとセットで発行された国立公園切手は、戦前には昭和13年の 「 日光 」 から、「 大山・瀬戸内 」「 阿蘇 」「 大雪山 」「 霧島 」と、昭和16年の 「 台湾 / 大屯・新高阿里山、次高・タロコ 」 まで続き、以降戦争で中断し、戦後は昭和24年のこの 「 吉野熊野 」 が再スタートの第一号になった。

 小型シートは、英文対訳 ( 戦前の当初は英仏文入り ) の付いた説明文と地図を入れたタトウ ( 畳紙=たとうがみ。中身を包む紙 ) が付けられた丁寧で立派な造りになっている。
 また、タトウや小型シートの標題の篆書に子ども心に味わい深さを感じ、振り返ればこれが漢字の書体に興味関心を向けるきっかけになったように思われる。

 タトウの表紙に描かれたリュックサックと鋲を打った登山靴、ピッケルに、戦後間もなく始めた叔父達の登山のアルバムに見た時代の匂いを感じ、「 青い山脈 」 の歌詞が重なる。
 図案は、2円が三重県熊野市井戸町にある「獅子岩」、5円が奈良県南部にある 「 大峰山 」、10円は和歌山県新宮市から奈良県吉野郡十津川村にまたがる峡谷 「 瀞八丁 」、16円は紀伊半島の南端、潮岬近くにある 「 橋杭岩 」 である。
 なお、この一帯は後に 「 紀伊山地の霊場と参詣道 」 として登録された世界遺産の地域と重なる。

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「 吉野熊野国立公園切手 」 小型シートのタトウの表紙。 ( 90% )
標題の 「 吉野熊野国立公園郵便切手 」 の篆書体の字が味わい深い。
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「 吉野熊野国立公園切手 」 小型シート。 ( 90% )
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タトウ見開き右側の地図。 ( 90% )
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 6月13日(火)
 これも誕生日関連のマテリアル。ただし一日違いですが。
 こちらは外信便。( 図1 )
 当時のチェコスロバキアの首都プラハの 「 エスペラント研究所 」 (?)宛て。
 函館の欧文印の日付は 「 30.5.49 」。
 色々取り合わせた切手4枚の額面合計は16円で、国際・平面路 ( 船便 ) の料金。
 この郵便料金は、昭和23年9月1日から昭和24年5月31日までで、この16円の国際書状料金は、二日後には24円に変わっている。

 郵便料金の変更と前後して、当時シリーズで発行されていた国立公園切手の額面も改定料金に合わせて変更されている。( 図2、3吉野熊野の額面から二次富士箱根の額面に )
 昭和24年5月1日の国内料金の改定で、国内書状料金が5円から8円に。はがき料金は2円で変わらず。
 昭和24年6月1日の国際郵便料金の改定で、国際書状料金が16円から24円に、はがき料金は10円から14円に値上げ。

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図1 チェコスロバキアの首都プラハ宛ての外信便。( 原寸 )
 函館の欧文印の日付は 「 30.5.49 」。
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図2 吉野熊野国立公園切手。昭和24年4月10日発行。2円、5円、10円、16円。( 135% )
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図3 二次富士箱根国立公園切手。昭和24年7月15日発行。2円、8円、14円、24円。( 135% )
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 6月12日(月)
 脈絡無しの思いつきですが。
 この世界に首を突っ込んでいる者が一度は考える、誰しもに共通するテーマ。
 自分の誕生日の消印とそのマテリアル。ただそれだけのたわいもない話ではありますが。
 勿論、年月日が揃ったものです。
 意識的に探し求める場合もあり、偶然に入手する場合もある。またこのような仲間からのプレゼント。

 その前に、その日、昭和24年5月31日の発行の切手が・・・それはない。
 ただ惜しくも一日違いの6月1日に、珍しく 「 中央気象台創立75年記念 」 と 「 郵政省・電機通信省設置記念 」 ( いわゆる両省設置記念 ) の二種が同時に発行されている。
 図1はその二種のFDCのリーフ。
 これに先立つ5月1日の国内郵便料金の改定で、書状用の額面がそれまでの5円から8円に変わった。

 さて、肝心の誕生日の消印が押されたマテリアル。( 図2 )
 静岡県富士宮市から茨城県真壁郡大宝村 ( 現在は下館市の一部 ) に宛てられた封書。  日付部分が鮮明なのがこのテーマの何よりポイントで、見えずらい部分には 「 富士宮 / 静岡縣 」 と記されている。
 切手三枚の合計は当時の第一種の封書基本料金の8円 ( 昭和24年5月1日~昭和26年10月31日 ) で、戦後のまだ占領下の時代 ( 敗戦からサンフランシスコ講和条約が発効する1952年(昭和27年)4月28日まで ) で、占領軍の検閲制度によるPC ( Post Censor ) の検閲印と開封を閉じた封緘のセロテープ 「 OPEND BY MIL.CEN.-CIVIL. MAIL 」 ( 軍事検閲により、民間郵便物を開封 ) が貼ってある。
 そんな時代でした。

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図1 昭和24年5月31日の発行の二種。
「 中央気象台創立75年記念 」 と 「 郵政省・電機通信省設置記念 」 のFDC。( 85% )

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図2 昭和24年5月31日消印のマテリアル。 ( 85% )
左、表の下部にPC印。
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 6月10日(追加)
 孫の運動会に行ってきましたが、札幌の幼稚園の運動会は多くが近くの小学校のグラウンドを借りて実施しているのに、会場が真駒内 ( まこまない ) のアイスアリーナの貸し切りというのはゴージャスです。雨の心配も要りません ( 実際今日は雨でした )。
 図1 に会場屋内の様子。

 いきなり余談ですが、飾られた万国旗 ( 札幌オリンピックの会場となった当時のままであろう ) に 「 青天白日 」 と今はなきソ連の国旗があるのに違和感を覚えた。 ( 図2 )
 札幌オリンピックがあった1972年、この年の9月には日中の国交が回復し ( 9月29日に 「 日中共同声明 」 の調印式 )、中国が国連の代表権を獲得するとともに、青天白日の台湾が国際舞台から姿を消した。
 そうしてみると、この万国旗は当時の歴史を伝える 「 貴重な存在 」 ということができ、却って青天白日を 「 五星紅旗 」 に、「 鎌とハンマー 」 をロシアの 「 スラブの三色旗 」 に変える必要もなかろう。
 いや、国連総会で中国の代表権が認められた ( 同時に中華民国政府 ( 台湾=国民政府 ) の追放 ) のは、この前年、1971年の10月で、それからすると 「 青天白日 」 が 「 五星紅旗 」 になっていないのは変だ。
 そこで、札幌オリンピックの参加国・地域を確認すると、35か国・地域からの参加で、中華民国とフィリピンは冬季オリンピックに初めて参加したとあり ( 中国からの参加はない )、参加地域の台湾の 「 青天白日 」 があるのは当然としても、1971年10月、1972年2月、9月はその辺の線引きが錯綜した過渡期であった。

 真駒内屋内競技場は、札幌オリンピックの会場として1970年 ( 昭和45年 ) に竣工した、札幌市南区にある多目的施設 ( アリーナ )。
 ここでも余談だが、最近の倣いで、北海道セキスイハイムが 「 ネーミングライツ ( 命名権 ) 」 を取得し、名称が 「 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 」 になっている。

   ここは1972年に開催された札幌オリンピック冬期大会 ( 2月3~13日 ) の スピードスケート競技の会場となったところで、近くに設けられた真駒内選手村の宿舎はその後 「 五輪団地 」 として一般の入居者に利用され、近くの橋も 「 五輪大橋 」 と名付けられるなど、地元にその名を残している。

 その開催を記念して、1972年2月3日に発行された 「 札幌オリンピック冬期大会記念 」 の三種は日本初のテート・ベッシュtete-bche ( フランス語。 「 上下あべこべ、互い違いに 」 の意。同じ種類の切手が、シートの中の隣どうしで、逆向きに印刷されている ) として発行されている ( 図3 ) が、この斬新な切手の発行経緯 ( 誰の発案でどのような経過を経て発行に至ったのか ) が知りたい。

 この大会で 「 銀盤の妖精 」 と呼ばれ有名になったジャネットリンのフィギュアスケートの会場となったのは札幌市東区の美香保公園にある札幌市美香保体育館 ( 1972年の札幌オリンピック、フィギュアスケートの会場として1970年に竣工した ) で、50円切手の二人のスケーターのバックに描かれているのはスピードスケート会場となった真駒内のアイスアリーナで、デザインとしては誤解を招く。

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図1 会場屋内 ( 真駒内のアイスアリーナ ) の様子。

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図2 飾られた万国旗に 「 青天白日 」 と今はなきソ連の 「 鎌とハンマー 」。 ( 図1の左手部分 )

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1972年2月3日に発行された 「 札幌オリンピック冬期大会記念 」 の三種は日本初のテート・ベッシュ。 ( 107% )



 6月10日(土)
 逓信省発行の記念はがきの話の続き。
 昭和3年11月10日発行の、No 31の昭和大礼 ( 昭和天皇の即位式 ) の二枚組みのもの。
 売価15銭。発行数134万組。( 図1,2 )
 この時には、4種の切手 ( 記念はがきに貼付の二図案 ) も同時に発行され、記念特印 ( 図3。儀式に使用される大錦旗の霊鵄 (とび) と大太鼓の図案化 ) との3点セットであったが、このうち、奉納の舞を描いた記念はがきの一枚は多色刷 ( 確か15色とか ) の木版画で、手間の掛かる手刷りの工程に全国から集められた摺師 ( すりし ) は納期の期限に昼夜兼行の大童であった。

 即位の礼は、天皇が践祚 ( せんそ。天子の位を受け継ぐこと ) 後、皇位を継承したことを内外に示す儀典で、最高の皇室儀礼とされる。諸外国における戴冠式にあたる。
 即位式の後に、五穀豊穣を感謝し、その継続を祈る一代一度の大嘗祭が行われる。即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼または御大典と称される。

 昭和天皇の即位の礼・大嘗祭は京都御所で行われ、1928年 ( 昭和3年 ) 11月6日、昭和天皇は即位の礼を執り行う為、宮城から京都に向かった。
 京都で一連の儀式が行われたのち、11月21日に伊勢神宮を親拝し、即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨を奉告し、11月26日に帰京した。
 帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、観兵式・観艦式等が執り行われた。

 今上天皇 ( 平成天皇 ) の即位の礼・大嘗祭を巡る儀式は、1990年 ( 平成2年 ) 1月23日の期日奉告の儀から始まり、1年間に渉り関連行事が行われた。
 その即位礼の中心となる 「 即位礼正殿の儀 」 が1990年 ( 平成2年 ) 11月12日、皇居宮殿正殿松の間で行われたが、桓武天皇など古代の天皇はほとんどが朝堂院大極殿で、大極殿が焼失してからは内裏紫宸殿で行われ、大正天皇、昭和天皇は京都御所紫宸殿で 「 紫宸殿の儀 」 として行われたが、東京で即位礼を挙げるのは今上天皇からである。

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図1 No 31 昭和大礼記念はがきのタトウと説明書。

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図2-1 昭和3年11月10日発行の昭和大礼二枚組の記念はがき。
No 31-2 『 響宴場における五節の舞の図 ( 木版多色刷 ) 』

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図2-2 No 31-1 『 承明門より紫宸殿の儀式を望む図 ( 岡田三郎助画 ) 』

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図3 記念特印印影。
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 6月9日(追加)
 季節の花便り。
 札幌はフジやライラックが盛りを過ぎて、いまルピナスとジャーマンアイリスが盛りの時期を迎えています。
 ジャーマンアイリスは乾燥にも強く、大振りの色とりどりの花で札幌にすっかり定着しています。
 ハマナスも咲き始めました。

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ジャーマンアイリスの花は色とりどり。

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ルピナスも多彩な花です。

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ハマナスも咲き始めました。



 6月9日(金)
 昨日の続き。
 「 日本切手百科事典 」 の第5部、ステーショナリーのⅡ 「 記念絵はがき 」 の説明に、
 『 戦前の逓信省は、国家的に重要な意義のある記念事項がある場合に、記念事項にふさわしい意匠を盛った記念絵はがきをしばしば発行した。 』
 『 記念絵はがき ( 略称 「 記葉 」 ) 発行の場合は、特殊通信日付印 ( 「 特印 」 ) が、ほとんどの場合に使用された。 』 とあり、
 逓信省発行の記葉は、1902年 ( 明治35年 ) の万国郵便連合加盟25年紀念 ( 図1,2 )を初めとして、明治時代には日露戦争関係を中心に数多く発行され、このころの記念絵はがき収集熱の高まりと相俟って発行は賑わいをみせた。
 大正時代は 「 大正大礼 」 や 「 平和記念 」 ( 第一次世界大戦の終結 ) で5回、昭和は 「 昭和大礼 」 や 「 式年遷宮 」 などで戦前に4回の発行があり、戦後は唯一となった 「 日本国憲法公布 」 記念で大量の売れ残りが出たのに懲りて、記念絵はがきの発行はこれが最後になった。

 図3の絵はがきは逓信省発行の 「 記念絵はがき 」 ではないが、中段の写真に 「 神田郵便局戦役記念絵葉書光景 」 と説明がある。
 裏面の消印から1907年使用の絵はがきであるが、「 ( 日露 ) 戦役記念 」 は前後5回発行されており、このときは1906年5月の第5回の 「 明治37-38戦役 」 記念発売時の光景と見られ、延々長蛇の列が明治期の 「 記葉収集熱の高まり 」 を伝えている。

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図1 初の記念絵はがき「万国郵便連合加盟25年紀念」の6枚セットのうち、No 1-4
『 加盟当時のわが駅逓局と、1874年初めて連合大会議を開いたベルン ( スイス ) の会場 』 右下に記念特印。
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特印参照

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図2万国郵便連合加盟25年紀念の6枚セットのうち、No 1-6 日本交通地図
右上に、白抜きで 「 万国郵便連合加盟二十五季祝典紀念 」 の文字。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )
拡大で地図参照

記葉行列
図3 1906年5月の第5回 「 明治37-38戦役 」 記念絵はがき発売時の神田郵便局に並ぶ延々長蛇の列。
上には記念絵はがきを買い求める人たちの手許、右下に特印の押印風景。
交通学館発行 「 第一回交通記念絵葉書 」 とあるが不明。
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中央の神田郵便局に連なる人々の列に注目。



 6月8日(木)
 6月2日に取り上げた絵はがきに押された 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印にかかわる記念絵葉書がこれです。
 袋に入った二枚組で、袋には 「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 「 大日本帝国逓信省発行 」 と書かれている。
 逓信省発行の記念絵葉書となれば、そういえば 「 日本切手百科事典 」 に載っていた筈と調べてみるとありました。
 「 記念絵はがき 」 のNo 22で、発行日は明治41年10月17日、売価10銭とある。
 No 22-1の説明には 『 アメリカ艦隊司令長官スペリーの写真を中心に、鷲、イカリ、両国旗、軍艦旗、月桂樹などを配して歓迎の意を表わした図案 』。
 No 22-2の説明には 『 米国艦隊旗艦コネチカット号の写真を中央にイカリとバラを配し、錨綱で米国艦隊を表わしたもの 』 と書かれている。

 米国艦隊の陣容は、旗艦コネチカット以下戦艦16隻、通報艦ヤンクトンほか駆逐艦6隻、給炭船など補助艦船5隻、乗組員14,000人を擁する大艦隊で、この西回りの世界周航は所要日数14ヶ月、航程43,350マイルに及ぶものであった。
 全行程は3つに区分され、第1航程は米東海岸のハンプトン・ローズを1907年12月16日に出港、大西洋を南下、マゼラン海峡を通って太平洋を北上、サンフランシスコまで。 
 第2航程はサンフランシスコから太平洋の横断。ハワイを経由し、ニュージーランド、オーストラリアの各港に寄港し、マニラから日本 ( 1908年10月18日から25日まで碇泊 ) を往復。
 第3航程はマニラを12月1日に出港、マラッカ海峡を通ってインド洋を横断し、スエズ運河から地中海に入り、ジブラルタル海峡から大西洋を横断してハンプトン・ローズに帰港 ( 1909年2月22日 ) するものであった。

 米艦隊の日本来航時期に合わせて、民間レベルの交流も企画され、主要5都市商業会議所連名で米国の実業団を招き、一行は米艦隊の歓迎行事にも加わるとともに、鉄道での移動に際しては食堂車を連結した特別列車が提供されるなど優遇された。
 また、米艦隊の来航に合わせて、同艦隊に所属する士官の家族 ( 婦人、令嬢 ) も来日し、彼等もまた各種の歓迎行事に招待されるとともに、鉄道の移動や宿泊などにも特別な待遇を受けている。
 そうした歓迎行事の折にも、この絵葉書が配布されたのではなかろうか。

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「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 袋。 ( 原寸 )

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「 米国艦隊歓迎 紀念絵葉書 」 の二枚セット。 ( 原寸 )
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旗艦コネチカット。

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絵葉書裏面に押された 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印



 6月7日(水)
 世界遺産がらみで世界地図を改めて眺め渡してみると、各国の面積が自分の頭に思い描いたイメージとずれていることに気がつく。

 頭の中に描かれた地図は、低緯度地方は過小に、高緯度地方は過大に描かれるメルカトール図法のイメージに支配されて、低緯度地方の国の面積は実際よりも小さく、高緯度地方のそれは実際よりも大きいものと先入観で捉えられている節がある。
 それで特にズレの大きいと感じた国を挙げてみると、エジプトが日本の2.6倍、エチオピアが約3倍、インドネシアが5倍、トルコが2倍、ミャンマーの1.8倍というあたりで、それぞれ日本よりそんなに大きかったのかと思わされた次第。
 逆に思っていたより小さいと感じたのが、ドイツの94% ( 対日本 )、ポーランドの82%、ルーマニアの63%といったあたりで、主要国のフランス ( 1.7倍 )、スペイン ( 1.3倍 )、イタリア ( 80% ) 、イギリス ( 64% ) などはほぼイメージと重なるものであった。

 また意外だったのが北極海に突き出したロシアのノヴァヤゼムリャで、ずいぶん大きな島に思えていたが、改めて数字で確認すると面積はおよそ9万km2で北海道 ( 8万3千km2 ) よりやや大きい程度であるというのはイメージと大部ずれていた。

 ついでながら、赤道の位置も頭の中の地図は曖昧で、南米やアフリカでは少し北にずれていた。ポイントを押さえておけば確かで、改めて南米はエクアドル、インドネシアではニューギニアの恐竜の頭の上をかすめて、スラウエシのKの頭、ボルネオの下部、スマトラの中央を横切って、アフリカではくびれの少し下と心得ておけばよい。

 ところで、エチオピアという国も想像していた以上に面積の大きい国で、世界で27番目、日本の2.9倍ある。そして何より、3,000年の歴史を有するアフリカ最古の独立国で現存する世界最古の独立国の一つという存在に注目される。とかく馴染みの薄いアフリカにあって、国名と位置が強く意識されている国だ。
 現代史では、イタリアの侵略を受け、1896年の第一次エチオピア戦争ではアドワの戦いに勝利してイタリアを退けたが、第二次エチオピア戦争 ( 1935-36年 ) に敗れ、首都アディスアベバ陥落後、皇帝はロンドンに亡命し、1936年から1941年にかけてエチオピアはイタリアの植民地に編入され全土を占領された。第二次世界大戦が始まるとイギリス軍の支援のもとで皇帝ハイレ・セラシエ1世が1941年にアディスアベバに凱旋して再び独立を回復し、独立回復の翌年の1942年にはかつて占領されたイタリアを含む枢軸国に対し宣戦布告し、連合国として第二次世界大戦に参戦した。

 エチオピアの切手というと、1947年に第二次世界大戦の終結記念して発行された、ルーズベルト大統領と皇帝ハイレ・セラシエ1世 ( エチオピア帝国最後の皇帝。在位1930-1974年 ) が描かれた大型の切手が印象的だが、切手下部に 「 Wright Bank Note Company 」 の銘が入っているとおり、戦後の同時期にリベリアやインドネシアの切手も手がけたフィラデルフィアの紙幣製造会社ライト・バンクノート社製である。
 また、切手の上部に記されているのはエチオピアの公用語・アムハラ語を表記するゲエズ文字で極めて古い歴史を持つ。
 世界遺産に登録されている 「 ラリベラの岩の聖堂群 」 ( 12~13世紀に造営されたエチオピア正教会の岩窟聖堂群 ) のギョルギス聖堂は、中国・四川省の巨大な楽山大仏と同じく、足下の岩を掘り下げる方法 ( 足場が要らない ) で作られている。

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1947年発行。スエズ運河会議記念 (?)。
ルーズベルト大統領とともに描かれた皇帝ハイレ・セラシエ1世。

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同時に発行された航空切手。第二次世界大戦の終結記念。



 6月6日(火)
 6月6日というと、関係のないことではあるがこの日はノルマンディー上陸のDデーであった。

 さて唐突ながら、イギリスで一番高い山はどこかという疑問が浮かんだ。イギリスは野原を行くフットパスのイメージで、山岳のイメージはない。
 また森林のイメージもない。( 英国10%程度、日本は森林率67%で、うち人工林率41% )
 イギリスで一番高い山はスコットランドのハイランド地方にあるベン・ネビス山で1344m。また、googleで 「 イギリスで一番高い山 」 を検索すると最高峰のベン・ネビス山を筆頭に、1,100m以上の山が10座が挙げられている。それほどにイギリスの山はやはり高くない。
 韓国の最高峰は済州島にある漢拏山 ( ハルラ山。1,950m ) で、2007年に 「 済州の火山島と溶岩洞窟 」 として韓国初の世界自然遺産に登録 ( 韓国は文化遺産11件と合わせ12件でランキング21位 ) されているが、韓国から韓国にはない3,000m級の日本アルプスの登山に来る人たちの気持ちがよくわかる。

 意外だったのはハワイ島の火山マウナロア ( 「 ハワイ火山国立公園」として1987年に世界遺産登録 ) で4,169mもある。因みにハワイ島は四国の6割ほどの面積の島である。
 利尻島 ( 利尻山1,721m ) や屋久島 ( 最高峰の宮之浦岳1,936m ) が洋上アルプスとしてそそり立っているが、ハワイに富士山より高い山があったというのはやはり意外だった。

 マウナロアの描かれた切手を探してみると、唯一1984年の 「 ハワイ州25周年記念 」 の切手があった。主役ではなくバックに霞んでいるが。( 図1 )
 1959年8月21日、ハワイはアメリカ50番目の州に昇格し、本格的なリゾート開発が始まった。
 最後の王で 「 アロハ・オエ 」 の作者として知られる女王リリウオカラニが王位を追われ、1898年に米国によるハワイ共和国の併合以来の米自治領ハワイ準州からの昇格であった。

 ついでながら、ハワイからミッドウエイまで広い太平洋に島はないと思っていたのだが、その間には小島と環礁の集合体、海の楽園 「 パパハナウモクアケア 」 の存在があった。
 ハワイ諸島から北西約250キロ、東西に1900キロ以上にも亘って広がる世界最大の広さの海洋保護区の一つで、多様な生物が生息する世界最大級の海洋保護区として2010年に世界遺産に登録された。

 それから、モアイ像で有名なイースター島は、一般的にはパスクア島 ( パスクアはスペイン語で復活祭を意味する ) と呼ばれていることを知った。( 日本では英称由来の 「 イースター島 」 と呼ばれている )。現地語名はラパ・ヌイ。
 何より世界遺産では 「 ラパ・ニュイ国立公園 」 として登録されている。
 世界遺産に首を突っ込んでいると、いろいろな意外なことに出くわします。

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1984年の 「 ハワイ州25周年記念 」 の切手に描かれたマウナロア。バックに噴煙を上げている。 ( 300% )



 6月4日(日)
 唐突ですが、世界遺産の本を見ていたら、ふとモンテネグロの12枚組みの古い切手を思いだしました。
 1896年発行の二色刷のカラフルな大きなセットで、ツェティニェの修道院が描かれている。
 「 1696-1896 」 とあって、何かの200周年を記念したものと思われるが分からない。

 ツェティニェはアドリア海沿いの世界遺産に指定されたコトルとロヴツェン山を夾んで背中合わせの内陸側にあり、モンテネグロの歴史的な首都であったところである。
 コトルは 「 コトル地方の歴史的建造物と自然 」 として、古く1979年に文化遺産に登録されており、イエローストーン国立公園やガラパゴス諸島などが世界遺産として最初に登録された1978年の翌年、世界遺産条約に基づく登録開始から二年目という早早の登録であった。

 上段にロシア文字で 「 ЦРНА ГОРА 」 の表示があって何処のことかと面食らうが、モンテネグロ語による自国モンテネグロの国名表記で 「 ツルナ・ゴーラ 」 と読む。一方、モンテネグロはヴェネト語 ( ベネチア語 ) による名称で、いずれも 「 黒い山 」 ( 英語風に言えばマウントニグロ ) を意味する。
 中国語では黒山 ( ヘイシャン ) と意訳している。

 ヴェネト語はかってこの地方を支配したイタリアのヴェネツィア共和国 ( 7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、ベネチア ( ベニス ) を拠点にアドリア海沿岸から、ギリシャ先端部、クレタ島、キプロス島、コンスタンチノープルまで、アドリア海から地中海沿岸に沿って点々と領土を持った ) の名残である。

 改めて、モンテネグロはヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。
   1918年にオスマントルコの保護領から独立し、1929年には多民族国家ユーゴ゙スラビアの独立に際しその一員として加わった。
 ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国 ( 1992-2003年 ) およびセルビア・モンテネグロ ( 2003-2006年 ) を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。

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 モンテネグロの1896年発行の12枚組の切手。ツェティニェの修道院が描かれている。( 115% )

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一枚大きくしておきます。



 6月2日(金)
 予定では今日上京しているはずでしたが、咳の酷いマイコプラズマ肺炎が長引いて、やむなく上京を取り止めました。

 熱がほとんど出ないのは幸いですが、咳と鼻水、そしてだるさは気力を失わせて、何もやる気を起こさない。
 安静が第一とは言うが、これくらいは許してもらって。

 今日の一品。「 東京浅草公園 」 の手彩色の絵はがき。( 図1 )
 地元ゆかりの人間にしても、「 浅草公園 」 の名に馴染みは薄く、一昔、いや二昔前の時代感覚の言葉だ。
 写っているのは慶安2年(1649年)の再建という浅草寺の旧本堂、本尊の聖観音像を安置するための観音堂で、昭和20年 (1945年) の東京大空襲で焼失し、この跡に建てられた現在の堂は昭和33年 (1958年) に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。

 こんなところに噴水が設えてあったのかと思う。
 子どもの頃はこの辺にたくさんのハトが群がり、鳩の餌 ( アルマイトの小皿に茹でた大豆がひと並べ。15、6粒もあったろうか ) を売っていた。
 今ここには、昭和37年 (1962年) に建てられたという 「 鳩ポッポ 」 の歌碑 ( 東くめ作詞、瀧廉太郎作曲。明治33年 ) が残る。
 『 鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ ポッポポッポと 飛んで来い お寺の屋根から 下りて来い 豆をやるから みな食べよ 食べてもすぐに 帰らずに ポッポポッポと 鳴いて遊べ 』
 憐れ今ハトはフン害で閉め出され、風情の一つが失われた。

 裏の宛名書きの面には不鮮明ながら押された記念特印から辛うじて時代が特定できる。 ( 図2 )
   その記念特印。半分が見えず、見えている部分で何とか 「 米国艦隊歓迎記念・横浜 」 「 1908 」 と読める。この時、何があったのか。( 図3にその記念特印の印影を借用画像で示す。 「 東京 」 のものですが )
 時代 ( 1908年=明治41年 ) は、日露戦争終結から三年目。

 日露戦争は米大統領セオドア・ルーズベルトの講和勧告のお陰でポーツマス条約で終結したが、その後日米間の関係は、日本人移民の増加・軋轢・排斥の動き、日本のアジアでの台頭、フィリピン防衛の意識、排日的な世論の高まりなどから、急速に悪化していた。

 そんな折、1907年7月4日に 「 米大西洋艦隊を航海演習のため太平洋方面に回航する 」 旨が伝えられると、日本側に緊張が走った。以降、翌年の米国艦隊の歓迎(1908年10月18-24日 )に至るまで、緊張を回避すべく軍関係者や外交ルートによる必死の折衝が続く。
 それを、たまたま巡り会った防衛省関係者の研究報告 「 外国軍艦の日本訪問に関する一考察 -1908 (明治41) 年の米国大西洋艦隊を対象として- 」 からその過程を知る。  いずれ、「 米国艦隊歓迎記念 」 の関係マテリアルで一つの作品にまとめたい。

 なお、「 浅草公園 」 については、当ブログの関係ホルダー 「1 コレクション・コーナー 」 の 「 (1)コレクション・リーフ 」、「 1 上野と浅草 」 を併せてご覧ください。

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図1 「 東京浅草公園 」 の手彩色の絵はがき。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図2 裏の宛名書きの面。米ワイオミング州宛て。菊4銭切手に 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印が押されている。
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )

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図3 「 米国艦隊歓迎記念 」 の特印。( 借用画像の援用 )



 6月1日(木)
 今日から6月。
 早速6月の原稿を張り付けました。
  「 家紋の話 (下) 」。
 5月の (上) に続いて 「 家紋の話 」 の下篇。

 ワンポイントには、この本文の最後に取り上げた 「 (6)香の図 」 から一つ、「 花散里 ( はなちるさと ) 」 を取り上げておきます。
 かつてポマードで一世を風靡した柳屋、江戸創業の化粧品メーカー、柳屋本店が1910年 ( 明治43年 ) に源氏香之図の一つ、この 「 花散里 」 ( はなちるさと ) を図案化して商標登録 ( 登録番号369号 現存日本最古の登録番号 ) している 。
 会社のサイトを見ると今日ではローマ字を添えた新しいロゴが使われているようですが。

 源氏香の組合せは、数学的には順列組合せで5の5乗、3,125通りあることになるが、源氏香の組み合わせのように単に異同だけに注目すれば52種となる。  例えば5種の香がAからEであったとして、実際に香を聞いた場合 ( 各種を5包ずつ、計25包の中から5包を選ぶ )、一番単純に全部が同じ場合でも全部がAである場合から全部がEである場合までその組合せは5種類となる。これを源氏香の場合は全部同じとして1種と扱っている。

 3,125通りが 52通りに集約されることの証明は容易いことではない。
 その成立は享保の頃 ( 江戸中期 )。
 前にも書いたように江戸時代の高い数学レベルがこんな所にも垣間見られる。

ロゴ

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柳屋本店の登録商標に使われている源氏香之図の一つ 「 花散里 ( はなちるさと ) 」 と、現在のロゴ。
この図は、本文 「 (6)香の図 」 の解説のとおり、右から、最初の香と三番目が同じ、
二番目と四番目が同じもので五番目は他と違う独立のものであることを示す。

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源氏香之図。52通りある。 「 花散る里 」 が二列目最上段に見える。
( 泡坂妻夫著 「 家門の話 」 から )
( 画像をクリックすると二段階で拡大します )



新2016



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2016年分 ー覧表

2016年 号数 タイトル
12月 233  南洋群島トラック島碇泊、神戸高等商船学校練習船進徳丸乗組員宛て封  3頁
11月 232  戦後日本人引き揚げ者に対する大連電話局の通信事務封緘  2頁
10月 231   関連マテリアルから知る満蒙開拓団の悲劇 ~ 映画 「 望郷の鐘 」 と重ねて ~    5頁
09月 230(1)  胆振・壯渓珠(ソーケシュ)局の消印   1頁
230(2)  手彫り切手のオーソリティ、市田左右一氏ゆかりのカバー 2頁
08月 229  入札三題、初日カバーの話 4頁
07月 228  中華郵政史 5頁
06月 227  エベレスト、第三次イギリス遠征隊にかかわるシール 3頁
05月 226  臨時北部南西諸島政庁の設置から奄美群島復帰まで 5頁
04月 225  サザーランド切手について 6頁
03月 224  東京商船学校練習船月島丸  2頁
02月 223  テレジン収容所の小包切手    2頁
01月 222  カール・ルイスの新商売    4頁


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1957年イヤーセット・ホルダーの表紙。

新 2015



札幌中央支部会報 「郵趣・赤れんが」掲載郵趣エッセー 2015年分 ー覧表

   
2015年 号数 タイトル
12月 221  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (下)   6頁
11月 220  再び 「 日本統治時代の台湾消印 」 について (上)  6頁
10月 号外  港区赤坂のアメリカ大使館と横浜にあった総領事館  3頁
09月 218  ルイス・カバーについて(下)  7頁
08月 号外  台北駅の変遷  2頁
07月 216  ルイス・カバーについて(上)  8頁
06月 215  北海道消印・アイヌ語由来の地名  4頁
05月 214  清国宛てエンタイヤ3通  5頁
04月 213  洋画家・金子博信の絵はがき  3頁
03月 212  (続)有名人の関連アイテム ~ 横山大観 ~  5頁
02月 211  伊豆の南端、石廊崎の長津呂にまつわる話 ~ 特攻兵器「震洋」の基地があったところ ~  4頁
01月 210  大学関連マテリアル 8頁


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昭和35年の網走国定公園切手発行記念FDC。

2014~

   
2014年 号数 タイトル
12月 209  戦前の台湾の風景印 8頁
11月 208  有名人の関連アイテム  6頁
10月 207  紙ものコレクション( 印紙類 )   7頁
09月 206  砲艦ツツイラ号関係カバー二点  6頁
08月 205   誌上「なんでも鑑定団」  6頁
07月 204  佐久間ダム関係マテリアル(映画「東京原発」とからめて)   5頁
06月 203  1936年、白十字会クリスマス・シール帳の完本  4頁
05月 202  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その3)  7頁
200号記念誌  200号記念誌に寄せて ( 100号から200号までの時間 ) 9頁
04月 201  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その2)  7頁
03月 200  船内局印(SEA POST)/ 船旅の黄金時代(その1)  5頁
02月 199  1929年中国、パリ~東京間特別飛行の航空カバー(広州~上海)   4頁
01月 198  「北海道後志支庁忍路郡塩谷村」宛ての外信絵はがき二点   4頁
2013年 号数 タイトル
12月 197  水原明窓ゆかりの二点 5頁
11月 196  日本統治時代の台湾消印 10頁
10月 195  航空機の切手(特徴ある二機種について) 4頁
09月 194  富士山、よくぞ世界遺産に 6頁
08月 193  東京・わが心の故郷、ゆかりの二点  +「東京、わが街」(8頁) 5頁
07月 192  北朝鮮の出品にまつわるエピソード 6頁
06月 191  北杜夫とファーブルと 6頁
05月 190  明治の絵はがき「駅弁売り」の図 3頁
 逓信総合博物館の閉館 3頁
別冊  台北紀行(下) 15頁
04月 189  文革関係マテリアル三題 4頁
03月 188  燕京大学関連マテリアル 4頁
別冊  台北紀行(上)( 郵政博物館と牯嶺街の切手商 ) 10頁
02月 187  切手に見られる言語と文字について(下) 4頁
01月 186  ミント・未使用・使用済み、その落差  6頁
2012年 号数 タイトル
12月 185  切手に見られる言語と文字について(中) 5頁
11月 184  中国の郵票冊、二点 4頁
10月 183  切手に見られる言語と文字について(上)  5頁
09月 182  三井物産のカバー二点 4頁
08月 181  ジャーマン・ステーツ(領邦国家郵政)とプリバート・ポスト(ドイツ民間郵便) 8頁
07月 180  1968年・北朝鮮「朝鮮民主主義人民共和国20周年記念」8種連刷 3頁
06月 179  関連マテリアルから偲ぶ「郵便友の会」(6頁)+「郵趣の楽しみ」(7頁) 13頁
05月 178  フライング・タイガース(飛虎隊)関連マテリアル 17頁
04月 177  「切手」は各国語で何という 6頁
03月 176  「北方四島」のタブの付いたボーガス 3頁
02月 175  チャールトン・ヘストン宛のファンレター 4頁
01月 174  その後のイザワ・エイジ氏 3頁
別冊  郵便以前「アイヌの郵便」 3頁
2011年 号数 タイトル
12月 173 大英帝国の版図が描かれたカナダの切手について 3頁
11月 172 ジョージ6世とその時代(英領植民地の「地誌シリーズ」) 7頁
10月 171 在満州国日本領事館のマテリアル 6頁
札幌オリンピック冬季大会の扉 1頁
2011「北海道郵趣大会in旭川」を記念して 1頁
09月 170 リビア、二つの首都 3頁
08月 169 オールド上海の建築物(下) 8頁
07月 168 オールド上海の建築物(上) 10頁
06月 167 ウォルデンブルグ収容所郵便(ポーランド) 8頁
05月 166 Lagerpost Bando(板東収容所郵便)マテリアル 3頁
04月 165 沖縄暫定切手 丸検印 1947-48(参考品) 3頁
03月 164 Red Period(赤の時代)~ アメリカ 1926-32 ~ 10頁
02月 163 インドの一番切手・シンド州切手とインド藩王国の切手 7頁
01月 162 八十余年ぶりの邂逅 4頁
2010年 号数 タイトル
12月 161 「花柳」の世界 6頁
別冊 台湾鉄路一周の旅(13頁+11リーフ) 24頁
11月 160 エスペラント関係マテリアル 6頁
10月 159 有名なシンデレラ、南モルッカ共和国の切手 8頁
09月 158 インドネシア独立時期のウィーン版の切手について 6頁
08月 157 中国人民志願軍兵士差し立てカバー二通 5頁
07月 156 朝鮮近代郵便史 6頁
新・国際返信切手券(第七様式)について 3頁
06月 155 「中国占領地域」の時代 (Ⅱ蒙疆編) 8頁
朝鮮戦争ソウル占領北朝鮮二重丸印加刷 1頁
別冊 ミニ切手展「世界各国から届いた美しい郵便物」の開催 2頁
05月 154 「中国占領地域」の時代 (Ⅰ華北編) 6頁
04月 153 一枚の絵はがきから(屯田兵について) 5頁
03月 152 リーフ解説・オランダ領東インド 5頁
02月 151 カリカチュア(風刺画) 6頁
01月 150 「御料林」「北海道模範林・公有林」のマテリアル 7頁
2009年   号数 タ イ ト ル
12月 149 一枚の絵はがきから(東京日日新聞ニッポン号の世界一周飛行) 3頁
リーフ解説 マニラ大聖堂 2頁
別冊 私の1リーフ 中国解放区の布票 1頁
私の1リーフ 戦後満州のソビエト軍票 1頁
号外 セントローレンス運河中央逆刷エラー 2頁
11月 148 一枚のはがきから(白系ロシア人にまつわる話)
~ 東京・神田の白系ロシア人の業者から、中国・青島の切手商あてのはがき ~
5頁
10月 147 一枚のはがきから(郵便配達員の殉難)
~ 併せてアイヌの郵便逓送人・吉良平治郎のこと ~
5頁
09月 146 ミニ国家と切手発行 7頁
巻頭コラム 九月、初秋の候となりました 1頁
参考資料 三船殉難事件 3頁
08月 145 リーフ解説・モンテカルロ自動車ラリー 4頁
07月 144 TWA世界一周便の就航記念カバー 7頁
1932年・ニューファンドランドの民間航空切手 1頁
06月 143 映画の中に題材あり(「ショアー」と「ヒットラーの贋札」から) 5頁
別冊付録 北海道立文書館に眠るエンタイア 5頁
05月 142 浅草凌雲閣(十二階)の絵葉書 5頁
04月 141 民信局と僑批局について 5頁
03月 140 中国の公用便「公文封」について 4頁
02月 139 ロンドン王立郵趣協会主催切手展のスーベニア 3頁
01月 138 旧制中学入試問題集から 7頁
2008年   号数 タ イ ト ル
12月 137 クリスマスシール(複十字シール) 3頁
これでも届いた??? 2頁
別冊 eBayにまつわる話 5頁
11月 136 タロとジロ、奇跡の生還(第一次~三次南極観測隊) 4頁
付録 多彩な船歴を全うした「宗谷」 4頁
10月 135 万国郵便連合(UPU)にかかわるマテリアル 4頁
09月 134 反共フランス義勇軍 4頁
号外 「税済」消印にかかわる後日談 4頁
08月 133 開道140年(北海道庁関連マテリアル) 6頁
07月 132 地震の話~中国・四川大地震から~ 6頁
06月 131 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(8)」
「ウルグアイ・モンテビデオ切手展開催記念小型シート」
2頁
05月 130 スエズ運河国有化宣言記念切手初日カバー 4頁
04月 129 中国の特異な速達切手、「快逓郵票」について 3頁
03月 128 二人のボース 6頁
別冊資料 二人のボース「関連資料」 11頁
02月 127 フランスの香りパリの香り 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(7)」
「ソビエト切手発行25周年記念小型シート」
2頁
01月 126 ツール・ド・ポローニュ(ポーランドの自転車ロードレース) 3頁
私の1リーフ 「ワルシャワの人魚」 1頁
2007年   号数 タ イ ト ル
12月 125 米ソ合同探検隊のベーリング海峡横断 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(6)
「ベルギー、Orval修道院修復のための附加金付き小型シート」
1頁
11月 124 1970年・北朝鮮「朝鮮労働党第5回大会記念小型シート」を巡って ~ 4頁
10月 123 竹島問題(「 独島 」のマテリアルから) 4頁
09月 122 大きな大きな小型シート(ドイツ民主共和国誕生15周年記念小型シート) 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(5)」
「キプロスのボーイスカウト切手小型シート」
1頁
08月 121 古文書入門(挨拶状を材料として) 4頁
号外 二重丸印・利尻島局について 4頁
07月 120 1968年・北朝鮮「朝鮮人民軍創設20周年記念小型シート」(4P+資料1) 4頁+資料1
06月 119 書信往来 3頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(4)」
「ガボン、1970年航空切手のミニシート」
1頁
05月 118 私の1リーフ
「ウルグアイ/モンテビデオ~フロリダ間のFFC」
1頁
号外 あなたの誕生日は何曜日? 1頁
04月 117 ノー・モア・ヒロシマ ピース・フロム・ナガサキ 3頁
03月 116 硫黄島の戦い(Battle of Iwo Jima) 4頁+新聞2
別冊 ルーズベルトに与うる書 6頁
02月 115 私の1リーフ (エンタイヤを読む)
「満州国第二次航空切手39分一枚貼り」
1頁
01月 114 円形の切手 4頁
2006年   号数 タ イ ト ル
12月 113 私の1リーフ 「私の好きな小型シート(3)」
「キューバ・切手発行100年記念にAAMS大会加刷」
1頁
11月 112 遺愛女学校 3頁
私の1リーフ (2006年ビザなし交流から)
「北方領土択捉島からのカバー」
1頁
10月 111 (北海道会員大会展示記念)
私の1フレーム「中国解放区東北各区三題
3頁
09月 110 似ている(似通ったデザインの切手) 3頁
08月 109 バナナの話 3頁
07月 108 変形切手の原点、三角切手 4頁
私の1リーフ 「私の好きな小型シート(2)」
(ルーマニアの正三角形シート)」
1頁
06月 107 ロングリレー/蒋介石誕生日記念印の押印20年 4頁
05月 106 記念印/東京アンソロジー 4頁
04月 105 南洋の話+資料 6頁
03月 104 私の1リーフ 「私の好きな小型シート」(ロシア十月革命40周年記念) 1頁
02月 103 ワルシャワ蜂起とポーランド亡命政権 4頁
01月 102 ウラジオストク反共政権発行「プリアムール加刷」記念貼りカバー 3頁
私の1リーフ 「ポツダム会談を伝える中国の宣伝ビラ」 1頁
2005年   号数 タ イ ト ル
12月 101 国際返信切手券 4頁
11月 100 ラトビアの地図切手について 4頁
100号記念誌 表紙+会報の名称「赤れんが」について 2頁
札幌ボタ印における手へんの「扎」について 1頁
私の1リーフ 「ロシア附加金付きミニチュア切手のフルシート」 2頁
10月 99 エルトゥールル号の遭難(日本とトルコ、友好交流の原点) 5頁
別冊資料 日本とトルコの関係史概説
山田寅次郎伝
エルトゥールル号事件のこと
6頁
09月 98 オーストラリア・シドニーとマダガスカル・ディエゴスアレスを結ぶもの(特殊潜航艇の話) 5頁
08月 97 北海道行政区画の変遷(「函館区」の時代について) 3頁
07月 96 1979年・ブルガリア「Philaserdica’79」 4頁
巻頭コラム いかに郵趣への理解を広げるか 1頁
06月 95 コロンビアの初期航空切手 3頁
05月 94 ロードス島異聞 3頁
04月 93 満州鉄道まぼろし旅行 5頁
03月 92 セラソップ・セトラックの謎 3頁
02月 91 タンヌツーバの切手 4頁
01月 90 一九七九年・香港中国切手展記念カード 6頁
2004年   号数 タ イ ト ル
12月 89 明治天皇の函館上陸記念碑 4頁
11月 88 ウラジオストク物語 4頁
「集郵」すなわち「益智」である 2頁
10月 87 函館大火(千島・択捉島別飛から函館大火を見舞う) 3頁
09月 86 誕生日へのこだわり 2頁
明治から大正へのサドル便 1頁
オークションから(函館ロシア領事館差立てのカバー) 2頁
08月 85 日の目を見なかった第1次及び2次昭和切手の原画 3頁
07月 84 有名人にかかわるマテリアル 3頁
06月 83 久米島切手のシートを巡って 3頁
05月 82 昆虫館へようこそ(蝶に関するマテリアル) 5頁
私の1リーフ 「ホワイトロシア」 1頁
04月 81 TABROMIKのラベル(ポーランドの民間航空切手) 3頁
03月 80 男爵コルヴィザール 2頁
02月 79 謝文東のドクロ切手について 3頁
01月 78 樺太の日露国境境界標について 3頁
2003年   号数 タ イ ト ル
12月 77 ハングルの勧め(ハングル表付き) 4頁
11月 76 小さな同志への手紙
(昭和18年、東郷4銭貼第四種郵便について)
3頁
10月 75 雁の便り 3頁
09月 74 偽物百科 3頁
08月 73 札幌村郷土記念館に展示された思いがけないマテリアル 3頁
私の1リーフ「ポルトガル植民地」 1頁
07月 72 シンデレラを紹介します 3頁
以下は「豊かな日々のつれづれに」に掲載
06月 71 古書目録の中に見つけた「附加金付アイヌ紀念切手発行願」 2頁
05月 70 国旗をテーマに 3頁
04月 69 エピルスの切手について 3頁
03月 68 昭和11年、北海道陸軍大演習 4頁
02月 67 シベリア出兵にかかわるチェコ軍団の切手について 3頁
01月 66 オオカミの乳を飲む双子の兄弟の不思議な像を描いた切手 3頁
2002年   号数 タ イ ト ル
12月 65 極東選手権競技大会について 3頁
私の1リーフ「エンタイアの裏側に注目」 1頁
11月 64 一通のカバーから(中国の水害にまつわる話) 3頁
10月 63 何がどうということもないのだが、多数貼りの魅力
(ニューギニアとサモアのカバー二点)
3頁
09月 62 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(東京帝国大学附属樺太演習林)
3頁
08月 61 モーリシャス・ポストオフィス切手の記事に応えて 2頁
07月 60 マテリアルを俎上に その5
「漁師の日」記念の初日カバー
3頁
06月 59 マテリアルを俎上に その4
ブラジル1843年、牛の目
3頁
05月 58 マテリアルを俎上に その3
皇太子殿下北海道行啓紀念、下々方44-9-11
3頁
04月 57 FFCは一対のものである
日本航空・東京~札幌線深夜割引夜行便オーロラ号就航
2頁
03月 56 手に入れたばっかり!最近のトビキリの入手品
(千島択捉島年萌局留置・単冠湾碇泊農林省海洋調査船)
2頁
02月 55 中国切手研究会「これはいくら?」のコーナーから
(旅順バイリンガル偽カバーと中華民国大型公用封筒)
3頁
01月 54 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その2
「紀元2600年記念貯金シール」「檀紀年号」
3頁
2001年   号数 タ イ ト ル
12月 53 郵趣にまつわる年号の話と、その関連マテリアル その1
「成紀年号」「主体年号」
3頁
11月 52 千島関係マテリアル二題 3頁
10月 51 マテリアルを俎上に その2  ツェッペリン号訪日記念絵はがき 3頁
私の1リーフ「北大VS小樽商大」 1頁
09月 50 切手の図案と配色について 4頁
08月 49 映画「阿片戦争」における一場面
ペニーブラック誕生にまつわる秘話
3頁
07月 48 マテリアルを俎上に その1
ASDA(米国切手商協会)切手展のスーベニア・シート
3頁
06月 47 第一次昭和切手厳島30銭凹版切手の無目打について 2頁
05月 46 みせびらかしで失礼します その4
ロンドン国際切手展のスーベニア・シートについて
3頁
04月 45 みせびらかしで失礼します その3
帝政ロシア時代の地方切手「ゼムストーボ切手」
3頁
補足資料 4頁
03月 44 みせびらかしで失礼します その2
中国解放区・旅大区の「郵票彙編」について
3頁
別冊 別冊 独断・郵趣川柳批評 3頁
02月 43 みせびらかしで失礼します その1の(2)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
3頁
01月 42 トピックス(「3シリングバンコ」について) 2頁
会員紹介 1頁
2000年   号数 タ イ ト ル
12月 41 みせびらかしで失礼します その1の(1)
中国解放区・安東第二版切手の裏面について
2頁
11月 40 一寸一言(ちょっとひとこと)「深川一已」地名の由来 1頁
10月 39 郵趣に関するエッセーについて 2頁
09月 38 樺太「九春古丹・野戦局」の消印について 2頁
08月 37 「北見・利矢古丹」の消印について 2頁

終戦直前の旅順宛て封筒(併せて「八紘一宇」について)

2017年8月第241号

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来場者数
プロフィール

 木村博海 (きむらひろみ)

Author: 木村博海 (きむらひろみ)


 1949年、東京都台東区生まれ。谷中三崎町で育ち、1956年竜泉寺町に移る。
 都立白鴎高等学校、宇都宮大学農学部林学科卒業。
 小学二年生の頃から切手収集を始める。初めて郵便局で買った思い出の一枚は「関門トンネル開通記念」。大学受験を控えて収集を中断。約20年の長いブランクを経て、1987年頃から収集を再開。
 深川木場(~晴海)の木材会社に2年勤務の後、昭和50年度東京大学農学部林政学教室研究生。
 1976年北海道庁入庁とともに渡道。主に林業畑を歩み、34年間勤務。うち地方では網走、帯広、根室、函館に各三年勤務。
 2010年3月、定年退職。この間、職場の部内誌に郵趣エッセーを含め、さまざまなエッセーを投稿。
 退職後は、外国人のための日本語学習支援ボランティア活動、郵趣活動。
 JPS札幌中央支部会員。北海道漢字同好会会員。アイヌ語地名研究会会員。
収集対象: ゼネラル。特に中国、ロシア、旧東欧など。
著書(自費出版): 「豊かな日々のつれづれに」(2003年4月)

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